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20.目的

 風に揺れる髪を自由にさせたまま、僕はそっと携帯電話を耳に当てる。

「……」

 何も言わない、口にしない。そもそも本物のジョーカーかどうかなんてことは今のところ僕には分からないのだ。じっと、馴染みのない機器を手に相手の第一声を待つ。

 四階建ての校舎は山沿いにあり、屋上に立って見回せばこの田舎町をほとんど一望できた。とは言え、どの方角を眺めてみたところで視界を遮る大した建造物もない。山にぶち当たるまで、盆地に立った民家の低い屋根が延々と続いているのがよく見えた。ところどころに万緑の混じる夏の大気が、午前八時の街を水で薄めたような青に染めている。

 そんな風に景色を眺望しながらも、晴れやかな気分になることもなく。さわやかなブルーの風は僕自身を素通りして、付属物の黒い髪だけを揺らしていた。

「……やあ」

 そして低い、重低音。僕の存在を電話越しに揺すぶる低周波。

「……」

 疑いようのない、ジョーカーの声だ。これほどまでに印象的な声を持つ人間はそうそういない。もしかしたら全然関係ない人間の悪戯かもしれない、そんな淡すぎる希望は一握りの砂塵のごとく僕の前から散って、吹き飛んで行った。頬を、暑さだけではない汗が滴る。

「こちらはジョーカーだ」

 どちらかと言えば欧米的な通話の開始方法だったが、どちらかと言ってやる気もさらさらなかったので、僕は嫌みたっぷりに返答した。

「お生憎だな、こちらもジョーカーだ」

「ふっ」

 いきなりの失笑を食らったようだ。結構なことだぜ。僕は心の片方で苛立つ自分を諌めつつ目を瞑り、身体の天頂にある回路に少々強めの電流を流す。今僕がすべきことは。

 こいつから出来るだけ多くの情報を聞き出すことだ。

 神妙な顔つきで後ろ手に屋上のドアを閉めた畑中を横にして、僕は一先ず切りだした。

「先日はどうも。いろいろとレベルアップの助けになったよ」

「そうかね」

 ジョーカーは平然と、そう流す。

「君のことだ、うんとたくさん余計な勘ぐりをしたんだろう、ふふ」

「ま、そんなことはどうでもいい」

 奴のペースに巻き込まれるのは御免だ。僕はジョーカーの言葉をばっさりと遮った。

 何よりもまずは、これを聞かねばなるまい。

「美咲に何を吹き込んだ」

 とはいえ、大体の予想はつくが。

「美咲……ああ、彼女か」

 一息おいてから、低い声はしれっと言う。

「ちょっとした話の成り行きでね。椎ちゃんと穂波ちゃんがつきあってるかどうかとか、って知ってるかなっ? と。聞かれたのでね」

 僕は右手で頭を押さえつけた。やはり、そういうことだったか。美咲の奴、やっぱり朝のことを気にしていたのだろう。なんだよ、それならそれで別に言い渋るようなことでもあるまいに。

「それで、何て答えたんだ」

「それはない、とだけ言わせてもらったよ」

 あっけらかんと、ジョーカーはそう述べる。

「……気がきくな」

 僕は声にちょっぴり驚きを交えた。

「いいや、それは違うな」

 だがジョーカーは、ゆったりと余裕を持ってそれを否定する。

「今回はたまたま、私の意見が質問の答えと合致した。それだけの話だよ、ジョーカー君」

 どういうことだ。

「それは君の懸案外にあることだ。気にかける必要性は全くと言っていいほど、ない」

 そうして、それがお決まりであるかのようにくつくつと笑う。いつでも僕の数手、いや数十手先を読んでいる。受話器越しに森のような深い笑みを漏らすこの男から受けるイメージは、さしずめそんなところだった。

