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40.私はあなたのことが

 目を薄く開けて、ちょうど今お目覚めなのだろう、畑中はどこかぼんやりとした空気を纏って僕に顔を向けていた。何故、このタイミングで。いや、そんなこと言っても仕方がない。仕方ないがしかし。僕の世界が、ほんの少し元の正常な造形を取り戻す。しばらくの間集中し過ぎていたせいで忘れていた猛烈な暑さが、電光石化をもってして僕に襲いかかった。

「畑、中……」

 言葉が、喉のあたりでつかえる。つうと唇のすぐ横を、汗が伝った。彼女は少し首を左右に振ってから、片手をついて上半身を起こす。そして若干気まずげに苦笑いを浮かべて、言葉を発した。

「……えと。私、熱中症にでもなったんですか?」

「……ぇ、ぅ」

 どうしよう。

 今度は喉につかえるどころか、言葉が何も、出てこない。台詞の貯水池は空っぽだった。

「……」

「……」

 畑中は、寝起きのような、まだ半開き気味の目で僕をじぃと見つめる。それをしゃがんだままの僕は、びっくりしたように見開いた目で、唯見返すだけ。

「……あの」

「…………」

 どうすればいい。

 君は気づいているのか? 畑中。須原が君の真後ろに立っていることに。それとも気付いていないのか。わからない、聞けない。いや、それよりも僕は――僕はどうすればいい、まだ心臓がばくばく鳴っている、冷静になれない、何もできない、いや、落ち着け、別に何の問題もない、こんな状況だからといって僕にも畑中にも問題は何一つないはずじゃあないか、しっかりしろ八代椎奈――でも、僕は一体どうして僕なのか? 僕は本当に、僕なのか? ……まずい、錯乱させられている、だめだ、一先ず忘れるんだ、自分のことは吹き飛ばせ、須原が何の考えなしに用もない場所へ残るはずがない、考えろ。

 一息に、自分へ言い聞かせる。でも。

 だめだ、くそ、全然、だめすぎる! 五感が痺れて何だか身体の先端部分の全てがじんじんしていた。頭が、完膚なきまでに回らない……!

 落ち着け、素数を数えろ。そして深呼吸だ。落ち着け。1、吸って、3、吐いて。5、吸って、7、吐いて。11、吸って、13、吐いて。

 ……うん、さすがにこれ以上やると不審である。

 そんな感じで半ば放心状態の僕を若干怪訝に眺めながら、畑中は不思議半分に首を傾けて、口を開く。

「ひょっとして、なんですけど」

「……?」

 そして伏し目がちに僕から目線を外して、頃合いを見測っているようだ。そうしてもう一度僕を見上げた時、彼女はその顔に全く曖昧な笑みをたたえていた。苦笑とも微笑ともつかぬ、しかしそれらに類する、どこか儚みを見てとれる笑み。微苦笑、といったところの、そんな笑みを。

「執行者が来たんじゃないですか?」

「……しっこうしゃ?」

 なんだ、それ。

 何かを行う役回りの人間ということか? キョトンとした僕の顔を見る畑中は、そのままの、どういうわけか痛々しささえ感ぜられる表情のまま、しかし僕を狼狽させるに十分な威力を持った台詞を、何の気なしに振り回す。

「私を始末するための人間が、ここに来たんじゃないですか?」

「……!」

 自覚、している? 心の深淵まで届くような衝撃が、ただでさえドロドロに溶けかけている僕の足元を、これでもかとばかりにぐらりと揺らした。どういうことだ、待て、考えろ。考えるんだ、八代椎奈。

「……身体に残ってるこのだるさ、これはおそらく封印術の余韻です。私はこんな使い方したことないから本当にそうなのかどうかはわからないですが」

 畑中は空いた手を閉じたり開いたりしている。

「執行者っていうのは……なんだ、なんなんだ? どうして君が、その、命を狙われるなんて物騒な話になっているんだ」

「八代君には隠しておくつもりだったんですけれどね」

 なんだ? 何を隠しておくって?

