29.スバル
僕は一驚を喫し、瞬時に振り向いた。
思考の海に没入しすぎていたのだろうか。背後から近付かれてその気配に気付かないとなれば、いつ何時、誰に突き落とされたとして、文句は言えまい。そんな危惧を胸に抱きつつ、一人の少女を視界に捕捉する。手を後ろで組んで、そこに立っていた小柄な体躯は。
「……おー。須原か」
同級生にして畑中の友人で仲良し三人組の一人、須原だった。
「どうした? こんな朝早くに。僕に何か用?」
僕は手すりに右肘をかけたまま、落ち着いた微笑みを湛える彼女を見やる。
「うん、そうだね。用といえば用なのかも」
用があるのかないのか、なんとも分かり難い言い回しをしながら、須原は首を少し傾けてボブカットの黒髪を揺らした。同じ黒髪でも、僕なんかはよく見れば真っ黒ではないのだが、須原の髪色は本当に、鴉の羽の如く漆黒。それが連日変わりのない陽光を反射して、彼女の頭に天使の輪を作っている。僕は髪のその滑らかな動きと、白黒のコントラストの美しさに一瞬目を奪われてから、どこか知性を感じさせる須原の静かな顔に目を戻した。
「文化祭の絵のことか」
あたりをつけて言ってみる。
「うー……ん。それもある、けど」
少しだけ視線を上げて、須原は顎に人差し指を当てた。
実は彼女こそ、うちのクラスの展示物の要なのである。自慢にもならない話なのだが、要するに二年二組でまともな美術的デフォルメセンスを持っているのは須原しかいなかった、ということであり。そういうわけで、須原は今回のクラス展示に関して、数人のアシスタント的生徒らと共に全員分の顔をデフォルメして描くという激務をこなしてくれているのだ。
その件、文化委員の二人は後回しにすると聞いていたから、おそらくその為にわざわざやってきたのだろう、と思ったのだが。
それは少々、希望的観測過ぎたらしい。
「それもあるけど、というと?」
「ま、うん。その前にね。君に言いたいことがあるんだ、八代」
「?」
そして須原は何かを愛惜するように笑ってから、油断していた僕の鳩尾に不意打ちの衝撃をぶち込む台詞を口にした。
「女の子を泣かせるなんて最低だよ」
「!」
瞬間、震撼、僕。
予想だにしなかった強力なストレートで、軽くノックアウト寸前まで追い込まれる。
思わず叫びを上げそうになって、しかしそれすらも出来ない自分に気づく。さすがにこの時ばかりは、自分の心情が音速を超える勢いで顔面へと浮きあがるのが自覚できた。目を見開いたままの僕に、須原は言う。
「なんで知ってるの? って顔だね。八代、びっくり仰天って感じ。君にしてはなかなかレアな表情だ」
口を開けたまま何も言えずにいるのを確認するように僕を眺めてから、また言う。
「勿論、穂波ちゃんから聞いたこと。あー、ていうか、元気のない穂波ちゃんから四十万ちゃんが無理やり聞きだしちゃったみたいな感じなんだけど」
折り入って僕を責めるような言い方もせず、須原はなんら意図の読めない微笑のまま僕への言葉を継続した。
「でもね、さすがにあれだけ元気なかったら私だって四十万ちゃんだって不審にも思っちゃうよ。穂波ちゃん、意気消沈って感じ。そりゃさ、何かあったの? って聞きたくもなっちゃうって。八代はね、まず自分が穂波ちゃんをどれだけ傷つけたかっていうことを考えるべきだと思うな」
「そ……」
無意識的に言いかけて、口を噤む。自己の正当化、なんてそんな下らない保身はこういう場面ですべきことではない。僕は右手で額を押さえた。
「うん……そうか。そうだよな」
「そうだよ」
間髪入れずに返される。
「居候って形とはいえ、女の子と同棲してるんだよ? 百歩譲って喧嘩しちゃったのはしょうがないとして、その後のケアが問題。それに喧嘩って感じでもないんでしょ? 詳しく聞いたわけじゃないから解らないけど、もし原因が君にあるなら君から謝らないなんて、そんなのは絶対にだめだと思うな」
「…………」
ぐうの音も出なかった。
ぱあの音も出なかったしちょ――いや、やめておこう。
