42.燈屑の街
気付いたら僕は橙色と銀色の草原に立っている。なんだか懐かしい感じすらした。橙色の風に吹かれて、銀色の草が揺れる。僕もその風に頬を撫でられて、髪を揺らす。
そして。
「よお」
一歩先に、見慣れた黒髪を見つけて僕は、声をかけた。
「こんにちは、八代」
こんにちは、じゃねえだろ。黒髪黒眼の少女は、僕を振り返って慎ましく笑った。
「……結局、なんなんだ? この世界は」
辺りを見回す。
ただ一面の、銀色の世界。橙色の空。
「一言で言っちゃうと、天国だね」
一言で言いすぎだろ。
「全然分かんないぞ」
「いいんだよ、わかんなくて。わかんないように言ってるんだからさ」
「……そっか」
「でも、君が初めてだ、生身のままこんな所に来たのは」
「だろうね」
「最初、勇から計画を聞かされた時、いくらなんでもそんな人間がいるものかって、私は思わず反論してしまったよ」
「そりゃどうも」
「だけど実際、探してみたら居たんだから驚きだよ。しかもこんなに近くにね」
それだけ僕は――生きていなかったということなんだろうな。
今なら分かる。いや、ずっと自覚はしていたんだ。ただ、それを認めて自分が自分でないということを現実にしてしまうのが怖かっただけ。
しかし、勇、か。ずいぶん親しげに呼ぶんだな。
「うん、まあ、恋仲ってのはそういうもんでしょ?」
「……僕にはよく分からないけど」
「これから分かるよ。穂波ちゃんと一緒に居れば嫌でもね」
「……」
人をからかうのはやめてほしい。
「あー、八代顔真っ赤っかだよ。かーわーいーいー」
「うるさいな!」
「実際どうなのさ? 思いっきり抱きしめちゃってたじゃないの。感触とか、ほら、その辺」
「脇腹の痛みが勝ってて全然覚えてない」
「えー、嘘だあ? 絶対嘘でしょ?」
ていうか、君、キャラが若干変わってないか?
「嘘じゃない」
いやまあ、嘘だったけど。
本当は、その。柔らかい部分が当たってるとか、若干そういうやましい考えも、まあ、なかったわけじゃない。ただ、あの時はそれよりも彼女を守る方に夢中だった。彼女を愛しいと、そう思う気持ちの方が上だっただけだ。
「ま、それも結局演技――フェイクに過ぎなかったわけだけど」
「穂波ちゃんを愛しく思う気持ちは演技じゃないでしょ」
「……やっぱりキャラが変わってるだろ、君」
「そんなことないよ、ただ、自由になっただけ」
自由になっただけ、か。
「なあ須原」
「ん? 何かな」
「僕はちゃんと『清算』出来たのかな」
「勇に聞いてみたら? でもま、私としては上出来だと思うけどさ」
セイサンシャ、それはつまるところ『清算者』だ。
畑中勇と、32号機関の過去を、須原星屑とのいざこざを、清算した。
僕の過去を、無才未尚という影に縛られていた僕の空蝉を、清算した。
畑中穂波の過去を、一人では立てない娘の哀れな勘違いを、清算した。
須原愛乃の存在を、永遠という過去に縛られた彼女の生を、清算した。
「……畑中はさ、なんでメルシングが殺せなかったんだ?」
「単純に、お兄さん――勇の影に引っ張られてたんだと思うな」
兄の影に引っ張られていた、か。
「それは多分、本当に単純なことでさ。無意識のうちに穂波ちゃんは、やっぱりお兄さんを探してたんだと思う」
「探していた……」
「うん。それで、自分の中に見つけちゃったんだ。お兄さんを」
自分の中に、兄を見つける。
それが、メルシングを殺さないという行為。だけどそれは、根本から間違っていた、というわけか。
「そ」
「彼女のそれは、単なる甘えでしかなかった。そうしていることで、自分の平生を保つ手段でしかなかったんだろうな」
悲しいかな、それは僕と同じような低俗な過ちのようにさえ思える。まあ、本質は全然違うんだけど。
「うんまあ、そんなところじゃないかな」
だから。
「彼女にあんなデマを吹き込んだわけだ」
「あれは元々勇の考案だよ」
「だとしても、執行者なんて。少々お粗末じゃないか?」
