37.32号機関
「ま、そんな、まさか、馬鹿な、本当にけ、結界が!?」
真夏の蜃気楼が消え去るようにして、青い障壁は震えながら砕け散っていく。揺らいでいた空間も正常な屈折率と色とを急速に取り戻し、僕は視界が一気に晴れたような錯覚を覚えた。
「うぅん……手遅れだったみたいだね、お父さん」
そんな中、須原はもうだめだとばかりに観念した様子だ。しかし僕の意図を外れて悠然と構えている。
……ん、どういうわけだ?
「な、何を言っている愛乃! い、いやしかし……まさか今までの会話は……出来事も、いや、全て、全てが計算の上での時間稼ぎ……すべてが予定通りだったとでもいうつもりか!?」
対蹠的に、老人のほうは笑止の至りである。声を裏返らせ足元もおぼつかず、悪戯がばれた子供の如くまごつき慌てふためくこと、まさにその最上級を見事なまでに体現してくれていて、見ていて悲しいくらいに滑稽で、だけれど見ていて楽しいくらいに諧謔を弄していた。
勝利を確信する瞬間は確かに甘美な一瞬だが、勝利の余韻は酔うためにあるのではない。省みの為の猶予なのだ。その時間は自身の導き出した回答の検算に回さなければならない。彼にはそれが足りなかったのである。まあ、どれほど用心深いからといって今回ばかりは彼が勝利を手中に収めることなど不可能なのだが。
そしてそれは僕が関与できる問題ですらなかった。
ま、飲んでも飲まれるな、ということで。
「僕を子供だと思ってなめてかかり過ぎなんだよ。僕は子供でも少年でも、ましてやジャンヌダルクでもない」
僕は。
「ジョーカーなんだからさあ」
言って、悪戯っぽく笑ってやる。というかいつの間にか素が出てしまい、タメ口になってしまっているが、気にする必要はないだろう。まあそれもあってか、男の目が怒りと痛撃の反動で痛いほどに見開かれる。
「だ、だがッ! しかし、畑中勇は私が――」
「あんた、思考力もないようだな」
僕は言い捨てる。まあそれもこの状況じゃ無理もないことかもしれないけど。
「考えてみればいい。あんたの娘が今そこに居る理由はなんだ? それは畑中勇の魔術が未完成だったから……だよな」
だったら、さ。
「正義感の強い畑中勇は、次も他人を実験台にしただろうか?」
「…………!」
そんなはずはない、なんて僕は言いきれないけれど、しかしそれが一体どうなのかは、須原星屑本人が最も痛感したらしい。僕は生れてきてから一度として、自分以外がこんな表情を作るのを見たことがない。そんな、打ち負かされた顔。楽しい。
「あんたが奴を殺した時……その魔術が既に完成していたとしたら?」
しかし勿論、これは即席考えのハッタリ三昧だ。
「う……」
それでも彼は、まさしく世界の終わりを見たかのような顔をした。それは、僕にとっての答えでもある。
「くぅっ!」
そんな男の口から出た声は言葉にこそならなかったが、彼の感情は実際、次の瞬間行動になって存分に現れた。男の左手が、僕に向かって突き出され、光る。
ああ、しまった。挑発しすぎたかな、これは。
と。
「はぁい! そこまで!」
「!?」
風が、吹いた。馬鹿みたいに明るい風だった。
星屑がその光源を振り見る間もなく、彼の身体はふわりと浮きあがったかと思うと、僕の視界の右端へ残像を引きそうな勢いでフェードアウトしていく。彼はそのままの体勢で数メートル宙を舞い、手すりの際まで飛ばされてド派手に尻餅をついた。そして。
カツン。カツン。カツン!
男の吹っ飛んだ軌跡を少々あっけにとられて眺めていた僕の背後で、三人分の足音がタイミングもまばらに、停止。
振り返ることもなく、知覚する。
「……四九秒の遅刻。嫌みですか? というかちゃんとドアから出てきました?」
この立ち位置的にドアが開けばさすがに僕でも気づくはずだ。だからこそのこの疑問であり、そして恐らくドアから出てきていないから、というのがそれに対しての専ら有力な理由である。まさかこの人たちも空飛べるとかいうジョークはないだろうな?
