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28.少女は背側から声をかける

「だめです」

「魔法について教え……ってえぇ!?」

 まだ何も言ってなかったのに否定されたよ!?

「どうせそんなことを言いだすだろうとは思っていましたから」

 畑中は机の上にチョコンと座って居たもふもふ百獣の王を手に取って、またベッドに腰掛ける。そのライオンらしからぬ可愛らしいぬいぐるみを両手でうりうりと弄りながら、彼女は続けた。

「だめですよ。もう既に龍からいろいろ聞いちゃってるんでしょうけど、これ以上は私が許可しません。絶対にだめです」

 強い、否定の言葉。否定というよりも、禁止の語調。

「どうしてさ」

 ドアにもたれかかったまま、僕は聞き返す。

「あの金髪――ええと、龍ちゃんは何の出し渋りもなかったぜ」

「龍を基準にするほどあなたの頭は腐っていたのですか、残念です。救えたはずの命がこれでまた一つ消えてしまいました。あなたはもう手遅れですよ」

「…………」

 僕が玩弄されたのは置いておくとしてだな。その言い種はどうなんだよ。

「仮にも一緒に住んでる人なんだろ?」

「そうですね。人間として間抜け、確かに人です」

 そこまで深い意味合いを込めたつもりはねえよ。

「昔からあの人は多分におかしい。軽すぎます」

 畑中は、まさに苦々しい何かを吐き捨てるように言う。まあ確かに軽いという印象はなきにしもあらずだが、でもあの人の場合、あれが全てだとは到底思えない。そう僕に思わせるだけの何かを見せつけられたというのは、ただの勘違いではないだろう。

「ただの勘違いですよ」

「どうしてそこまで言うんだよ」

 爪も牙もない愛玩的ライオンは、畑中の操り人形になっていた。楽しいのだろうか。

「とにかく」

 僕を押しとどめるように、畑中が語気を若干強める。

「だめなものはだめです。あなたは傍観者であれば何の問題もない。魔術なんてものはエンターテインメントとして楽しめばいいのです。それだけで八代君には十二分。その程度なら別に関わりをもったとてどうということもありません。あなた一人くらいが騒いだところで世間に魔術なんて馬鹿げた存在が露呈することもないですし」

「しかしだな畑中」

「八代君」

 弄りまわされていた哀れなぬいぐるみに目を落としていた畑中が、じろりと視線を持ち上げた。

「魔術は麻薬とおんなじです」

 麻薬?

「ええ。魔術中毒、なんてのもよくある話です。魔術に魅入った人間は、魔術に魅入られる。魔、なんて漢字がつくくらいですから、そもそも人間にとって有益ばかりのものではないんですよ。もっとも魔、だなんて日本語に習った場合の話に限られますけれど」

 畑中は言う。

「私はそうやってだめになった人間を知っています。どんどん魔術に魅入られて、入り込んで、そして使っていたはずの魔術に使われる。最終的に、そうなった人間は身を滅ぼしてしまう。八代君が如何に強い精神力と自制の心を持ち合わせた素晴らしい人間だとしても、絶対にそうならないなんて虫のいい保証は私には出来かねます。ましてや遊び半分で魔術に手をだそうだなんて笑止千万ですよ」

 彼女は静かに、落ち着いてはいるがしっかりと、断言した。僕は間をおかずに、それに対して反論の口火を切る。

「でもな、畑中。僕の場合この腕輪が外れるまでどうにもならないんだぜ? 別に遊び半分で魔法に手を出そうってわけじゃあない。君は確かにすごい魔法使いなのかもしれないけど、それでもボディーガードが絶対に完璧ということもないだろう。僕が魔法を学んで不利益になる道理がどこにある?」

「だめなものはだめです」

 しかし、畑中の心証は動く気配がない。思っていたよりも頑固だ。普段学校で見ているおっとりとした見かけとのギャップのせいもあるだろうが、存外押しに強いことで僕はありていに驚いた。

「悪いけど、僕だって退く気はないよ。昨日のことだって、僕が生きてるのがそもそも奇蹟的な話だとは思わないか? あんなことがこれからあるとしたら、その時僕はどうすればいい。今度もまた無事に済むと考えられるほど僕は能天気な馬鹿じゃない。それともあれか、家庭用包丁かなんかで武装でもすれば魔法使いなんて簡単に撃退できるとでも仰るのか? アーティストの畑中さんは」

