24.質疑応答
あまりにあっさり移動が完了してしまったため、この大理石造りの空間が今既に僕が普段いる世界じゃないという実感はあまり湧いてこなかった。もっともながら、移動した、という感覚を得ていないわけで、それも当然といえば当然であるのだが。
何の音もない。匂いも。おかしな出来事には幾分慣れたとはいえ、不思議なところだという感想を捨て切ることは僕には当分出来そうもない。
天井の四隅から降り注いでいる白い光というのも案外、白いのではなく単に色のない光なのかもしれなかった。そんなことは可視光線的にあり得ない話ではあるけども、もっと抽象的な段階でこの部屋には色がないように感じるのである。少なくとも白色というイメージより虚無色、そう表現した方がよりしっくりとくる。
しっくり、というよりも親近感――かな、この感じは。どういうわけかここにいると気持ちが落ち着く。この部屋の色は、僕に似ているのかもしれない。
なんて、自意識過剰か。
「何をぼーっと座ってるんですか」
そうして部屋を一通り見回した頃、畑中が静かに立ち上がり、そんな風に声をかけてきた。
「ああ、ちょっとね」
「行きましょう」
僕もその声に従って立ち上がり、大理石の床を踏みならす。畑中は慣れた手つきで『裏』側の扉を開いた。扉を開くのに慣れた手つきもなにもない気はするけど。
「あれ?」
しかし扉の先を見た畑中がまずあげたのは、わずかに驚きを含むそんな声だった。どうしたというのだろう。疑問に思いつつも、そのまま部屋の中に入っていく畑中について、僕も扉をくぐる。
そしてこの扉をくぐる際は毎回思うことなのだが、僕はもう少し躊躇すべきだった。
「あら穂波、おかえり」
げ。机を囲むように配置された椅子の一つに座っていたのは、艶のある黒髪を長く伸ばした女性。以前見た時と同じ白衣を身にまとい、背もたれのない椅子に姿勢を正して腰かけて、大理石の机の上に広げられた新聞に目を通している。
「美鈴姉。ただいま」
畑中が形式的に挨拶を返した。ふむ。前も聞いた記憶があるが、美鈴さん、かな。
「と……ガキか」
彼女は言って、僕の方をちらりとも見ることなく手元の新聞に目を落とし、机の上のコーヒーカップを口に運ぶと、中身をすすった。カップの中ほどに水面の見える暗黒は、まごうことなきコーヒーだ。芳ばしい香りが漂ってくる。
「こんにちは」
僕も、視界の端に金髪を探しつつ一応声をかける。人はまず第一印象から。よし、決めた。僕は好青年だ。好青年。
「八代です」
「誰があんたの名前を聞いたのよ。大体何? 男のくせに声たっかいわね、気色悪い。コーヒーが不味くなるから黙ってて」
「ぐ」
そこまで言う? しかもその言葉には抑揚がない。しかしフーとはまた違う抑揚のなさで、言葉の先端がいやに尖っている。それは言葉が尖っているのか、言葉に込められた気持ちが尖っているのか、はたまたその両方が尖っているのか。僕に知る術はないが、おそらく最後の線が濃厚だろう。犬を撫でに行ったらいきなり噛みつかれて犬が嫌いになった、とかそんな気分だ。その犬が尻尾を振っていないどころか低く唸り声を上げていることを確認しなかったのは、どう考えても僕の過失だけど。
思わず失礼な、これでも声変わりはしている! と叫びたくなる衝動を抑え込む。
こらえろ、好青年。ここはこらえるんだ。
「えぇと、私ちょっとしなければいけないことがあるので席を外させてもらいますね」
え?
「え、はたな」
言うなり、いそいそ、と畑中は僕たち二人の正面にある扉へと姿を消した。僕の発言の終わりすら待たずに。こんな素敵な空間に僕を一人残していくなど、彼女は意外に薄情な娘のようだ。おいおい、これは予想外だぞ。予想外もいいところだ。
「……あの」
「黙れっつったの。私が。聞こえなかった? 言うこと聞けないんなら毛虫のたっぷり入った壷にでも突き落とすわよ。毛虫が口の中に入って窒息。立ちあがれば毛虫を踏みつぶし、足が滑って壁を登ることもままならない」
「…………」
怖ぇ!
彼女は村上春樹が好きなのだろうか。いや、何が怖いってもう、その声の平板なこと平板なこと。そう、言うなればまるで彼女の胸のごとし。
「あんた、ひょっとして今何かものすごく失礼なことを考えていたわね」
「馬鹿な!」
何故ばれたし!?
