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35.椎奈ギミック2

「小物ぉっ? 失礼な奴だなぁぁっ!」

 言葉は無駄に威勢がいいが、彼とて無論只者ではない。ボーイソプラノで喉を痛めそうな大声をあげながらも、空中の少年は僕の掲げた物体から注意深く目を離さない。しかし、それは間違った行動だ。

「フー……支えは、必要ない。一人で……座ってられる」

 片手は高く上げっぱなしのままなんとか胡坐をかき、重心を身体の前に置く。フーは無言のまま僕の背から離れたらしい。

 ちなみに僕の携帯電話のディスプレイには先の仕掛けが施してあるままで、そしてここは燦然と輝く太陽のほぼ真下である。少年が光源と重なっているとはいえ、

「うおぉぉぉぉっ!?」

 彼が直射日光をほとんど直視するという結果に変わりはないのだ。

 少年、君には悪いけど。

「既に――ギミックは完成している」

 そのまま少年は僕に攻撃を加えることなく、真正面に着地する。頭がクラクラしてお星さまとひよこが肩を組んで飛んだり跳ねたりするのでその顔を見上げるような真似は自重しておいたが、少年の動きは気配だけでその荒々しさを感じ取れた。

「へん、なあぁぁぁぁんてなあぁっ! そんなもん、蹴っ飛ばせばいいだけだっ!」

 少年はすぐさま着地の態勢から立ち上がり、無邪気な、それでいて活発な眼で僕を見下ろす。

「だいたいよぉ、今日一日中お前のこと見てたけどぉっ!」

 続いて彼の右足が、シュートでもするかのように後ろへ高く振り上げられ、

「右手で頭を押さえるお前の癖っ! これで一発まるわかりだぜっ、お前右利きだろぉっ!」

 だったらよぉ、という少年の台詞と共にその右足は、振り上げた時と全く同じ軌跡をなぞって振り子のように、猛スピードで僕の右手へと向かった。

「どうせ隙を作るんなら左手で携帯を持っとくんだったよなぁっ! お前みたいなへっぽこアーティストじゃもうなぁんにも出来ねえだろぉぉっ!」

 右手で額を押さえるしぐさ。これは僕の癖。いつからのものかも分からない。でも、自覚は出来ている。

 カン、という気の抜けるような軽い音が、あっけなく僕の右手のけーたいを上空へと吹き飛ばした。同じ衝撃がそのまま右手首にも伝わって、青い腕輪が蒼い尾を曳きながらぶらぶらと揺れる。

 無意識のうちに出てしまうから癖なのであり、癖というものは非常に厄介である。なにせ気付いた時にはもうやってしまっているのだ。

「ひゃっほぉぉう! ちょろいぜっ!」

 利き腕。畑中の説明には少し欠陥があった。いや、彼女とて説明責任を全うしなかったわけではないし、僕に対しての説明としてはそれで十分であったには違いないのだが。

 右手は魔手で、左手は術手。これは正確ではない。

 ところで、魔術書から得た知識をいくらか引用しよう。今この状況に関与する情報をまず先頭に持ってくると、魔導師を志す子供らで左利きのものは、基本的に幼年期に右利きに修正されるのだそうだ。魔術なんてものは言ってしまえば思い込みの成せる技、多人数の共通意識化に動作の統一を図るのもその為の方法の一つなのである。他にも右手で術を放つのは不吉だとか、縁起が悪意だとか、言い伝えや諸説は多くある、らしい。

「お前みたいなへぼい奴は、そこでおねんねしてる姉ちゃんとは違ってよぉ、利き腕さえ押さえときゃあどうってことねえぜっ!」

 少年は山から降りてきた猿みたいに甲高く叫びたてる。

 まあ何が言いたいかといえば、必ずしも右手が魔手と決まっているわけではないということ。

 そして僕は一度、考えてみたことがある。どうして右手で頭を押さえるようになったんだろう? と。それ自体は実にどうでもいい暇潰しだっだのだが、その時はこんな結論に至った。

 左手で作業をしながら、悩むから。

 左手でペンを握りながら思考するからだ。

「別に僕は、苦肉の策を思いつくために冷静になったわけじゃあないぜ」

「あぁ!?」

 少年は驚く。素直に、目を丸くしている。ダイナミックにバク転し、僕から数歩の距離をとったところを見ると、おそらく彼の視界に入ったのだろう。

 紅蓮の煌きに煮えたぎっていた、僕の――

 「左」手の平が。

 冷静にならなければならなかった。この左手の湛える熱された色とは対照的に、冷たい氷に心を窶さなければならなかった。だが、その理由は反撃の当てを検索するためなんかではなく、僕がまだマナを凝縮するという行為そのものに慣れていないから、それを実行に移すための余裕を欲したからに過ぎない。

