4.僕は僕を壊す
僕がその時どんな顔をしていたか、自分ではわからない。
それがどんな顔であったにしろ、僕は言葉を形成することができずにいた。それを堺にして、穏やかだった場の空気が一瞬にして張りつめたものに変わり、痛い静寂が場を覆い尽くす。龍ちゃんのグリーンの目が静かに僕の目を見た。目は口ほどに物を言うが、その目は僕に何も言ってはこなかった。その代り、心の底の隅から隅まで見透かされそうな、そんな恐ろしさを刻みつける目つき。それでいて、目を逸らすことなど許さない圧倒的な掌握感。
「……魔法?」
やっとのことで僕はその言葉を、思考を伴わないうわ言のように反芻していた。
本の最初の一行を当てたからって。
それがなんだ?
そうだ、それがなんだって言うんだよ。
そんなもの、ただのマジックだ。タネもあるし、仕掛けもある。それが分かれば僕だってできるようなことに過ぎない。今のは魔法なんかじゃないはずだ。魔法なんてものはこの世に存在しない。表層には表れない僕の心の奥底が、外界から押し寄せる得体のしれない圧力を跳ね除けようとそう叫ぶ。
「そう、魔法。君は信じることができるかい? 魔法を。奇蹟をさ」
魔法を信じるか、だって? これが質問なのか? だとすれば飛躍しすぎている。
なんでこんな話になったんだ。僕は今の状況を聞いたはずだぞ。この問いがこれからの話に一体どれほどの意味をもたらす?
気を失う前の状況だとか、そんな程度のことを聞かれることとばかり思っていた僕にとって、それは不意を突かれた衝撃的な質問だった。不快な汗が一筋、首を伝う。息が詰まり、苦しくなる。すがるように畑中の顔色を窺ってみるも、その形相は僕を冷たく突き放すように無表情だ。
「信じるのか、信じないのか」
問い詰めるように強くなる龍ちゃんの語気。信じるのか、信じないのか。
答えなんか、決まっている。
――でももしあるとしたら?
信じないに決まっている。
――魔法が。
信じない。
――本当にあるとしたら。
馬鹿な! 何を考えているんだ僕は。
「ちょ……ちょっと待ってくれ、なんだよ、それは」
「あぁ、何? もうちょっと魔法らしいことやってあげようか?」
魔法らしいこと、だと?
「あぁ! でもだめだね、例え君のカバンから教科書がびゅいーんと僕の手に飛んできたって、それは手品でも出来ることだろうし。仕掛けをする機会はいくらでもあった、って君は信じないかもしれないもんねえ。にゃははは、困ったなあ。いやね、質問に答えてくれないとお兄さんも困るんだけどさ」
目の前の金髪男の話す言葉が、まるっきり別の言語のものだったらどれだけ幸せだっただろうか。彼の扱うすべての単語を理解できる自分の頭がこれほど憎いと思ったことはない。気が滅入りそうだ。
この質問。「魔法を信じるか」というもの。平素ならどの角度から眺めても「サンタクロースを信じるか」といったものと同列の、いかにも無邪気で子供じみた設問だと割り切って、娯楽の範囲で軽く答えればいい。
だけど今この場で、この僕に対してこの問の持つ質量は計り知れない。
魔法。それはここまでの局面になりながら、僕が最後まで口にするのを恐れていた、それを言ってしまえば僕の世界のすべてを狂わせ得る言葉だ。
「魔法、なんて……そんなものは」
謎の音。腕輪を手に入れたときの光景、銀色の草原。畑中から逃れようとした際の現象。黙考のほんの小さな隙間にも、近しく起きた摩訶不思議な出来事が走馬燈の如くフラッシュバックし、入りこむ。
なんなんだ。
今日という一日は僕をどこまで壊す気なんだよ?
「……その問には今答えないとだめなのか?」
「今の状況を知りたいんだろう? それなら今じゃないとだめだねー」
言葉は無力だ。僕が何を言おうと、龍ちゃんの口元に浮かぶ笑みは変わらずの無色である。
魔法の存在を認めることにどんな意味があるかはわからない。だけど意味はあるのだ。何らかの意味が。だからこその狼狽、だからこその周章、だからこその恐慌。
頭を絞る。僕は、今まで僕が居たはずの、居なきゃいなかったはずの世界からは、おそらくもう完全に外れてしまったのだろう。でも、だったら魔法を信じるのか? 違う、そんな等式が成り立ってなるものか。すべての事象に対して、現実の可能性はいくらでもある。それこそ、A≠Bだからと言ってそれが即A=Cとするような奴は数学のできない馬鹿だけだ。世の中は都合のいい背理法的になんか造られていない。そんなものを信じるなんて馬鹿げてる、あり得ない。
僕は今まで普通の、普遍的な生活を送ってきた。事実がどうあれ、少なくともそう自負している。
昨日も今日も、そして明日だって、明後日だって、そうあるべきだし、あるべきだった。
普通の高校生を演じ、普通の一六歳を演じ、普通の息子を演じ。
……演じる?
