2.始まりの始まり
夕空は見た目にはまだ大分赤く照っているものの、電気の点いていない教室は東向きなので、既にほとんど「真っ暗」と形容して有り余るまでの暗さになっていた。僕は再び椅子に座る気にもならず教室の外に出る。そして夜になって点灯された薄明かりの下、教室の壁を背もたれにして初夏にしては冷えたコンクリートの廊下に座り込んだ。
夢、だったのだろうか。
考える僕。しかしその安直かつ楽な考えを真っ先に否定してしまう存在が右手首にあるわけで。半透明に思えたがよく見ると肌まで透き通って見えているわけではないようで、見れば見るほど不思議な色合いだった。
それは手の甲側から見れば、なんの装飾もない青いガラスか何かで作られただけの安っぽい腕輪に見えるが、手首を返して反対側から目を凝らすとそこにはなにやら文字のようなものが彫ってある。
「なんなんだよ、これ」
しかしながらそれを読もうなどという気力は欠片もない僕は、腕輪が視界に入らないように腕を下げた。
首輪を付けられた犬の気分ってこんな感じだろうか。何故かそんな風に思えたりして、みじめにもなり。
この腕輪は明日になった程度で都合よく消えてなくなったりしないだろう。こいつはさっきの幻聴や幻覚のようなものより、ずっと確実な存在感を持っている。そのことが逆に、気味が悪さを強調しているとも言えた。冷静になった今思い返すと、一連の体験がどれだけ常軌を逸していたかが実によく理解できる。
少なくとも校内に草原はないですからね。
音や声だって考えれば考えるほど幻聴や幻覚の類に思えたし、というかそうでなければなんだというのだ、加えてあんなに頭が回らなかったのも何か内的要因があるように思えてならない。だからこそ気味が悪いのだ。
それらの考えは、すべてこの腕輪の存在が却下してしまうからに他ならない。
しかも一番厄介なのは、外す方法が分からないということだった。
腕輪なんて物は生まれてこのかた身に付けたことはなかったが、腕時計と同列に考える程僕はおめでたくは出来ていない。それをどうやって付け外しするか、大体の見当くらいはつく。だけどこれには外すためのスイッチもなければ、切れ目一つすら見当たらない。言うなれば指輪をそのまま巨大化させたような代物で、下手な知恵の輪よりずっと難解だ。一見して、素人に取り外すのは無理なようにも思えてくる。
これを付けた人間の意図も解らなければ、付けられた方法も解らず、外す方法も当然のように解らない。
これでは、いつまでも何が何だか解らない。
突き詰めた究極的な手段として、超強力なカッターか何かで無理やり切り離せばさすがにこの腕輪も音を上げるだろうが、そこまでいくと逆に病的だし、今の僕にはそれ以外を思いつくだけの余裕もない。このまま帰宅しても構わないが、やはり確かな恐怖は依然として残る。
僕は深く項垂れた。
しかしながら頭を抱えているだけでは何も始まらないということもまた確かな事実だった。ここで座っていて解決策がひとりでに飛んでくることなどあり得ないだろう。自分で確かめられることは自分で確かめるのが一番てっとり早いし、それによって誰かの手を煩わせることもない。
だったら僕の行動は決定していると言っていい。
「もう一度美術準備室へ、か」
ぶっちゃけ、気が進まないよ。
しかもこれでまた草原だったらその時は掛け値なくどうしようもない。
それに草原で済めばまだいい方だ。いや、よくはないが、現状、さっきの出来事以前の物差しで今の世界を見測るのは様々な意味で安直すぎるし、危難である。今からは、学校にいる間だけでも、警戒心を怠るべきではないだろう。何にしろこれ以上何か訳のわからないことが起こったりすれば、僕自身がいつまで冷静を保てるかも幾分怪しいところだ。
ここまで考えてみて、一つ伸びをする。
とりあえずのところ、自分の体験談を他人に語って助けを求めるつもりは毛頭なかった。それは確かに自身の身を守るためでもあるのだが(こんなことを安直に他人に語ったりすれば、その先の展開はベタすぎる程見えているからね)単純にそうしたくないという欲求がある。