 この男との会話はいつでも屈辱的だ。言い知れない敗北感。何故だろう、僕の勝手な思い込みなのだろうが、ぬぐい去れない苦味が僕の心に居座って動こうとしない。

 何故なのだろう。

「……まあいい」

 が、今は些細なことに振り回されているわけにはいかない。

「何か用があるんだろう?」

 薄い携帯電話をしっかりと握りしめる。ここからが本題だ。と言っても、本題を切りだすのは僕ではなくジョーカーからになるのだけど。

「迷い猫はきちんと保護したかね」

「ああ、猫。それならご心配なく」

 緑色の塗装の剥げかけた鉄戸の前に並んで立つ畑中に、小さく目配せをする。彼女は手に持つ鞄を少し持ち上げて、それをギュッと抱きしめて見せた。その中にはもう猫毛玉はいないという合図だろう。籠る声は聞こえない。

「32号機関で保護させてもらったよ」

「そうかね、大変結構だ」

 ジョーカーは満足げに唸る。

「ふむ。前置きはこの程度で構わんかね」

 その勿体ぶるような言葉に、僕はゆっくりと息を吐いた。そして何が飛び出すかわからないジョーカーの言動を待って、吐いた分の息を静かに呑みなおす。僕の通話相手はたちの悪いびっくり箱だ。絶対に気は抜けない。

「まずその携帯電話だが、それは君のものだ。話は美咲クンから聞いているだろうね?」

話と言うほどの有意義な内容がそこにあったかは別として、その旨は確かに承っている。

「ああ」

 僕は短く返した。

「結構。それでは次のお使いを申しつけさせていただこう」

 やはりきたか。低く落ち着いた声が、僕の深淵の水面を波立たせる。今度は何だ?

「なあに、大したことじゃあない」

 毎度のこと、重く感じさせる間を持たせてから、ジョーカーは口を開く。

「七月七日。何の日か分かるかね」

 七月七日。

 一瞬。

 本当に一瞬、頭をよぎる黒い影。

 七月七日。何の日か、だって? わかる。わかるさ。馬鹿にするなよな。

 それは勿論。

「…………七夕、だろう」

「はっ、それも正解だがね」

 それも? どういう意味だ。

「それ以外には、何もない」

 強気に言い放ったはずの声が、独りでに震えていた。どことなく寒気がする。心臓が勝手に早鐘を打ちだす。

 まさか――そんなはずは。

「それ以外には何もない……? 馬鹿な。君にしてはおかしなことを言うな、八代 椎奈」

「気易くフルネームで他人のことを呼ぶのは止した方がいい……気に食わない人間がいるからな、僕みたいに」

 嘘だった。別に僕はどんな呼ばれ方をされたって気にかけたりしない。つく必要もない薄っぺらい嘘だ。けど。

 七月七日。

 何か、何か黒く暗く、ぶよぶよと蠢く邪な奔流が、僕の心をここじゃないどこか別のところへもち去ってしまうような。そんな気がしたから。嘘で心の堀を埋めた。ジョーカーは鼻で嘲う。嘲笑は、救いには到底及ばないが。

 それは――その日は。

「文化祭だよ、君たちのね」

「へ?」

 思わず、間の抜けた声が鼻を抜けた。

「文化祭……文化祭。ああ、文化祭ね」

 取り繕うように早口でそれを繰り返す。

 確かに。七月七日は空が岬高校文化祭だ。

「……ふっ」

 そのどこか柔婉な笑みが何を意味するのか、僕にはわからなかった。大方、変な間を持たせた僕に単純なおかしさを得たとかそういうことだとは思うが。

 本来そこにあるべきでない空虚な安心感が、僕の心を満たしていく。

 ああ、そうだな。そんなことあるはずがない。そりゃそうだ。

 今は、まだ。

「まあいいさ。君が何を思ったのか、それは私の懸案外にあることだ」

「それで?」

 それでジョーカーは、僕に何をさせようというのだろう。

「文化祭当日、君にして頂きたいことがある」

「何だ?」

「残念ながら、今は言えない」

 笑いを含む声色で、ジョーカーは言う。

「どういうことだ」

「いずれ意味はわかるさ。いや今だって本当は」

 そこで一遍、言葉に区切りをつける。ジョーカーの癖なのだろうか。そしてこの区切りの後には大概にして、僕をひどく消耗させる言葉がやってくるのだ。受話器からの老成したテノールに集中する。そして。