ま、そんなことはこの際どうでもいいこと極まりない。
「あぁ! ごめんよ、この猫耳クンが反動でダメージを受けないような術をかけるのに思いのほか手間取っちゃってさあっ。ちょっとだけ遅れちゃった」
この底抜けに明るく、軽いはっちゃけた調子。
「まさかこの俺がお前の為に動くことになるとは思いもしなかったぞ、小僧」
この自信たっぷりに人を見下す威圧感。
「さぁて……鞭打ちがいいかしら、それとも電流責めかしら? どちらにしろ吊るしは必須ね」
この不気味なまでに楽しそうに拷問内容を喜々と決定する暗黒の微笑み。
振り返ることもなく、知覚出来る。僕は。
「ハッタリで時間を持たせるっていうのも案外疲れるんでね……後はあなた方に任せさせてもらって構いませんよね『32号機関』の皆さん?」
言った。
カツン。
そして足並みが、今度は揃う。僕と横列に一直線上、心強い味方が僕と並び立つ。向かって右から順に、美鈴さん、僕、龍ちゃん、猫耳。また、風が吹いた。夏の風だ。
「任されちゃうよぉ!」
「不本意ながらだがな」
「私への貸しは高くつくわよ」
右から聞こえてきた最後の台詞だけに何故か鳥肌が立ったので僕は左を見る。そして龍ちゃんの金髪と目を細めたその笑顔が、太陽みたいに煌めいているのを確認し、再び前を振り向けば。
男がいない。
「逃がすかぁっ!」
と不意を打って僕の右隣から飛んだのは、美鈴さんのドスの効いた怒号だった。その左手が僕の頭をぶん殴りそうな軌道で大ぶりに振り回される。危ない。
「せええりゃあああああっ!」
そこは呪文じゃないのか。
という突っ込みはまあ、置いておくとして。その指先から白く輝く糸が飛び出し、それぞれが意思を持った生き物であるかのように空を切ってヒュンとしなる。
「ぐっ!?」
次の瞬間、さっきとは逆に何も存在していなかったはずの空中から、その輝く糸に絡めとられて男が捕縛され、
「かはっ!」
屋上の床に思い切り叩きつけられた。
「私だって伊達に追跡術師やってるんじゃないのよ……あの程度の子供騙しでこの私を撒けるとでも? 今も昔も考えが甘いわよ、このクソジジイが」
氷の女王みたいなうすら寒い笑みを顔に張り付けた美鈴さんがその糸の絡みついた左手を握りしめると。
「……あぐ……」
五本の光のロープがピンと張られ、それはまるで磔刑にかけられた罪人の如く須原星屑を持ち上げ、締め上げる。
「あぁ! だめだよー、美鈴姉ぇ。まだ殺しちゃだめ……だめだからねっ?」
まだ殺しちゃだめ。龍ちゃんはにこにこと笑いながら、そんなことを言う。親がその子供に対して、おもちゃは大切に扱え、とそんな風に諭すが如く。その楽しささえ垣間見えるような無邪気な声色に、僕は怖気を覚えた。一言で言い表すなら、ぞっとした。やはり、この人たちは普通じゃないのだと、あまりにも今更ながらそんな感懐を抱く。
「安心しろ小僧。貴様も相当『普通』ではない」
猫耳のメルシングがピンポイントで僕の心を読んだかのように、そんなことを口走ってくれた。……どいつもこいつも、心中ご察しいたしますってか?
「ふん、いい加減理解した方がいい」
何をだよ?