それはつまり、うんざりすることではあるけれど反面これで興奮しないなんていうのは僕じゃない、ということで。少し落ち着いた今はこの状況を楽しむ余裕がほんの少しだけ出てきたらしい。
などと言っているその余裕とやらは、結果的に僕がもう一度美術準備室を訪れるまでの数分間だけのものだった。
僕は適当に思考を打ち切り、腰が重くなる前にカバンを手に立ちあがって、教室の正面に伸びる渡り廊下を歩きだした。旧校舎は電気の系統が違っているのか、まだ明かりが灯っていないようだ。普段こんな時間に学校にいること自体滅多にない僕が「まだ」という副詞を使えるのかどうかはともかくとして。
部活も大半がその活動を終了し、昼間のにぎやかさを失った誰もいない校舎を一人分の足音だけが静かに通り抜ける。
そしてあっけないほど何事もなく、再び美術準備室の前の扉へとたどり着いた。次は何が起こるのかと、半ば期待しながらドアノブに手をかけかけた、その時。
それは起こった。
起こってしまった。
トス。
頭のすぐ左横で、そんな感じの尖った音がした。見れば、ドアに何かが刺さっている。
ダーツの矢だった。
一瞬にして複雑に絡み合った思考がその念動を停止する。
明らかに異常。僕の動きはドアノブに手をかける直前で、一時停止したビデオテープのように固まった。一日のうちにこんなに何度も嫌な汗を掻いた日はこれまでになかった、あって欲しいと願ったつもりなんかもっとない。だったらこれは誰の嫌がらせなんだろうか。
そんなことを考える余裕すら、もはや僕には残されていなかった。
木製の枠のガラス窓から差し込む西日を背中に受けながら、振り返らずにそこに人がいるのがわかる。一人分の影が僕の足元に伸びているのが見えたからだ。
「実は私、ダーツが得意なんですよ」
そして、穏やかな、聞き覚えのある女の声が人のいない廊下に響いた。
「……畑中?」
喉がかさかさに乾いて、声がしわがれる。返事はない。僕はそれを無言の肯定と受け取った。
少なからず驚く僕。驚愕から驚愕をはじき出すのには十分すぎるほど、その声の主は意外な人物だったのだ。文化委員の相方、畑中だ。何故クラスメイトの女子が放課後の美術準備室の前でドアに向ってダーツを投げているのかという理由を考える前に、真っ先に浮かんだ疑問を一つ、彼女にぶつけてみる。
「まだ学校にいたのか?」
トス。
それは僕の右耳の5ミリ横にもう一本ダーツが刺さった音だった。
刹那の遅れを経て、頭が状況を理解し始める。
「私の家はそこですから、八代君がどいて下さらないと」
「…………」
いやまて、自分の耳を疑ってみたところで、自分の耳がいたって正常であることを再確認するだけなのは分かりきっていることなので、疑うなら畑中の頭のほうということになるが、そこのところどうなんだ? まず、振り返らないと彼女の姿は見えないけど、おそらく手にはまだ何本ものダーツがあるはずである。そう考えると、今の電波な発言に対して無闇な返答はすべきでないというのが模範回答に違いない。
そのふざけたセリフには無言を返す。
頭の残ったスペースでは、畑中が僕を襲う理由を探すが検索スピードは一向に上がる気配がない。そんな風に頭が鈍るのは決して今の状況に焦ってるからではなかった。焦りがないはずはないのだが、一番の原因はそれになんとなく予想がつくからだ。
嫌な予想が。
「なあ畑中、僕はさ、ダーツってのは人に向って投げるもんじゃないと思ってたけど?」
僕が言い終わる前に、影が動いて投擲の姿勢に入るのが視界に入り、僕はあわてて後ろを振り向いて、一驚した。
日本人離れして色素の薄い、しかし艶のある明るい栗色の、ところどころ撥ねた長髪。夕焼けに映えて亜麻色になった彼女の髪は、飴細工の透明度でキラキラと輝く。そして穏やかな眦は平生と変わらず、髪と同じ栗色の濁りのない双眸が僕をまっすぐに捕捉している。