そうじゃないか。僕はずっと演じ続けてきた。演じていただけだった。
普通であろうとしただけ。
そうか。そういうことなのか。やっぱり。僕は。僕だった。
何も変わっちゃいなかったんだ。
『あの日』から、何も。
――だけど。これは逃げだ。明確な逃げだ。僕が僕であるべき世界から、僕は逃げようとしている。
『天才』と同じ。僕は所詮凡才で、そのくせ逃げる腰抜けになり下がろうとしているんだ。
だけれども。
ちょっとくらいいいんじゃないか?
なんて、そんな風に思った、そんな些細な隙間に僕の答えが転がっている気がした。心の奥底で僕のすべてを巻き込んで混じりに混じり合った真っ黒な塊、その中からなんとか摘みあげた一本のまっさらな糸は、次に僕が言うべき事柄を示していた。
言ってしまえよ。
「僕は……」
大きく深呼吸をする。そして。
言ってしまえ。どうせ僕は。
僕のままだ。
「――魔法を信じる」
そう口走っていた。静けさの中に畑中が息をのむ音が聞こえる。
ここまできたら信じるさ、信じりゃいいんだろう?
たまにはいいじゃないか、本当に自分のしたいようにしたって。
本当に自分のしたいようにしたって。
空気ダーツを飛ばしてくるヘンテコな同級生とセットで本の透視をする見るからに怪しい金髪男が同時に介在するこの状況下なら、魔法なんてものを信じるからと言って僕が狂人にカテゴライズされるようなこともあるまい。
魔法は神秘的だ。子供の夢だ。希望だ。そして幸い僕は無宗教だし。こうなってしまっている以上、付き合ってやるのが大人のノリってやつじゃないのか。そんな風に自分に対する言い訳を連ねつつも、結局は自分の好奇心を押さえつけることが出来なかっただけで、それは理解しているつもりだった。現実的で嫌な子供だったけど、それでも興味を持ったことから関心をそらせない。僕はそういう人間でいい。
「そうかい。だってさ、穂波ちゃんに美鈴姉ぇ」
振り向くこともなく、穏やかにうなずく龍ちゃん。そのセリフの中に耳慣れない名前を聞いた。
「美鈴姉……いつからそこに?」
僕よりも早くそれに反応したのは久しぶりに聞く畑中の声だった。それに若干驚きの色が混じるのを感じ、畑中の視線の先を追う。本棚の横、龍ちゃんの真後ろ辺りに黒髪の女性が立っていた。って、僕はずっと龍ちゃんの方を見ていたわけだから、人が入ってくればそれに気付かないなんてことは……?
「いつからも何も、今きたところよ。だってさ、とか言われても訳わかんない」
両手の平を天井に向けながら肩の高さまで持ち上げ、わからないというジェスチャーをしてみせるその女性は白衣のようなものを身に纏っていた。丁度理科の先生が実験の時に着るような、足首ほどまで丈があるやつだ。
「ああ……そのガキ、起きたの」
鋭い眼光をこちらに向け、女性はあからさまに嫌悪感を顕わにしてつぶやいた。なんだか、何気にひどい呼ばれ方をされたような気がしたのだが。
「私、寝てる。ただでさえ雑用みたいなことしてやってきたんだから少しくらい休ませて。まあお礼くれるって言うんなら、部屋の前にでも置いておいてくれれば受け取ってやらないこともないけど」
よく通る強気な声でそう言うなり、女性は靴の音を床に響かせ髪をたなびかせながら颯爽と部屋を横切ると、僕や彼女がこの部屋への侵入に使ったと思われるドアとは反対側のドアに手をかけた。
「あぁ! ちょっとちょっとちょっと! 結局新しい鍵はどうなったのさ?」
それを龍ちゃんが慌てて引きとめる。なんだかまたややこしそうな人間がでてきたなあと、遅れていた思考がようやく現実に追いついてきた。
「だぁから、つけ終わったってーのよ……おい、ガキ」
美鈴ネエと呼ばれている女性は首から上だけ振り向くと、見るからにイライラしながらこちらを睨みつけて言う。見れば、目は切れ長で鼻筋がすっと通っており、顔のパーツだけで言えばかなりの美人に分類できそうだ。長く伸ばされた黒髪も相まって大和撫子と言えなくもない。強いて言うならば、胸囲にもう少しボリュームがあっても悪くはないかな、うん、悪くはない。だがその目の鋭さには鳥肌が立つような洗練された凄みがある。もっと端的に表すとすれば、怖い。ところでガキってやっぱり僕のことかなあ。
「あんたのせいだから。こんな面倒なことになったの」
はい?