「これは私の話でもありますが、私の兄の話でもあります」

 また、畑中の兄貴の話か。

 畑中勇。それはなんだかとてつもなく忌々しい名前に思えてくる。だが、そうとばかりも言っていられない。それは僕の存在そのものを奪いかねない――そんな名前だ。扱いには、割れ物を通り越して爆発物に対するような気遣いが必要だろう。

「少し長くなるかも知れませんけど、あなたには聞いてほしい。お願いです」

 畑中は訴えかけていた。

「私……私、まずあなたに謝らなければなりません。貴方の事を無視したりして、一方的に意思疎通を拒んだりして。理由はどうあれ、私とあなたの関係上、あんな態度をとるべきではありませんでした。それによってあなたに危険が及ぶこともあったでしょうし、実際今、そうだったのかもしれません。だとしたら私は……絶対にしてはいけないことをしてしまいました。馬鹿みたいに子供で、狭量でした」

 僕に対して、少し震える小さな声と、少し揺れる大きな目で。

「ごめんなさい」

 思わずドキリとしてしまうような、どこか艶っぽい、しかし多分に切なさを含有する表情で。

「お願いです。こんな私でも、許してくれますか? ……話を聞いてくれますか?」

 僕は一つ息を吸って、応答する。

「……当たり前だろ」

 ここまで言われて話を聞かないなんて、そんなのは男じゃないだろう。それに、あれは僕だって悪かったんだ。謝らなければならないのは僕のほう。でも今は、少し傲慢になっていよう。それが彼女にとって一番楽なのなら。今は被害者面をしていよう、それが彼女にとって一番安心できるのなら。

 と。

『ん、八代、聞こえてるかな?』

「!?」

 唐突に、僕の頭の中にぼんやりと響き渡る声。この感じ、フーとおんなじだ。だがその声はフーのそれではなく、上半身だけを起こして女の子座りで居る畑中のほんの数十センチ後ろで、視線を一直線に僕へと送っている少女のそれ。

『あー、あー、こちら愛乃。こちら愛乃。本日は反吐が出るほど大晴天なり、どうぞー。……なんてね? 返事はしちゃだめだよ、そのまま穂波ちゃんと会話を続けて』

 なんだこれは……どうして畑中は気づかない。表情を変えないまま、思考する。

『ん、今私の声は限定的に、君だけに届いているの。残念だけど穂波ちゃんもそんなに疲弊してちゃ、精神濃度を落とした私の存在を感じ取ることはできないと思うよ。疲労困憊って感じだね。ってまあ、やったのは私とお父さんなんだけどさ』

 僕は、何も言わない。いや、言えなかった。僕にはもはや、冷静で客観的な判断が効かなくなっていたから。ここは須原の言葉に従うしかないと、そう思ったからだ。じわじわと、頭が熱い。夏の熱線で素焼にされているせいもあるだろうが、どちらかというとこれは知恵熱に近いオーバーヒートである。畜生、今は何をするにも黙って見ていろということか?

「私の兄が七年前に亡くなったというお話は以前ちらっとしましたよね」

「お……おう」

 気持ち半分挙動不審な僕だった。ここまで来て演技を通せというのも辛いものがあるがしかし、畑中も畑中で僕の様相にそこまで注意を払えるような状態ではなさそうで、なんというか、だるそうだ。僕と会話などしていて大丈夫なのか。

「実はその理由――兄が死んだ理由ですが――は、私は詳しく聴いていなかったんです。大まかには、任務中の事故だと聴かされていました。ですが、それ以上の説明はありませんでしたし、私も、突っ込んでは聴けませんでした。何をどうしようと兄が帰ってこないのはもう、分かっていましたから」

 同僚に殺された。とは言えなかったのだろう。そんな事を素直に明かしたりすれば、幼い畑中に少なからず悪い影響を与えただろうから。例えば――復讐。そんなものを思い立ってたかもしれない。大いにあり得る話ではないだろうか。まあ本当にそんな理由で龍ちゃんや美鈴さんが畑中に真実を告げなかったかどうかは、実際のところは分からない。

「私は、悲しかったというより、不思議でした。たった一人の肉親を失う……なんて、私にはわからなかったんです。いえ、わかろうとしなかったと言った方が正しいかもしれませんね。どちらにせよ、実感といったものは一切湧いてきませんでした。今は、素直に辛いと感じられますけれど」

