22.ひととき
自律し自重し禁欲し、そし学業に従事せよ。
とはまあうちの学生に対する教師陣の恒久的なキャッチコピーであるが、それを現実に実行し、さらには教師たちの勤勉基準を充足たらしむ生徒などというものは、実際に一字一句違わずそのキャッチコピーまんまを口にして振りかざす古参教師よりも数少なく、如何にもレアである。最もその概念というか通念というか、推して知るべし教師の願いはもはや公然のごとく全学生に浸透しており、それでいてなおかつ勉学に勤しもうという気を起こさない生徒がこの世には驚くべく数多存在するというのが現実世界の悲しい性であった。
今のところ世間一般の括りからして劣等生という集合には包括されない僕であるが、その気持ちは分からなくもない。というのもしかし、小学生の頃からそれを嘆く友が常に僕の傍らに居続けるというのがその理由の一つであることは一概に否めなかった。
というか絶対そうだ。
「午後からは古文に数学だと。生徒の気持ちをわかっとらんな、この時間割を組んだアホ教師は」
顔をしかめ、机の反対側で遺憾の意を述べるのは、関田だ。ついでに口をもぐもぐさせている。
「ひろ君にものすごーく同意するんだよっ!」
美咲がただでさえ二人分の弁当箱と菓子パンの群れによって面積を狭められた机に手をついて、はいっ、ともう片方の手を勢いよく挙げた。おい、食事中だ、お行儀が悪いぞ。
「お前らその会話何回目だよ」
毎週月曜が来る度にそのやり取りしてるじゃないか。
「あんだよ、そうは言うがな椎奈。お前は文句ないのか、この時間割に」
おい、人を箸で差すのはやめろ。僕は畑中に習って返す。
「しょうがないだろうが。せんせいがただってゆうりょしてくれてるよきっと」
「棒読みじゃねーか!」
あーもう汚いな、口の中のものがなくなってからツッこめよ。
「馬鹿か、ツッコミはスピードが命だろ」
む、それは確かに一理あるが。
「芸能人は歯が命だろ」
「古いな!」
左サイドで席に着きなおした美咲が、一生懸命菓子パンの袋を開けながらぼやき声をあげる。
「でもぉ、さや絶対寝ちゃうもん……古文とか特に」
彼女は砂糖のたっぷりついた馬鹿みたいにカロリーの高そうなパンを一口かじり、情けない声を出す。
「俺は数学で限界を迎えそうだ。最近眠すぎて数学がただの記号の羅列に見えてきたからな……」
関田、残念だがそれは睡魔の問題じゃないと思う。なんかこう、それは末期症状だ。
「まあ、ね。食後には消化器官に血液が集まって脳の酸素が不足する。そういう生理的な眠気ってのはある意味すごく人間的だし、あって当たり前だよ」
言いつつ、関田が詰めてきてくれた弁当のおかずを口に運ぶ。小さい弁当箱には、意外と綺麗に朝の残りが詰めてあった。少々量が少ない気がしなくもないけど、まあいいか。そもそも弁当箱を本当に学校に持ってきてくれたことだけが驚くべきことであり、及第点だ。すでに今日の昼食を学食で済ませる覚悟をしていただけになおさら。
「……そっかあ、じゃあ椎ちゃんは人間じゃないんだっ」
「なるほどな、そういうことだったのか」
「なんでそうなるんだ!」
僕はお前らと違って根性と気合があるから起きてられるんだよ。
「根性と気合がある宇宙人なのか」
「違う!」
まず普通に人類であることを認めてくれないかな。
「椎ちゃんちょっと変形してみて」
「しないよ!」
というか多分普通の宇宙人も『変形』はしない。変身するのもフリー○様くらいで間に合ってる。
「椎ちゃんフ○ーザ様だったの?」
「だからなんなんだよそのノリは!」
僕は生粋の地球人だよ。あと美咲、同じとこ隠せ。
言って、次の瞬間。薄口の醤油で味付けしたはずだったほうれん草のおひたしが、僕の想像を遥かに上回る衝撃で、味蕾を襲った。
しょっぱい!
なんだこれ、超塩辛いんですけど!
「おい、かんら、おはえ!」
思わず勢いのまま、箸で髭の生えた関田の顔を指してしまう。僕もお行儀が悪い。
「ん、なんだろう、宇宙人八代椎奈」
「なんかのまんがのタイトルみらいにするな!」
「口の中のものを飲み込んでからツッこめよ」
言われるとは思ったけど塩辛すぎて飲み込めないんだよ!
