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5.始まりの終わり

「世界には表と裏がある。これはね、大昔からの話さ。表というのは今ここ、こっちの世界のこと。裏というのは」

 龍ちゃんは顎で美術準備室のドアをさした。

「さっきの世界だ。表と裏って言うのはもちろん比喩的な表現なんだけど、この辺の説明は詳しくすると面倒臭いし、今はとりあえずニュアンスとフィーリングでなんとなく理解しておいてもらえると助かるかな。今までは君が見たことも聞いたこともなかった反面世界がもう一つあるっていう認識を持つだけで十分」

 二つの世界がある。だって? 表と裏?

 ある一つの著しいズレが、僕の頭の中を駆け巡る。

 だがそれは口にしない、顔にも出さない。長くなりそうだと踏んだ僕はそのドアにもたれかかり、龍ちゃんと廊下をはさんで対面する形となった。

「あぁ! 言うタイミングを失しちゃいそうだから言っとくけど、気絶してた君と穂波ちゃんを部屋まで連れて行ったのは美鈴姉ぇなんだ。後でお礼言っておきなよぉ?」

 そうだったのか、あの女性が。第一印象からして勝手に性格の悪いイメージを持っていたが、実はいい人なのかもしれない。人は見た目によらないからな。

「君を拾ってきた理由くらいは話したほうがいいのかな……んー、あそこに倒れてたまま放っておいたらいろんな意味で危なかったかもしれないんだよね。あの状況はお兄さんたちにとっても中々不測の事態だったんだよ。その腕輪のこともあったし」

 なんだか都合よく色々曖昧にされている気がする。

「それで君は僕たちに連れてこられた、わけなんだけど。あぁ! 随分短くまとまっちゃったなあ。つまるところこんなものなんだけど、特別に疑問に思うことは何かあるかい?」

 まだ疑問尽くしだ。何よりこの腕輪についてほとんど触れられていないのは、意図的に重要なものを避けて通られているような気がして気分的に不安定なものがある。だが逆に言えばそれについて語ることは相当に難解な要素を孕んでいるということだ、それは想像に難くない。まだ真実のしの字も見えてこない腕輪を前にして、素性の知れないそれが如何に厄介なものであるかを思う。

 神は不平等な世を造ったものだ。

 僕だけがこんなに楽しい目をみていいものだろうか。

 なんてな。馬鹿げた冗句だ。

 何にしろ、おおまかな事のあらましについて相当な理解を得たことは確かだった。おぼろげだった僕の現実に、再びしっかりとした輪郭が与えられていく。

「うん……まずは、ありがとう」

 僕の礼に、月光によく映える金髪が窓枠から僕を見降ろしてにこやかに微笑んだ。

「そうだな、まずはあなたたちが一体何者なのか教えてほしい」

 そして言葉を選びつつ疑問文を作り上げる。

「あぁ! いい質問っ! たぶんそれは穂波ちゃんだったり、美鈴姉ぇだったり、果てにはお兄さんのことを聞いてるんだねー?」

 その通り、と僕はうなずいた。龍ちゃんはそれにまたニッコリと微笑み返してくる。

「お兄さんたちはね、『封じ屋』なんだ」

 またもや聞き覚えのない単語だった。

「『封じ屋』ってのはね、簡単に言っちゃうと表の世界と裏の世界のバランスを保つ人たちが集う組織なんだよ。まず君たち表の人間は世界に裏表があることなんて知らないでしょ? まずそれが第一。裏の存在を表に悟られないようにする。勿論その理由はある」

 一息ついて、龍ちゃんはその理由とやらを並べだした。

「僕たちはマイノリティなのさ。魔導師なんて、今の人口比率からいえば世界に数えるほどしかいないんだ。そこで……あぁ、うん。ちょっと待ってね」

 何故か嬉々として語る龍ちゃんは、そこでまた言葉を切った。どうしたんだろう?