「もし私の想像が一ミリでもあんたの妄想を掠めてた場合、手足を縛りつけて生爪をはがした上で指一本一本に釘を打ち込みさらにそこにろうそくを立てて火をつけてあげるわ。痛いし熱いわよ」
無表情で淡々と拷問方法を述べる美鈴さん。怖い。僕は右手で額を掴む。一ミリでも掠めてたらアウトなのだとしたら、じゃあ多分僕は存在してるだけでアウトなんじゃないだろうか? 思春期の少年をなめてはいけない。それはもう、基準がなくても常にアウト状態、脳内はピンク一色である。
『嘘をつけ。どちらかと言えばお前の頭の中は七色だろう。整頓されてないパレットだ』
丁度耳の近くにあった腕輪からフーが、僕にしか聞こえないだろう声で囁いた。それだとそもそもどちらかと言っていない気がするのだが、まあいいか。七色ね、間違ってはいない比喩かもしれない。収拾がついてないという意味だ。
そんなことよりもまず、あなたは拷問マニアか何かなんですか?
「マニア? はっ、人聞きの悪い。私はただ人を苛めるのが好きなだけ」
「堂々とS宣言ですか」
どうやら僕との相性はぴったりのようだな。畑中に言わせればの話だが。
「ちっ」
舌打ちも早々に彼女は乱暴な言葉を吐いた。
「新聞が読めやしないじゃないのよ。逐一鬱陶しいガキね、しね」
「僕は何もやってないはずだ!」
龍ちゃんはどこだ。こんな時こそあの高テンションが必要だぞ。美鈴さんは明らかにイライラしつつ新聞を畳んで、長い机の脇の方へと寄せる。ついでにコーヒーカップも。
「で、何」
そうしてから、切れ長の目をさらに細めて頬杖をつき、はじめて僕を直視する。なんとも面倒くさそうに。
僕は彼女を、改めて顔立ちの整った日本女性だと再認識した。現代人受けする顔ではなさそうだけど、江戸時代辺りなら将軍様の側室にでもなれたのではないだろうか。(今のは、多少失礼な比喩かもしれないが)どちらにしろ平均的な女性の顔立ちと比較しても美人であることは確実だ。大人の魅力、というのだろうか。かわいいというよりも美しい。そういう感想をもって然るべき、大和撫子。
無論これは顔という真実を伴わない外見だけに観察の範囲を窄小した場合の話であり、そんな顔に浮かぶ冷えたような、見下したようなぞんざいな視線は、どうも投げやりな感じで僕に向けられていた。
「何、と言われましても」
とにかく、今のところ彼女は僕と対話してくれる気になっているらしい。気をお損ねになる前に適当に話を切り上げた方がこの場合得策と言える気もする。
「残念ね、龍ならいないわ」
それでもなおあっさりと、美鈴さんは残念すぎる事実を口にした。
「え、そうなんですか?」
「あんた目と頭が悪いのね」
いや、さすがにここにいないのは見ればわかりますよ。そしてさりげなく馬鹿って言われたか? 今。とにかく龍ちゃんはいないのか。そりゃまいったな。彼には聞かなければならないことが多くあったのだけれど。
「ちょっと出張中、といったところかしらね。ニート面の癖に」
わかった。
わかったぞ。畑中の毒舌はこの人譲りだ、間違いない、絶対だ。畑中も元は無垢な少女だったのだ。彼女もまたこの人の被害者だったのだ。それにしてもニート面の癖に、ってかなり滅茶苦茶な暴言だよな。
さらにそれを如何にも理路整然とばかりに述べるから恐ろしいわけで。
「それで、何。私じゃ話し相手には不服ってわけ。ふうん」
「違いますよ」
そんなわけはない。そんなわけがない。
「ええと……ですね」
しかし困ったな。実に困った。このある意味密室ともいえる空間でまな板悪魔と二人きりか。畑中、早く戻ってきてくれ。一緒にフォークダンスでも踊ろうじゃないか。
「ま、いいわ。座んなさい」
正面の椅子を顎でさしながら、美鈴さんはこれまただるそうに僕に命じた。
「いえ、僕は立ってま」
「座りなさい」
押し黙る僕。いや、この場合押し黙らされた僕、だ。
ドスの利いた低い声。ああもう間違いないな。畑中の悪いところはすべてこの人から受け継がれているようだ。逆に言えばこの人は、畑中からいいところを全て取り除いた最悪の人物である可能性も否めない。そうなると災厄だ。
「座れっつったの。私が。聞こえなかった? 言うこと聞けないんなら熱々に熱した鉄板の上で匍匐前進させるわよ。肌が張り付いて熱いのよ? もし立ちあがったりしたら硫黄に浸した羽根に火をつけて投げつけるけれど」
乗せるだけじゃなくて匍匐前進ときている。とても熱そうだ。というか死ぬだろそれは。ん? もしかすると死なせることが目的だからそれでいいのだろうか。
いや、よくはないよ。
当然そんな目にあうのは嫌なので、僕は即行で美鈴さんの正面の椅子を引いて腰を下ろした。
「……どう? 魔法のある暮らしは」
なんだかお手軽な製品か何かであるかのような言い回しだな、魔法。
「あなたも『魔術』ではなく『魔法』と言うのですか」
僕は反射的に、まさしくどうでもいいことを尋ねてしまう。また残酷な拷問方法を聞かされるのかとも思ったが、意外にも彼女はきちんと会話を成立させてくれた。