ちなみに、畑中とは口裏を合わせて、なんやかんや(両親同士が知り合いで、畑中の両親は二人して海外へ転勤しているからうちで養ってもらうとか、まさしくそんな適当な感じ)で彼女が我家に居るということは既に周知の事実だったりする。のだが。今やそんな問題ではなさそうだった。
まあ、畑中が友人に何も言わないなんて思ってた方が問題なのか。言い争った内容が内容とはいえ、畑中がいざこざがあったという事実を悟られない風に振る舞う必要はない。その手が自分まで届かないことが分かっていたとして、それは助けを求めちゃいけない理由にはならないから。
彼女もアーティストである前に一人の少女であったということ、か。
おぼろげにわかっていたこととはいえ、感じ悪いよなあ、僕。
「穂波ちゃん、滅多にないくらい落ち込んでたんだよ」
手は後ろで組んだまま、面持ちも改めず、須原は淡泊に僕へ詰め寄る。
「んぅ……」
手厳しいな。
「……ごめん」
「わーたーしーじゃ、なーいーでーしょ! 謝るのはさあ」
さらにぐい、と僕に顔を近づけて、彼女は静かな怒りを顕わにした。
「本当にね、私も穂波ちゃんとは付き合い長いけど、あんなに落ち込んでるのを見るの、初めてなの。意気消沈、というよりも拓落失路って感じなんだから。泣いてるところなんて見たこともない娘だったんだ。これ、誇大表現でもなんでもなくてね」
「……うん」
「君はさ、少なくとも馬鹿じゃないんだから。こういうことくらいちゃんとしなきゃ、ダメ。勉強だけしてたって立派な社会人にはなれないんだよ」
「…………」
全くもって、頭が上がらない。もっともこの場合、上がらないのはうだつなのかもしれなかったが。
ん、それもおかしいか。
「ま、私がどうの言うことでもないのかもしれないけどね」
ふっと須原は僕から顔を離す。
「でも、やっぱり友人の貞操が危ないとなるとさ」
「そんな話じゃなかったような気がするんだけど」
「アハハ、冗談。でも実際さ、女の子ってのはこういうことに敏感なものだよ」
「そうなのか?」
「そうなの。女の子から袋叩きにされなかっただけ命拾いしたと思うべきだね、君は」
「……はあ、さいですか」
怖すぎる話だった。
しばしば発動し得る女子の理不尽な論理展開というのは本などで読んである程度の知識はあったけれど、さりとて事実談としてそれを語れるようになりたいとは思えない。
「四十万ちゃんも優しいからね。まだ何も言われてないでしょ? って言っても私だってこうして八代に会う用事がなかったら、果たして箴言を進言しようとは思わなかったかも。穂波ちゃん、そういうのしてほしい、っていう感じの娘じゃないから」
ということは、それを差し引いても僕に何か言わないと気が済まなかったわけだな、君は。
「そういうことにもなるかな」
アハハ、と。須原は花のように笑った。
しかし花は花でも、自己主張の強い花ではなく、煌びやかな花ではなく、群れて華やかに咲き誇る花でもなく。本当に儚い、本当に切ない、そんな感じの、小さくて強い、一輪の花のように。
彼女は笑った。
目を細めて、やはり。
何かを愛惜するみたいに。
「穂波ちゃんにはちゃんと謝って仲直りしなよ。本当に」
「言われなくてもいずれそうするさ、時がきたらね」
「なあに格好つけてんの? この優男め」
なんとでも言ってくれ、今の僕ならどんな言葉だって甘んじて受け入れよう。
「ふうん? ま、君がそう言うなら、これ以上言うことはないけどさ」
須原は言って、一つ息を吸う。
「なんだか、一気に喋りすぎちゃったな。こんなキャラじゃないんだけどね、私」
「そうかな」
教室で見てた感じ、畑中よりはお喋りだったように見えたけど。
「まあ、いいじゃない。君の私に対する印象になんか興味ない。それより文化祭のお話をしましょう、文化委員さん」
「……ああ」
僕が曖昧な返事をすると、ずっと後ろで組んでいた手を、須原はようやく前に出した。
「こういうわけなんだ」
その両手には、それぞれ小さめのスケッチブックと、鉛筆が握られている。
「まだ一時限目が始まるまで時間あるし、ちょっとスケッチされてくれるかな」