「……あれは、私の不注意です。それに、私がついている限りでそんなことは起こり得ません」

「可能性は0じゃないだろ」

「限りなく0に近ければそれは起こらないのと同じことです」

 そして、沈黙。二人が二人して共に一切退こうとしないわけで、会話が会話としてちゃんと成立していない感じだ。駆け引きと呼ぶには幾等か稚拙だが、僕らのその交渉的やり取りはトークにおける並行条件を見事に満たしているらしかった。しかしここで折れるというのも、何だか負けた気がしてイマイチいい気分ではない。僕はぬいぐるみをまたいじり始めた畑中を睨みながら、無言を貫きとおす。

 たぶん、そのまま一日が過ぎた。

 と言ってしまっても何ら僕の主観的時間経過の観測には問題がないだろうというくらいの長時間、僕ら二人は同じ部屋にいてなおたった一つのコミュニケーションもなく過ごした。実際僕には相当長く感じられたわけだし、少なくとも三十分はそのままだったというのは時計を見る限り事実にそこまで反しているわけでもなさそうだ。

 さすがにここまで時間が経てば不安にもなる。

 畑中は、本当に何も教えてくれる気がないのかもしれない。とか。

 ……折れようかな。

 と、あまりにも軟弱すぎる思考回路が持久戦に耐えあぐねてギブアップを要求し始め、僕が何度目になるか腕を組み替えようとした時、まるで普通の少女の如くぬいぐるみと戯れていた畑中がふと顔を上げた。

 そして諦めとは違う、少し呆れたような、困っているような、それでいて怒っているようななんとも微妙な表情を浮かべて、彼女は沈黙を破る。

「しょうがないですね」

 どこか弱気な声で、畑中は言って。

「……さわり、くらいなら」

 そして、嘆息した。

 ギリギリのところだったが、我慢比べの勝者はどうやら僕に決定したようだ、ああ助かった。と思ったら、畑中は不意を打って散々遊び倒したライオンのぬいぐるみを僕へと投げてよこす。というより、思い切り投げつけられた。顔面コースのそれを咄嗟の反応で何とか受け止めてから、僕はヘラヘラと笑ってみせた。それを見てか、畑中は不機嫌な声音のまま続けて言った。

「でも、それで終わりにしなきゃだめですよ。あなたが踏みこんでいいのはここまでです。それ以上は、だめですから」

「わかってるって」

 僕はライオンを元居た母の机の上に戻してあげてから、勉強机みたいな母のデスクの椅子を引いて、座った。

「それじゃ、早速ご教授願おうかな、畑中先生」

 

 はい、回想終わり。

 そんな感じの会話をこなしたのが今となっては大分前に感じる、四日前。土曜日の夕刻のこと。こんなことを思い起こしてみる程度には……僕は往生際が悪い。

 結局、約束――でもないが、彼女が提示してきた条件は僕が一方的に破ってしまった。

 これ以上は踏み込まない、なんて。

 残念だけど、そんなことは無理だよ、畑中。

「八代君、聞いてるかなっ?」

「……これ以上ないくらい限りなくバッチリ、完璧なまでにリスニングしてますよ」

 僕の思考に横から割り込んだ挙句、朝だというのに妙なテンションで僕にまとわりつく金髪。是非ともやめていただきたい。

「あぁ! さすが八代君。今別のこと考えてた癖に僕の話はバッチリ聞いてるなんて!」

「はあ」

 やるせなくやる気のない相槌を返すも、龍ちゃんはその辺の小学生よろしく僕の腕にベッタリと纏わりついて離れない。これが女ならよかったとまではさすがに言えないが、男であるならばこれはむさ苦しいだけである。と思った僕であったけれども、龍ちゃんに限ってはそんなことはまるでなく、むしろ爽やかないい香りさえ漂ってくる始末。それでも、いい大人の体躯を持った二人の男がじゃれ合っている図など、傍目を考えればおぞましいだけだった。まるでぞっとしない。

 そういうわけで一応拒否反応は示してみたものの「お兄さんと八代君はもう友達だよね? だから何も問題はないよっ!」と、耳元で喚かれた。なんかもう、龍ちゃんがそう言うのならそうなのだろう、という気さえしてきたが。

 というか、あんた。ため口どうのこうのはどうしたよ。敬語でいいのか?