「……あれでよかったんだと思う。やっぱり、合理的な理由ってのは必要じゃない。フロイトの防衛機制にもあるでしょ、合理化ってのがさ」
「何を合理化するんだよ」
「そりゃあ、勿論。私を殺しちゃったことをさ。君を守るため、でもいいし、執行者から逃れるため、でもいい。結局のところ、勇には前科があるからね、君っていう。穂波ちゃんで同じ過ちを繰り返したくなかったんだと思うよ」
「……」
僕を前科扱いしやがった。
「そりゃまあ、そうなんだろうけど。僕は確かに、合理化どころの騒ぎじゃなかったけどさ」
「何せこっちの世界に来るまでとことん死んじゃってたわけだからね」
「まあ、でもこの際」
君の場合。
「殺しちゃった、ってわけでもないだろ」
「ん……そうかな?」
「そうだよ。君はこれで……解放されたんだからさ。むしろ、生かされた、とでも言うべきだよ」
須原はメルシングだった。いや、メルシングになってしまった。
「確かにね、出口のないトンネルはトンネルじゃないもの。私に出口を作ってくれたっていう意味で、穂波ちゃんは私の命の恩人かもしれない」
そしてその原因は畑中勇にあった。当然、畑中勇は自責の念に駆られたことだろう。恋人に、永遠の命なんていう重すぎるものを背負わせてしまったのだ。
「私はね……違うんだよ。君、お父さんの話を鵜呑みにしすぎだって。勇が悪かったんじゃない。私が勇を庇ったの。そうするしかなかった。いや、私がそうしたかったの。八代、君が穂波ちゃんを庇ったようにね」
「……そうなのか?」
「そうなの。だから、私が責められることはあっても勇が責められることは絶対になかった。私がちょっと出しゃばりだっただけ。アハハ、傑作だね」
須原はまた笑う。
「だけど――そんな中途半端な永遠の命貰って、君だって嫌になったことがあっただろう?」
「…………なかったよ」
少し大きな間をおいて、須原は否定の答えを口にした。
「本当なら、私たちはもっと前に、逢えなくなってたんだもの。勇ともうちょっとだけ長く一緒に居られる。それだけで私は幸せだったから」
「ポジディブなんだな」
「うん、まあそうかもね」
まあ、なんだろうな。
畑中勇。
ジョーカー。
無才未尚。
同一人物。
「全く、一人二役ならともかく、一人三役だもんな、天才は違うよ」
「アハハ、全くその通りかもしれないね」
「それにしてもよくやったと思うな、我ながら」
「うんうん。よくやったよくやった」
「でもこの清算って全部、結局畑中勇の清算じゃないか」
「ん、そうかな?」
「とぼけるなよ、どう見てもそうだろ」
「うーん、そうと見てとれないこともないねえ」
「それを何で僕がやらなきゃならなかったんだよ」
僕のも確かに含まれていたとはいえ、4分の3が僕とは無関係じゃないか。
「……それはさ、帰ってから君が直接聞きなよ。やっぱりそれが一番いいと思うしさ」
「……」
それだけ言って、須原は、僕から一歩引いた。
「そろそろ帰りなよ」
それから僕に小さく手を振る。それは追い払うような仕草にも見えた。
「君はもう、生きてる。こっちに居ていい存在じゃない」
「……そうだな」
僕はもう、生きている。
「ほら、穂波ちゃんが心配してる。早く戻って、安心させてあげなよ、君は生きてるんだ、ってさ」
「……」
夢のような始まりで始まった夢のようなお話は、やっぱり夢のような展開をして、そして夢のような終わりを迎えるのだった。
「でも、これでいいのかもな」
所詮天才じゃない僕には、こんな夢みたいな結末が似つかわしい。
夢を見るのは凡才の特権だ。
「じゃ、そろそろ帰る」
「うん、それがいい。そうしなよ」
僕は最後に、須原に手を伸ばした。
「握手」
何の躊躇もなく、彼女はそれを握ってくれる。畑中よりも一回り大きな、優しい手だった。
「ん、じゃ、今度こそさよなら。天才君」
「…………ったく。……それじゃあな」
そして僕は。
僕の銀色の記憶は、そこで途切れた。