 残念だったね、少年。

「……僕は左利きだ」

 携帯の鏡も、マナをかき集めるための時間稼ぎにはなってくれた。

「なっ、なんでっ? さっき右手で魔弾撃ってたじゃねえかよっ!」

 大体が元々、利き腕なんてものは人が勝手に役割分担を腕に頼んでいるから生まれる「偏り」でしかなく、魔術にもそれはある。つまりは、別に右手だろうと左手だろうと、それが習慣化してしまう前に両方で「ソレ」を扱えるよう訓練していれば、

「どちらの手だろうと、マナを収集することなど容易いんだよ」

 畑中と仲を違えたのはいい機転だったわけである。おかげで君たちに僕の内情が筒抜けることはなかった。誰も訪ねてくることのない自室で僕は、何の気兼ねもなく堂々と魔術の練習にふけれたのだ。

 大仰なボディーランゲージで仰天を示す少年だが、しかし僕に食ってかかるのをやめるはずがない。

「だがよぉっ、忘れてねぇだろぉな? 俺には精度が第二現以下の魔弾は通じねえぞっ! お前のやつなんか第一現にも達しているかわかんねえへなちょこだしなあぁぁっ!」

 怯む様子など些かも見せることのない少年の体躯は、Tシャツをはためかせながら我武者羅にスタートを切る。もう一度さっきの横殴りを繰り出すつもりだ。見た目にはなんてことのなさそうな、それこそへなちょこに見えてしまう拳だったが、おそらくあれも何らかの魔術で強化が施されているに違いない。

 だったらそんなものは、もう二度とまともに食らう訳にはいかない。

「そのままそこの姉ちゃんみたく気絶しなあぁぁぁっ!」

 まあ、食らうはずもないのだが。

 その拳が届くまでもなく一瞬で、僕の勝利は確定するのだから。

「なあ少年……誰が魔弾を撃つ為にマナを凝縮したと言った?」

「はんっ、もう何を言っても止まらねええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえっ!」

 頭も、殴られた直後よりはよほどはっきりとしている。これなら、行ける。

 覚悟は、要るだろう。今僕がしようとしていることは、甘く見ても畑中への裏切りになる。

 勇気も、要るだろう。今からやろうとしていることが、異常でないとは言い難い。

 だが。この期に及んでそんなものはもはや。

「――関係絶無だ!」

 僕は左手に貯め込んだ魔力の塊が揺らぐ間も与えぬ速さで、それを右手と組み合わせる。乾いた、否、僕にとってはどこか湿ったみたいな、そんな奇妙な音が僕の手元だけで響く。

「何ぃっ!? 馬鹿な、魔弾じゃねえっ!?」

 僕は起点にさえなれればいい。ただの「きっかけ」で構わない。

 だから頼む――上手くいってくれ!

 合わせた手と手の細胞の一つ一つが、ひんやりと接着していく。液体とゼリー状の中間の、すーっと身体を冷やすそんな流体が、僕の両腕から入り込んで一筋の光のように全身をかけ巡り、頭を夕焼け色の輝きで埋め尽くす。気持ち悪くはなく、どちらかと言えばその逆で、なんて心地よい。入ってきたソレは巨大な輝きのうねりになって、全身の構成要素の分子の一つ一つまでが磨きあげられ、洗礼され、浄化されるような――果てには煉獄の炎で炙られるような心地さえ、絶妙な霊妙さを伴って僕を覆いつくそうとする。

 そして一瞬、閉じたまぶたの裏に垣間見える。

 銀と、橙の世界が。

 ――たぶんこれは。

 ――初めから僕の内側にあった世界。

 ――だからこんなにも、気持ち悪くて醜い「 」の意識であふれている。

 ――ここにいるのは僕じゃない、僕なんかではなく。

 ――僕の「 」なんだ。

 ――出来るのか。

 ――セイサンできるのか?

