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41.またね

 もう道化は始まっている。

 この瞬間から、最後の道化はもう、開始された。

「八代君、これ、血が! な、なんで……どうしてこんな……!?」

 急転直下、彼女の声は数秒前とは正反対の色で、それでいて同様に平静を失っていた。

 彼女の視界は僕が塞いでしまっているからまだ須原の存在には気づいていないようで、状況がよく飲み込めていないらしい。彼女の手だけが、僕の身体から流れ出た生命の源のぬめった感触を得ているのだろう。じんわりと、鉄の香がする。いや、直接的に言えば、僕の血の匂いが漂っていた。

 これでいい。これでいいんだ。

 何故なら、『畑中穂波を護る』ことが、ジョーカーからの指令だから。

 そして畑中の代わりに受けたこの痛みこそが、「僕」の人生の再始点になるのだから。

 でも。

「……や、やっぱり、痛いな……これ」

 結構、割りと、うん。我慢できないくらい痛い。そしてもう一つごめん、畑中。もうそろそろ、このままの体勢でいるのもつらくなってきた。僕はそのまま、畑中を抱く腕の力を緩め、身体の重さを重力に任せて、左の方へと崩れ落ちるように倒れこむ。

「八代君!」

 衝撃で、小さなナイフが刺さったままの右脇腹がもう一つずきりと痛んだ。畑中の顔が倒れこんだ僕を覗き込む。困惑して、狼狽しきった顔。ごめん。でも『畑中穂波を護る』というジョーカーからの指令。これは、今ここで初めて果たされたと言っていい。いや、むしろ、この状況のこの場面を想定した指示だったと言えるだろう。この命令の真実は、ここに存在したのである。

「私を、庇って……?」

 僕は畑中を守ると言ったのは言ったが、実際に彼女を守ったのは僕じゃなかった。それは龍ちゃん然り、美鈴さん然り、ジョーカー然りだ。僕は所詮便利なカードであり、しかしそれは戦略上の、たった一つの歯車に過ぎなかったわけで、だから僕は今こそ、ババらしく行動しなければならなかった。

「八代君、八代君っ!」

 なんにでもなれる特別なカードなら、僕が彼女のジャックとなって、彼女を守る剣と化せばいい。そんな使い方だって、アリだ。なんだってアリなんだから。それが僕という存在なんだから。美鈴さんが言っていたのも多分、そういうことなんだ。

 そうだ、これでいいんだ。僕は僕以外の人間の為に、死の危険を冒している。そう。死ぬということは、生きるということ。逆に言えば、絶対に死ぬことのない生物は生きているとは言い難い。

 僕は今――生きている。

 この痛みが何よりの証拠。

「嫌です、死んじゃ嫌ぁ!」

 畑中は何かを堪えるようにして、今にも水気を含みそうな声と共にただ首を横に振る。その柔らかくて白くて温かい手は、いつの間にか僕の手を握りしめていた。

「……馬鹿……まだ生きてるよ、このくらいで……死んでたまるか」

 とは言うものの、ピントが合わず、視界は暈かしがかかったようにぼんやりと霞んでいる。朦朧とする頭で、とにかく考えた。考えてないと意識の糸がプツリと切れて無くなってしまいそうだから。そんなところで思考を右往左往させていると、上から息を呑む音が聞こえた。

 どうやら、彼女の方もようやく、少し離れて傍らに立つメルシングの存在を知覚したようだ。

「須原……!」

 多分予期していなかっただろう邂逅に、畑中の声が甲高く上がる。

「どうして……なんで、こんな、ところに」

「こんにちは、穂波ちゃん。どうして私がこんなところにいるか、見て分からないかな?」

 対する須原は、実に軽快に、しかし落ち着きはらった大人びた声で、彼女に返した。

「あなたが、八代君を?」

「うーん、八代を狙ったわけじゃなかったんだけどね。穂波ちゃんを庇ったりするから」

 あまりに緊迫した空気が場を押しつぶそうとしていた。畑中に言葉はない。思考しているのか、それともただ単に絶句しているのか。おそらくその両方だろうが、彼女の顔からはほとんど何の感情も読み取れない。しかし、それは読み取れないだけであって、その下に一体どんな種類の溶岩が渦巻いているのか、それは簡単に予想が出来る。そしてそれがもはや噴火の寸前の状態にあるということも。

