3.魔法なんだ
目を覚まして最初に視界を占めたのは、記憶にない薄汚れた大理石の天井だった。
まず右足を動かしてみる。問題なく動く。
それに関して深く考えるよりもまず、ありったけの不安が泉の如く湧きだした。
今は何時で、ここはどこで、そして僕はどうなった。
起き上がってみるとベッドの上というわけでもない。どうやらソファーの上らしいが、ところどころ黒ずんだり破けて中の綿が飛び出したりしているぼろぼろの鼠色の布は、ざらざらして決して気持ちがいいと言える感触ではない。
次に右手を見る。縹色の腕輪は変わらずそこにあった。それを確認してほっとしたのもつかの間、ぶつけようのない怒りが沸き起こり、僕は右手で拳を作ってソファーに叩きつけた。この腕輪のせいだ。
あまりに理不尽。あまりに不可抗力。この腕輪のせいだ。
今この瞬間自分が危険か安全かはともかくとして、僕が通常通りの生活を送れていないのは目に見えて明らかだ。どれもこれも、この腕輪のせいだ。
この腕輪に持ち主がいるのなら、いやいなくても、こんなものはさっさと手放してしまうのが目下僕が幸福に近づくための最善の策に違いない。
服は制服のままだった。シャツが若干湿っているのはおそらく、寝ているうちに掻いたものではなく、さっきの畑中とのごたごたのせいでだろう。空調設備の類は見当たらないが、部屋の中は十分すぎるほど涼しかった。どれだけ眠っていたかはわからないが、ひょっとしたら時間はあまり経っていないのかもしれない。
ていうか、なんで寝てたんだ? 僕。
寝起きということもあってか頭がぼうっとしていて、畑中に追いかけられたあたりまでしかハッキリとは思いだせない。必死で何かをつかんだような気はするけれど、何がどうなって僕が今ここに横たわっているのか得心出来るほどの記憶が累積していなかった。
「……!」
そうだ、畑中はどこだ。
見渡すと、そこは五メートル四方程度の小部屋のようだった。僕の乗っているソファーの他にはパイプ椅子が二脚と丸い大理石のテーブルが反対の壁寄りに一つ、そしてその上にコップが三個とポットが一つ。椅子が二つしかないのにコップは三つあるのというのが生理的に気に入らなかったが、些細なことは無視して立ちあがる。運動靴が大理石の床を踏みしめてコツンと静かな音をたてた。
どうやら部屋の中には畑中はいないようである。見逃すほどのスペースはこの小部屋にはない。それを理解し、無意識のうちにほっと息が洩れた。
となると僕は勝手にこの部屋を出てもいいものなのか。天井四隅の無機質なライトに照らされて浮かび上がる床まで白い部屋には、ソファーも机も接していない壁が二つある。首を回して見るまでもなく、その両方に同じような金属製のドアが付いていた。この部屋は、正面の机を眺めていても両側の壁が視界のギリギリに入る程度の広さだ。
歩き寄って一つのドアの前に立って前屈みになって見ると、そのドアの右横のちょうど目線の位置に、小さめの字で「表」と彫られている。窓のない部屋だから方角が書いてるのならわからなくもないが、表ってなんだ? 外に出るためのドアということなのか。
変な部屋だな。とか思いつつ僕は冷たいノブに手をかけた。警戒していたダーツが後ろから飛んでくるということもなく、動作は実にスムーズに行われる。まわして引いてみるが、どうにも開く様子がない。ガチャガチャと押したり引いたりしてみるが、カギがかかってるらしい。
ま、不用心じゃないのは結構なことだ。
それを開けるのは諦めて反対側に行ってみると、今度はドアの横に「裏」と彫られていた。反対側のドアのものと呼応する文字なのだろう。ドア自体は何の変哲もない無機質な光沢を放つ開き戸で、怪しもうにも不審点と言えるようなところはみつからない。首を一つ捻って、「裏」という言葉の意味がわからないまま、僕はまたノブに手をかけた。まわして引いてみるが、開かない。
開かない。
「……ちょっとまて」
焦って押したり引いたり、仕舞いには引き戸のように手をかけて開けようと試みたがドアはびくともしない。
軟禁。誘拐。殺人。
そんな物騒な言葉たちがが愉快そうに笑いながら、颯爽と脳裏を駆け抜ける。いや、冗談ではすまされないかもしれないのだ。しばらく呆然とした後、僕はソファーへ惰弱に座りなおした。相変わらずの固いクッションが腰を受け止める。
携帯も腕時計も持ってない上に部屋の中にも時計は見当たらないが、いつもなら夕飯を食べている時間なのだろう、腹の虫がなんとも空しく情けない鳴き声を上げた。これではドアを強行突破しようにも気力不足甚だしい。
通学カバンも手元に存在しないという事実にそこで気づく。これってよくよく考えると、いやよく考えなくても結構やばい状況なんじゃないのか? そうは思うのだが、折れかけた心には実感が追い付いてこない。
困った時のいつもの癖で右手を額に当て、何度目になるのか僕は腕輪の存在を知覚した。ふと思い出して手首を裏返し、掌を自分の側に向けててみる。
Killer is now god.