 ――いや、出来ない。出来るはずない。出来てはいけない。

 ――でも。それでも。

 それでも。

「術なんて使えねえはずだが、万が一にも発動はさせねぇぇぇぇっ!」

「君は何か勘違いをしているな」

 残り一歩、少年の右ストレートが射程圏に入るまでの残り歩数が限りなく0に近づこうとしたその瞬間だ。

 僕と少年の間に、タイミングを図ったように落ちてきた物体が一つ。

「え」

「……だから」

 僕はきっかけ、なんだよ。

 携帯電話なんてものは、そんなに都合よく頑丈には出来ていない。だから、彼の蹴りを受けた時点でそれがそういう運命にあることは既知の事実だった。スローモーションの世界でゆっくりと落下運動を続けるそれは。

 空中分解した携帯電話から外れた、「電池のパック」。

「電池のパックに――術式が!?」

 傍観していたはずの須原の声が、驚きで満たされる。

「な……っ!」

 続いて短く、少年のボーイソプラノ。

「いかん、離れろ!」

 極めつけに、初老の男の叫び声。

 僕はそんな面白い反応を見せてくれた彼らへと、冷たく、言い放つ。

「――残念、手遅れだ」

 それから組んだままだった両手を瞬間に解除し、白銀の輝きを孕む左手を前へと突きだす。

その手に、体中に流れるマナを一点集中、そして落ちてきた電池パックへ、すべてを抽出し、注入するようイメージする。

「君には、時の狭間で世界を眺めていてもらおう」

 後は、合言葉を入力するだけ。

「――『ダイヤの13』」 

 途端、身体から何か霊的なものが離れていく感じが僕に襲いかかった。どこまでも透明で冷冽なものが、指先から、魂ごともっていかれてしまいそうなものすごい勢いで流れ出ていく。その感じに僕は軽い恐怖感を覚えたが、感覚はあっという間に過ぎ去り、同時に、無機質な電池パックに書きつけられた謎の文字列が眩いばかりの輝きを放ち始める。それも一瞬のことで次の瞬間にはその術式を中心にして、幾何学模様を整然としかし不規則に書き連ねた白い魔方陣らしきものが、刹那にして放射状に展開される。

 単純な驚きというよりも、何が起こっているのか解らない、といった感じの表情を湛えていた少年だったが、

「止まれ」

 僕に殴りかかる、その動作が完了されようかというまさにその時、彼の拳が電池のパックを挟んで僕の顔の5センチ手前にまで到達したまさにその瞬間、

「…………」

 ぼさぼさ頭の少年の動きは、あたかも本当に凍りついたかのように。

 完全に止まった。

 そのままの体勢で、僕を吹き飛ばす寸前だった拳の位置もそのままに、僕に対して踏み込まれた軸足も、見開かれた眼も、全てが全て、ビデオを一時停止したみたいに「ピタリ」と止まってしまっている。同じく電池のパックそのものも、空中で浮いたままその所作を停止させている。

 よく見ると彼は、どういうわけか、少し笑っているようにも見えたが。

 僕の周囲数メートルの範囲内だけ、時空が停止していた。

 どうやら――成功したらしい。

 そして、これは僕を中心にした半径数メートル内でだけ発生している現象だということを思い出させるように、少し離れた位置に携帯電話の残りの部品が落下してカラカラと転がった。ふぅ、と一つ息をついて、立ちあがる。まだ気を抜いちゃだめだ。術式が元々組み上げられていたとはいえ、マナを扱ったのに変わりはない。僕はきっかけでしかなかったけれど、それでもいつ反動が来るかはわからないのだから。

 だがしかし、問題はない。

 これでジ・エンドだ。

『忘れてはいまいな』

 僕は右を振り向き、そこでの光景を、目に入れる。

 フーが、先ほどの少年の如く、蒼い長髪を振り乱して、須原と男の真横1メートルもない距離から、手に光を集めて、飛びかかっている、そんなエキサイティングな光景を。

「え……」

 口を開けたままこちらを眺めていた須原が、反射的に小さく声を上げた。

『椎奈は今術を使った。貴様ら、その意味が分かるな?』

 僕の力をそのままコピーして使えるような節が、メルシングにはある。さっきの術式を編んだのは僕自身ではなかったが、術を使ったことに変わりはないわけで。

 そして例の現象が発生する危惧から、当然須原は反撃できない。反撃したりすれば二人とも諸共だ。そんなことになれば結界も消える。どちらに転んでも、僕にとって不利な判定ではない。

