33.一つの答えへ
『……!』
フーが一瞬にしてその愛らしい姿を具現化し、青い長髪を揺らして僕の目前に浮遊する。ていうか空まで飛べるのかよ、お前。もう何でもアリだな。彼女は動揺している様子はないが、しかし多少の驚きはあるようだ。異様な光景をその大きな目で確認、時を空けて言う。
『おい……』
「ああ、畑中が倒れてる」
『……、随分と冷静なのだな』
フーに言われるまでもなく、自分でも怖いくらい僕は冷静だった。冷静というより、冷淡。陽炎みたいに歪んだ現実なのに。異常すぎる光景のはずなのに。そんなリアルを目の前にして、焦燥感も、危機感すらも湧いてこない。
いや、違う。動じる要素がないのだ。畑中が気を失い、倒れている。
これは、予定調和、規定事項にすぎない。
僕はポケットに右手を突っ込んでから、死んだように眠る彼女の人形のような顔を見つつ、他に誰もいないはずの屋上に響くよう声を張った。
「かくれんぼよりも鬼ごっこ派なんですよ、僕は」
もう一つ、続けて言う。
「出てきてくれませんか」
僕の声に反応したのか、はたまた待っていたのか、それを合図にしたように、校舎へ入るドアの影から。
一人の男が姿を現した。
ゆっくりと、一歩ずつコンクリートを打ち鳴らし、男は歩く。どこか厳かな足運びで。だが、その足取りにはたった一つの躊躇もない。何らかの確信の下に、その存在は動いているように見える。
そして、僕と畑中を結ぶ延長線上で、静止。
黒。
線の細い体躯に纏うのは、夜色の真黒なスーツと、星ひとつない真黒なネクタイに、同じく真黒な靴。ポケットに手を突っこんだまま――暑くないのだろうか――僕と対峙するその顔には初老の雰囲気を漂わせ、白の混じる髪は長いとも短いとも言い難く。
しかし、重くない。その動作には、纏う雰囲気には、悉皆重みがない。全体に暗い色合い。しかしそれは闇ではなく、影のよう。まるで存在が希薄。
僕はその細身の男に向かい。
「どうも初めまして。こんにちは」
一歩だけ前に出て、口だけで笑ってみせる。
「これはどうも。こちらこそ、お初にお目にかかるよ」
その声は、低くも高くもない。さらにどちらかと言えばハスキーだ。どこか可笑しくも聞ける丁寧な口調の男は、目を線みたいに細くして柔和に微笑み返してきた。
「君が八代椎奈君かい」
「ええ」
僕はその細い眦に不必要なまでの切れる視線を送り。
「あなたは」
息を吸い込み、言おうとして。
言おうとしてそこで、はたと気づく。
世界が、青いことに。
「……っ!」
透き通った青色の壁が屋上の周囲から天に伸び、その薄氷の壁を透る光はその輝きを神秘的なブルーに変えていた。聞こえていたはずの祭の賑わいも、まるで水中で聞いているがごとく揺れて、フィルタを通したみたいにくぐもっている。浮き立つムードは、僕らから隔離されて遠く離れたところに連れて行かれていた。
いや、違う。普通に考えて、隔離されているのはこの空間のほうだろう。それも、隔離と表現するより、乖離だ。ここは世界から無理やりはがされた、世界の一部。
蒼い世界。
そして幽閉されたようなこの屋上を満たすのは、殺気立つ緊迫感。知らずのうちに汗が頬を滴る。
「……結界術」
それもおそらく、畑中が僕のうちに仕掛けたものと同じタイプだ。僕は視界の端に「あるもの」を見つけ、それを確信する。
「外からの情報を遮蔽し、内側から出られないようにする形式の結界か」
僕の声は周囲の不鮮明な違和とは対蹠的に、気持ち悪いくらいの明瞭さを持って周囲の半透明の壁にこだまし、幻想的に響き渡る。
『この色……』
フーが呟いた。
――色?