「んー、それはあれだよお。八代君のイメージに合わないからやめやめ」

 山の天気よりも変わり易い人だな。

「あぁ! それは違うー。山の天気が変わり易いんじゃなくて平地の天気が変わりにくいだけ」

 同じことじゃないですか。

「んー、確かにそうかもね。客観視すれば、ほとんどの事象に対する結論は大体一つに収束する。数学や科学で求められる解なんてのは得てしてそういうものさ。でもここで重要なのはどちらを基点にして物事を眺めてるかってことだよね。今この屋上にはお兄さんと八代君しかいないわけだから、条件はイーブンだよ」

 どこかがおかしい思想家のようなことを言い出したぞ。

「つまり! さ。この状況下でどちらかの視点で物事を見ることに意味はなし。結局僕が変わり易い人間なのか君が石のように堅い人間なのか、それを測る基準がないんだからね。あるいはこの場にもう一人、気分で物事をころころ変えるような人間がやってきたらその時仲間外れになるのは八代君だよ。そうなればはやっぱり、平地の天気は変わりにくい、が真理なのさ。言ってる意味わかるかなあ?」

 龍ちゃんの意味不明な戯言を聞いて僕は、まさしくどうでもいいことを一つ思い出した。

 かの高名な画家、エッシャーのだまし絵に『凹凸』というのがある。

 それがどんな絵だったか細部まで詳しく鮮明に記憶しているわけではないが、しかしながらその絵が如何なるだまし絵だったかくらいは覚えている。あれはたしか、上下反転させてみると凹面が凸面に、凸面が凹面になったかのように見える、といった類のトリッキーなアートだったはずだ。目で追っていけばいつの間にか騙されている、というタイプの絵画ではないにしろ、やはりああいう絵はただ見ているだけで、ただただ面白い。エッシャー程巧妙に人間の粗をついた人間はこの世に数多くないと思われるが、まあそんなことはいいとして、少なからず今のこの状況はその『凹凸』という絵に似ている気がしたのである。

 どちらの立場に立つこともでき、どちらの見方をすることも味方をすることもできる。

しかも今この場合においては凹凸の割合が一対一であるからして、どちらをどう見たところでそこに明確な差異も基準値も存在しない。同値であることが平等だとは思わないが、しかしそこに多数派と少数派の概念は適応されない。

 しかし、その均衡が少しでも崩れれば。

 いくら見方を変えてみたところで、少数派は何時までたっても少数派なのである。どれだけ絵をひっくり返してみても、少ないものは少なく、多いものは多い。

 そして、少数派はいつしか隔離される。

 非凡であるということは凡に非ずということであり、それはすなわち優れた突出を示していると同時に落ちぶれた民主主義の被害者を表しているわけだ。人が多くなればなるほど、人は人でなくなり、人である以上の巨大な何かにその姿を変質させ、やがて人でいるべくマイノリティの人間はそのおぞましく気味の悪い何かに、踏みつぶされる。

 それが良かれ悪しかれ、どんな手段と形式を伴ってさえ、切実に、確実に。

 龍ちゃんの言いたいことも、なんとなくわかる気はしたが。

「……」

 僕は言った。

「わかりたいとも思わないのでそもそもその質問を却下させてもらいますよ」

「にゃは! いいね、その受け答え。今度美鈴姉ぇに使ってみようかな」

「……意外と勇気あるんですね」

 あの人にそんな挑発的な態度を取ったりすれば、ひどく恐ろしいことをされそうだ。

「あぁ! 擽り拷問くらいなら、やりかねない」

 怖すぎですね。怖いもの見たさってやつですか。

「にゃはー、いやね、お兄さんは基本的にMだから」

「……………………」

 ええと。

 こいつのせいか!?

 畑中が僕をM呼ばわりするのは美鈴さんがこの金髪爽やか野郎をM呼ばわりしてるのを常日頃から目撃しているからなのか!

「まあ、親の背中を見て子は育つって言うしね。蝋燭プレイの背中とか」

「モロにあんたのせいじゃねえか!」

 力任せに龍ちゃんを振り払って、僕はあらん限りに叫んだ。八時過ぎの学校屋上に、悲痛な言霊が響き渡って霧散する。

「にゃははは、さすがに穂波ちゃんの前ではそこまではしないよ」

「穂波ちゃんの前では、ってなんだよ!」

 畑中の前じゃなかったらするのか!? 蝋燭プレイを!

「ていうかそもそも美鈴姉とはそんな仲じゃないし」

 じゃあどんな仲なんですか。

「ううん……」

 快活な顔を悩ましげにしかめて、龍ちゃんは僕の問いに考え込む。確かに、美鈴さんは畑中の保護者代わりといったようなことを口にしていたが、美鈴さんと龍ちゃん、二人の関係性は未だ僕にとって謎のままである。

「あぁ!」

 と、龍ちゃんは閃いたように顔を上げ。

「僕が一方的に暴力を受けて悦んでいるだけの仲、かな」

「おまわりさーん!」

 変態がいますよ! 僕の目の前に!

