8.仔リスのような
「責任がすべて私にあるなどと言うつもりはありません。九割くらいはあなたに責任があってもおかしくないですから」
遠慮した感じの言い方してるけど、それじゃほとんど僕の責任だからな。いや、責任云々の前に。
「話が見えないんだけど」
思わず声が上ずる。正直、結構これは予想外だ。
「あなたは、現在進行形で命を狙われています」
「よ、予想外すぎる!」
さらに思わず声に出ていた。
「と言っても正確には狙われているのはあなた自身ではなく、あなたのつけているその腕輪のほう、なのです」
またこの腕輪か。
「……なあ。この腕輪、一体何なんだ? 殺してでも奪い取ろう、なんて思い起こさせるほどの代物には、僕にはとても見えないが」
僕が右手を上げ、そこにある腕輪を見せつける。と、畑中はそれをまじまじと見つめて、なんてことのないように言った。
「何って、何の変哲もないフツーの腕輪ですよ」
「馬鹿な」
何の変哲もないフツーの腕輪のために命を狙われていては堪らない。
「実際馬鹿なんでしょう」
「誰がだ」
「誰がですか?」
「僕が聞いてるんだよ!」
くそ、何だ、この会話の成り立たなさはついさっき味わったものとはまた違う成り立たなさだ。
「まあ、とにかくです」
「とにかくじゃない! 僕はもう誤魔化されないぞ、この腕輪が実は国宝級のお宝でルパ○3世が狙ってるとかいう話なんだったら僕は喜んで手首ごとこれを手放してやる。右手より命の方が大事だからな!」
「ル○ンは人を殺してまでお宝とりません。解ってないですね」
「そ、そうか……じゃなくて! 隠すところは揃えろよ!」
はっ、しまった、これじゃ完全に畑中のペースじゃないか! 口からひとりでに息が洩れる。やれやれと右手を頭に当てると、先ほど強打した額に鈍痛が走った。
「……あのなあ、畑中。君にはないのか、いきなりこんな意味のわからない非日常に引きずり込まれた同級生を憐れんでやろうという寛大な心持は」
「しんでください」
「いくら何でもそれは酷くないですか!」
「喜べば気分も晴れるかなと思いまして。私なりの気遣いです」
だからMじゃねえっつってんだろうが!
「ついさっきだってドアに打ち付けた額に手を当てて心の安定を図っていたではないですか」
「君はせっかく鋭い観察眼を持っているのに、その目が捉えたことを解釈する能力が著しく欠けているな」
っていつの間にか話が超横道に逸れてる。
「では、話を本筋に戻して正直に言いましょう」
言いつつ、畑中は椅子から立ち上がった。そして親指を立てた握りこぶしを僕に向ける。
「私はSもMもいけます」
「何を正直に言ってんだ君!」
君と錯綜した性的趣向について語り合う気は毛頭ないぞ。というかそれを本気で本筋だと思ってるのならば君はこの家から早々に出ていくがいい。
「冗談です。本当のことを言いましょう」
もうSMについては結構だからな。
「違います。ふざけないで下さい」
……怒られてしまった。
「散々引っ張っておいてこんなことを言うのも申し訳ないのですが、私はその腕輪のことについては何の情報も持ってません。そうですね、強いて挙げるとすればその腕輪が以前カギとして使われていたということオンリーです」
畑中はきっぱりとした口調でそう言い切った。
「――本当なのか?」
考えるよりも先に、当然のごとく疑いの言葉が口をついて出てしまう。
「八代君には悪いですが、本当です」
窓際に歩き寄ってカーテンを開け、そう返す畑中の言葉の真偽は僕にはわからなかった。ただ、疑うという行為を良しとしないならばそれを真実と信じる他はない。
「……そうか」
少なくとも今は変に疑心暗鬼になるべきではないだろう。自分の精神状態をわざわざ悪化させるようなことをするのは馬鹿だけだ。
夕方にさしかかって朱の混じりはじめた射光を全身に浴びながら、畑中は窓に手を当て我が家の庭を眺める。改めて観察するとやはり小柄なその後ろ姿は、栗色の長髪も相まってどことなくリスを連想させた。