人形みたく綺麗に整った顔立ちの畑中は、その顔が勿体ないくらいの無表情でそこに立っていた。ワインレッドのネクタイが目立つ、制服を身に纏って。
いつも教室での影が薄い彼女を正面からしっかりとみた感想は、思っていたよりもかなりかわいい、である。確かに、驚きだ。いや、僕が驚叫したのはそんなことに対してじゃない。
彼女は手に何も持っていないのである。
「なかなか面白い顔ですね、八代君」
何の不備もないといった手つきで、畑中が指だけを数センチ動かして虚空にある何かをつかみ、ダーツを投げるようにこちらに向かって手を振った。
トス。
まさか、と思う間もなく、僕の頭のすぐ上のドアにどこからともなく現れたダーツがもう一本、綺麗に突き刺さった。
僕は今、起こり得ない、起こってはいけない現象を目の当たりにしている。
「き……君は一体何を、」
声が上ずった。だめだ、冷静さを欠くな。落ちつけ。
「次は当てますよ八代君――目にね」
その発言と畑中の表情に僕はぞっとした。穏やかな眼だったが、その奥底に宿るのは、確実に――本気の色。二人の間には数メートルほどの距離があるはずで、彼女は手に何も持っていない。だが今やそんなものは安心材料としてまるで藁ほどの意味をもなさなかった。僕はおそらく畑中から、のど元に冷えたナイフを突き付けられているのだろう。
僕としても我慢の限界だった。もうそろそろこの質問を繰り出してもいいだろう。目の端で右手首に残存する腕輪の存在を確認し、恐る恐る口を開く。
「――これのことか?」
右手を持ち上げてそれを見せながら言った。乾いた唇がぱさぱさする。畑中は、相変わらず空中でこちらに狙いを定めるような形で手を止めたまま、今日初めて僕と正しく会話を成立させた。
「ええ……その通りです。だったら話は早いでしょう? 私に手荒な真似をさせる前にそれをこちらに渡してください、ジョーカー君」
僕はその発言にかすかな違和感を覚えた。
むしろ違和感だらけだったとも言えるが、それは無防備な僕を背後から奇襲してる時点で既にだいぶ手荒だと思ったからかもしれないと適当な理由をつけて納得しておく。しかし、こんな内実不明な腕輪にかかわっている時点で何か起こるとは思っていたが、まさかドアを開ける前からこんなことになるなんて予想外もいいところだ。
「残念だけど、僕はこれの外し方がわからない。即ちこれを今君に渡すことはできないってことだ」
すでに沈んでしまった太陽の余光のおかげで、かろうじて確認できる畑中の顔は相変わらず無表情に見える。実際、そうなのだろう。無表情程相手にしにくい顔はない。
「ふぅん。ではどうしてあなたの右手にそれが装着されているのでしょうね」
ドスが効いている。正直効き過ぎだ。普段の柔らかい、温和そうなイメージとは全くかけ離れたやりとりに、僕は動揺を隠しきれない。だが、それが言葉に表れぬよう、出来るだけ強気に言葉を組み立てる。
「それは僕が知りたいくらいだよ。君は何か知ってるのか? この腕輪のことを」
だが今の僕の発言に向こうも違和感を覚えたらしかった。
「……すべて知っての上かと思ってましたが。違うのですか?」
今度は何を言い出すのかと思えば、なんだ、さらに訳が解らないことを言い出したぞ。
「君が何を言ってるのか僕にはさっ、っぱり!」
中途半端なところで発言を切った理由は、右手のカバンを顔の防御に回すためだ。
トス。トス。
ほとんど間隔なく二つの音と軽い衝撃が僕のカバンの前面から響く。
畑中は迷いなど微塵もなく僕の両目をつぶそうとしていた。カバンがなければ間違いなくヒットだ。これ以上の会話も望めなさそうである。
――これは、殺されるな。
僕の本能が理性へとそう訴えかけ、僕の理性は1秒と経たずあっけなく陥落した。
張りつめた空気を壊すべく、ある意味で開き直った僕はカバンを首と後頭部のカバーに回して、本能に身体の操縦を任せ走りだす。ごちゃごちゃ言っても仕方がない。だったらこの状況には立ち向かうの一手しか残されていない。
とった行動は逃げだけど。
「あ、待ちなさい!」