「そうね。穂波には魔術と言えと教えてるくせにそれはどうなの、って問題は残るけど。魔法は――魔法だわ。ええ。あくまでもね」
そういうものだ、と割り切ることを僕は近頃覚えた。
その話し方と態度にこそ問題はあれ、彼女自身からはそこまでの威圧感を受けない。むしろしなやかで、嫋やかだ。(重ねて申すが言動の話ではなく、対面した際の印象である)龍ちゃんよりは、そういう意味では話しやすいのかもしれなかった。いやしかし彼だってある一時を境に豹変したわけで、彼女がそうでない理由はない。僕は心もち身を固くする。
美鈴さんは言って頬づえをやめたかと思えば、今度は髪の毛をいじりながら不遜にもそっぽを向いた。対等な態度で僕と会話をしてくれる気はどうやらないようだ。特段それを望んでいるわけでもないけれど、ほぼ初対面の相手にその態度はどうかとも思う。
「まあ……いいわ。私に聞きたいことは? あるんでしょ、たくさん」
そんな状態でそんな意外なことを言うものだから、僕は少し驚いた。
「龍に答えられる質問なら私にも答えられる。あんたがここにきた目的はそれでしょ? あるなら聞いてやらないこともないわよ、質問。もっともそんなくだらないものは聞くだけに終わるかもしれないわね」
長く美しいさらさらの髪の毛を弄りまわしながら、彼女はつらつらと述べる。
「何? ないの? ないならないで、私がえぐくてグロい拷問の話でもしてあげるけれど」
「……いえ、それは結構です」
勿論質問はある。あるが――
「私は何者か、ってとこ? そこが気になる? 慎重なのね、ガキの癖に可愛げのない」
ずばずばと僕の考えていることを、僕が口にする前に言い当てる。恐ろしい話だし、驚くべきところなのかもしれないが、ひとまずこちらとしてはあまりいい気分ではない。僕はにべもなく口をつぐむ。
「寡黙ね、ガキ。そういうのは嫌いじゃないわ。この世に言葉を扱える人間は私一人で十分だもの。それ以外の人間が私と対等に言語を扱うことにはむかっ腹が立つわね」
全くもってぶっ飛んだ思想の持ち主のようだ。
「私は穂波の保護者、みたいなもんよ。牧埜宮清龍も同じね。私の名前はもう知ってるでしょ? はい、自己紹介終わり」
終わっちゃったよ。
「で、質問は? ないなら吐きそうになる処刑方法の話でも」
「いやいやいや、それは結構ですって!」
しかも拷問から処刑へとグレードが上がっている。僕をどうするつもりなんだこの人は。
「ふむ、では一つ質問をさせていただきましょうか」
そうしないと何を言い出すかわからないからな、この美鈴さんとやら。
「あなたがたにとってジョーカーとは、どういう男です」
僕は実に平坦に、そして大胆に美鈴さんの喋り方を真似てそんな風に質問を繰り出した。それを耳にした彼女の、髪を弄ぶ手の動きがぴたりと止まる。
「ふぅん……ガキはガキでも少しは頭の出来がマシなガキのようね、ガキ」
そしてゆっくり、顔を再び僕へと向ける。しかしその目は冷たさを増しているようにも見えた。いや、実際そうなのだろう。
「まるで私がジョーカーと繋がりがあるような言い回しをするのね」
「あなた、ではありません。あなたがた、です」
訂正。しばしの沈黙。動きの停止。
僕はまっすぐに目前の漆黒の双眸を見つめる。
「はっ、いけ好かないガキだわ、あんた」
そうですか? 僕は自身を好青年だと評価しているのですがね。
「それは大そうな思い違いね。それかもしくは評価基準に問題がありすぎる。どう見積もったって非好青年がいいところ」
それは非行青年のことだろうか。否定の文字一つくっつけるだけでこんなにも意味が変わる言葉だったとは。
それで、質問には答えていただけるんですか、美鈴さん。
「……ジョーカーは、そうね、私たちにとって怪盗ルパン三世ってところね」
ルパン三世。この人、文字を隠しもしないつもりか? まあそんなことはどうでもいいとして、その揶揄がいったい何を表すのか僕にはなんとなくわかる気がした。
「それだけですか?」
「それだけよ」
即答された。結構な話である。相対的見識を求めたのであるから、すべからくその回答は間違っていない。確かに。僕の求めた解だ。途中式を組み立てる条件には十二分にふさわしい。
「ルパン三世。ふふ、言い得て妙ね。我ながら素晴らしい嘲弄だわ」
美鈴さんはどこか遠くを見つめて笑った。あまり上品とはいえない笑顔で。
「彼が――ジョーカーがこの腕輪を狙っている、いや狙っていた、という情報は?」
右手の腕輪を見て、僕は質疑を続行する。
「ルパン三世よ。わからない?」
本人が犯行予告、か。腕輪を盗みにまいります、とでも? それはあまりに道化じみている、そんな馬鹿げたことをあの男がするだろうか。
「それがしてきたんだからびっくり。そもそもそんな腕輪に価値があるなんてのも初耳だったわ。ぶっちゃけ私も龍も、どうぞご勝手にお持ち去り下さい、てなもんよ」
「……へえ」
実際この腕輪のどこに価値があるかは僕にもわからない。この人にも分からないとなれば、それはやはり――やはりこのメッセージか?