言葉づかいは不必要なほど丁寧で、顔だって派手じゃなく、どちらかといえばおとなしめの娘だと認識していたはずである。だけど、今その女の子らしい背中からは、隠しきれない天真爛漫さがにじみ出ているように見える。なんだかそんな女の子が僕の家にいて、すぐそこに立っているのは不思議な感じがした。
それを見ていたら、いつの間にか。僕は何の根拠もなく当面彼女を信用することに決めてしまっていたのだ。
なにはともあれ、現在重要なのは腕輪がどれだけの価値を持っているかではなく、それを付けられている僕の命が狙われているなどという驚愕の事実の方で。
「この腕輪のことは解らない、それは結構。誰かがその訳のわからない腕輪を狙ってるせいで僕は危険な状況下にある、上等だ」
腕輪を狙って僕を襲ったのは畑中じゃないのかという考えが湧かないこともないが、一先ずそれは置いておこう。
「とりあえずそれだけあれば情報は十分だよ、話を進めよう。君が僕を護衛するっていうのは具体的にどういうことなんだ?」
椅子の背に手をかけてリビングを一望する形で体を畑中の方へと向きなおし、今度こそ話を本筋に戻す。畑中も窓に手をつけたままこちらを振り返って、そして。
これまたとんでもないことを口にした。
「今日からここに泊らせて頂きます」
一瞬、全世界から音が消え失せたかのような錯覚を覚え、そして無音なる世界の中でその彼女の言の葉が僕の耳朶を打った瞬間、僕は大いに思った。思ったというよりも、反射的に感じたというほうが近いかもしれない。
これだったんだ、朝の嫌な予感はこれだったんだ、と。
「は?」
ごめん、もう一度言ってくれないか。
「今日から八代君のご自宅に宿泊させていただく、と言いました」
言いました。
「いや、」
そこでつばを飲み込み、続ける。
「だめだよ」
「どうしてです?」
どうししてですだって? どうしてって、あんた。
「だめだろ」
「なぜ?」
僕は両手を思い切り広げ、若干前かがみの姿勢をとり、
「だめなものはだめだっ!」
叫んだ。いや、まて。今畑中なんつった? まてまて、ちょっと待て。凍結しかかった思考エンジンをからげんきで溶かしつつ、エンストしないように一気にそれを全開にする。
「私、別に八代君のことを襲ったりしませんよ?」
「え、僕襲われる側確定なの? ひょっとしてまだ僕がMっていう設定引きずってるんじゃないだろうな!」
体半分こちらを振り向いた畑中は如何にもキョトンとした様子で僕を見つめている。まさか確信犯じゃないだろうなこの娘。実は確信犯という単語に「確信して犯行に及ぶ」といった意味はないのだが、それはそれ、これはこれだ。
「寝床はまだいい、母さんの部屋があるからそれを貸せば問題ないかもしれない。飯くらいならどうにでもなるかもしれないし、衣服だって例に従ってなんとかなるだろうが、それでも問題はあるだろう」
出来るだけ早口で捲し立てる。
「年端もいかぬ男と女が一つ屋根の下で寝食を共にするってことは精神衛生上推奨されるべきことじゃないはずだ」
「別にやましい気持ちがあるわけでも不埒な考えがあるわけでもないのですよ? 正当な理由があって泊まらせていただくわけですから、そこまで懸念する必要はないのです。それに私はあなたを襲いませんし」
存外正論だった。こうもピシャリと言われると逆に焦りが増してしまうじゃないか。そして畑中、君が僕を襲わないことはいい加減解ったから。
「だが、しかしだな。親父にはどう説明すればいい? うまい言い訳を考えることは不得意じゃないが実の父親に嘘をつき通すのはやぶさかだ。大体急にそんなことを言って親父が許可をくれるとも思えない」
それを聞いた畑中は、なにやら嫌らしく口の端を歪める。何だよその不穏な笑いは。