 畑中の目が一瞬、哀切の潤びに揺らいだ。

「その頃の私はまだ、魔術なんてものはてんで扱えませんでした。全くの素人で、魔導師の片鱗もなかったんです。兄に何度教えを乞うてみても、頑として私に手ほどきしてくれることはありませんでしたし。その兄が亡くなってから、龍や美鈴姉もやっぱり、私に魔術を教えてはくれませんでした。だけど私は兄のようになりたかったんです。尊敬していたから。……だから」

 畑中は続ける。

「私は探しました。私に魔術を教えてくれる人を。でも探すと言っても、小学生一人で出来る範囲なんて限られてたんです。そもそも探し方だって分かりませんでしたから、ほとんど手探りで、兄のことを知っていた人間を当たりました」

「それで?」

「だめでしたね」

 彼女は遠くを見た。

「何の情報も入って来ませんでした。ガッカリでしたよ。結局、兄に近づくこともできないのかな、って。実のところ、私はそれで気を紛らせていたんだと思います。そんな風に思った途端、私は、気づいてしまったんでしょう。私は――世界でたった一人ぼっちなんだって。もうこの世界のどこを探しても、兄には決して会えないんだ……って」

 畑中はきっと、見えない涙を流していただろう。

 それが畑中の崩壊の理由。

 世界でたった一人ぼっち、か。

 なんだかんだ、人が生きて正常でいるということは、人との繋がりがある、ということに他ならない。人の為に生き、人の為に死ぬ。それに当然、天才でもないただの人間が本当の意味で孤独になったりすれば、人間は自分を保てない。壊れてしまう。驚くほどに、あっさりと。何故ならそれが人が人たる所以、その存在を支える最高に強固な柱だからだ。人間は一人では生きていけない。これは物理的、物質的意味を越えて真理を突いていると僕は思う。……言葉でうまく言い表すことはできないけど。

 そういう観点から眺めれば、裏の世界、というものの説明に関してはすごく合理的に納得できた。裏の世界とは、表と一方的に『繋がれているだけ』の世界。表の世界が混乱に陥れば、消えてなくなる世界。繋がりを一度失くしてしまえば、もう二度と元には戻れない世界。

 終わる世界。

 魔導師はみんな、一度は壊れている。だけどそれでも、壊れている人間同士という共通項で括りだせば、まだかろうじて繋がりを作ることはできる。しかしそんな人間ばかりが集まった世界は決して、壊れていない人間と完全なつながりを持つことができない。何故ならそこには、もはや共通項と呼べるものが一つも存在しないからだ。

 裏の世界というのは、そういう世界だ。そういう危うい世界。繋がりのない世界。

 そんな世界で暮らす畑中だから、彼女は自身をそんな風に評したのだろう。

 壊れている、だなんて。

 だけど、僕と畑中のそれは質が違う。どちらの方が優れているとか劣っているとかそういうことを言いたいんじゃなく、そもそも彼女と僕では決定的に違うのだ。

 畑中は、真に愛を注いでくれる人間を亡くした。それは受動的な孤立だ。

 だが僕は違う。

 僕は、自分から孤立した。天才を演じるために、そうならねばならなかったのだ。自発的な、能動的な孤立。尤もながら、もともとそういう人間だったことは否定しない。しないがしかし。僕は天才でなかった以上僕である為に世界との繋がりが必要だった。それが僕にとっての勉強だったのかもしれない。少なくとも僕は、そういう手段で世界と繋がっていた。そしてそれを断ち切った。だから僕は、壊れた。壊れる以外の選択肢を、ねじ切った。絶対的な孤独の底へ、等身大で落ちていく。それが僕の選んだ「生き方」だったんだ。

 だから畑中。君は違ったじゃないか。そうだろう?

 繋がりを求める限り、人は絶対に一人ぼっちになったりしない。少なくとも畑中みたいな美少女を放っておくはずがない。神は平等に不平等で、そして畑中には甘いはずで。だから君は、そう錯覚しただけなんだ。

 受け皿の問題じゃない。

 こちらから差し出すものがあるかないかが問題なんだ。

 僕はそれを断ち切り、そして畑中はそれを失くさなかった。

 ここに決定的な違いが存在する。

 君はそれに気づくこともないのだろうけれど、僕は知っている。世界中で他の誰が気づいていないとしても、僕は気づいている。君は壊れてなんかいない。君は一人じゃない。君を一人ぼっちになんかしたりしない。いや、それに、僕以外にもそれに気づいている人間はいるだろう。だからきっと、そんな思い込みを無くすまであきらめない。