「やっちゃえ、フー」

『言われずともだ』

 倒れた畑中の前に立つ二人の真横で無遠慮に、青白い光が、爆発した。

 ……はずだったのだが。

『きゃあっ』

 ポテ、ポテ。

 と。バウンドしながら僕の足元に転がってきたのは、蒼髪の人形。

「……なんだお前、そんな可愛らしい叫び声も上げられたのか」

『…………突っ込むのはそこじゃないだろうが、バカか貴様は』

 地に突っ伏したまま、フーは力なく答えた。傷だらけ、というわけでもなかったから、そんな冗談を口にしてみたのだが。

『さっきの貴様の分のダメージも私は受けているのだぞ、既にギリギリだ。……察しろ』

 そう言えばそうだったかもしれない。感覚のほとんどを僕と共有、してるんだっけ。

「そっか、ありがとう。もう寝てていいよ」

『言われずとも、だ。……おい、これ以上傷ついてくれるなよ。私まで痛いんだからな』

 それだけ言い残すと、彼女はその姿を消した。まったく便利な奴である。

 しかしどうやらこの作戦は失敗に終わったらしい。まだチェック・メイトとはいかなかったようだ。

「……黙って見ていれば、初心者とメルシング風情が調子に乗りおって」

 上げた右手に白い稲妻の余波を纏わせたまま、男は怒気を孕む口調で僕に語りかける。隣の須原はまだ驚きが抜けていないのか、呆然としたまま彼につられてこちらを見た。どうやら初老の彼が、フーの奇襲に対応したようだ。まあもっとも、今の攻撃が通るなんて一ミリも思ってはいなかったが。

「おや、あなた、顔に似合わずそんな攻撃的な台詞も吐けるんですね。それにメルシングを従えているのはあなたも同じでしょうに」

 僕は言いながら、彼の曖昧な眼光を睨み返す。

「そしてあなた方は今、その初心者とメルシング風情にやられかけたんだ。自分たちが常にセイフ・ポジションに居るなどとは思わない方がいいですよ……僕の得意技の一つはピンチをチャンスに変えることなんでね」

「あぁ――それはどうも。御忠告痛み入る」

 肉を切らせて骨を断つというわけか。と、初老のハスキーボイスは続けて呟いた。

「待って……ちょっと待って。何で二人ともそんなに落ち着いていられるの。八代はともかくとして、あなたはもう少し焦ってもいいんじゃない?」

 僕らの煮え切らない会話が煩わしくなったのか、須原が少し急ぐ調子で割り込む。

「だってその携帯電話――八代が受け取ったその日の夜、穂波ちゃんがちゃんとチェックを入れたはずなんだよ。その時は少なくとも電池のパックにあんな高度な術式は見られなかった。それとも魔術書を読んだあなたが独力で術式を組み立てたとでも? ……いくら天才の八代でもそれはあり得ないよね」

 僕は天才という言葉だけ頭のなかで白く塗りつぶしてから、反応する。

「どうにでもなるんだよ、そんなことは。何せジョーカーからの贈り物だ、当然受け取った直後、僕自身でチェックを入れたのさ。そしてあの電池パックを発見し――その時点でおおよそ君のことは見当がついていたからね、畑中に調べられる前に美咲に頼んで電池のパックを交換してもらってたんだよ」

 機種が彼女のものと一致したわけでは当然ないが、電池のパックだけなら案外取り換えが効くものらしい。目を丸くして、須原はまた黙りこむ。人の裏をかくということは僕にとってなかなか極上の楽しみになり得るのだ。つまり今、かなりいい感じに楽しい。

「……でも、その術式には条件があるはずだよ。一定以上のレベルの魔術を筆記伝達する場合、直接呪文を書き記せないという制約がある」

「ああ」

 僕がその事実を知ったのは、美鈴さんから魔術書を借りて、そしてそれを読んだ時。

 この手の術式を起動させるためには「パスワード」が必要らしい。そしてそれは直接的に記述できないことになっている。つまり、呪文を伝えるためには暗号化が必要なのだ。

「だから僕はそれを探して――そして見つけた」

「どこで、どうやって?」

 食ってかかるような態度の彼女に背を向け、青い光が燦々と降り注ぐ中横に両腕を広げて歩きだしながら、僕は話を続ける。

「案外簡単だったよ。使われていないパーツを探せばいいだけだったからね」

 それはつまり。

「メールアドレスだ」

「メール……アドレス?」

 そう。

「僕の受け取った携帯電話には、ジョーカーの電話番号と、彼のメールアドレスが既に登録されていた。結果的にジョーカーからメールが来ることなんざ一度としてなかったが……あの男が無意味なパーツを構成要素に組み込むはずがない」

 だから、ヒントは必ず、一見して意味のないように見えるものに隠されているはず。

 などという、ある意味ご都合主義的展開を信頼しきった詭弁を振りかざしつつも、僕にはやはり確信があったのだ。それはやはり一口に語れることではないのだが、僕の思い描いた答えは、この件に関しては的中率100%と言っても過言ではない。そしてそれについての確信もある。