「……まさか、あなたが、執行者だったのですか?」

 いや、畑中、それは違う。

「違うよ穂波ちゃん」

 須原は――やはり須原だ。それ以外の何者でもない。

「私はただの傍観者だった。見ていただけだったんだよ。何故ならそうしていれば、あなたは消える予定だったから」

「……え?」

 彼女のことを想うのなら、ここで止めるわけにはいかない。だが、心を痛めないという風にいくのも無理があった。

 だからごめん、畑中。

「わからないかなあ? 執行者は君の機関の人たちが退けちゃったんだよ」

「龍や……美鈴姉が」

「そういうわけなんでさ、穂波ちゃん。君は私にはもう用済み。ていうか、逆にこのまま近くに居たら私が危ないの。執行者にやられたら私だって困るからね。だから君はここで消しておこうかと思って、私が直接」

 なるほどね、そういう筋書きか。

「でも失敗しちゃったみたいだね。……このまま八代を放っておくとあっという間に毒が全身に回っちゃうよ?」

 あまり耳触りのよくない単語が聞こえた気がしたが。

「生成術で錬成した毒ですか……このナイフは第三現の魔塊……」

「そ」

 短い返答は、またも明るい。

 何かが、吹っ切れたかのように。

「全部君の魔術だよ。ま、元はと言えば私が穂波ちゃんに教えたわけなんだけど」

 太陽が、馬鹿みたいに眩しい。世界は、クラクラするくらいに、光と影のコントラストがくっきりとしている。

「須原……」

「どうしたの? 早くしないと死んじゃうよ、彼。まあその前に君が死ぬ方が先かな? 穂波ちゃん」

 そんな風な声が耳に降ってくるが、しかし、もう眼を開けていられない。太陽が眩しすぎるんだ。と。視界が、ふわりと浮きあがる感覚。

 僕の身体が、あまりに唐突に吹っ飛んだ。

「八代君っ!」

「ほら、どうせ八代にも私のこと見られちゃったんだ。君たちは二人ともここで死んでもらうけど、それでいいかな?」

 落下の際にまた脇腹を強く打ちつけて、身体の中の鋭利な異物が、さらに深く内部の柔らかい肉へと食い込む。キリキリと、僕の中をかきまわす。

「ぐあぁっ!」

 痛え……!

「だめ、やめて、須原! 本当に死んじゃいます!」

「だからさあ、本当に死んじゃっていいんだって」

 須原は楽しそうだった。

 そうだろうな。僕だって、彼女の立場にいれば、そうだろう。でも痛いんだよな、これ。

「ほら、もう一回」

 また、僕の視界で青い弾が炸裂する。

 もう一度吹っ飛ぶ、僕。

「須原!」

 飛び交うのは畑中の声。

 そして、着地、転がり、痛い。

「かはっ……!」

 血が出た。口から。大丈夫なのかよ、これ。

 そんな風に独白するのも、もはや限界を迎えていた。意識はとっくに、その一線を越えているのだ。こうして保っていられるのが不思議なくらい、ただの気力と空元気で、僕は今畑中の顔を見上げている。