ああ。なるほどね。そういうことか。
「君の話は、かねがね伺っているよ」
周囲の状況が一転したことなどまるで気にも留めず、男は言う。
「でしょうね。あなたはそういう役回りのはずだ」
そうでなければならない。
『あいつはジョーカーか?』
「いいや、違うね」
あんな奴がジョーカーはずがない。あんな薄っぺらい奴が。
「ま、そういう展開でも新鮮ではあったろうけど」
それでさ。
君もいるんだろう?
さも当然であるかのように。僕は平坦に、なんてことのないように、言った。
「出てきなよ、須原」
「……アハハ。ばれてちゃ、しょうがないね」
ドアの影から、そんなセリフを口にしつつ、須原が現れる。いつもと同じボブカットを揺らして。全く本当に、いつもと同じように。
『……ほう、これは一体どういうことだ?』
「どういうことなんだろうね」
フーの声を継いで、僕は目前に立ちはだかる二人へと声を放った。
「なあ、須原」
彼女の黒眼を捉え、言う。
「まだ時間はあるんだろう」
ここは目一杯気取って、どこまでも気障に。
「一つ、解決編と洒落こまないか?」
チェックは可能な限り、格好良く。僕の下らないポリシーみたいなものだ。
「……だってさ。どうする?」
窺うように首を傾ける須原に対して、男は小さな目でまっすぐ僕を見たままに答えを口にした。
「構わんよ。君の話なら耳を傾ける価値くらいはある」
それじゃあ少し失礼して。
「あなた方は、もう大方分かっているんでしょう? だったら前提説明はなしでいいですね」
「ああ」
「ええ」
男と少女は銘々に頷く。僕はそれを見て、緩やかに語りを始めることにした。
終焉へのマジックショーを、始めることにした。
「……なあ、フー。さっき僕は言ったよな。あからさまな尾行や観察に気づけないほど畑中はマヌケじゃない。そして、だからこそ畑中が気を許す友人なら、安全かつ確実に監視を遂行できる。って」
『……、……ああ』
フーは空白の中にさらに間を持たせてから、相槌を打つ。その目はまだ倒れた畑中に向いていた。僕は構わずに言う。
「しかし、その考え方は一見筋が通っているようで、通っていない。穴がある」
『……穴、か』
そう、穴だ。それも人が落っこちてしまいそうなくらいの大穴がね。
『友人は所詮友人にすぎないということ、だな』
「そうだ」
それではまだ半ばなのである。まだ足りない。
「畑中の友人だから。それだけだとあの放課後、どうやってジョーカーとの内通者が畑中を監視していたかの説明がつかない。あの時、畑中はどうみても一人だった。それにあれだけ大っぴらに魔導の力を揮っていたんだ。友人が彼女に対するウォッチャーだとして、畑中はやはり、それに気づいていなかったとしか考えられない」
つまりこの考え方だと、真実問題の半分もクリアーできていないわけだ。
「ところでフー。僕とあの猫耳のメルシングが交戦した時のことを思い出してほしい。何か違和感はなかったか?」
『また話が飛躍したな』
とにかく、思い出せ。
『……貴様は選ぶべき言葉を誤り、猫耳の男と戦闘に入る。そしてそれを貴様が知恵を利かせた戦法で倒した、と。簡略すればこんなものか。それで、どこに違和感がある?』
いや、あるさ。
「――いいか、おかしな点は二つだ」
『二つ?』
フーが振り返り、その双眸が僕を貫く。揺れる蒼い光の中に、蒼いメルシングか。なかなか美しい。
まず、一つ。
「畑中が僕を助けに入らなかったこと」
『……何か不自然か?』
「思いっきり不自然だ」
僕はあの時、素人だった。いや、今もだけど。