もはや完全に日の光の差し込まなくなった闇の廊下を、目的地なんて設定せずにめちゃくちゃに駆け抜ける。畑中の方も僕のこの行動には虚を突かれたようで、追ってくるのにタイムラグがあった。
予定はない。目標もない。当然ながら余裕もない。だがこれから何をするにしても、とにかく彼女の目の届かないところにいないと生きている心地がしないのは確実に確固を重ねた上でさらに明確だ。
「待ってください! じゃない、待ちなさい! 痛い目を見ますよ!」
後ろから聞こえる畑中の声は、威勢はよくてもだんだん遠ざかっていく。50メートル走6秒4の脚は伊達じゃない、確かに変な姿勢で走ってはいるが同じ帰宅部なら女子に追いつかれる道理もないだろう。それでも今は何も考えずに脚だけを動かす。畑中のあのダーツの射程から逃れなければ安心などできない。僕がさらに加速して旧校舎の階段を駆け降りようとしたその時。
「シエロフューズ!」
畑中が発したその単語の意味を理解しようとする前に、僕はひんやりとした手で、右足首を掴まれた。
「うわあっ!」
そのまま動かない右足。一段目を左足で踏んだ後、次の一歩が出ない僕は階段を派手に転がり落ちる。視界のすべてが回転ののち、暗転。痛いと考える暇もなく、次の瞬間僕は一階と二階の間のフロアに頭と身体を瞬間的に強打し、のたうち回った。
ん?
がんがん痛む頭や、息苦しい肺をいたわるよりまず、ある違和をひとつ覚える。確かに右足をつかまれたと思ったのに、畑中の姿はまだ僕の視界にすら入らない。じゃあ右足は何故急に動かなくなったんだ? 改めて右足に感覚を集中する。
右足がない。
「え……?」
ない。なかった。あるという感覚が全くない。僕は暗闇の中、上体起こしを即行し恐るべき現状を目を凝らして確かめた。
右足はある。
「え……?」
ある。あった。僕の右足は変わらず僕についていた。ひどい認知的不協和が僕の中で起こる。しかしどう動かそうとしても僕の右足はピクリともしない。月並みだが、まるで右足だけ僕の体じゃないみたいだ。
などと、そんな悠長な感懐を述べている場合ではなかった。
「そのままそこにへたりこんで居てください」
そうこうしているうちに、追いついた畑中が癖のある栗色の長髪を揺らしながら階段を降りてくる。ゆっくりと、一段ずつ踏みしめるようにして、彼女と僕の距離はどんどん詰められていく。
「僕の右足に何をしたんだ!」
「別に……ちょっと動かないようにしただけです」
それじゃ全然答えになってない! 僕はそう叫びたかったが、感情の高ぶりのせいか開いた口から出た声はしっかりとした言葉を形作ろうとしない。
何故僕はこんなことに?
僕はここでどうなるんだ。訳の解らない変な腕輪を勝手につけられ、僕の知りもしない身勝手な理由でクラスメイトに殺されるのか?
そんなのはごめんだよ、絶対に。
詰まる所このままだと、明日の朝刊の見出しが『高校生殺害事件。容疑者は同級生、同機は失恋か?』なんてことになりかねず、少なくともその動機が失恋なんて生ぬるいものでないことだけは現在進行形で確かだった。
「あっけない終わりですね」
必死でダーツが二本刺さっているカバンの中をまさぐる、何か、何か武器になるようなものはないか?
「……あなた本当にジョーカーなんですか?」
何もない。教科書や筆箱を投げつけてみたところで、この状況を打破するには至らないだろう。どうせ足掻くなら、悪くない足掻きをすべきだ。コツ、と畑中が最後の一段を踏み降り、二人の間にはもう1メートルも距離がない。
まずい、このままだと何をされるかわからない、せめて右足が動けばまだ逃げられるだけの体力は残っているのに、いや、だめだ、たとえもう一度右足が動くようになって逃げられたとしてもまた動かないようにされるだけじゃないのか、結局ここで彼女を足止めしていないと僕の逃げは成立しない、だったらここで彼女に対処する方法が必要になるがそれはないことを今確認した、素手でさっきの手品に立ち向かえるとは到底思えない――ど、どうする!