「……そんな顔……するなよ、畑中」

「だって、だって八代君! 八代君っ!」

 悲壮感たっぷりに名前を連呼するのもやめてほしい、割と恥ずかしいからさ。

「そんな風に八代にばっかりかまってる暇なんかあるのかなぁっ?」

 次、飛んできた青い閃光は畑中の背を打つ。

「ぅっ……!」

 彼女の軽い身体が僕の上を飛んで行き、そして前のめりに倒れる。

「す、須原……どうし」

「どうして? 決まってるじゃない。私がメルシングだから」

 もう一発、青い弾丸が飛んできて立ち上がろうとした畑中に追い打ちをかけた。

「つあっ」

 僕の目で追える範囲を遠く離れて、畑中は成す術もなくぶっ飛んでいく。

「ほらほら、こんなものなのかな? 畑中勇の妹は」

 畑中勇の妹。なるほど確かに、そういう肩書もあっただろう。天才を兄に持てばそんな風に言われるのは不自然ではない。

「兄を……馬鹿にしないでください」

「違うよ、君を馬鹿にしているの」

 またもや、僕の真上を青い稲妻が、今度は二本、尾を引いて飛んでいった。

「っ」

 しかし今度は、カン、カン、と、そんな金属音が響いて終わる。畑中は避けたのだろう。

「須原――!」

 頭のすぐ後ろを、ドスの利いた掛け声と同時に駆けていく足音。

「セット!」

 パン、という乾いた音が僕に告げるのは、畑中が臨戦体制に入ったという事実。僕はちょっとだけ頭を傾けて、視界に映る画を物言わぬ入道雲から、二人の少女へと切り替えた。

 畑中はもう、弱弱しい少女の顔をしていない。

 それは精悍な、戦士の顔つきだ。

 小柄な畑中は走りながら赤い弾丸を放ち、須原は最小限の動きで勢いよく頭部に向かったそれを横へ逸らせた。ボブカットが綺麗に揺れる。そしてその一瞬、須原が魔弾に気を取られているうちに、畑中は須原の懐に飛び込んでいた。躊躇なく突きだされた畑中の右手を、須原は反射的に左手で掴み、逆に須原が突き出した右手を畑中が左手で掴み返す。

「く……!」

 二人が、それぞれの右手を左手で封じ、見つめ合った。

「君は甘いよ穂波ちゃん」

 しかし次の瞬間須原は、畑中に掴まれていた右手をいとも簡単に解き、逆に畑中の左手を拘束する。

「ほら、隙だらけだ。甘過ぎる」

 畑中は、両手を封じられた形になった。

「須原、やめてください……こんなこと、何の意味も……」

 上半身をほとんど動かせない畑中は、足をもぞもぞと動かしている。

「意味はあるよ」

 両手を左右に開かせてから、ぐいと、須原は畑中に顔を近づけた。

「そろそろ別の宿主を探そうと思ってたところだからさ。君たちが消えるのには暴力的なまでに意味がある。どうせ君ら人間は私たちにとっては都合のいいビジネスホテルくらいでしかないんだよ?」

「……リミテリアクス」

「!」

 畑中の呪文をきっかけに、二人の足元に描かれた単純な図形――一筆書きの六芒星が、赤い光を放ちだす。

「あちゃ、しまったね」

 須原が少し焦燥した声を上げた。

「甘いのはどっちでしょうか?」

「さすがは穂波ちゃん。普通脚で魔法陣なんて描けないよ? アッハハハ」

 そのまま、両腕の拘束を解いて須原は横っ跳びに跳躍する。本当に、ものすごい距離を跳ぶ。それはそれだけ畑中の魔術の威力を危惧しているということだろう。そして予想通り、時間にして1秒も経たないうちに、須原が数瞬前立っていた場所に、巨大な火柱が爆発的な勢いで上がった。天まで立ち昇るような、人一人くらいなら簡単に呑みこんでしまうだろう焔は、本物の炎かと紛うくらいの熱気を放散している。熱い。

 畑中の本気が、垣間見える。

「プラスイテクト」

 間髪入れず畑中は、低い声でまた別の呪文を唱えた。彼女の左手から光の糸が五本伸びて、バラバラに、それでいて統制のとれた動きで即時に須原を追う。美鈴さんが使ったものと同じ魔術だろう。

「忘れたの? 穂波ちゃんが使える魔術は私も使えるんだよ」

 須原はそのまま地に足をつけず、屋上に突き出ているドアを一蹴りして再び弾丸のように空中に飛び出した。そしてその身に迫っていた白い光の糸を、同じように左手から伸ばした蒼く輝く糸で絡め捕る。畑中の正面に着地して須原は、絡みあって繋がった糸ををグイと引っ張った。

「っ!」

 畑中の脚が地面から離れ、左手の糸によって須原の元へと牽引されていく。しかしその華奢な体躯が須原の元へ到達する前に、輝き縺れる糸は畑中の手元でぷつりと切られた。畑中は着地と同時に、須原へ向かって惰性でそのまま走りだす。