 だから僕は君の――

 ……あれ……。

「……」

 ……何を考えてるんだろう、僕は。

「そんな時でした」

 ハッとする。ハッとして、顔が熱くなった。

「……? どうしました?」

「え、え、あ。いや、なんでもない。続けて」

「そうですか?」

『そんな時、穂波ちゃんは一人の女の子に出会ったの』

「!」

 須原の声が、二人の声の間に割って入る。

「私は、一人の女の子に出会ったんです」

 僕は顔面の筋肉が変に動かないようにするのに苦労した。まさか、畑中の喋る内容と一致しているぞ? どういうわけだ。

『私は彼女にとりついたメルシングだよ。そんなのは知ってるの、全部ね』

「……」

 なるほどね。

「それでそれは誰なんだ?」

『「須原愛乃」』

 二人の声が、ぴったり重なって僕の耳朶を打った。

「……へえ」

 正直、予想もついていたが、多少の動揺は仕方がないものかな。

「八代君は気づいていなかったかもしれないけれど……彼女はメルシングでした」

「……それは驚きだな」

「って、それも思い出したんですけどね。気付いたのは猫耳のメルシングを捕らえた時。彼女は封印術と結界術を合わせて使って、私の記憶にフィルタをかけていたんです」

「ああ……そうだったのか」

 ごめん、それ知ってる。

「とにかく、須原は私に近づいてきて、私を誘いました。魔法を学びたくはないか? と」

 畑中に魔術を教えたのは、須原だったということか。なんとまあ。しかしそれは一体どういうことだ?

『メルシングが術を使えないのは知識がないからじゃないんだ。もっと大事な何かが欠けているから。だから知識を教えるだけなら、私にも出来るの。……可哀そうで、見てられなくなってさ。これからはもう天涯孤独だと勘違いした娘なんて』

 それだけなのだろうか?

 須原愛乃と畑中勇。同じ高校で、同じ二年生。そして男と女。となればそこに芽生えるものが必ずしも友情だけとは限らない。なあ須原。君が何故父親ではなく、畑中勇についたのか、今の僕にはなんとなく解る気がするな。

『ま、八代にはお見通しかな。アハハ』

「どうだろうね」

「はい?」

「え、あ。いや、なんでもない。続けて」

「……えと。それで。須原から、ことの真相を聞きました」

「……!」

 なんだと? 待て、それだとおかしなことになるぞ……いろいろおかしなことに。畑中が真相を知っていたのなら、全てが崩れる。前提条件が狂った問題は解くことができない。

 しかし次に、畑中はこう言った。

「兄は、メルシングを殺そうとしなかった。そのせいで、封じ屋にはいられなくなった、って。執行者はそういう存在だって、聞かされました」

「………………え?」

 時と心臓の両方が止まったかと思った。

 畑中は何て言った? それは、まるっきり事実とは違うことじゃあないのか? つまり畑中勇は、メルシングを殺せない=役立たずとみなされ、そして執行人とやらに、殺された……こういうことになるのか。

 いや、待て。待てよ。

 頭が急激に冴えてくる。脳みその細胞一つ一つが白銀に煌めいて、フル回転し始める。

「だけど私も、もう須原を殺すことなんてできませんでした。メルシングだって生きていると思ってしまったらもう、彼女を亡き者にすることなんて絶対にできませんでした。だから、須原に忘れさせてもらっていたんです。そうすれば、他のメルシングを殺すことができるんじゃないかって……でも、それもやはり、出来なかった。もっと心の奥底で、メルシングと和解できると、そんな考えがあったのかもしれません。その腕輪のメルシングも、結局殺すことはできませんでしたから」

 畑中はじゃあ、メルシングを殺さないということ、その行為自体が死につながると――そう須原から聞かされていたというのか? しかしおそらくそう吹き込むように命じたのはジョーカーに違いない。だとすると畑中にそう思い込ませたのはジョーカーということになる。

 急激に、輪郭がはっきりしてくる。全てが、見えてくる。俯瞰出来て、像がくっきりとしてくる。

 まさか――まさか。

 そういうことなのか?