「安心してください。あなたのお父さんには既に連絡を済ませて許可をいただいています。ついでに言わせていただきますと、あなたのお父さんはこれから一週間は家に帰ってこないでしょう」
おい……そりゃどういう意味だ。
「おしごとですこしめんどうなことがあったらしいのです」
「なんでセリフが棒読みだ!?」
一体全体どんな恐ろしいことが起きたんだろうか、想像もつかないが一週間帰ってこれないようなことをやらかすとは恐るべし畑中。
親父。申し訳ない。
なんで僕が心中謝罪の意を述べているのかよくわからない。わからないけど、とりあえずごめんと言っておかなければいけない気がしたので言っておく。
「しかし八代君。こうまで強く拒絶を食らうとは私も言外にショックです。心にズキンと来ました」
畑中はセリフの割に大して悲痛そうな顔も作らず、むしろ興に乗った表情であっけらかんと述べた。
「私は中学生の時からお泊り、してましたよ? お友達のみなさんは快く私の申し出を受け入れて下さいました」
言いつつ、彼女はいつの間にか僕とソファーの間を通り過ぎ、リビングを出るドアへと足を運びながら続ける。
「あ、わかりました」
そしてドアの前で足を止めるとくるりと回れ右、僕へと向き直った。僕も億劫に身体を回しそちらを向く。
「何が?」
そして畑中は悪戯に目を笑わせ、言葉を放った。
「恥ずかしいんですね? 女の子を家に泊めるのが」
「なっ……!」
そう言われると、何故か急に顔が火照った。すぐに「それは違うぞ」と言い返せなかったのがいけなかったのだろうか。
「違うんですか?」
僕はその質問で言葉に詰まってしまった。畑中はニヤニヤしている。
「違……違う」
出来るだけ冷静を装って返したはずだったのに声が変に裏返ってしまい、畑中が心中さぞかし笑っていることだろうと思うと頬がまた熱くなる。こういうのを悪循環というのだろう。
「へえ。ではどうしてダメなんです?」
へーえ。と。畑中は間延びした声をだす。わかりやすいからかい方だった。からかわれているのが僕じゃなければなかなか興味深い光景だと笑えたかもしれないが、からかわれているのは僕だった。ああ、それは僕だ僕ですよ。イラつき、というのとはまたちょっと別の、何と言うか痒いところに手の届かないような感じである。
しかし僕よ、である、とか第三者的に自己分析している余裕はないぞ。
「どうしてダメって……それは」
それは……何だ? 言いかけて、唐突に僕は二の句が継げない、という諺を作った昔の偉い人は本当に偉い人だとしみじみ感じる羽目に陥った。全く次のセリフが頭の中に湧いてこない。なんてこった。言われてみれば僕が彼女の宿泊を拒否する明白な理由など初めからどこにも存在しなかったのだから、当たり前と言えば当たり前ではあるが。
「それはだな」
それでも何とか言葉をひねり出そうと頭と口を絞る。
「顔が真っ赤ですよ」
なっ?
「うるさいな!」
顔を彼女からそらしつつ反射的に、ムキになって言い返してしまう。
「ガキですね」
二文字の中に、今の僕の姿を如実に描写しきった感想だった。というか、描写しきられてしまった、ショック。
「結構かわいいところあるんですね、八代君も」
「きっ……君は想像していたよりも全然かわいくない」
精一杯に言い返したつもりだった。
すると畑中は人差し指を頬に当て、少し上目づかいになって僕を見つめる。
「かわいくないですか?」
瞳を潤ませて、声を震わせて。若干中腰になって、椅子に座る僕の顔を覗き込むように視線をしっかりと合わせる。
か、かわ……
ぐう、こんなの反則だ!
「見た目の話はしていない!」
大失言だったと気づいたのはもちろんその言葉が完全に口から離れてしまってからのこと。
「じゃあ見た目は可愛いってことなんですか?」
畑中は何もなかったかのように無愛想な対応でそれをあしらうとさっと腰をのばし、傍らで僕を見下ろした。そして、あの笑みを作る。
「ふぅん」
やめろ、そんな目で僕を見るな!