 核心を握っている確信が、僕にはあった。

 まあ、それはいいとして。

「Fh2g6I8ial-bangle@kll.ne.jp」

 僕は文字列をゆっくりと口にする。これが奴のメールアドレス。実際にこれにメールを送って届くかどうかはともかくとして。

「それが……何かあるのかな? 無作為な文字列にしか思えないけれど」

「それがそうでもないのさ。いいかい? 僕の携帯電話に、ジョーカーの名前はカタカナではなく英語で入っていた。jokerとね」

 これをそのまま携帯電話に入力すると。

「その時に押されるキーは『5665533777』となる」

「……それで?」

「数字が十個。これは、さっきのメールアドレスの文字列の‐よりも以前の、意味のよくわからない十文字、そのそれぞれそにぴったり対応する数だ。となれば次は、jokerの名前から導き出した数ずつキーをずらして入力してみたくなるだろう。でも、それを実際にやってみると『DgCHnhvial』となり、これではやはり何の意味もなさない不憫な文字列のままだ――しかしここで注目すべきなのは、この文字列の末尾にある、iとaとlの三文字」

 この文字列だけは、数字を使ってスライドさせても、その以前と変化がないことに気が付く。

「他の携帯電話の文字列入力システムが全て同じなのかは知らないけれど、少なくともこの携帯電話はアルファベットの文字列入力の場合、大文字と小文字を含めて元の文字列に返ってくるまで、後ろにスライドさせても前にスライドさせても七文字分ということになっている。aから始まって七回キーを押せば、また元のaに戻ってくるという具合にね」

 つまり、これで方法は間違っていないということだ。

「だからこの場合は、数字の分だけ文字を押し進めるのではなく、数字の数だけ文字を引き戻してやればいい。具体的に言うと、その数字の分だけスライドさせてその文字になる文字を探せばいいんだよ。最初の一文字を例にとれば、5回キーを押して、大文字の「F」になる文字を探せばいいわけだ。押してダメなら引いてみろってね」

 そのやり方に従って、元の文字列を抽出すると。

「『diainitial』……この10文字が、浮かび上がってくる」

 僕は結界に触れられるくらいの端まで歩き、そこから再び、青いフィルタにぼんやりと遮られている眼下を見下ろした。

 人がせわしなく動いているのがぼんやりと、明滅する夏のホタルの動きのように、分かる。

「残念ながらこんな英単語は存在しない。だけど僕にはある程度予測がついていたんだ」

 だから、その文字列を区切る「仕切り」が見えた。

「この文字列は、diaとinitialで区切ることで意味をなすんだ」

 そしてinitialとは勿論。

「頭文字を意味する英単語」

「頭文字……?」

 須原はまだ半信半疑の声で僕にやじを飛ばす。

「そこで‐の後に目をやるんだよ。……bangleとはこいつを意味する英単語だ」

 僕は振り返りざまに、招き猫がするような感じで、右手を須原へと見せつけた。

 いや、正確には右手の腕輪を。もっと精確に言えば、その腕輪に刻みつけられた英文を。

 bangle――それは腕輪のこと。

 そして、読み上げる。

「……Killer is now god」

 僕が『裏』の世界の出来事へと巻き込まれることになった最初のきっかけ。その腕輪に刻みつけられた、意味のよく分からなかった英文を。

「言ったろ。使われていないパーツを探すだけだったってね」

 ここにきて、僕は急速にこの英文の存在意義を感じ取ったのだ。英文に使われている単語のそれぞれの頭文字だけをとって読むと。

「K、i、n、g――King」

 王を意味する英単語になる。

「キング……」

「そうなってくると、その前のdia、はダイヤだと解釈できるだろ」

 やはりというのもおこがましい話だが。

「奴はトランプに準えてこのパスワードを暗号化していたんだよ」

 だから合言葉は。

 ダイヤの13。

「お分かり頂けたかな? ハートの6……須原愛乃さん」

 僕は嫌みたっぷりに口をゆがめて、彼女のフルネームを口にした。

「……なるほどね。私にはとてもじゃないけど辿りつけそうもない暗号だよ。ねえ、君は、一体いつから、何がきっかけで、何に気づいて……」

 僕はその発言を言葉で遮った。

「今現在、その質問に意味はあるのか? いや、ないね。残念ながらそんな無意味な質問に答えていられるほど今の僕は余裕たっぷりでもないんだよ、わかるかい」

 僕はまだ彫刻や石像の如く、不自然なポーズで固まったままの少年を横目で見てから、彼女ら二人に対して一歩前へ出る。

「そしてここから、再びこの論題に入っていくことができるわけだ……ジョーカーの目的とは、果たして何だったのか? という話にね」

 そして僕は、全身黒尽くめの初老の男を、左手で指差し、平板に言った。


「あなた、『封じ屋』の人間だろ」

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