 まさかジョーカーは――畑中勇は、奴の狙いは。

「それで……この任務を任されたんです。八代君を守りきることができれば、あるいはジョーカーを捕まえることができれば。私が有用である軌跡を残すことができれば、執行者の裁きを受けることはない。でもそれもうまくはいきませんでした。貴方にここまで迷惑をかけてしまったし、それにジョーカーを捕まえることもできませんでした……」

 じゃあ、それじゃあ、あの言葉の意味は――真実は。

『ねえ、八代。私、ジョーカーから君に対していくつか伝言を預かっているの。それじゃあ時間もないし、言うね』

「!」

 待て、待ってくれ。

 まだ、まだだめだ。心の準備が全くできていないぞ。僕の中の「僕」は、七年前から一歩も進んでいない……準備運動が必要なんだ!

「……ねえ、八代君。その腕輪ね」

「え?」

『こんにちは、無才尚未だ。いや、今はジョーカーと名乗った方が適切だがね』

「っ!」

 く、二人とも勝手にぺちゃくちゃ喋りやがって。

「それ、私の兄の形見なんです」

 え。

 僕は、一瞬毒気を抜かれたように目を丸くする。

「……なんだって?」

「本当は……ずっと分かってました。本当にこれだけはずっと、覚えていました。その腕輪が兄の物だったってことは。だけどなんだか恥ずかしくて。それを八代君がつけているのが」

「……そう、だったのか」

 じゃあ、この腕輪にも意味はあったんじゃないか。彼女がこの腕輪に固執していた理由がやっとわかった。そういうことだったのか。

 なんだ、意味はあったんじゃないか。

『あんな風に私に声をかけたのは君が初めてだったよ。なんともスリリングだった。残念なことに当時の私はそれを利用する程度の能しかなかったが』

 須原は僕が口を挟めないのをいいことに、滔々と続けた。一方で畑中にアッパーを食らい、もう一方で須原からフックを食らう。既に僕はボコボコである。

「ふふ……似合ってて、なんだか似てるんです」

「君の兄にか?」

 それは――今となってはそうだろうと思う、としか言いようがない話だが。

『だから君には悪いことをした……私を『殺させてしまった』のだからな』

 須原の発する一言一言が鋭い氷の刃と化し、どこか胸の奥の、焼きたてのグラタンの表面みたいにぐずってる僕の「僕」の部分を刺激して、ずきずきと煮えたぎるような痛みを誘発する。

「ええ。顔も声も全然似てないんですけどね……でも、どこか同じものを感じて」

 畑中は僕を見つめながら、懐かしむような顔をした。

「そりゃ光栄だね……」

『だから君には、もう私の皮を被っているのはやめてほしいのだ。だからこれは命令でも何でもない、お願いだ、嘆願だ、懇願だ』

 光が、目の裏をほとばしる。瞬きの間のほんのひと時の間に、数千万もの赤と緑の光線が瞼の裏を飛び交って僕に太陽の眩しさを感じさせた。

 ジョーカー、それはどういう意味なんだ?

「私は……私はね、八代君」

『君は君を生きろ。私を生きるな。それは生きていないのと同じことだ。死んだ人間をも下回って君の存在をはく奪している。いいか、勘違いをするな。……君は生きていていいんだ』

 頭を、脳みそごと強く揺さぶられる。ぐわんぐわんと、僕の人生が回転した。

「多分、単純に、その腕輪を守りたいとか、死にたくないとか、そういう想いだけでこの仕事をやってきたんじゃないと思うんです」

 僕は、畑中に答えられない。

『君は、君の為に笑ってくれる人間の為に生きろ。そして君の為に生きてくれる人間の為に、笑え。それだけが君の成すべきことだ。天才とは、そういう人間のことだ。君は天才になれ。そして君になれるのは君しかいない。天才の君に、君がなれ』

 心は、いろんな想いで溢れている。溢れ返っている。そんな熱い想いの洪水で、とっくの昔に床上浸水してしまっていた。

 須原――いや、ジョーカー。あなたは……あなたって人は!

「私は多分……次の機会に執行人に殺されるでしょうね」

 違う、いや、何を言っている、畑中。

 間違っているぞ、何もかも違う!