「……そういうことなら、喜んで」
言うが早いか、須原はさっそく僕を見ながら紙に鉛筆を走らせ始めた。
「八代はさ」
「?」
まだ描き始めて三十秒も経っていないうちから、彼女はまた口を開く。絵に集中しているからか、少しおざなりな口調で彼女は。
「天才ってなんだと思う?」
「…………」
そんなことを、言った。
「ね、どう思う」
「どう……思うって」
また話題が飛躍したな。そりゃ、色々と思うことはあるけど。
「いい印象はないな。天才、なんて言葉に」
「そうなの?」
「ああ」
いい印象がないどころか、大嫌いな言葉だ。
「言葉じゃなくてさ。本当に、天才ってどうなのかな、って聞いてるの」
言葉じゃない。
「天才……か」
天才。
秀才。鬼才。偉才。英才。
この世の少数派たち。
「並外れた才能の持ち主、だよな」
「そうだね」
「でも本物の天才ってそういうものじゃないと、僕は思うよ」
「というと?」
何があっても揺るがない。
是が非でもぶれない。
どうしようもなく強固。
決定的に完全。
究極的な、絶対。
並外れた、っていうのは確かに最上級かもしれないが、それはやはり比較表現にすぎないわけで、天才っていうのはそもそも凡人と比較するべき対象じゃないと、僕は思う。
「本物の天才を目にする機会なんて滅多にない……けど。僕はそういう人間に出会ったことが一度だけある」
僕とは違う。
それが確かに、第一印象だった。
たった一つの衝撃もなく。
たった一つの驚愕もない。
そこにあったのは、自然。
この世の摂理だけ。
林檎を手にとって、ああ、これはリンゴなのだと思うのと同じように。
僕は、そいつをそういう存在として認識した。
「嫉妬心もなにも、本当になんにも、湧かなかったよ」
天才と呼ばれる彼らは、あらゆる意味において。
一人だ。
孤立している。
いや、そもそも、孤立とかいう話ではない。
文字通り、そのままの意味で。
住んでいる世界が違った。
同じ空間に居て、同じ空気を吸って、同じものを見て、同じものを聞いて、尚。
僕とは違う世界に、彼らは居る。
違う空間に居て、違う空気を吸って、違うものを見て、違うものを聞いて、尚。
だから。
「へえ? 君もいささか一般的な人間じゃないとは思うけどね、私は」
「さあね、君みたいに言う人間はたくさんいたし、それを責めるわけじゃないけど、視野が狭いと思うよ、そういう言い種は。僕くらいの人間なんか、世界を見ればそれこそごまんといるもんだ。僕なんて平々凡々な存在にすぎないんだろうさ」
それに。
「そもそも、自分を天才だと勘違いしている人間も、また多い」
僕もその自信を、自負を、勘違いを打ち砕かれた、一人だ。
「興味深い話ね」
「どうかな。本物を見て崩れ去る紛い物の話なんて、聞いてもつまらないだけだよ」
「君が紛い物だとは思わないしつまらないとも思わないけどな」
全く躊躇することもなく、僕の顔をちらちらと見上げながら、須原はどんどん鉛筆を動かして、口もまた会話を途切れさすことなく動かす。そしてまた、意図の汲めない質問を繰り出した。
「じゃあさ、どうして君は、天才って呼ばれるのを嫌がるの? 自分が天才じゃないって分かってるから、なんてそんな格好いい理由じゃないんじゃない? 普通誰だって、天才、なんて言われたら嬉しいと思うけどな」
「…………」
どうして。
「あ、そんな顔しちゃだめだよ、スケッチできなくなっちゃうから」
「……難しい注文だ」
「うぅん、ごめん。でもね、ほんの出来心からの質問なんだよ。興味本位、って感じ。別に君のことをどうこういうつもりもないし、答えたくないなら答えてくれなくてもいい。それに私と君はそこまで親交が深いってわけでもないしね、こんな不躾な質問をすること自体、君にとっては失礼にあたるのかな」
「いや」
そんなことは、ないが。
「……うん。子供の無邪気さっていうのは、得てして大人を傷つけることがあるよな」
突飛なその語りだしに、須原は怯む様子もなく、手を止めることもない。構わず続ける。