「殺し屋は今、神である。か?」
腕輪にはこれまたずいぶんと奇怪で意味不明な詞が、目をこらさなければ読めないほど細かい文字で彫られていた。「一人殺せば犯罪者だが、百人殺せば英雄になる」とかなんとか、そんな感じの格言がぽっと頭に浮かんだが、これとそれとはおそらく無関係だ。そもそも腕輪に彫られている文のほうは「神」だし、その理論で行くならば神になるまで何人殺せばいいのだという話になる。大体、人を殺して神になるだなんてそんな不謹慎な話があってたまるか。大目に見てみたところで、これが脱出のカギになるとはどうにも考えにくい。
要するに手詰まりというわけで。
体を横にしてソファーに預けながら僕は途方に暮れた。不自然なまでに冷静でいられるのも思考力が低下しているからだろうか。例えそうじゃなくても既に流れに身を任せる覚悟はできている体である、今更焦ってみたところでこの状況がどうにかなる訳もないだろう。
することもない僕はぼんやりと、天井から降る光に腕輪を透かしていた。白く無機質な光が蒼い腕輪を通ると、それはまるで光のジェネレータであるかのようにキラキラと有機質な輝きを放つ。神秘的なそれを見ていると綺麗だ、と思えた。もう少し憎たらしくない出会い方をしていれば素直に好きになれただろうに。もし店にでも並んでいれば、値段にもよるが部屋に飾っていただろう。
でもなんだろうな、この彫られている文字の筆跡、どこか見覚えがあるような。どこで見たんだろう――
「……思いだせないな」
諦めが早いのは大して熟考する気もないからであり、余裕があるならばもっとじっくり眺めて、記憶の棚の引き出しを端から端までひっかきまわしていただろうけど、それをするには僕は落ち込み過ぎていた。もうしばらくだけそれを眺めてから、しびれてきた腕の力を抜いて体側にブラリと垂らす。反対側にあった机の横のパイプ椅子に男が座っていた。
「…………」
時を移さずしてソファーから跳ね起きる。
あんなとこに人がいたか、否、いなかった。だとしたらドアを開けて入ってきたのだろう、それで僕が一人でソファーを独占しているのを発見しパイプ椅子に座ったということになる。だがそれに気づかないまでに集中して腕輪を眺めていたつもりはこれっぽっちもない。
「あ……の」
とっさに口を開いてはみたが、何も言葉にすることができずに、僕は頭を掻いた。
「やあ、元気そうじゃない。お兄さんも安心したよ」
普段ならソファーに座ったままというのは無礼だと立ち上がるところだが、だらしなく机に頬杖をついたまま、どうも立とうという気を起させない独特のテンポで話しかけてくる金髪の男。
変な奴だ。