「結論を得た今でこそその奇矯さは薄れているけれど、あんな鋭い十本の爪をまともに食らって僕がまともでいられるはずがない。少なくとも僕はそう思ったし、そう思ったからこそ細心の注意を払って奴からの攻撃を避けた。そうだろ?」
『だからそれは、あの猫耳男の性質を小娘が見抜いていたから……』
「二つ」
僕は強引にフーを遮って続ける。
「それでは何故、猫耳男はあの爪で僕に攻撃してきたのか」
小石一発当たっただけで、あの大人の身体を模したボディは消滅する。さらば、それは爪とて同じこと。僕の小石を空中で弾かなかったんだ、そうと見て間違いない。
「確かに髪を数本持っていかれた記憶はあるけれど、それは小石がぶつかった衝撃よりは少ないだろうし除外するとして。人の身体を斬ると言うことは、刃物の側にもそれなりの衝撃があるはずだ」
それが如何に小さかろうと、小石と同程度の衝撃はあるだろう。
『……確かに、そう言われれば』
この二点は独立して不自然であると同時に、矛盾する。
「畑中が僕を助けなかったということは、僕が傷つかないということを確信していたということ。そしてそれは事実、彼女が奴の性質を把握していたということだ。それは猫耳男が確かにそういう存在だということを裏付ける。だがしかし、裏付けられ、強固になった事実とは反対に、今度は猫耳男はどうして僕を倒せると踏んでいたのか、その説明がつかなくなる」
フーは何も言わずに、端正な、傷一つない、本物の人形みたいな顔で一つ瞬きをする。
「さて、ここでもう一つ、話を飛躍させようか。一週間前の放課後、僕が畑中から逃げ回った後、いったい何があったのか?」
小さな爆発。強烈な光。常識を超越した衝撃。
『貴様の右手――魔手が、無意識のうちにマナを集め、そしてそれが小娘の魔術の発動を阻害し、小規模な術式暴発が発生。結果、貴様ら二人は気を失い、貴様に至っては前後の記憶までもあやふやになった』
「そう。そこで眠っている畑中の言い分だとね」
一つ息を入れてふと見ると、フーはこちらをじっと眺めていた。
うん、なんというか、疑いの眼で。
「……いや、別に何の考えもなく適当に出来事の確認をしているわけじゃあないよ」
そりゃ、そう聞こえても今のはしょうがないかもしれないけどさ。
『では、何だというのだ』
「そう急かすなよ」
僕はフーから目を離し、再び正面の二人を睨む。
「ここでまた、話を本題に戻そう」
ジョーカーとの内通者は四十万か、それとも須原かという話だが。
「この際、もう回りくどいのはやめよう。結論から言ってやる」
内通者は。
言って、人差し指を、目の前の少女に、向ける。
真っ直ぐに。
「須原。君だ」
まず、音が消えた。続いて、動きが途絶えた。やってきたのは、何もない時間。いや、そこには時間すらもなかった。須原の漆黒と、僕の藍鉄が、繋がって、重なって、混じり合い、絡み合い。
「――ご名答」
そして、凛然とした彼女の声が、場の空気をしたたかに打つ。
目の奥底の精悍な色合いは、一つの糸で僕と彼女を接続し、そして彼女の眼は僕を解放しない。僕も、彼女の目を放しはしない。自由にはしない。数秒間、すなわち永遠に、僕らは互いに、見つめ合う。
「と、言いたいところだけど」
そこで彼女は眼を瞑り、僕との結合を断った。
「何の証拠も根拠もなしにそんなことを認めるほど私は甘くないよ、八代」
「消去法だよ」
僕はまた一歩だけ前に進み出る。
「四十万と君のどちらかなら、四十万はあり得ない。そう思っただけさ」
『……何だそれは』
あからさまに呆れたフーの声だ。もっともその台詞は僕自身が一番言いたかったのだが。