「あーあー、自分の料理のテクのなさを棚に上げてこれですか、呆れるな」
「か、かんらおはえ……っ! かっら!」
僕が堪らず緑茶の入った手元のペットボトルに手を伸ばすが、それは意思をもったかのようにひょいと僕の手から遠ざかった。
「ほいっ、これでいいのでしょうかひろ君大元帥っ!」
「おう、御苦労であった美咲二等兵」
くっ、しまったこいつらはすでにグルだ!
「美咲は正常な味付けを施された椎奈のおかず三品で買収させてもらった」
僕の弁当がなんとなく少ない気がしたのはそのせいかよ!
「おいしゅうございましたっ!」
君もそんなもので買収されてるんじゃないよ美咲。ていうか元帥が二等兵ごときを買収するな。僕のオアシスを手が届かないギリギリの位置でぶらぶらさせながら、美咲は空いた手で敬礼してみせる。無性に腹立たしい。
「くっ……」
どうする、飲みこむべきか、飲みこむまいとすべきか。食べ物を粗末にすべきではないが、いやむしろ粗末にしたのは僕の料理に塩を振りまくった関田の馬鹿野郎のほうであり、僕ではないはず。
さらばこれを今食わずとも食の神様は怒りをあらわになさらないか――?
と。
『――連絡します。二年生文化委員は文化祭企画書を持って生徒会室まで来て下さい。繰り返します。二年生文化委員は――』
洗礼された発声法による連絡放送が教室のスピーカーから流れ出た。
おやおや。
「ふんかいいんってほくしゃなかっはっけ」
「いい加減食えって、往生際の悪い。宇宙人なら食える!」
ぐ。
だしぬけに関田は僕の頭部と顎をがしりと両手で掴んで、咀嚼を強要した。強要というより強行だ。からいって、まじで! まじで塩辛い!
「んぅぅぅぅ!」
「これは椎名宅に置いてけぼりにされた俺の分っ、これも椎奈宅に置いてけぼりにされた俺の分っ、これも置いてけぼりにされた……」
心底馬鹿げたフレーズを延々リピートつつ、関田は上下からつぶす感じで僕の頭部をがしがしと圧迫まくる。腕っ節が無駄に強いだけに逆らうこともできない。
もはや口の中に広がるのは塩だった。塩そのものだ。どこか北方の真っ白な塩湖が鮮明な映像となって僕の脳裏を支配した。そこで塩を集めているのはどうやら関田に似ている。なんてのどかな景色だろう。嘘だ。今のこの過激な状況にのどかさなど欠片もないわ。
ほうれん草のまろやかな面影が全くないじゃないか! どれだけ塩かけたらこうなるんだ。味蕾が破壊される。そう思った。冗談抜きで。
しばらくしてようやく塩辛地獄から解放された僕は、必死の形相で美咲からペットボトルをひったくり、いっそう苦味を増したような緑茶をぐびぐびと飲み干す。
「ま、これだけで済んでるんだ。ラッキーと思いな」
「い、悪戯にも程があるぞ……」
僕は結局丸々一本を飲み干してから思い切り咳きこみ、力のない目で関田を睨みつける。
「何してるんですか、八代君」
というところで、僕の背後から畑中の声がした。涙目のまま振り返り、反応してみせる。
「あ、ああ。何でもない。生徒会室行くの?」
彼女は、なんでもなくはないだろ、という目つきで僕を見下しながらもそれを口にはしなかった。たぶん今、男子って馬鹿だなあ、とか思ってるに違いない。
「思ってません」
「いきなりどうしたの畑中ぁ!?」
僕の心を読むのはやめろよ!