何かを特別に見るまでもなく、聞くまでもなく、僕はそう思った。六月だというのにファスナー付きの長袖トレーナーを着用し、それなのに下は半ズボンで、さらに靴下も履かずに革靴を履いている。ハーフなのか外人なのかはわからないが、量の多い綺麗な金髪がミスマッチさを助長していて、見れば見るほどヘンテコな恰好だった。その上流暢に日本語を話されると聴覚的にもズレを感じるわけで、僕の記憶が正しい限りではこんな人間に今まで出会った覚えは一切ない。ファーストインプレッションのみで、警察関係者の線は消去できる。こんな人間が警察関係者にいるなんて、嫌だ。国家権力は威厳のある組織であってほしいというのは一日本国民としての至当な願いである。
細い眼の中に光るグレーがかった深緑の瞳が、じっくりとこちらを眺めている。いや、こういうのはただ眺めるというより、何かを観察するような目つきと言った方が正しいだろうか。じろじろと、舐め回すような視線。
「あの、失礼ですが」
「あぁ! 失礼失礼、全く失礼だよ初対面の相手をじろじろ見るなんて実に失礼なことだ、本当失礼だよねえ、ごめんよっ!」
にこやかに早口で畳みかけるように返すなり、男は僕の目に視線を固定した。
う、これはこれでやりにくいぞ。というかまだ僕の発言は途中だったんだけど。さらにどうでもいいが、今何回失礼って言ったんだ? 思い返しているうちに「失礼」という単語に対してゲシュタルト崩壊を起こしかけた僕は、そこから気を引き剥がすべくもう一度発言を試みた。
「あの、すいません」
「あぁ! そういえば君のカバンだけどね、ちゃんと保管してあるから安心しなよ」
狙ってるとしか思えないタイミングで僕の発言にかぶせてきやががった。インパクトのある喋り出しのせいで、思わず口から出かけた言葉がひっこんでしまう。
めげずにもう一度。
「あの」
「あぁ! ……っと、なんだっけ、にゃはは。何か言おうとしたんだけどなー」
なんだろうか、これは。
「あ」
「あぁ!」
「いうえおおぉおっ!」
ちなみに最後のは、懊悩の蓄積の結果爆裂した僕の柔な精神崩壊の具現である。あぁ! に対抗してやったぞという荒唐無稽な優越感に浸りながら、僕はその意味不明なセリフと共に立ちあがった。
「にゃはははー、冗談だよ、冗談! いやあ、若いっていいよなあ、怒らせても怖くないもんねえ」
笑いながら何言ってるんだろう、この人。軽くどついてもいいだろうか。
しかし、警察でないとしたら僕をこんな部屋に閉じ込めている実行犯かとも思ったが、今の会話(会話か?)から見るに、その線も薄いような肩すかしの印象を受けた。いずれにしろ正体のわからない人間を見た目だけで判定するのは軽率である。
「ま、立てるんだろ? だったらこんな所にいないでこっちにきなよ。話はそれからにしよう、ね?」
金髪の男は、頬杖をついたまま爽やかなウインクを一つ飛ばすという珍技を見せた。
ヘタに関田あたりが同じように振る舞うようなことがあれば、僕と関田との友情が永遠に失われることになりかねないような動作だ。
そして彼は頬杖を解除し、パイプ椅子から立ち上がると、「裏」側の鍵のかかっていたはずのドアに歩み寄って、存外厚みのないそれをあっけなく開ける。やはり彼は鍵を開けてドアから入ってきたということだろうか?