意味の分からない英文は、腕輪の手の平側の部分に未だ存在し続けている。消えたりしていたらそれはそれで困惑することになりそうだが、今のところその心配をする必要もなさそうだ。
いや、しかしそれならこの人たちだって気付いているはずだ。こんなものは腕輪を手にとってほんの少しでも眺めれば発見できる。
「このメッセージは?」
「は?」
「いえ、なんでもありません。少し寝ぼけてました」
反応からするに、知らないようだ。突っ込んで聞いてこようともしないが、本当か? 演技だろうか。だがしかし知っていることを知らないという演技をする必要などあるだろうか? あるとすればそれは一体何故。
いや、今は考えるのはやめておこう。本題からずれてきている。
「それで質問は終わり?」
「まさか」
まだ聞きたいことはあった。それに僕には重大な任務があるのである。
この人を殴らねばならないという重大すぎる、僕が背負うには少々荷が重すぎる任務が。荷が重いと言うより、気が重い。
殴ったら本当に拷問されそうだもんな。
だからとりあえず僕はこう切り出してみる。
「美鈴さん」
「気易く名前を呼ばないで頂戴。私を呼ぶ時は美鈴姉と呼べ」
え、そこ? という突っ込みは、まあしない。突っ込めばそれで僕の任務は完了なのかもしれないが、そこで僕の人生は終了なのかもしれない。さすがにそんな馬鹿な話はないだろうけど、人の行動を抑制、束縛するのは明確な恐怖に他ならないわけで、僕がこの人を殴るという行為におぞましさを感じないかと言えば答えは一択、ノーしかない。
しかしなんだろう、封じ屋の大人の間では名前の呼び方を強制することが、もしかして流行っていたりするのだろうか。
「では美鈴姉さん」
「気持ち悪い!」
とたん、叫喚したのは美鈴さんだった。
「気持ち悪いわ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 怖気が走るわよ、鳥肌が立つ! 姉さんだなんて呼ぶのはやめろ! 美鈴姉! ねえ、で切るのよ! 馬鹿かあんたは!」
なんだろうか。何か触れてはいけないものに触れてしまったらしい、両手で身体を抱くようにして息切れしている美鈴さんを前に、僕は一つ咳払いをした。
「えーと、ああ、はい。すみません。美鈴姉」
「……何よ」
とてもじゃないが穏やかな雑談を繰り出せる空気ではなくなってしまった。が、繰り出すしかない。僕はKYになることにした。
「美鈴姉、頭の上に埃がついてます」
「あー、そう?」
あまりにベタ。しかしベタベタがベターなのだこういう場合は。
僕に必要なのは『美鈴さんを殴ったという事実』にすぎない。
それだけあればいい。
とか思ってるうちに美鈴さんは自分の頭を掃い始めた。ふむ、美人がすることはすべて様になると聞いたことがあるが、しかしこれはなかなか滑稽な動作だな。
「とれた?」
「ああ、とれてないみたいですぼくがとってさしあげますよ」
「……何で棒読みなのよ?」
「きのせいです」
言うが早いか、僕は立ち上がって縦に長い机を迂回し、彼女の元に辿りつくと、軽く彼女の頭を叩いた。
平手で、ポン、と。
「ちょっと、何か痛い気がするわ。あんたそれ、本当に埃取れてるの?」
「ええとれました」
「だからなんで棒読みなのよ」
僕は美鈴さんの質問には答えず、そのままぎこちない動作で元の椅子まで戻り、着席する。よし、任務完了だ。完了した。そう言い聞かせ、冷静になろうと努める。
そして、質疑を再開した。
「畑中は一体どういう種類の魔術師なんです?」