「やっぱりMなんですか? と、思ってたところです」
「椎奈Mなのか?」
「椎ちゃんMなのっ!?」
……ああ、なんかもう否定する気も失せるよ。美咲、なんでそんなショックな顔してるんだよ。どちらかと言えば真っ白になってしまいたいのは僕の方だよ。某ボクサーに習って今この場で燃え尽きたい。
「畑中、頼むからその嘘これ以上流布するなよ」
「人の噂も七五〇日ですよ八代君。気にしないでください」
「その長さを気にしないのは無理があるんじゃないかな!」
少なくとも卒業するまでM呼ばわりじゃないか僕。
「とにかく、八代君も文化委員なんですから、ちゃんと自覚持ってください」
「そうだぞー、畑中が正論だ。俺も同意する」
関田がここぞとばかりに食いついてくる。
「そうだぞ。椎ちゃんホームルームの時寝てばっかりなんだから!」
美咲まで便乗してきやがる。どうやらこのバトルステージは僕にとって不利すぎるらしい。
「あー、関田。文化祭企画書ってなんだっけ? 僕そんなのもらった?」
ポコ。そんな音がした。
「私が持ってます。大体なんでまず関田君に聞くんですか」
背側に立つ畑中が、丸めたプリントで僕の頭を叩いた音だ。
「そうだっけ?」
「そうです。自覚なさすぎです」
「んぅ……ごめん」
変に畑中と距離が近づいてしまっただけに、僕はなんとなく気まずさを感じた。今まで僕は、文化委員、もとい委員会活動という名の奉仕活動に行動的善意を添えたことは一度としてないのである。一度としてという言い回しはさすがに誇張かもしれないが、中学校三年間、通知表の備考欄に「もう少し学校活動に興味を持ちましょう」と書かれ続けた僕としてはそれくらいの言い方をしてまだ余りある気はしていた。
「謝る暇があったらさっさと立ちあがって会議室に向かおうという意思を見せなさいな」
「はい」
素直に。僕は立ち上がる。
ここは素直にいっとこう。
「そういうわけなんで、関田。悪いけど僕の弁当食べといて」
「こんなもん食えるわけねえだろ馬鹿か」
「食べ物を粗末にしやがって、この背高のっぽ坊主め! お前本当ぶん殴ってやるからなそのうち!」
本当と書いてマジと読む。
古いか。
そしておそらくその「そのうち」は半永久的にやってこないことだろう。
「ああ、あと二人とも。後で話があるから、ちょっと顔貸してくれないか? 特に美咲、携帯を持ってくるのを忘れないでくれ」
「ん、わかったよ。どうせ携帯の使い方教えてほしいとか、そんなんだろ?」
「了解しましたっ!」
二人の歯切れのよい返事を聞いてから、僕は再び畑中を見た。
「ほら、行きますよ」
「あ、うん」
何故かちょっとイライラしているように見受けられる畑中に制服を引っ張られるようにして、僕は賑わいだ教室を後にする。
何故か不満げな美咲の顔が、教室をでるその瞬間ちらりと見えた。気がした。
「なあ、畑中。聞きたいことがあるんだけど」
一階職員室横にある生徒会室へ向かって早歩きで階段を下降しながら、僕は畑中に話しかけた。
「何か?」
「君さ、中学の時お泊りしてたとか言ってたじゃん」
危うく消し飛びそうな記憶の残滓をなんとかかき集め、きっかけを作る。
「お泊り……ああ。そういえばそんなことを口走ったかもしれませんね」
彼女は顔色一つ変えずにすらすらと口を動かした。
「それが?」
「いや、そういうのはアリなのかなってさ」
畑中は少し間をおいてから答える。
「表の世界の人間と共に、しかも表の世界の家で過ごす。そういうことがアリかどうか、ということですか」
そういうこと。
「別段それ自体に問題はありません。私もある程度の自由行動なら許可されています」
「ふうん……。今更だけど、君の正体を知ってる人間は学校にはいないんだよな?」
畑中は隣で小さく「ええ」とうなずいた。
「本当のことを言えばあまりこちらの人間と仲良くしすぎるのも問題なんですけど」
「そうなの?」
「龍が気を利かせていろいろ規制を甘くしてくれているんです」
畑中は見えてきた会議室を遠目にしながら、どことなく感慨深げにそんなことを言った。へえ、それは素直に驚いてもよさそうな点だな。ほんの数時間言葉を交わした程度の人物に、意外だ、などという感想が適応可能かどうかは置いておいて。
「でもいつも四十万とか須原とかと仲いいよな、君」
「……意外に人のこと見てるんですね、八代君」
いや、そういうわけじゃない。