「ごめんねー、なんか閉じ込めるような真似しちゃってさ」
それにしても初対面の僕相手によく喋る男だ。思いつつ、警戒心を解かぬままに僕もソファーから立ち上がり、彼の後ろについて行く。
開かれたドアの先にはここよりもう一回り大きい程度の部屋が見えた。やはり床も天井も大理石続きだったが、それ以外は天井の高さも奥行きも2LDKのリビングといった感じだろうか。入ってすぐの手前側に本棚が設置してあり、部屋の中央には向かって右手に伸びる横長の机が一つ置かれていた。これもご丁寧に大理石製だ。ドアから出た左手伝いにはこれまたしつこく大理石の壁が続いており、5メートルほど行った突き当たりの対する側には、今くぐり抜けたものと同じような型の鉄製のドアが見える。その右隣には食器棚らしきものがあった。
徹底的なまでに、見慣れた物が一つもない部屋。
この無機質な小部屋に今自分がいることでも、既に随分気を張り詰めさせられている。自分がどんな状況かに置かれているかも理解しないまま、そんな部屋にほいほいと踏み込むのは気が退けた。
「ほらほらあ、ぼーっとしてないで入る入る」
先に入った男がぱたぱたと手まねきする。だが、入らないわけにはいかない。僕は思い切ってその部屋に一歩踏み入れ、ようやく僕の日常を一つ見つけることができた。ただ、それが僕にとって精神安定剤になるかどうかは微妙なところだったが。
デーブルのドアのすぐ横にあるでかい本棚の死角になっていた所に、私服に着替えた畑中がついている。
やはり考えなしに部屋に入ったのは迂闊だったかもしれないな、と僕は苦々しく考えた。
一歩踏み込み、そこで足が止まる。見ると、涼しそうな向日葵色のタンクトップだ。制服姿しか見たことがないので視的にも新鮮さを覚える。だがそんなことにはお構いなしに、折り合いの悪いムードが一瞬にして場を支配してしまう。
「あの、畑中」
名前を呼ばれた当人はこちらをチラと見ただけで視線をそっぽへと向けた。なんだ、やや不快感を覚えるしぐさだぞ。
「ほらほら、座って座って」
そんな場の空気など髪の毛一本ほども気にとめない様子で金髪の男が畑中に対する位置の椅子に僕を座らせようとしやがったので、僕はそれを断わって一つ左の席につき、代わりにその男が畑中と対面するように座った。座面は重ね重ね大理石製だった。鉄製の脚が三本ついていて背もたれはなく、当然のように固いため座り心地はよろしくない。いくらインテリアに統一感を出すにしても椅子まで大理石製なのは正直どうなのかな。
ふと目線を下げて、ちょうどその椅子の下に僕の学生カバンが置いてあることに気づく。
この男、僕が結局はここに座ることが分かっていて僕をからかったのか?
男の顔を見るが、そんなことは読み取らせてくれない笑みだった。笑ってはいるが、それはポーカーフェイスの仮面の役割を果たしている。男はニコニコしながら僕と畑中の顔を交互に見ると、再び口を開いた。
「さて。とりあえず二人とも、ケガとかはないかい?」
畑中が相変わらず下を向いたまま口を小さく動かして「ありません」と言い、状況は尚解らないままに一応僕も頷いておいた。少なくともこの男は僕に対して無害に見える。だったら話を聞くくらいは大丈夫だろう、問題ない。
と、そう思ったのがそもそもの間違いだったのだろう。
「そう、よかったよかった。聞きたいことがたくさんあるんだ、八代くん」
教えた覚えのない名前を呼ばれ、僕は小さく驚いた。その様子を察してくれたのか、彼は僕に説明を付け加える。
「あぁ! 名前ね、穂波ちゃんから聞いたよ。君のことは知ってる」
穂波ちゃんというのは畑中のことか。名前で呼ばれるような親しい間柄の男というと家族かボーイフレンドくらいしか思いつかないが、この人がそのどちらかに当てはまるかと言われれば、そのどちらでもないような気がした。
改めて金髪の男を入念に観察する。年齢は二十代前半といったところだろう。畑中は、今まで僕が見ていた限りではだが、そんなに年の離れた男性と交遊するようなタイプだとは思えない。父というのはもっと無茶があるし。兄なら通るかもしれないが、そもそもこの人は日本人には見えない。