「四十万は社交的すぎる。それどころか生徒会員だ。自分で自分を拘束しているようなもの。人間関係は多ければ多いほど、いざという時に動きづらい。実際、今彼女は中庭で空爆の準備に勤しんでいるし、本人も出演するらしいからな。それに、今この場所に、こんな異常な空間に四十万はいない、君はいる。……それが何よりの証拠じゃないか」
須原は少し垂れた目を笑わせる。
「それだけ?」
「…………ああ」
「アハハ、天才の八代とは思えないトンデモ論理だね」
「確かにな。僕だって」
僕だってね。
「そう……思うっ!」
言って僕は。
誰よりも速く、何よりも速く、ポケットに突っ込んだままだった右手を勢いよく引き抜いた。
掌は、煮えたぎる紅蓮の輝きを引きながら、真横へと振り抜かれる。
「魔弾!」
しばし口を噤んでいた初老の男が、関心したように声を上げた。僕の手を離れた紅の弾丸は、そんな声などものともせず、周囲を取り囲む青い薄壁へと瞬間に到達する。
そして、炸裂。ガラスが砕けたような、否、氷が割れたような、否そのどちらともつかない奇妙な破裂音が、轟く。
「……やったか?」
しかしその問いに答えたのは消え去った結界ではなく、須原の薄笑いだった。
「アハハ! 結界を破ろうっていうんなら、無駄だよ。そんなのじゃこの結界は絶対に壊せない」
彼女の言葉どおり。
依然として、僕をあざ笑うかのように、氷点下の冷たさをその青色に湛えて、結界はある。
「傷一つない……か」
ま、当たり前だよな。そもそも正面切って打ってみたところで止められることもなかったのかもしれない。
『いいや』
そんな思考に割り込んできたのはフーの声だった。
『違うな、須原愛乃。椎奈は術式の本体を狙っていた。それも、かなり正確に。結界そのものではなく、その術式が記述された手すりを狙ったんだ。お前だってそれを分かっているはずだろう、この結界を張った本人なのだからな』
「……ありゃ、ばれてたみたいだね?」
僕は小振りだったとはいえ魔弾を放ったことでふらつきそうになりながらも、何とか両足で踏ん張りをきかせ、フーに同調する。
「あの術式、僕のうちの窓枠にもあるんだ」
言って右を向くと、数メートル離れた手すりの上部分に、薄らとだが青い光を放つ、あのうねりのある文字が書きつけられているのが見えた。僕の記憶によれば、畑中の書いていたものと同じだ。
「ただ、畑中のやつのほうが性能はよかったね、彼女が書いた文字は離れれば目に見えなくなる仕掛けがしてあったよ」
そして再び、前を向く。須原は、まだ顔にうすら笑いを張り付けたまま答えた。
「どうかな? 事実、八代はこの結界を壊せていない。だったら君の言うところの性能ってのはこっちの方が上なんじゃない?」
『それも違う』
しかしそれにまた割って入るフー。
ずいぶんと積極的だな。
『だんだん解ってきたのだ。全てがな。積極的にもなる』
ほう?
『通常、結界は術式を破壊されればそれだけですぐに崩壊してしまう。だから結界術というものは、実践に向いているようで向いていないのだ。その弱点を丸出しにしてまでお前はこの結界に自信を持っている。つまり、お前のその自負は、もっと別のところに起因しているのだろう』
僕は、一つ息を吸って畳みかける。
「君が、何の不自然もなく畑中を監視出来たのは何故か」
『椎奈と穂波に起きた現象とは一体』
「猫耳のメルシングが僕を攻撃しようとしていた理由は何だ」
『そして、美鈴という女を殴ったという電話を椎奈がジョーカーへ入れたのはどうして』
「極めつけに、絶対に僕には壊されない結界」
僕は言う。
『全ては、一つの現実によって肯定できる』
フーが言う。
「その答えは――」
僕は言って左ポケットから、手を抜いた。
「これだ!」