「気持ち悪いです」
「そこまで言うの!? 違うって言ってるのに!」
僕の記憶の限りでは、何故かと言うべきか彼女の交友には多く珍名の女子が含まれている。たしか中学の時も、畑中と一度だけ同じクラスになったことがあったが、音光などという名字の女子と仲良くおしゃべりしていたのが記憶に鮮烈であった。ちなみに「ねみ」と読む。
「恥ずかしいお話しなんですけど、あまり人と積極的に付き合うな、と言われてしまうとどうしても学校では引っ込み思案になりがちで」
それが珍しい名字と何か関係あるのだろうか。
「いえ、特に関係はないんですけど」
「ないのかよ!」
「しょうがないじゃないですか! 気づいたらそういう名字の方ばかりだったんです、私の周りにいたのが。美咲さんや八代君だってそんなに頻繁に見る名字じゃないですし」
なんでちょっと逆ギレだよ。そう言われればそんな気がしなくもないけど。
「私自身平凡な名字なだけに名前負けしてる気分なんですよ」
ああ、確かに君本体のキャラが強すぎるのは否定しないよ。
と、口にするだけの勇気は僕にはなかった。
「また元の話題に戻るけど、お泊りっていうのも四十万とかと?」
「ええ。彼女たちとは小学生の時から親しくさせていただいてますから」
なんだかさっきの会話内容と若干の矛盾を感じなくもない。
まあ、思春期乙女の私生活にメスを入れるなんていう無粋な真似をこれ以上繰り広げるのは僕の精神衛生上もあまりよろしいとは思えない。丁度いい具合に生徒会室と書かれたお馴染みのプレートが目の前まで迫ってきていたので、僕らは話を打ち切り、何の気なしにプラスチックの引き戸を開けた。
「だるぁっせい!」
第一声は、そんな威勢のいい掛け声だった。女性の。
「これはこれはお二方ぁ! 御帰りなさいませぃ!」
ドアを開けたすぐそこに、男勝りで豪快な笑顔を浮かべ江戸前な言葉を振りまわす、メイドがいた。
「ぅえっ! って四十万……何やってんだよ君」
メイドだ。
パーフェクト・ザ・メイド。
それこそ三百六十度どこからどうみても。別にメイド服に詳しいわけではないので詳細な描写はできないが、なんだかこうフリフリのフワフワなリボンとかスカートとかが僕の目に毒であることはほぼ間違いない。
それに加えて黒髪ポニーテールとは。
――やばい、鼻血でそう。
「いやはや。とりたててお二方がここを訪れる必要はなかったんでぃ。あっしが既に会長殿に上達済みだからなぁ!」
「あ、そうなの?」
常時ハイテンションな四十万に空気ごと押されつつも、僕はなんとかそう聞き返す。
「それは知ってましたが、形式的な訪問くらいはしておこうかと思いまして」
こいつの声を聞くと畑中のそれがいやに冷たく聞こえた。いや、別に冷たいわけではないのだけど。テンションの相対的落差が四十万と畑中じゃありすぎる。
なんでこんな両極端とも言えるような娘らの仲が異常にいいのか、甚だ謎だ。
そうはいっても、四十万は生徒会の一員であることからも分かるようにびっくりするほど社交的なのである。誰とでもすぐに親交を深めてしまう。畑中もその大勢の中の一人なのかもしれない。そう考えることはしばしばあるが、この二人に須原を加えた三人組は異常なほどまでに仲がいい。常時べったりだ。僕と関田と美咲がつるんでいるのと同じくらいに。(それは決して僕と関田と美咲が仲よすぎて気持ち悪いという形容ではないが)
「おうよ! それでこそほなみんだなぁ! あっしが認めた女よ!」
どうやら畑中は四十万に一目置かれた存在のようだ。ますますこいつらの関係がわからなくなった。
「……で、四十万はなんでそんな扇情的な恰好をしてるんだ」
「扇情的とはこれまた! 相変わらず口がうまいなあ八代」
恥居る素振りもない。豪快な笑顔をそのままに、四十万は男前な動作で前髪をくしゃっとかきあげた。
「生徒会は生徒会で毎年別な出し物をやるんでぃ。今年は巷で流行りのこすぷれ喫茶!」
そんなものが流行る巷は嫌だよ。
「似合ってますよ、四十万」
「おう、ありがとよ!」
相変わらずの口調だ。
こいつこの喋り方さえなんとかすれば絶対モテるのに。というのは二組男子の総意である。とか思いつつニコニコ笑顔の四十万を眺めていると、ふと思い出したように彼女はポンと手を打った。
「そうだ、お二方。うちのクラスの案を受理するに、一つだけ生徒会から留意してほしい点があるんだったぜ」
ん? なんだろう。