「――気づいているんじゃないのかね?」

「…………」

 僕は一瞬にして沈黙させられた。

 ――こいつ、どこまで。

「言っている意味が分からないよ」

 不自然なほど冷静な声が、録音されたテープみたいに僕の口から流れ出た。その実、どれほど僕の胸が内側から打ち鳴らされていたかは、自分自身でも驚くほどだったが。電話じゃなきゃ顔に出てばれていただろう。

 ジョーカー。この男。

 今まで会った人間の中で最も恐ろしい人間かもしれない。

 本音はそうだったのだから。

「ほぉう……便利な口だな」

「あんたのには及ばない」

「はっ! 言ってくれる」

 楽しそうだな、ジョーカー。僕とあんたの感情をグラフにできるとすれば、それはそれは綺麗な反比例になることだろうぜ。

「それともう一つ。これは別に遂行していただかなくても結構ではあるが」

 僕がそんな馬鹿げたことを考えていたら、ジョーカーはまたしても『お願い』を追加するつもりらしい。まだ何かあるのか。

「美鈴と牧埜宮清龍をそれぞれ、一発ずつ殴っておいてくれたまえ」

 なんだろうか。

 え?

 なんて言った今。あまりにさらりと流されたその言葉。

 変にハッキリクッキリ僕の記憶に、エコーのように残る声。

 殴っておいてくれたまえ。

「気が進まないのなら別に行動に移す必要はない。君の任意だ」

「ちょ、ちょっと待っ」

「ふっ、それではまた。グッドラック、ジョーカー君」

 やけに発音のいいグッドラックが聞こえたと思ったら、ガチャと言う無情な音が耳朶を打った。

 ……嘘だろ。

「き、切りやがったぞ!」

 僕が耳から離した携帯電話を左手に眺めて呆然としていると、通話が終わったことを確認するためか、栗色の髪を揺らして畑中が画面を覗き込んでくる。

「あ、本当だ。ジョーカー、って書いてますね」

「ん、ああ、そうだな。うん」

 明らかに狼狽する僕を見上げ、畑中は不審そうな顔をした。

「一体何を言われたんですか?」

「え、あう」

「……?」

 言葉に詰まる僕に、畑中は顔を寄せてくる。ついでに眉根に皺も寄せながら。

「この携帯電話は僕が持っていて、以降指示はこの携帯を通じて行う、ってさ」

 一瞬支えはしたものの、次にはさらさらと言葉が湧いてきた。それを白々しく眼前の畑中に吹く。

「それだけですか?」

「ああ」

 じぃ、と僕が美咲にしたように、畑中は僕の目を見つめて、少し唸った。

「それにしては通話時間が長いように感じたのですが」

「感じられただけだよ、気のせいだ」

 嘘っぽい。

 僕自身だってそう思ったくらいだ。今のはさすがにひどかった、美咲並だ。

「……」

 さらに彼女の瞼が半分下がり、いかにも僕を疑っていますと言わんばかりの形相で視線を注いで来る。いや、そもそもこれは隠す必要がないことのようにも思えるが、しかしなんというか。対応に困る。

 いや。殴れ、と言われましてもね。

「それで、結局情報は引き出せたんですか? ジョーカーから」

「う……」

 痛いところを突かれた。しまったな。すっかりジョーカーにやられたらしい。まさか電話を切る前にあんなことを言われるとも思ってなかったし、一方的に切られたし。

「あんまり、かも」

「ふぅん?」

 畑中の声のトーンががくっと下がる。イワークのいやなおとって地味にうざいよね。何言ってるんだろう僕。

「悪かった、話を延ばそうとしたんだけど一方的に切られたんだよ」

 項垂れてそう申し上げると、畑中は厳めしくしかめた顔を僕から離して溜息をついた。

「八代君でもそういうことってあるんですね」

 軽い足取りで僕から二歩三歩と離れ、振り返り、眉を八の字に下げて天を仰ぐ。あーあ、といった雰囲気を全身で醸し出していた。

「どういう意味だよ」

 言うと、畑中は少し表情を戻して僕を見る。

「八代君って何でも出来ますよね」

 そしてポツリと、そんなことを口走った。

 ――何でも出来る?