『もう一度だけ言おう。君は、生きていていいんだ。生涯、君の思う道化を思うままに演じろ、それが君に与えられた天命だ。君はそういう人間になって、そして生きろ。下らないプライドは捨ててしまえ。プライドポテトにでもして食べてしまえばいい。以上だ。グッドラック、ジョーカー君』

 須原はそうやって台詞を締めくくった。

 ジョーカー。

 ジョーカー、ああ。

 プライドポテトには思わず少し、笑ってしまった。

 道化。冗句を口にする人間、JOKER。それが僕。

 でも、僕は僕、僕以外の何物でもない。だけどそんなの当たり前。

 そしてそんな当たり前が、ほんの数十分前の僕にはなかっただけの話。新しい、当たり前だ。当たり前が、新しい。

 僕は、僕は。

 僕は生きていても、

 いいのか?

「だから八代君、私は今ここで、あなたに言わなければなりませんね」

 何を? 何を言わなければならないんだ、畑中。

『それじゃあ八代。そろそろ時間だから』

 頭がぐるぐる回る、目もまわる、耳もまわるし、口もまわる。命が回り、人生が回り、人間が回り、僕は世界を回る。

 須原は、一歩、畑中から離れて後ろに退いた。

「私は、あなたのことが」

 そして、須原のその綺麗な手に握られていたのは――

 チッ……やっぱりそういうことかよ!

「畑中!」

 僕は。

 僕は、変な体勢のまま、

 思い切り畑中を抱きしめた。

 この腕いっぱいに彼女を感じた。彼女の温かみを、彼女の重みを、彼女の香を、彼女の鼓動を、彼女の存在全てを僕の存在全てで感じ取った。胸板に彼女の頭部が当たっているのを感じる。彼女の小さな息遣いが、聞こえる。

 ぎゅ、と抱きしめて。

「……え、えっ? え、や、八代君?」

 ああ、恥ずかしそうにしている君もやっぱり可愛い。今ならナチュラルに。言わせられる台詞じゃなく、口から流れ出るだろう。そんな台詞が。でもそんなものを口にしている暇はなかった。

 僕はそのまま、彼女の身体を抱きしめたまま、ぐるりと。

 二人の位置を入れ替える。

「ごめんな畑中」

「ややや、八代君? え? え?」

「ごめん……」

 もう一度、その存在が砂のように崩れ落ちないように、風のように吹き去っていかないように、水のように流れ落ちていかないように、ぎゅっと、さっきよりももっと力を込めて、抱きしめる。

 君が、愛おしい。だから。

「ごめん……」

 すべてに。ごめん。

 僕の為に笑ってくれて、ごめん。

 僕の為に泣いてくれて、ごめん。

 僕の為に闘ってくれて、ごめん。

 僕の為に怒ってくれて、ごめん。

 すべてに、ありがとう。

 僕を守ってくれて、ありがとう。

 一緒に居てくれて、ありがとう。

 話を聞いてくれて、ありがとう。

 僕を愛してくれて、ありがとう。

 だけど。

「一番はやっぱり、いきなりこんなことしてごめん――だよな」

 トンネルは、途中工事で終わったようだった。

 まあ、そりゃあそうだろう。

 そしてああ、やっぱり痛いや。

「え、あの……八代君? 苦しいですよ。放して……下さい」

 熱いし、痛い。でも、彼女の代わりに僕が傷つくのなら、我慢できる。

 チクショウ、最後までジョーカーの――畑中勇の計算ずくだったわけだ。わかっていたこととはいえ、やっぱり少し悔しいな。

「……え?」

 畑中は、ようやくソレに気づいたのか、驚いたように声を上げた。

「これって、八代君……え、どういう、こと?」

 僕の背中、正確には脇腹付近に開いた穴から、沸騰したみたいに熱い液体がどくどくと流れていく。その色は、龍ちゃんが見せてくれたマナのインクよりもずっと赤い、本物の紅だった。そしてやけどしそうなくらいに熱い。

 ああ、痛いな。少し甘く見ていた。

 やっぱり痛いものは痛い。気が飛びそうだった。

「悪いな……須原」

 だけど僕は乱れてきた呼吸を整えることもなく、僕の脇腹に刺さったナイフを握ったままの須原に言う。

 これだけは言う。

 絶対に言う。

 これは、僕の意思で言わなければならないことだ。



「君に畑中は、殺させない…………ッ!」



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