「黒板があったほうがいいんだ、ちょっとわかりにくくなるからね。まあ、術は使わなくてもいいかな」

「……?」

 黒板? 何をする気だろうか。

 と、龍ちゃんは眼を瞑り、何かを乗せているようにして右手の掌を上にした。間を置かずしてその掌には異変が生じ、水が沸騰した時のごとく紅い泡が湧き出す。

 注視しているとその小さな泡から、短いが何百本という紅い水の柱が突き出し彼の掌で踊り出した。どこか楽しそうにはね回るそれは、リズムの激しい邦楽を彩るイコライザーを彷彿とさせる。そして血よりもずっと鮮やかで恐ろしいほど明るい紅の柱は、しばらくすると再びその躍動を緩やかにし龍ちゃんの掌の中へゆっくりと落ちていく。

 一時の静けさ。

「……さあ、来い!」

 何が来るんだ? 僕は息を呑んで、月光に照らされる彼の掌に目を奪われていた。

 が、5秒ほど経っても何も起こらない。何も来ない。

 あれ? ひょっとしてもう何か来ちゃってる? と、思った次の瞬間。

 龍ちゃんの右掌は爆発した。

 間欠泉のようにして、燃えたぎる炎のように熱く、鮮血がほとばしるがごとく紅い水の柱が、廊下の空間を天井まで一気に貫く。その光景はまさに、荒れ狂う龍が池から天を目指して飛び出す様そのものだ。

 圧倒される。

 これが……魔法!

 全然違う! マジックなんかじゃない。手品なんてもんじゃないぞ、これは!

 暴れる柱はやがて歪曲し、勢いを落とすと、彼の人差し指へと凝集していく。そして、彼の掌から湧き出たすべての朱が右人差し指に集められると、それは嘘のように小さな球状になって安定していた。宇宙から送られてきた映像などで無重力状態の中、水が球になって宙浮いている風にして、脂ぎって紅く光る球が彼の人差し指を起点にふよふよと揺れ動いている。

「おぉ……」

「にゃっはー! どうよどうよー、ちょっとわざわざ派手にしてみちゃったりしちゃったよー! すごい? すごいよねっ!」

 ポーカーフェイスの笑みが聞いてあきれる、今の龍ちゃんはまるで子供のようにはしゃいでいた。純粋に、好きなものを好きだということを隠そうともしない。そんな無邪気すぎる笑みに僕は少し興を削がれたけど、まあそれは顔には出さないでおいてやることにした。

「ほーら、これでこういうことができるんだ」

 龍ちゃんが人差し指で宙をひっかくとそこには、龍ちゃんの動かしたそのままに紅く光る、細い軌跡が残っていた。

 夜の学校に、紅く光る魔術のロープ。幻想的とまではいかないが、不思議と心を奪われるな光景だ。

「さって、そろそろ説明を再開しようかな」

 龍ちゃんが左手でその軌跡を払うと、それはすうっと消えてなくなる。左手はさながら黒板消しの役割を果たしているらしい。

「まず、君みたいに魔法を素直に受け入れられる人間なんてごく少数なんだ。それにこんなことが知れ渡れば世界中が大混乱に陥るだろうね。まあ別にこっちが混乱に陥るくらいなら――くらいって表現はいささか不謹慎だけどさ――それは別にたいした問題じゃないんだよね。表世界と裏世界、なんていう言い方をしてるけど実際その通りで、問題はこちらの世界が不安定になればそれに同調するように裏も不安定になるってとこなんだ。しかもその上裏の世界は表のそれよりずっと脆い」

 そこで龍ちゃんは胸のあたりに一本、赤光の線を描いて見せた。

「んー地面に水平にした一枚板の上下に、立体物を張り付けているっていうイメージがわかりやすいかなー」

 その線はどうやら板のようだ。そしてその上側と下側に、それぞれ棒人間を描く。どうもこの人、絵心はないと評さざるを得ない。

「例えば、板の上側で戦争があって爆弾が落とされたとする。そうなると当然上より下の方が剥がれ落ちやすいよね。板の上半分側ではそこにある物体が剥がれてしまっても、地面に落ちてしまわなければ再びくっつけることができる。けどね、都合の悪いことに落ちてしまったものを拾うことはできないんだね」

 龍ちゃんが下側の棒人間の線をなぞると、なぞられた箇所だけ線は青色になり、そして地面にしていた線から離れ、垂直に木目の廊下へと落下する。そして落下したそれは、床に触れた瞬間バラバラにはじけとび、消えてしまった。

「こう。だから、表世界の不穏な錯綜で裏世界が崩壊しないようにすること、これが僕たち『封じ屋』と呼ばれるアーティスト組織の最も重大かつ重要な理念で、そして目的なのさ」