「なあ謝るから頼むからもう何も文句言わないから、この羞恥プレイを即刻中止してくれないか」
「見た目は可愛いってことでよろしいんですね?」
「もうそれでよろしいよ! 君が可愛いことは認める!」
顔から日が出そうだった。間違いなく日の出である。自分で自分の言っていることの意味が解りません。
僕に今まで生きてきた中で確実に最も恥ずかしいセリフを吐かせておいて、心なしか嬉しそうな畑中はきゃらきゃらと笑うと廊下に通ずるドアノブに手をかけた。
「っておい。……どこに行くつもりだ?」
再び足を止めた彼女は首だけで振り返ると、付け足すように短く言う。
「外です」
外?
「ええ、私の見た目は可愛いと思って下さっている八代君は私をご自宅に泊めることで八代君と私の容姿のあまりの釣り合わなさに恥と絶望をすら抱くということですので、気を利かせた私は昨日と同じくお庭でキャンプさせていただくことにすると申しているのです」
「待つんだ」
いろいろと突っ込みたいところがあったりするんだけど、その認識間違いの毒舌にはあえて突っ込みを入れない方針で行きたいと思う。
「庭に出たいならそこの窓から出ればいい。というかその前に、昨日と同じくってどういうことだ? まさか僕が寝てる間君はずっと庭でキャンプしてたとでも言うつもりか」
「ええ。それが何か?」
……平然と言い切りやがったぞこの娘。もはや不法侵入どうのいうほうが馬鹿らしいとさえ思えてくる。
「君さ、何と言うか、いろいろとズレてるよ」
口を緩めると自然と流れ出てしまったその言葉をどうとらえたのか、畑中はさも意外そうに目を丸くした。
「八代君にそれを言われると傷つきますよ」
どういう意味だ。
「そういう意味です」
龍ちゃんも、いやフーにしたってそういう傾向はあったが、魔法に携わる連中はなんでみんなそういう悟ったような面倒臭い言い回しをするんだろう? 実直にわかりにくいぞ、そういうの。
「わかりにくいように言ってるんです」
「どうして」
「どうしてでしょう?」
「僕が聞いてるんだよ!」
「今のように聞き手をイライラさせる為でもありますね」
はぁ? その意味を考えようとして、どんどん話が本題からそれていっていることに気づく。
なんでこの娘と話してるとこうなっちゃうんだろうか。
「それで、僕のどこがズレてるって?」
「すべてです」
「…………」
すべてだそうだ。
……すべてって君。ALLか、全部か?
「どう見ても普遍的な人間とはあらゆる点で一線を画しています」
「月並みに聞き返してやるよ。それは褒めてるのか、けなし」
「けなしてますよ」
即答された! まだ僕全部言い終わってなかったのに!
「少なくとも」
僕がそのノータイムコメントに素直に動揺していると、畑中がポツリと言った。
「少なくとも――魔法に出会って一日目ですんなり魔法使いを受け入れるような人は、あなたが初めてでした。それだけで大ズレです」
畑中は僕から顔をそむけ、ドアのほうを向き直ると、どことなくペーソスを感じさせるもの言いをする。
「あなたはこんな世界に関わるべきじゃなかったんです。……あの時、あそこで。素直に私に倒されていればよかったんですよ」
ディミヌエンドでもかかったかのように、その言葉は最後には消え入りそうなくらいに小さくなっていた。
「……畑中?」
リビングにまた静けさが舞い降り、二人ともが口を開かなくなった。時計が秒針を動かす音が微かに聴こえるか聴こえないか。その程度の雑音は、逆にこの静けさを作り出すのを手伝っているようにすら感じられる。
僕にも、畑中にも、言葉のない時間が静けさを埋めていった。実際は十秒かそこらだったのだろうが、僕に背を向けたまま呼びかけにも答えなかった畑中はその時間をドアの前に立ち尽くし、
「なぁんて、冗談ですけどね」
三度振り返ると、声の調子だけ明るく一言そう言い残して、癖っ毛気味の栗色の髪を揺らしリビングから出ていった。
そんな顔するなよ。と声をかけるだけのタイミングがつかめないままに。