「君はそういう経験あるか? 須原」
「んー? 子どもは思ったことをそのまますぐ口に出しちゃうもんね。例えば折角作ってあげた料理がまずいって言われちゃうとか、そういう感じ?」
「そうだな、そういう例を引き合いに出してもいい」
「それがどうかしたの?」
「例えばその料理で、子供が僕の料理を褒めてくれたとする。プロみたい、って。そりゃあ僕だって嬉しい。確かにそれは僕が料理に関して努力して、それが認められたのだと、そう解釈してもいいだろう。でも、実際はそうじゃない場合がほとんどだ。子供ってのは、大人は何でも出来ると思ってるんだ。料理を褒められたとして、それもやっぱり、そういう類の畏敬だと思わないか」
「ん、よくわかんないんだけど」
「じゃあ」
例えば。いや、例えるまでもなく。
「僕が試験で一位を取ったとして、さ」
「とったとして、じゃなくて実話じゃない」
「……まあ、とったとして、だ」
そこでこう言われるとする。
「やっぱり八代って天才だよな。ってね」
「……? それが何か嫌なの?」
「僕はそれを、順位が二位だった奴に言われたことがある」
須原はまだ得心しかねる顔をしている。
「そこなんだよ」
その顔に、僕は少し食ってかかった。
「一位と二位の差はなんだろう。天才だからか? 二位の奴は持ってなかった才能を、僕がたまたま手にしていたからなのか」
いいや、違うね。
「これだけだよ」
言って、親指と人差し指で空をつかむようにして、須原に見せる。
「ほんのこれだけの努力の差、なんだよ。やっぱりそこにあるのは、努力の差でしかない。一ミリ届くか、届かないか、それだけなんだ」
なのに。
「誰もそれを言わない。僕を天才だと決めてかかって、あいつには勝てないと言って、僕を神か何かに祀り上げたみたいに。結局、僕を尊敬してるようで、そんな奴らは僕を見下しているにすぎないだろう」
『天才』なんていう一言で。
僕の努力はすべて無に帰す。
「誰も僕の努力を知ろうとしない。自分の限界を勝手に決めて、僕に勝てなきゃそこでお終いだ、という考え方しかしていない証拠さ。どうせやっぱり結局畢竟、言い訳なんだよ。お前は天才だから、凡人の努力なんてわからない、なんて言われたことが何度あることか。昔はその都度思ってた。そんなセリフは僕よりも努力してみてから言えってね。だから嫌なんだ、天才なんて言葉は僕にとっては否定の言葉にしか聞こえない」
僕だってみんなと同じだ、なんて。言っても信じてもらえなかった。
言う隙もなかった。
「それとも君もそう思うかい? 僕と君は違うって。凡才の気持ちは僕にはわからないってさ」
「そんなことはないよ」
即答だった。少し、面食らう。
「私はそうは思わない。君、いい人だしね」
「……なんだ、そりゃ」
根拠に乏しい発言だな。
アハハ、と彼女はまた笑った。よく笑う娘だ。僕は何故だか、少しだけ棘を抜かれた気がした。
しばらく鉛筆が紙の上を走る音だけが行間を埋めて、須原はその手を止める。
「うん、よし。大体描けたよ」
そう言って顔を上げ、彼女はボブカットの黒髪をまた揺らした。もう出来たのか。
「早いな」
「そうかな? もうそろそろ予鈴なっちゃうくらいだと思うけど」
言われて、携帯を取り出してみる。ディスプレイに表示されている時間は確かに、八時半過ぎ。
「へえ。意外と時間って潰せるものだな」
「そうだね。っていうか、変なことばっかり聞いちゃってごめんね。出だしから気を悪くさせるようなこと言ったのに、本当ごめん」
「ごめん、って謝るようなことでもないさ」
ああいう話をするのはさしあたって嫌いじゃないしな。
「むしろ謝らなきゃだめなのは僕の方だって話だったろ」
「穂波ちゃんにね」
ああ、と僕は返してから、彼女の横を歩き抜ける。
「降りちゃうの?」
「ああ、さすがに暑い」
「……がんばってね」
僕はその凛とした声に、須原を振り返る。
「何を?」
「いろいろ」
その深い黒味を持つ双眸が逆光の中僕を見つめて、言った。
「私も君を、格好いいジョーカーにしてあげるからさ」