 言いつつ、龍ちゃんは先が紅く光る人差し指をぴんと立てるジェスチャーを交えた。そしてその指は二本に増える。

「そして二つ目。ある程度の想像はしてるだろうし、実際そんな内容を描いてる本っていうのは今のこの世界に少なくない。つまり簡単に言うと裏の世界には、表の世界で悪さをしようとするようなやつらがいるわけだね」

 左手で先ほどの絵を消し去ると、今度はバイ菌(?)のような絵を、光るインクで空中に描く。

「でもまあ、例えその存在が意識的にこちらの世界に害を及ぼすものでなくても、それが存在していることによって第一の理念が侵されるような場合にはその不穏分子を速やかに排除する」

 憐れにも、その絵は左手であっという間に消滅させられた。

「それが僕たちの主な任務なんだ」

 建てられた指はさらに一本追加され、3本になった。よく見ると、人差し指の魔法のインクはほとんどなくなって、もう消えかけている。

「さらに三つ目。裏ではなく、こちらの世界で発生するイレギュラーを除去する。これはそうだね、わかりやすく例えると消防士さんみたいな役どころになるかもしれない。イレギュラーっていうのは……そう、まさに君みたいなね」

 立てられた三本の指が、迷いなく僕へと向けられる。除去、という物騒な言葉に背中がゾクリとし、体が強張った。

「にゃはっ、除去とか排除とか、それの持つ意味はその場その時によって様々だよ。だからそんなに緊張しなくても大丈夫、君はもう僕たちによって処理された後だ。あるいは現在進行形かもしれないねえ」

 現在進行形ね、なるほど。

「わかったかな? 僕たちが一体どういう存在かってことはさ」

 言うと、龍ちゃんは右手を振って残りのインクを指から離散させた。僕はドアに背をつけて木のぬくもりを感じたまま手を組んで下を向き、考える。話の内容が余りに現実離れしすぎていて、能動的な理解を伴わせるにはまだ当分かかるだろう。

 だが現実とはなんだ? 今の僕にとって現実の定義は相当に不鮮明になっている。目に見えているものを僕の世界とするならば、そこにある現実はまさしく今この場の不思議そのものなのだから。

「もう一つ聞きたいことがある」

「いくらでもどうぞ」

「どうしてこの腕輪のことについて僕に聞かないんだ?」

 僕は右手首を左手で指さした。龍ちゃんが目を細くする。上っ面だけの笑みじゃない、無邪気な笑いでもない、遊興の色が怪しげにその瞳に浮かぶ。

「……にゃはは、今日は家に帰りなさい」

 だがその表情とは裏腹に、彼のセリフはいささか冷めたものだった。

「どうして?」

「今何時だと思う? にゃははは」

 言われてハッとする。なんかこのセリフ今日三回目の気がするのだが、いい加減僕は時間にもっと関心を寄せるべきなのかもしれない。

「なんと、あと一分で明日になっちゃう時間なのさっ」

 ……ああ、なんとなくだけどわかってはいたさ。だって真っ暗だし、本館も消灯されている。だけどまさかもうそんな時間だったとは、さすがに自分の体内時計の不正確さには嫌気がさす。

「でもまだ話したいことがたくさんある」

「あぁ! そうだね、それは勿論。お兄さんだって聞きたいことはあるさ。だけどそれは今日じゃなきゃいけないということはないんじゃないかな? 月曜日になったからといってお兄さんは居なくなったりしないからね。それに今こうして君は立っていられてるみたいだけど、実際は相当なダメージを受けてるんだよ、八代くん」

 全身に意識を走らせるが、相当ななどとと形容されるほどのダメージを受けているようには到底思えない。どの部位も自分は正常だ、と声高らかに叫んでいる。

「身体的な損傷は大したことないんだ。だけど君は魔法を使った。精神的に相当つらいはずだよ」

 その言葉に僕はいぶかしむ。

「僕が何を使ったって?」

「魔法だよ。だから穂波ちゃんと相撃ち、なんてことになっちゃったんじゃない」

 そのとき不意に白い記憶が鮮明に蘇る。そうだ、僕が握ったのは畑中の手だったじゃないか。

「でもあれは僕がやったんじゃないと思うな」

 龍ちゃんの顔に純粋な「?」が浮かぶ。

「僕に向けられた畑中の手を握っただけだったんだ。少年漫画的安直な主観論を述べさせてもらえば、きっと畑中の魔法の発動の邪魔をした、とかそんなことだったからあんなことになったんだと思う」