「お前の顔面は相当感情の起伏が豊かだという事実をな」
猫髭のついた凛々しい顔は、龍ちゃんの左隣で前を向いたままだ。
「……言われるまでもなくこれはわざとやってるんだよ。口で喋るよりもずっと伝わり易いし、その分僕は楽ができる。表情ってのはペルソナだ、つけ替えるだけで抽象化された概念を簡単に扱えるんだから。僕はそれを実践してるだけさ。だから別に、心を読まれるっていうのは半分冗句として捉えてほしいものだね」
ま、それを除いても君らは僕の心をズバズバ当てすぎだ、と思わなくもないが。
「はっ、興味ないな。俺は抽象論は大嫌いだ」
そうかい。なら君は僕とは気が合わないね。
「おい、金髪。俺はもう用済みだろう? この状況からの脱出を試みたとてその存在を消されることはあるまいな」
「あぁ! わざわざ手を貸してくれてありがとうね」
龍ちゃんははきはきと返した。
「……よく言う。散々脅しておいて」
「んー? なんのことかなぁ、お兄さん全然覚えがないよぅ」
龍ちゃんははきはきととぼけた。こういうところがこの人の強みか。
「ま、そういうことだからね、お疲れ様っ」
そう言うが早いか、猫耳のメルシングはもはや僕の視界から消滅していた。そういえば龍ちゃんや畑中もこういう消え方するけど、あれはどうやってるんだろう。
と、ここで再び意識を美鈴さんらに戻す。
「貴様ら……ゆ、許さん、ぞ……、32号機関……またも私を、がああっ!」
恨みがましい台詞が故に、さらに男は縛される。苦悶の声が須原星屑の喉から絞り出された。
「黙れっつってんのが聞こえないの?」
いや、言ってねえよ。
という突っ込みはまあ、置いておくとして。僕は美鈴さんのさらに向こう、未だ僕の発動させた術式によって固まったままの少年に目を遣る。
「……あれもどうにかしてほしいものだけど」
なんというか、オブジェとして置いておくにしては少々不気味すぎる感がある。
「んー? あぁ! 彼か。うーん、彼にも悪いことしちゃったよ」
龍ちゃんはライオンの鬣の頭をなびかせながら僕の後ろを回って少年の体躯へと近づいた。同時に、美鈴さんが一歩ずつ、縛られたままの須原父との距離を詰めていく。
「あら……逃げないのかしら? それとも逃げられないの? あるいは現在進行形で老体に鞭打って逃亡策を練っているのかしらね。だとすればその鞭は私が打ってあげるわよ、ほら、遠慮はいらないから」
他人に打たれる鞭は痛いだけである。
「あら、馬は喜び勇んで走り出すわ」
……それはいろいろと間違っていると思いますよ。
「愛乃、私を裏切ったな……いや、端から……二重スパイだったのか……既にジョーカーの手篭めにされていたというわけだな……ふふ、ふ……なんて愚かな」
二重スパイ。憔悴した須原星屑の口からは、そんな単語が漏れた。須原愛乃がジョーカーの下で動いていたのはそもそも星屑の命令だったが、しかしそれすらも逆にジョーカーによる指示――須原星屑に対しては味方であるように振舞いながらもその動向をジョーカーに伝える役目を果たしていた、ということだろうか。だから、二重スパイ。
…………。
いや。そうであるのなら、どうして。
「人聞きの悪いことを嘯くのはやめてくれるかな? お父さん。私はこの通り、白旗を上げて降伏しているだけ。泥首銜玉って感じ。それが裏切りだというのならあなたも耄碌したと言わざるを得ないね?」
須原は万歳するように両手を上げながら、飄々としている。
「……愛乃……」
「ごちゃごちゃと。往生際が悪いわね。ま、そういう男は嫌いじゃないけれど。ヤり甲斐がある」
ところでさっきから美鈴さんの台詞がいろいろとギリギリな気がするんだけど大丈夫かな。
「おっと!」
僕がそんな須原らのやり取りに気を取られていた時である。背後から、いや正確には右方からそんな声が上がった。龍ちゃんだ。見れば彼の足下に、見たこともない幾何学模様が何やら赤色の輝きを放ちながら、這うようにして迫っている。スピードは速くないが、確実に拡大している様子だ。
その起点は、塑像のようになって固まっている少年の右足。
「あぁ、こういう仕掛けだったわけだ。ぬかったね」
珍しくシリアスで平坦な声音。龍ちゃんはそこから一歩、大幅に飛び退く。