ぼんやり頭の裏側でそんなことを考えつつも、僕はまた遮られやしないだろうかと恐る恐る口を開いた。
「あー、貴方の名前も教えていただけるとやりやすいのですが」
「あぁ! お兄さんの名前はね、牧埜宮 清瀧。難しい漢字ばっかりだからね、軽ーく龍ちゃんって呼んでくれればいいんだよー」
あぁ! が口癖らしい金髪の男は、軽ーく自己紹介を済ませてくれた。名前だけ聞くと日本人であるようだ。
「まあ僕のことはいいからさ、まずは君のこといろいろ聞かせてよ。幸いまだ時間もあるしね。穂波ちゃんに聞いてもほとんど全然教えてくれないしさー、イエスかノー程度でいいから質問に答えてくれないかな?」
「は……? はあ、構いませんけど」
僕は呆気なく流された。どうせ取り留めもないことを2、3聞かれる程度だろう。なんて。
甘かった。
牧埜宮 清龍という人間を、当たり前だが僕は知らなかったのだ。折れるのが早すぎたと後悔したのは少し時間が経過してからであるが、そんなものは後の祭もいいところだった。
「んじゃまずはね、名前は? あぁ! フルネームで」
「八代 椎奈です」
そこからですか。
「歳は? 今何年生?」
「一七歳で、高校二年生です」
いや、それはわかるだろ、畑中と同級生なんだし。僕はつい突っ込みたくなったが、押さえておく。
「高校は空が岬高校だね、さすがにそれは知ってるよお。趣味とかはあるの?」
「し、趣味ですか……はあ、まあ、読書とか、ですかね」
なんか訳の分かんない横道に逸れてきたけど、どうすんだろうこれ。
「あぁ! 僕と一緒だー、いいねー趣味読書。なかなか陰キャラな感じだよね!」
「そんなこと言わないで下さいよ!」
平然と酷いこというなこの人! 思わず突っ込んでしまったじゃないか。
「何読むの? 武者小路とか好きだけどなー、お兄さんは。まあいいや、それについては後回し。話し出すと長いしね」
後回しにもしてほしくはなかったが、話が延々伸びないという点においてその延期はありがたいと言えるものだった。
「見た感じ結構華奢だけど実はスポーツは出来る人なんじゃない? そうでしょ?」
「えぇ……まあ、出来なくはないですけど」
どこまで行けばいいんだろう。
「カバディとか得意?」
なんか超マニアックなところ突いてきた!
「え、いや……そんな耳慣れないスポーツはやりませんが」
「だよねー、というかカバディって何?」
逆に聞かれたよ。
「まあ、いいや。たぶんゴディバの仲間かなんかだよね」
もはやそれはスポーツですらない。
「なかなかマルチな人間だね君。勉強もできるでしょ?」
その質問に答えるのに僕は一瞬躊躇し、そしてこう答えた。
「出来ません」
「――へぇ」
淀みなく動かされていた口がピタリと止まり、僕は内心ほっとすると同時に僕は冷やりとした。
「初対面の人間に嘘をつくのは、お兄さんはまあアリだとは思うけどね。別に勉強が出来ることは隠すようなことじゃないんじゃないのかい?」
きっぱりとしたもの言いに僕はいささか動転する。が、それは心のうち深くに押し込めて。
「……別に嘘なんか」
「あぁ! いいんだよー、気にしなくて、全然っ。ごめんね」
謝罪の対象が不鮮明ではあるが、何故か本当に心から悪く思っている様子で謝る龍ちゃんを前にして、僕は話題の切り替えを試みてみた。
「あの、牧埜宮さん。そのことはいいので僕からもいくつか質」
「あぁ! だめだめ、質問は構わないけど、そんな堅っ苦しい呼び方されるとテンション下がっちゃうよ、そりゃもううなぎ下がりさ。龍ちゃんって呼んでくれって言ったじゃない」
うなぎ下がりってなんだろう。あえてそれには突っ込まないでいると、牧埜宮さんは「ほらほら」とか言いながら僕の横腹を肘でつついてくる。なんともやりにくい、なんだろうこの馴れ馴れしさは。初対面だぞ、この人と僕。というか畑中黙って俯いてるのやめてくれないかな、加えてさらにやりにくいんだけど。