「にゃはは、軽い冗句だってば。冗句冗句冗句」

 三回繰り返したことによって懐疑性が増したという残酷な事実を口にしようかどうか迷っていると、龍ちゃんはまたしても僕の背中へと回り、両肩に重量がかけられる。そして頭の上に、龍ちゃんの顎がごつんと音をたてて乗っかる。

「重いですってば」

「いい加減元気だしなってえ、お兄さんまでテンション下がっちゃうでしょうが」

「……元気ですよ、十分」

 それは、まあ軽く嘘だった。強がりというやつだ。ここにきてようやく状況説明の一文を挟むとすれば、それはつまるところ。

「一昨日からずっと、穂波ちゃんから無視されちゃってる、ってことだよねー」

 そう。昨日一日、僕は畑中と一言でさえ言葉を交わしていない。家で無言、学校で無言。

 幸い畑中は絵のレクチャー、僕はマジックのレクチャーに回ったため文化祭の準備に際して僕らの破たんした関係性が露呈し得ることもなかったが、やはり無視されるというのは相当につらいことである。つらいことである。つらいことである。

 そして今日の朝も食卓に流れる空気は実に悲惨な物だった。僕は結婚はおろか女子とのお付き合いすらも経験していないというのに、離婚寸前の熟年夫婦の気分を味わった、と言って何ら差し支えもなさそうなくらいだった。

 とにかく家でおとなしくしているのは座りが悪すぎるし、彼女も彼女で僕には護衛として僕にはしっかり付きまとうわけで、その事態を解消すべく僕はまたもや早朝登校を決行し、屋上に向かったわけだ。畑中はドア一枚隔てた校舎の中で、寡黙に僕を見張っているようだった。面と向かっていないだけ、これは全然マシだ。

 と解放感に満ち満ちた夏の青空に一安心したところで、屋上には何故か青とオレンジ配色の長袖Tシャツに、短パン皮靴の金髪が居たわけで。龍ちゃんは時間潰しにはちょうどいい話相手だった。少なくとも今畑中と話すより数億倍は気が楽である。

「……だから、畑中とは会話してないだけだって言ってるじゃないですか」

「酷い言い訳だね」

 その言葉には、僕は自分自身の味方をやめて、龍ちゃんに同意せざるを得ない。

「それでも護衛っていう役回りだから近くで君のことは見張ってるわけだ。にゃははは、超気まずいね」

 笑ってそんなことを言うのは止してくださいよ。僕だって地味にダメージ受けてるんですから。

「あぁ! さすが八代君、人を傷つければ自分も同じように傷つく。いい人の典型だね」

「そんなんじゃありませんよ、ただ」

 ただ。

 ただ、何だ?

 その後に言葉は続かなかった。漂白剤で洗った服みたいに、頭の中は真っ白。

「ま、いいか」

「えー? そこでやめちゃうのかい?」

 肩が軽くなったと思うと、視界の横から伸びていた両腕が消え、そして笑ったままの龍ちゃんが金髪をなびかせて再び僕の正面に現れる。

「さてさて」

 そしてニヤニヤと、あの笑みを浮かべる。僕の嫌いな、ポーカースマイルを。

「もうすぐ文化祭だね」

「……そうですね」

 エメラルドの如く煌めく碧眼が、夜の猫みたく僕の瞳を抉ろうとしている。目をそらすことなく、僕は正面に立つ豪奢な金髪の男を逆に睨み返してやった。

「楽しみだねえ」

「そうでもありませんよ。僕に限ってはね」

「そうかい?」

 そうだ。それ以外はあり得ない。楽しいはずがない。

 ただでさえ七月七日はそういう日なのだ。それに加えて、今回は特に。

「ま、いいけどね」

 龍ちゃんは、鼻につかない動作でやれやれとばかりに前髪をかきあげた。

「お兄さんに会いたくなったらいつでも呼んでよ。すぐに会いに行くからさっ」

 そして再び、僕を碧が貫く。ジロリ、と。ガラス玉みたいになった瞳は、一直線上で僕と龍ちゃんを結びつけていた。

「……残念ながら、畑中に言わせればですが、個人的にあんたに会いたいだなんて思う程僕の頭はいかれていませんよ、まだね」

「あぁ! そりゃそうだね、正論だ。うんうん。それじゃまあ、お兄さんもこう見えて暇じゃないんだよ、そういうわけでそろそろ消えるとするねっ」

 と、僕のあからさまな皮肉にさした反応を見せるまでもなかった龍ちゃんの、明るく朗らかな声が僕の耳朶を打った次の瞬間には、その姿は既に僕の目前から消失していた。刹那の間に、僕は屋上に一人きりである。蝉の声は、こういう時だけじんじん唸って、僕の耳を溢れそうな夏の音で満たしていた。