「な、何の話ですか?」
あっけに取られる僕を綺麗にスルーし、女性は開きかけだったドアの中に入るとパタンと閉めた。
「……龍。私は美鈴姉と話をしてきます」
口少なくそれを見ていた畑中も同じく立ち上がり、声をかける間もなく早々とドアの中へと消える。またもや僕はスルーである。
「あぁ! ……もー。にゃっはは、まいったなあ、すっかり話の腰を折られちゃった。美鈴姉ぇに話を振ったのがそもそもの間違いだったかな」
龍ちゃんはぽりぽりと頬を掻いた。僕は全くおいてけぼりで、その思考は再び周回遅れにされてしまった。それにしても僕のせいっていったい何が? それについてのフォローはないのだろうか。
「案外すんなり答えてくれたねえ。お兄さん意外だよ」
龍ちゃんはニコニコしながら僕に向かって数回手を叩いた。でも、確かに魔法を信じるとは言ったが心の底からかと聞かれればまだそこはあやふやな色合いである。一体今から彼はどんなことをして見せてくれるのか? 僕はいっそ吹っ切れて、ワクワクしてきた。
「えと、それでどこまで話したんだったかな」
再開された龍ちゃんの話に、僕は男二人きりになった部屋で急いで耳を傾ける。
「あ、それはもう持ってくれてなくてもいいよ」
と、龍ちゃんが苦笑しながら僕の手を指した。言われて両手にそれぞれブックカバーと本を持っていたままだったのを思い出し、それは机の上に置いておく。結局さっきの透視のようなものの詳細が語られることはなさそうだ。胸に抱えた希望の風船が少し萎む。
というか、なんだろう。エントロピーは増大するということでいいのだろうか、現下解消されるべき疑問は減るどころか増えている気がするのだが。
「まー、あー、そうだねえ」
龍ちゃんは言いつつ再び机の周りを歩きだした。彼は話をするとき、立ち歩かないとだめなのか?
「ネタばらしというか、タネをばらすというか。こういうある意味観念的なものを言語化するっていうは不可逆なルプレザンタシオンというか、ある意味ロゴスなんだなあこれ。わかりやすく言葉にするのは結構難しいんだ。齟齬が発生しないようにするにはどうすればいいのかな」
歩きながら、何やらいかにも小難しい単語をざっと言い並べる。
「うん、面倒くさい。よし、決めたっ」
難解な語群とは対照的なすっぱりとしたもの言いで、龍ちゃんは美鈴ネエとやらが消えたドアの前でおもむろにこちらへ振り返る。そして胸の前で勢いよく両手の指を組み合わせた。石造りの部屋に乾いた音が反響する。
「セット!」
その謎の言葉を合図に、下から風が吹いたかのように金髪がふわりと浮きあがり、青とオレンジの配色のトレーナーがはためく。だがしばらくするとそれはおさまり、詰まる所それだけだった。
「………………?」
なんだったんだ?