「じゃあ牧……龍、ちゃん。質問をさせて頂いてもよろしいですね?」
「うーん、やっぱり敬語も禁止。堅苦しいのはなしで行こう、ね?」
これはこれで僕の緊張をほぐそうと気を使ってくれているのだろうか。もしそのつもりならその試みは盛大に大失敗なのだが、そのことを牧埜宮さん本人に気付かせるほうがよっぽど骨の折れる話だろうと僕は直感的に理解していた。半分自棄になりながら、牧埜宮さんもとい龍ちゃんに会話を合わせることにする。とにかく今はうだうだ言うよりもまず情報が欲しい。
「畑中、君にも聞きたいことはあるけど」
その声にわずかながら反応を見せ顔を上げた畑中だったが、一秒もしないうちに再び俯く。それを目の端でとらえつつ、僕のほうは顔を龍ちゃんの方へと向けなおした。
「とりあえず、大まかで構いませんから」
「敬語」
龍ちゃんが半目になりながらだるそうに指摘をする。絶対僕のほうが数百倍はだるいと思うんだけど、それはまあ口にしない。
「大まかで構わないから、今の僕の状況を説明してくれませんか。くれないか」
肘でつつかれ敬語を訂正する。なんとも珍妙な光景だった。確かにだるいのはだるいのだが、これでイライラしないのだから不思議なものだ。自分がそこまで忍耐強かったとは記憶していない、むしろこの場合は気が長いとでも表現すべきなのだろうけど。ならばこれはこの人の力なのだろうか、ある意味で。
「んー、そうだねえ。今の状況、か」
細い眼をさらに目を細め、うーんと唸りつつ龍ちゃんは左手の人差し指をおでこに当てた。
「そうだなあ」
そのままのポーズで僕に言葉を差し向ける。
「君はさ、ここがどこだかわかる?」
わかっていたら苦労はしない。そもそも目が覚めた時点では、僕は軟禁されていたようなもので身動きがとれない状況下にいたわけなんだ。そのままを口にする。
「わかりません」
「あぁ! だよねえ、やっぱり」
予想通り、といった風に金髪をたなびかせうなずく龍ちゃん。今のは敬語でよかったのだろうか。そしてこの人の『あぁ!』にはいったいどれだけバリエーションがあるのだろう。もうむしろ『あぁ!』だけで世界中の人々と通じ合えそうな気さえする。あぁ! なんてグローバルな言葉なんだ。なんてそんなことを数多く頭に巡らせて、心の淵に浮かんでは消える憐憫の色を紛らしていると、龍ちゃんはにわかに椅子から立ち上がり、机の周囲にそって歩きだした。
「まずね、全然話は飛ぶんだけど。そうだな、まあこれでいっか。説明の前にもう一つだけ質問をさせてもらうね」
言いながら龍ちゃんは本棚(大理石製)の前で立ち止まり、その中から深緑のブックカバーの本を一冊取り出す。
「見ての通り、何の変哲もない本だよ。昨日買ってきたばっかりで、お兄さんはまだ一ページも中身を読んでない。実のところ早く読みたくてうずうずしているんだけどね、あぁ、ちなみに推理小説だよ。シリーズ物だから君も名前くらい知ってるかな? まあそんなことは」
話しながらそれを目線の高さまで持ち上げる。
「どうでもいいんだけどね」
次に龍ちゃんは目を瞑った。
しばらくそのまま動かない彼を見て、いったい何をしているのだろう、と思い始めたころ。
「私に必要なのは懺悔と後悔だ。――うん、最初の一文はこれ」
どういうことだ?
「そういうことだよ、八代君。最初は自分での手で開けたかったけど、いいよ。カバーを外して読んでみてごらん」
横目で畑中の顔色を窺うと、さっきまでの暗い表情はすっかり消え去り、龍ちゃんの持つ本へと熱心な視線が注がれていた。いったいなんだって言うんだろう? 僕は立ち上がり、言われたとおりに本を受け取る。そしてブッカバーから「とある女の軌跡と奇跡」と表紙に書かれた分厚い本を取り出し、一ページ目を開いた。
私に必要なのは懺悔と後悔だ。
一行目にはその文が記されている。
「これはね、ちょっとした」
そして僕が驚くその前に発せられた次の龍ちゃんの発言は、僕の頭に一生残る数少ない言葉の一つになった。
「魔法なんだよ」