「セルチヴォーチェ!」

「ボルデロゼヴ」

 二人が言うのが同時だったと思う。

 畑中の左手が大きく振り回されると、その手から流れ星の如く眩い輝きを放つ鋭利な閃光弾が、数十発、ミサイルを思わせる軌道で須原へと迫った。しかしその銘々は、須原に触れるほんの数十センチ手前で青色の壁のようになものに阻まれ、破砕音を立てて消えていく。

「チッ!」

 畑中は須原の一メートル手前で停止、右手を大きく振りかぶり、振り抜いた。ダーツが風を切り、須原へ向かう。しかしそれも須原を囲む障壁に当たるとバラバラに分解して、砕け散った。

「マナを無駄遣いするのはやめた方がいいよ?」

「五月蠅いです! ボルデルヴェスト・ディスペル!」

 その声と共に畑中の左手が須原を守る壁に触れると、触れた場所からその障壁は青い粉になって煌めきながら崩れ落ちていく。

「それじゃだめだね」

 須原は砂のように崩れゆく壁を前に一歩後ずさると、しゃがみ込み、身体の周囲のタイルに半円を描くようにして右手を動かした。すると何枚もの緑色のパネルが床から剥がれて、ふわふわと浮きあがる。

「行け」

 今度はその浮き上がったタイルが、回転しながら次々と畑中へと襲いかかった。

「……くっ!」

 畑中は右手を振り回して、襲い来るそれらをすべて赤い閃光弾で撃ち落とす。薄いそれらは、全てが簡単に割れて、砕け散った。

 その間に。

「畑中!」

 僕は叫んだ。が。

「ほら、後がガラ空き」

 須原は、畑中の後ろに居た。

 だめだ、間に合わない。

「なっ!?」

 畑中が振り返るよりも速く、須原の右手が畑中の首筋で青い爆発を起こす。

「あうっ」

 畑中は頭から、前のめりに勢いよく倒れこんだ。

「天才の名を欲しいままにした君も、自分の影には勝てないかな? 無様だね、穂波ちゃん。アハハハッ」

 須原は高笑いした。

 それはだけど、勝ち誇った笑いではなく、見下した笑いでもない。後がない笑いでもなく、先が見えていない笑いでもない。その笑いは。

 須原――。

 いや、それよりも、そろそろ本当に意識が持たないな、まずい。

「う、ううぅぅぅ」

「立ちなさい、穂波ちゃん」

 もう須原は、笑ってなんかいない。厳しい顔つきのまま、足元で立ち上がろうとする畑中に、彼女は言う。

「こんなものなの?」

「うう、うううう」

 手を突き、頭を持ち上げ、畑中は唸る。

「畑中穂波!」

 須原は鋭く、彼女の名を口にした。

「うう、須原……ッ!」

 淡い栗色の髪を振り乱して、畑中は四つん這いのまま振り返る。そして右手から、赤い弾を須原へと撃ち放つ。だがそれは須原の青い弾に、簡単に相殺される。

「……だめだね。全然だめ。教えてあげたこと、何一つ守れていない」

 呆れたように溜息をつく須原。

 そもそも、須原がこんなことをする意味は何だ。僕は分かっている、知っている。彼女は龍ちゃんに約束したはずだ。僕を傷つけないと。だがそんな約束は既に反故にされている。

 だったら。

「ちゃんと立ちなさい。穂波ちゃん。まずは自分の足でしっかりと立つの。そう教えたはず」

 だったら僕も、立たなければならぬだろう。

「それが第一条件なんだよ穂波ちゃん」

 畑中はゆっくり、須原を振り返りながら、立ちあがる。膝に手をついて、肩で息をしながら、彼女は目前に立ちはだかるかつての友を睨みつける。

「はあ……はあ……、須原……」

「色っぽい息切れだね、だけどそんなのは戦場じゃ必要ない」

 須原が左手を振るうと、畑中の身体がゆっくりと宙に浮きあがる。彼女は手足をばたつかせたが、何の成果も成さない。

「だから君は甘いの」

 そしてその手が振り抜かれると同時に、彼女の体躯はまるでゴミ屑のように飛んで行き、ドアに思い切り打ちつけられた。

「か、は……っ!」

「甘くて、甘過ぎて……胸が悪くなる。私、コーヒーにはスプーン一杯しか砂糖は入れないの」

 須原はその左腕を再び前に持って行き、ぐっと握りしめる。

「あ、うあああッ」

 畑中の身体はドアに磔にされたまま、落ちることがない。それどころか、彼女の身体は見えない力によって締め上げられているように見える。畑中の顔が激痛を感じたように歪んだ。