「握っただけ? ふぅん、そんなケースは聞いたことがないなあ。僕はてっきりいきなり魔法を使えるようになった君がその力を使って何事か悪事を働いたものだとばかり思っていたからね。にゃっははは!」

 そのセリフの大半は胡散臭さで満ち溢れていた。完全にからかいの語調だ。

「……とにかく、僕に魔法なんてものを扱える力があるはずはない。つい数時間前まで僕は表の世界に生きるごくごく普通の学生だったんだ」

 言い終わると、龍ちゃんの顔に浮かぶ笑みが再び仮面に戻る。

「にゃはは、そうかな? まあ、とりあえず帰りなさい。帰って寝なさい。学校の校舎と門のカギはお兄さんが開けておいてあげたから」

 いつの間にそんなことを。存外に抜け目のないキャラだなこの人。言いつつも、それはありがたい話だった。

「だけど、本当に帰っていいのか?」

 当然これ以上拘束されるような状況を望んでいるわけはないが、どうもここであっさり解放というのにはなんとなく一抹の不安が走る。それにこの腕輪だ。

「これはあなたたちに返すべきじゃないのか」

「いいよ、もうそれ君にあげる」

 あ、そうですか。じゃなくて。

「外し方がわからないんだけど、これ」

 その発言は孤独な廊下に一人で響いた。

 龍ちゃんがいない。

思わずドアから背を離し、辺りを見まわす。窓枠から一筋の月光がおりて床板を白く輝かせていた。それだけだった。

「……なんなんだよ……」

 僕はもう一度美術準備室の木製のドアを開けたい衝動に強く駆られた。だけどそれはせずに、足元のカバンを手に取り廊下を歩きだす。龍ちゃんの言ったとおり、僕が学校の外に出るための要所のカギはすべて開けられていた。戸締り担当の先生は不用心だと怒られるだろうな、と一瞬だけ気の毒な教師のことを考えたがそんな些事はすぐに頭から失せた。

 重々しい鉄製の正門を全身を使って押し開くと公道に一歩踏み出し、車のほとんど通らない車道を前に、向かって左に歩を進める。広々と続く学校の敷地を左手に歩きながら、僕は星のない現代の夜空を見上げた。

 流れでここまで来てしまったが本当によかったのだろうか。今更ながらそんな思いが頭蓋をかすめる。無邪気に手放しで現状を楽しめる程おめでたい人間ではないのが、僕だ。脳内で好奇心とぶつかり合い激しい軋轢を発生させている警戒心は、未だ心のしがらみとなって思考を鈍らせる。重要なことは殊の外たくさんあるが、現今の最重要事項は間違いなくこの腕輪だろう。この腕輪こそが僕をこのヘンテコな世界へ引きずり込んだ。

 それとも世界の正しい形を知るきっかけになった、とでも言うべきか。

 とにもかくにも、僕は底なし沼に片足を突っ込んでしまっているようなものだ。まだ棺桶じゃないだけマシだとは言えるかもしれないが。しかし逆にいえば結論を急ぐ必要もさしてないのかもしれなかった。楽観視するわけではないが、今はまだ大して深刻に考えるべき要素は存在しない。

 世界は二つあって。

 魔法使いがいる。

 ああ、アーティストとかっていったか?

 それだけだ。

 それを知ったからと言って、僕の平々凡々な日常生活に大規模な変遷を生ずることはない。失意と落胆で満たされた平素にほんの少しの刺激と高揚が加わるだけだ。明日明後日と学校に行かなければ、高揚に至ってはほとんどその役割を果たさぬままに慣れという名の魔物に食われて消え失せるだろう。だったら騒ぐことなんて何もないに等しい。

 不思議と、危機感も全くと言っていいほど感じない。

 だったら僕が今すべきは自室のベッドで惰眠を貪ることだけでいい。

まとまらない数多の思考回路を全て道中キャンプさせてから、僕は自分が自宅の前にいることを認識し歩みを止めた。とりわけ大きいわけでもない、普通の一軒家である。部屋の電気は消えている、だが家の中に睡眠中の人間は一人もいない。正確には、睡眠中に限らず、人間は一人もいないのだ。

 僕は父の手一つでここまで育てられた。母は物心ついたときから居なかった。父からは母は僕を産んだ時に亡くなったのだと、それを不思議に思うような年齢になってようやく聞かされた。だがその時既に僕の中に出来上がった常識、僕の親は父しかいない、という常識がその程度でどうにかなることもなく、僕には何の感慨もなかった。