 何でもって何だ? 何ができる? 僕に何が?

「どういう意味だよ」

 一字一句同じセリフ。声だけを低くして、繰り返す。

 僕の中で何かのスイッチが入った。そんな気がして。

「だから、八代君でも失敗することってあるんだな、って思って」

「……やめてくれ」

 口からそんな乱暴な言葉が飛び出していた。

 君もそんな風に言うのか。僕のことをそんな風に。

「八代君?」

 うんざりなんだよ。そんなのは。

 僕は。

「僕は何もできない馬鹿だ」

 だからやめてくれ。

「あの……?」

「僕は何もできない馬鹿なんだよ、それだけなんだ」

 淡々と言って、その機械的な声は蝉の声にかき消され、僕ははっとした。

 少し声が大きくなっていたかもしれない。畑中は僕の急変に目を丸くして驚いている。すぐさま自己嫌悪の苦い感覚が僕を包みこんだ。

「悪い……」

 頭がクラクラした。慣れたしぐさで、頭を押さえる。自分に嫌気がさした。いい加減、僕は性格を捻じ曲げる必要がありそうだ。

「朝っぱらからどうかしてるな……」

 言って、髪をくしゃくしゃにした。

 被害妄想激しすぎ。

「いえ、私こそごめんなさい。何か気に障るようなことを言ってしまったのなら――」

「いやいいんだ、君は悪くない」

 悪いのは僕さ。

 それを口に出すのはやめておく。こういうことで卑屈になるとキリがない。僕の場合なんかは特にそうだ。そういう人間は好きじゃないし、嫌いな人間に変質していく自分が分かっていながらそれを止められないほど僕もガキじゃない。

「うん、気にしないで」

 代わりに、彼女には笑顔を向けた。たぶん、ガラスのような笑顔。畑中もまたぎこちなく笑って、頬を掻いていた。

 だめだな、僕は。女性にあんな顔させてるようじゃ。

「……あ」

 そして何かに気づいたような声を上げる畑中。

「ん?」

「そろそろ降りないと、授業に遅れちゃいませんか?」

 なんだか申し訳なさそうな彼女に言われて携帯の液晶画面に目を落とすと、時刻は八時三十五分。確かに、早朝登校によって有り余った時間はいい感じで潰れたようだった。

「本当だ。じゃあ、君先に降りなよ」

「え?」

 彼女は一瞬キョトンとした。

「一緒に降りて変な勘違いでもされたら嫌だろ?」

「あー……」

 僕がそう言うと、畑中は目を細めて微妙な頷き方をする。

「五分くらい経ったら僕も降りるから」

 言いつつ、身体を移動させながら緑色のドアを開く。

「わかりました」

 畑中はまた一つ律儀に頷いて、僕の前を歩き抜ける。

「あ」

 そうだ、これは聞いておかなくては。

「放課後はまた美術準備室に行けばいいのかな?」

 背中まで伸びて、ところどころ跳ねている畑中の栗毛に、そう声をかける。彼女はすぐに反応して、スカートをヒラヒラさせながら、可憐に振り向いて、ニコリと笑って頷いた。

 そしてドアをくぐって、校舎の闇へと消えていった。それを見届けてから、左手の携帯電話に目を落とす。

 扱えるだろうか、こんなモダンなもの。人をなめるような銀色の光沢を放つ携帯電話。果てしなく心配だ。

「……けーたい、ねえ」

 表を向けて、裏を向けて。とりあえず僕はその物体を観察してみて。

 うん、まずはちゃんとカタカナでけーたいを言えるようになっておかないといけないかもしれない。

 などと今日の夕飯よりもどうでもいいことを心配する僕であったのだが。

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