「い、ぅ、ぁあ……」

「結局君は、私に勝てないんじゃないんだよ」

 須原は言う。

「メルシングを殺せないだけ。ただそれだけ。迷っている限り、本当の強さは生まれない」

 須原は言う。

「だから君は甘いの、穂波ちゃん。それは君の兄が持ち合わせていた自信と慈愛の心とは違う」

 須原は言う。

「ただの甘さ。本当にただのそれだけ」

 須原は、言いきった。

「うう、ぅ、ぅ……」

 ギチギチと、そんな音が聞こえてきそうなくらい、畑中の身体のラインがはっきり分かるくらい、緊縛痕が服の上から見えてもおかしくないくらい、須原は畑中を締め上げていた。

「ほら……それで、こういう時はどうするんだっけ?」

「こうするんだよ、須原!」

 僕の声だった。

 なかなか格好良く割り込めたんじゃないか?

 なんてな。

「!」

 須原が、その顔に驚きを従えてこちらを振り向き、時を同じくして、畑中の身体が床へと落下する。僕はそれを見届けてから、右手に溜めていたマナを、須原に向けて射出した。

 須原の口が、ニッと持ちあがったように見えた。そして眉の端が、反比例するように吊り下がったように見えた。

「……やっぱり駄目か」

 それは、須原の台詞。

 勿論、そんな攻撃が通るはずもない。小さな魔弾は右手で軽く薙ぎ払われて、消滅する。

「け、けほっ、けほ……八代君……」

 畑中は四つん這いで咳きこんでから、僕を見る。

 ズキン。

 その時右脇腹に、大電流に当てられたかのような酷く鋭い、頭が冴え渡るような痛みが走った。

「うっ!」

 痛え……!

 精神力で痛みに耐えていた分、魔弾を撃ったりしてそれを削ってしまったからか。もう僕にこの痛みは耐えられない。

「そんなに死にたいなら……死に急ぐのなら、君から先に殺してあげるよ、八代」

 僕も同じく、口だけで笑う。汗を滴らせている点で須原とは異なるが。だけど本当に、笑うしかない。噴き出さなかっただけ、まだマシだ。だって、こんな陳家なシナリオがあるか? 今時ジャンプにも載ってないだろうな、ここまでベタで、ベタベタで、王道な筋書きは。

 本当に、道化だ。

「だ、だめ…………だめです!」

「何が? 弱い娘は黙ってなよ。それじゃ、悪いけど」

 須原はもう畑中を振り向くこともせずに言う。

 そして次の瞬間。

 彼女は僕の鼻先三寸に居た。

 目と目が、至近距離で見つめ合う。

「消えて」

 鼻息がかかりそうな距離で、須原は凍りつくくらい冷たい、何の感情も籠っていない声で。

 僕の死を、宣告した。

 ドクン。

 世界が、スローモーションになる。

 須原の右手は僕の胸倉を掴み。

 須原の左手はコマ送りで後ろへと振り上げられる。

 僕の藍鉄と、須原の漆黒が。

 見つめ合い、絡み合い。

 世界は、止まる。

 雲も蝉も、夏の日差しも、全てが止まり、しんと静まりかえる。

 僕の藍鉄と、須原の漆黒が。

 見つめ合い、絡み合い。

 ああ、やはり君も。

 須原、君も。

 ふりあげられた左手が、青白い光を放ちながら、僕の首筋へと迫る。

 これでよかったのか?