 父は、なんというか変な人だった。平時は穏やかであるのに、妙なところにこだわりを持つ。好きになれる面もあれば、どう頑張っても好くことのできない面もある。例えば、いろんなことを自作でやりたがるところとか。

 タンスや本棚といった家具はもちろんほとんど全てが彼の手作りだったし、挙句の果てにはフライパンと鍋をわざわざ製造工場に見学に行ってまで作り上げたこともある。だからと言って決して飛びぬけて器用というわけでもなく、全自動洗濯機を作ろうとし出したときには、宥めるのがそれはもう大変だった。それ故に生傷の絶えないある意味かなり迷惑な父なのである。

 そんな風変わりな父だが、男手一つで子供を養うというのには厳しいものがあるのも当たり前で、仕事柄彼が一晩帰ってこないなんてことも月に五、六度。もはや日常茶飯事だった。僕としては一人分食費が減っているのだから逆に仕事量は減ってしかるべきではと思うのだが、大人の世界と言うのはどうも一筋縄ではいかないらしい。

 そして今日もその日なのである。登校前、今日は帰らないということを告げられていた僕は何の問題もなく、玄関のカギを開けて人気のない自宅に入り込んだ。

「ただいま」

 靴を脱ぎ、廊下の電気をつけながら言う。返事はない。あったら怖いさ。この帰りの挨拶は、いつでも例外なく僕を待ってくれているこの家に向けたものだ。静まり返ったリビングを通り過ぎ、フローリングを軋ませながら階段をのぼる。

「あ……飯食べてないな、結局」

 部屋のドアを開けて電気をつけてから、その事実に気づく。いろいろあったし、いい加減お腹がすいた。

 丸一日空けていたわけですらないのに、なんだかとても懐かしい僕の部屋だった。嗅ぎなれた自宅の香を胸一杯に吸い込んで安心してから、荷物を勉強机の椅子の上にどかりと降ろすと、僕は再び部屋を出て階段を下りた。

 リビングの電気をつけると、食卓の上に一枚走り書きのメモが無造作に置かれてあった。それを手に取り、読み上げる。

「冷蔵庫にボルシチと味噌汁。ご飯は炊いてある。おかずは適当に」

 とりあえず、何故汁物をかぶらせるんだ? これは選択を許すということだろうか。だが残念なことに今までの経験から行くと、どちらかを食べなかった場合確実に怒られる。わけがわからない、怒るなら汁物は一食に一種類にしてほしい。その要望は常日頃から申し上げているのはいるのだが、遺憾にもそれは今日も通らなかったということらしい。そもそも暦の上では夏だというのにボルシチというのもどうかと存じ上げる。

 ていうか適当なおかずってなんだ。今日のごはんはなに? と聞いて、なんでもいいよ。と返される母親の気持ちがわかってしまうような言い回しするなよ。

 一つ溜息をついて、悪態をつきながらも結局僕は父が用意した夕食を机の上に並べると、それをきれいに平らげ、長きに渡る空腹に苦しんだ胃を食物で満たした。毎度のことながら美味だった。ボルシチは敢えて温めずに食べた。思っていたほどまずくはなかったので、というかむしろ普通に美味しかったので、こういう食べ方を開拓してもいいんじゃないだろうか、と食べながら思う。先入観にとらわれるのは人の悪い癖だ。とにかく、料理だけは美味い、もとい上手い父である。

 ごちそうさまでした。

 食べ終わると、時計の短針は一二と一の間を、長針は三の辺りを指している。もうこんな時間かと、食器を洗いながら、大きな欠伸が出てしまう。いつもなら机について勉強している時間だ。だが、とてもじゃないが今日はそんな気にはなれないな。カタリ、と最後の一枚を水切りに並べると食事のためだけに降りてきたリビングとはさっさとおさらばし、もう一度階段をのぼる。

 部屋に入ると共に、立っていられないほどの眠気がどっと押し寄せてきた。身体的にはそんなに大層なことはしていないはずなのに、吸い込まれるようにしてふわふわのベッドに僕は倒れこむ。

 着替えなきゃいけない、このまま制服で寝るなんて、だめだ。だらしない。せめてズボンだけでもはきかえないとほこりまみれになっちまう。

 着替えなければ。

 そう思ったのを最後に、長い長い六月三十日の僕の記憶は途切れた。

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