「時限式の結界術――それも転移魔法だね。どうやら八代君の使った術と呼応して完成した感じだよ」
果たして見ただけでそんなことが分かるのだろうか。しかしそれが真実なら、僕もさすがに呆れたと言わざるを得なくなる。彼はそこまで計算ずくだったということになるのだから。
ほんの数秒の間に三段跳びの要領(ただし後ろ向き)で僕の横にまで戻ってきてから、龍ちゃんは声を低く落とした。
「マナの総量と術式の拡大速度から見て――そうだね、この少年を除けば、後三人」
「何がです?」
龍ちゃんは僕を振り返ると、人差し指をピンと立てる。
「三人飲み込むまで拡大し続けるっていう意味。即式解除も厳しそうだし、このままだと一般人まで巻き込むことになっちゃうかもねぇ」
「……何が言いたいんですか」
龍ちゃんは、にやりと笑った。だけれど、眼は笑っていない。あの僕の中身をえぐり出すような灰に緑の混じった眼は、ただただガラス球みたいになっている。
「今ここに居る人間が何人かこの結界術に飲み込まれる必要があるのさ」
飲み込まれるとどうなるんです。
「さあ。ここじゃないどこかに飛ばされることになるだろうねえ。所謂ワープ? まあでも、そんな危険なことを君や穂波ちゃんにさせるわけにはいかないし。そうなると面子は、お兄さんと美鈴姉ぇ、それから須原星屑さん、ということになっちゃう感じかもよ」
「……なっちゃう感じかもですか」
それはつまり、この場に僕と畑中を、いや一番問題なのは須原を残していくということ、だろうか。
え、ダメだろ。
「そいうわけなんで美鈴姉ぇー!」
「え、待って下さい!」
「聞いてたわよM男」
「とんでもない名称で龍ちゃんのこと呼びやがったよこの人!」
って、思わず突っ込んじゃったけど問題はそこじゃない。
「んじゃあ、そこの女の子、愛乃ちゃん? 逃げるなりなんなり好きにしていいから。あ、ちなみに八代君に手を出しちゃだめだからね、そしたら後で美鈴姉ぇに追跡させちゃうから」
「わかったよ。そのお姉さんに追い回されるのは私も嫌」
……おぉ、なんだ。ちゃんと対策を打ってくれるのか。少し安心。
「ちなみに手を出すっていうのは性的な意味でだからね」
「普通に安心させてくれませんかね!?」
頼むからシリアスな場面にギャグを持ち込まないでください。
「面倒臭いわね……折角今からこの男を嬲るところだったのに」
色々と言いたいところですが、あなたはまず嬲るという漢字をもう一度確認すべきですね、美鈴姉ぇ。
「私が二人の男を同時に拷問している図ね」
「斬新すぎる解釈だ!」
美鈴さんの人生は楽しそうだった。世界というものは、彼女にとってはほとんど全てが自分の意のままに作られているのだろう。
「ほら、真ん中のこの女という字、よく見たら椅子に座っている女王様に見えて……」
「こない!」
いくら何でもそれはあまりに酷過ぎる妄想だよ。
「ま、それはそれとして」
けろっとした顔で、美鈴さんはゆっくりと、左手から伸びる光の糸で拘束したままの須原星屑を宙に浮かせたまま連れて、魔法陣の方へと歩み寄る。そうしながら、彼女は口を開いた。
「おいガキ……あんたの夢つーか、目標つーか目的つーか、前言ってたあれ。あれはきちんと果たしなさいよ? 格好悪くても、なんででも、ね」
もう僕らの数寸手前まで範囲を拡大しつつあった赤い魔方陣の一歩手前に立って、美鈴さんは振り返り。
「あんたはジョーカーなんでしょ? だったらババらしく行動することね」
ババらしく。
「……わかりました」
美鈴さんは頷いた。
だけど本当は、この時僕には、その意味は分かっていなかったのだ。
「く、くそ……許さんぞ八代椎奈……次に会った時は必ず……」
「次はないよ、須原星屑」
そして僕の言葉を待たずして、美鈴さんが次の一歩を踏み出した瞬間、彼女と須原星屑の身体は赤い光に包まれ、そしてなんともあっけなく、その後ろ姿が消える。
一瞬の、空白。
それから、黙って眺めていた龍ちゃんはふぅと一つ息をついた。
「……さて、お兄さんも行こうかな」
「待った」
僕はそれを引きとめる。
逃げるように一歩を踏み出そうとした彼を、ここにつなぎとめる。
まだ、あなたには用があるんだ。