「んー、やっぱりマナが足りないなあこの部屋。今度どっかから持ってこようかな。さてと、八代くん」
ぶつぶつと呟くと、龍ちゃんはニコっと笑った。
「とりあえずここを出よう。そうすれば君の置かれている状況はすぐにわかる」
今のに対する説明はないのだろうか。
「あぁ! 今のはただの起動さ。だから気にしなくていいんだよ、全然っ」
全然説明になってない説明を受けながら、もはや世間一般に納得と呼ばれる事象を放棄した僕は椅子の下からカバンを手にとり龍ちゃんの傍へと歩み寄る。
「とりあえずさっきの部屋に戻ろう。そこからじゃないと外には出られないんだ」
龍ちゃんは僕の先を行き、僕や美鈴ネエとやらが出てきた金属製のドアを開くと、スタスタとその中へはいっていった。それについて僕も狭い部屋へと戻る。
「アーサー」
中に入り僕がドアを閉めるなり、龍ちゃんは低い声でささやく。狭い上に二人しかいない大理石の部屋にはその短い声がよく反響した。次に彼は左手を天井に向けて突き出した。
「レアルクイール」
その声の残響が僕の耳に届いた次の瞬間、龍ちゃんの手には犬の形をした、台座つきの小さな木彫りの像が握られていた。
「これ……完全に美鈴姉ぇの趣味じゃないか。しかもやっぱり合言葉はそのまんまだし」
それを見て龍ちゃんは困ったような顔をして溜息をついた。僕は、別の意味で息が漏れた。
何もない空間からいきなり物体をとり出したのだ。十分驚くに値する。
「今のは……魔法?」
「うん、まあそうだね。と言ってもこれくらいなら大したアーティストじゃなくてもできるんだけどさ」
アーティスト? 再三にわたって飛び交う謎の単語群。
「あぁ! こういう風に魔法が使える人間の呼び名なんだ。誰が言い出したのかはお兄さんも知らないけど。もちろん魔導師って言い方でも十分通じるよ。ただ、これから何度も耳にするだろうし覚えておいて損はないかもね」
あまりにあっけらかんと答える龍ちゃんの存在はなんとなく僕に安心感をもたらした。
魔法はたぶん。本当にあるんだろう。
だがしかしそれを覚えておくと一体どういうことに役立つというのだろうか。正直そんな知識を振りかざす光景など一瞬たりとも想像したくはないけど。
「にゃはは、まぁとりあえず出よっ」
横の壁に「裏」と彫られている扉を背にし、おんぼろソファーとパイプ椅子付き丸テーブルの間を通り抜け(なんでこの部屋の椅子はパイプ椅子なんだろう)、「表」側のドアの前に僕たち二人は立った。龍ちゃんは手に握る犬の彫刻を、その台座の裏側を突き出すようにしてドアノブに近づける。底に穴でもあいていたのかそれはしっかりとノブにはまったようで、彼が手を放してもそのままだ。
「八代くんが開けなよ」
これをこのまま回せばいいんですね? 滑稽に感じながら僕はその犬の顔に手をかける。
「ん、多分」
多分かよ! 心の中で突っ込みを入れながら、半信半疑のままに僕はゴツゴツして握りにくいそれを回して、引く。
ガチャリ。
それはまるで嘘のように何の問題もなく開いた。そして僕はようやく現在地を把握するに至ったのである。
「ここは……」
踏みしめる床は大理石ではなく、木目の廊下。長い年月を経た床板は、重心をほんの少し移動させるだけで古めかしい音をたてて軋んだ。
「そ。案外狭いもんでしょ、世界ってやつはさ」
いつの間にかドアをくぐり隣に立っていた龍ちゃんが何やら感慨深げに言葉を紡ぐ。木製のドアを閉めると、そこはなお一層、今までの何の変哲もない世界に戻ったように思われた。
ここ、学校じゃないか。あたりは既に夜深く、教師たちも帰ってしまったのか粛として静まり返っている。窓から差し込む月明かりだけが唯一の光だったが、そんな中でもこの光景にはどこか見覚えがあった。
それも当然のこと、もはやお馴染みとなった美術準備室の前に僕たち二人は立っていた。このドアはどういう仕組みになってるんだ? 僕は疑問のままに振り返り、含みのある笑みで僕を眺める龍ちゃんを目の端に、木製のドアを開く。
だが、予想に反してそのドアが繋がっていたのは、学校の間取りそのままの美術準備室だった。生徒の描きかけの絵が網棚においてあったり、絵具や筆やパレットや、その他名前も知らない美術道具でごった返している。さまざまな匂いが混じり合って美術室特有のかび臭い香りを漂わせていた。思わず振り返り、困惑の表情を龍ちゃんに向ける。
「そりゃまあ、そうなるよね」
龍ちゃんは僕の右手首を指差して言った。
「それ、その腕輪。まあ今はそれをどうやって手に入れたかってのは敢えて聞かないけど、とにかくそれね。それが前のカギだったんだ」
カギっていうのは?
「さっき木彫りのワンちゃんをドアノブにつけたでしょ? そのまんま過ぎるけど、あれだよ。あれをドアノブにつけるとあっちへ行けるんだ」
あっちというのは、おそらくあの部屋のことなんだろうな。と僕は想像で省略部分を補間した。
「でまあ、その鍵ってのを手に入れるためには、この部屋の中で合言葉と簡単な呪文を唱えなきゃだめなんだよ、さっきお兄さんがしたみたいにね。そういうわけで君がそれを持ってるのは不思議でならないわけだけど、ま、今はいいんだよーそれは、全然っ」
今は、という言葉が嫌なくらい耳についたが、それはそれとして僕はまたドアを閉めた。
「確かに僕がどこにいるかはわかった。でもまだそれだけだな」
疲れの滲み出るような声を上げる僕を横目に、それをこれから説明してあげるのさ、と言いつつ龍ちゃんは月明かりの差し込む古めいた窓枠にもたれかかる。
そしてそこはかとなくしみじみとした口ぶりで語り始めた。