 ……。

 よかったんだろうな。

 だって君は。

 今の僕なら、分かる。

 今の「僕」なら分かる。

 この結末を望んだ、君の心が、分かる。

 刹那。

 飛び散った。


 橙と、銀色の飛沫が。


 僕の視界にもそれが清流の雫のように飛び散って、風をキラキラと、美しい琥珀色に染める。

「あ…………」

 その声は誰のものだっただろう。わからない。少なくとも僕のではなかったけれど、しかしその声は、誰のものだっただろう。

 須原の身体は、上半身と下半身との間、腹部に。

 ぽっかりと大きな穴があいていた。

 そしてそこから、輝く飛沫――燈色の星屑(ほしくず)が、太陽光を受けて金色に煌めいて、キラキラ輝く絵具で描いたみたいに、水分をたっぷり含んですうと伸びる線を空中に何本も曳いていた。

「…………アハハ……やられちゃったか」

 須原はふと、笑った。何もかも、吹っ切れた、最高の微笑みで。世界中のどんな美人を連れてきても敵わないような、極上の笑みで。

「……す、須原……私……」

 畑中の左手が、須原の身体にあいた空洞の向こうに見えた。

「なんだ……やれば…………できるんじゃない……穂波ちゃん」

 彼女は、その微笑みのまま、畑中を振り返った。

「なんて……顔……してるのさ……」

 畑中は、声が詰まって出てこない様子だ。

「……わ、私…………」

 おびえたような顔に、恐れるような声。

 自分が絶対に冒してはいけない罪を冒しているかのような、そんな調子。

「これで……八代も助かる…………生成術の毒は……術者が死ぬと効力を失うからね……」

「ええ、……ですが」

 畑中の声は、十分すぎるほど湿っていた。

「君は、君の強い意志に……忠実だった」

 もう一度須原は、笑って。

「アハハ」

 笑って、言った。

「君は……立ったんだ……! 自分の意思で、自分の足で……立ったんだよ、たった今、初めて」

「須原……!」

 いつの間にか。

 彼女の身体に開いていた大穴は、広がって、須原の身体はそこを起点に、火のついた紙がメラメラと燃えるように、どんどん燈色の輝きを放つ細かな星屑へと変わっていった。鮮やかな色だった。薔薇よりも淡く滑らかで、しかし桜よりは華麗で可憐な、オレンジ色の光の粒子。須原の身体は、そんな風にどんどん細かくなって、さらさらと崩れていく。

「こんな、こんな……私、私は……こんなつもりじゃ……」

 畑中は、やはり、錯乱していた。だけど、これがあるべき結末。

「泣くな……君は、さ……これで……一歩、兄に近づけたんだから……」

 須原は、どんどんその存在を失くしていった。あっという間に、瞬きする間もなく。もう、上半身しか残っていない。それすらも、今こうして独白している間にどんどん崩れ落ちて、光の砂になって消えていく。見れば、僕の脇腹からも橙色の流砂が流れ出ていた。痛みも一緒に流れ出ていくようだ。

「須原」

 僕は言う。

「いいんだよな、これで」

 須原にしか聞こえない声で、小さく呟く。

「……後は、任せた、なんてね……一回言って……みたかったんだ、これ」

 須原もまた、僕にしか聞こえない声で言った。

「そっか。じゃあ任された」

 その時。

「みんな遅れてごめんな――――――っ! 生っきてっるか――――――――――――っい!」

 四十万の声が、マイクに乗って飛んできた。身体全部に共鳴して響く声。

 今年は、生きてるかい? か。

 ああ、四十万。生きてるよ。

「アハハ……いいね、……生きてるかい、か」

 須原もきっと。今、生きている。

「須原……」

 畑中、君はさっきからその名前しか口にしていないんじゃないか?

「ごめんなさい、私を、許して」

「……君はこれからも……こうして生きていくんだからさ……胸を張りなさいな」

「……」

 僕は須原を見る。見る。見る。

 彼女の髪を、瞳の色を、その顔の造形を、目に焼き付ける。すべてが漆黒に染まった彼女の姿を、橙色のベールの中で幻視する。どこか流麗で儚げだったその立ち振る舞いを、思い出す。

 実際はもう、首から下は、星屑になって地上に降り注いでしまったが。

「……お疲れ様、須原」

 僕は短く、別れを告げた。

 須原愛乃という存在を二度生きた、須原を労って。

 そして笑う。

「……うん、バイバイ。八代、穂波ちゃん」

 須原もまた、笑った。

 静かな笑みだった。

「またね」

 須原は、最後までその笑みを絶やさなかった。

「さよなら……須原」

 涙声に畑中が言って。

 そして、どこまでも果てしなく美しく、そして優しく、須原愛乃は消えていった。


 キィ――――――ン


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