「さようなら、八代君……いえ、ジョーカー君」
僕を薄汚い下等生物のごとく見下すその立ち姿は、さながら獲物を追う狩人で。
僕は獲物か? 狩られる側なのか。狩られる獲物にはその理由さえ与えられないってのかよ、畜生。
畑中が前かがみになり、左手を僕に向って突き出す。激烈な恐怖感が僕の身体を緊縛し、その手を払うことさえ許さない。
――やられる!
『死を覚悟するにはまだ早すぎるな』
それが誰の声かという思考に達する前に、自分の右手が蒼白の輝きを放つのを僕は見た。畑中はそれに気が付かない。ふと思い出される一つの諺。
「追い詰められた鼠は……本当に猫を噛むんだろうか、なあ畑中」
そんな僕の呟きなどはなから気に留めるつもりのないだろう畑中は、じわりじわりと僕へ左手を伸ばす。
そして自分でも何故そうしたのか未だに分からないが、僕は無我夢中で差し向けられた畑中の左手を右手で、指をからめて、掴んだ。
今まさに。その言葉通り、窮鼠は猫をかんだのだと。僕は瞬間に理解した。
もっとも、彼女が猫なのはいいとして、僕が鼠だなんて死んでも認めないが。
「な……っ?」
畑中は小さく声を上げ、全世界が停止した次の瞬間。
僕と畑中の間で小さな爆発が起き、繋がれた腕の中を高圧電流が走りぬけた。
「っ! な、何――これはっ!」
僕の手から発せられる光と、畑中の手から発せられる光が混じり合って腕から順に二人を真っ白に包み込み、夜の階段をいやに明るく照らす。痛みとは別次元の衝撃。繋がれた右手と左手を起点にして、ビリビリと空間ごと揺さぶる震動。目をあけているのがやっとの状況で、僕の顔も畑中の顔も苦痛と驚愕に歪む。僕は上半身を起したままでいることができず、床に背中を付けた。それに連れられて畑中も膝と右手をつく。だけどそれでも。
「離しなさい! このままだと何が起こるか……」
だけどこの手は絶対に離さない。
「離しちゃいけないんだ!」
何が起こったって離してやるもんか。その思いだけが、僕の頭を占めていて、僕の手に万力のような力を与えていた。
一瞬のうちに放出されたエネルギーは、今度は逆に収束していく。そしてそれが二人の中心に集まり終えると、一気に畑中の側へと流れ込むのがわかった。
「や――いやぁっ!」
畑中は、僕の一度も聞いたことがない大きな声で叫び声をあげた。
バチッ!
また小さな白い爆発と共に感電したような音が響いた後、しっかり握っていたはずの僕と畑中の手はいとも簡単に解けてしまう。にわかに畑中は両膝をつくと、仰向けになった僕の上にそのままばっさりと倒れこんだ。
僕は空いていた左手で彼女をなんとか受け止める。
体積の八割がたが僕の上に乗っかっているとは信じられない軽さだ。ふわふわの髪が顔にかかり、女性特有のいい香りが鼻腔をつく。
「……畑中?」
弱弱しく声をかけるも、やはり、気を失っているのか返事がない。
普段ならそれはもう理性を正常に保つのも困難な状況なのだろうけど、僕も僕で全身の力が抜けてしまい指一本微動だにすることができない。その上少しでも気を抜けば自分の意識も簡単に手放してしまいそうになる。
不自然な恰好で廊下に横たわり、再び闇を取り戻した暗がりの中、ほとんど何も見えない状況で畑中の体温だけを感じ、散り散りになった意識のかけらをかき集めてなんとか形にすると、かろうじて頭を回転させた。
助かった。……のか?
さっきの声は一体誰のものだったんだ、聞き覚えのある声ではなかったけど。
僕は一体これからどうすればいいんだろうか。とりあえず、動けない。
今日の晩御飯、なんだろうな。
……、眠い。
何か考えてないと……寝てしまう。
…………寝ちゃだめだ。
………………。
結局そんな努力は徒労に終わり、勘考はまどろみと人肌のぬくもりの中に落ちていった。