 もはや驚くことはなにもなかったが。

 器用な人だよな、なんだかんだ言って。

「どうするかな……」

 さて、教室に戻っても構わないが、そうした場合少なく見積もってもあと三十分程度は言葉の使い方を忘れたような畑中と二人きりで空間を共にせねばなるまい。僕は畑中からM呼ばわりされてはいるがMではないのであるから、そんな危険な行為に走るなんて自重すべきだし、あの刺すような詰まる空気は経験すること自体そもそも御免被りたいからな。それならやはり、もう少し屋上で思考していることにしよう。僕は屋上を囲む青い手すりまで歩き、じんわりと熱を持ったそこに、正面からもたれかかる。

 龍ちゃんがいい話相手だったというのは半分は正しいが、半分は嘘だ。

 無垢で純粋な雑談だけで時間を浪費することが可能な程、僕と彼の関係は清々しいものではない。無様で馬鹿げた談笑だけで興を尽くすことが可能な程、僕と彼の関係は初々しいものではない。

 ジョーカー。

 腕輪と僕と『封じ屋』を結びつける、それが最大かつ最小にして唯一の、共通の話題。現実的で機械的で、どこか凄惨の香をも匂わせるトピック。彼にはまず、その話を振ってみた。淀みなく動いた彼の口から聞けた情報を、今は整理するとしよう。

 そもそもジョーカーという男は何者なのか。

 いや、男かどうかも、正式には不明らしい。僕だって声を聞いているだけなわけだから、それだけで男女の別を判断できるかと言えばそれは絶対に確実だとは言い切れない。隣で会話内容を指示して別の男に喋らせるといったことは可能だろうし、そもそも声の質なんてものはいくらでもいじることができそうだ。魔術なんて便利なものがあるならばなおさら。

ジョーカーの年齢、性別、国籍、その他経歴、他雑多。なんとも月並みなプロフィール情報だが、その全ては謎という闇に包まれている。

 奴が名前を馳せさせだしたのは七年前。そんな素性の知れない人物がどうして裏の世界において有名になったのかという僕の質問に対して龍ちゃんは「いろいろあったからね」としか答えてくれなかったけれど、ジョーカーというのは一言で言ってしまえば、『封じ屋』に対抗する新興組織の名前なのだそうだ。

 それは『封じ屋』と同じで「表と裏の世界のバランスを保つ為に動く」組織。しかしながら、その基本理念は封じ屋のそれとは相いれず、そもそも相互理解が困難らしい。というより、バランスを保つ、というのは一瞬美徳に聞こえはするけれど、やはりそれを利用した商いごとであるということで、要するに『ジョーカー』と『封じ屋』は商売敵なのである。

 ああ、無論人物名のはずが組織名という滅裂な食い違いを見逃しているわけではない。奴はそもそも自分の名を名乗っているわけではなく、自分の立ち上げた組織の所属の意味合いを込めて、それを口にしているらしかった。そう考えてみると、僕のことをジョーカーと呼び、それを戯弄の種にしているというのも分からなくはない。慇懃無礼な話だ。それにしても。

 商売敵、か。

 一体世界のバランスを保つ、なんていうファンタジックで勇者チックな務めのどこに商売なんていう不義な要素があるかは、てんで予想もつかない。だが、世界の構成物質がどれほど変わったところで、そこで暮らす人間の構成物質は変わっていないようだった。結局表だろうと裏だろうと、人の醜悪は依然として変わっていないわけである。美鈴さんの言っていた通りということか。興を削がれる話だな。

 僕は運動場を見下ろして、ぱらぱらと増えてきた生徒の影が、次々と校舎に吸い込まれていくのを気抜けに眺めた。みんな気楽そうだ。実際に気楽かどうかはともかくとして、今その足並みに僕自身が加われるとすれば僕は喜んでここから飛び降りてもいい。

 絶対に無理だけど。二つの意味で。

 さておき、後どれほど僕はここで日光浴を続ければいいのだろうか。そう思い、ようやく使い方に慣れてきた携帯電話を取り出して時間を確認しようとした時だった。

「――八代?」

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