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1.プロローグ

 ベクトル。

 それは、大きさと向きをもった量である、と学校では習った。

 勿論そんな数学的に幾何学的で非日常的な日常的事項に文句をつけたいわけではない。とりあえずのところ僕の知識でこれを活用しようと思えば、僕らの人生ベクトルは常に未来を向いている、といった感じに収まるのだろう。しかし例えば、簡素な数直線上に過去と未来を表せるとして、僕らは今どのあたりにいるということになるのだろうか?

 ベクトルはどこにでも存在するし、その矢印の先がどこへ向いていようと、誰からも何も文句を言われることがない。比べて、数直線という概念を持ち出そうとすれば、そこには必然であるかのように相対性が付きまとう。こんなものは僕ら人類が地球なんていう座標上にいるからのステレオタイプ的固定観念にすぎないのだろうけれど、僕らはあらゆる意味で自分の位置を特定するのに絶対座標を用いることがどうしても出来ない。人間は常に基準となる何かを、いつてもどこでも必要としているし、仮に今この瞬間唐突に『完全なる絶対性の世界』に放り込まれれば、自分が自分であることさえも脆く崩れ去るだろう。多くの人間は、既に絶対的な相対性を獲得してしまっている。

 ありていに言えば、時間軸だけを取り出して数直線にしてみたところで、所詮僕らの相対感覚は閉じている。

 例を持ち出せば、時計が既にそうだ。

 時計は常に時を刻むが、時を刻むということが既に相対性の究極である。一秒前を基準にし、基底にして、その時を刻むという躍動によってしか、僕らは時間を具体的感覚をもったものとして得ることはできない。デジタルにしろ滑らかに動き続ける秒針にしろ、それは同じことである。

 その点ベクトルとはそういう相対性に縛られないのかといえば、全然そんなことはない。話のバイアスがものすごい勢いで四方八方に散々してしまっているが、そこはご愛敬。

 畢竟。

 ベクトルなんてものはマイナス記号をつけるだけで一瞬でその本質をガラリと変えてしまう。

 そういうことだ。

 僕の人生はこの夏。

 数直線において相対性を失い、そしてそのベクトルも全くの逆ベクトルになってしまったと。

 そういうことなのだ。



「おーい、起きろ」

 上から降ってきたその声に反応、瞼の持ち上げが間に合わないまま立ち上がった僕は勢いよく天井に頭をぶつけ、頭蓋骨が立てた鈍い音を耳にする。決して快いとは言い難い音を。

「や、八代椎奈、起きてます、ちょっと瞑想していただけで……」

 教師に対する弁明の意を口から滑らせつつ、頭上の感覚に違和感。

 天井にしてはずいぶんごつごつしている。

「授業中に瞑想してただなんて言い訳が通じるのはまあ、お前くらいだろうよ」

 聞き覚えのある低い声。ていうか、あれ……これ本当に天井か?

「教室の天井がこんなに低かったら俺は入学初日から授業をボイコットだ、間違いなくな。……おい、いい加減目を開けろ」

 その言葉に対して若干不興な唸り声を小さく上げてから、僕はゆっくりと目を開く。結果、僕が天井だと思ったものは、ねぼすけの頭を起立の軌道上で待ち構えていた人間の握り拳だったということが判明した。中指と薬指にバンドエイドが巻いてある。それを頭皮で感じれば、先ほどの声と合わせて、例え顔を見なくてもそれが誰のものであるかはすぐにわかった。クラスメイトの関田(かんだ) 寛坊(ひろまち)だ。頭に乗っかった拳はそのままに見上げると、それなりに整った(崩れてはいない、という程度の意味だが)顔が見慣れた笑い顔でこちらを眺めている。

 一メートル九十センチ以上はあろう高身長に、如何にもごつい筋肉質な体躯。半そでのカッターから覗く腕は、なんとも筋骨隆々としている。柔道部故の体型なのだろう。ついでに、スポーツ刈りに丸められた頭は、小学生から続くこいつのスタイルだ。

「……何時?」

 一つ欠伸を打ちながら、僕はぼうと考える。が、寝起きの頭で状況を把握するのはどうにもめんどくさいので、視覚情報以外のことは関田に聞くことにした。

「一つ教えてやろう。今は授業中じゃない」

 持って回る言い方をしてくれる。

 となると、今は休み時間だろうか。だったらわざわざ起こしてくれることもあるまいに。

「もう一つヒントをくれてやるよ。今は休み時間でもない。ていうか、周りを見ろ、俺とお前以外に生徒はいないだろうが」

 ん、じゃあ僕って今登校してきたところだったのかな。そう言われればそうだったような気はしてくる。つまり関田は授業が始まる前に起こしてくれたのか、そうなるとありがたい。確かに、教室は朝焼け気味の色に染まっている。

 いや、でもそれだとやっぱり生徒がいないのはおかしくないか。

 とか思い始めた時である。

『五時です。校舎に残っている生徒は速やかに下校してください。五時です……』

 校内放送の滞りのない流暢な発音を右耳から左耳へ聞き流しつつ、流水の中に放り込まれたスポンジが少しずつ水を吸いこんでいくように、僕の頭にもゆっくりと涼しく澄んだ初夏の空気が回り始めて。

「なんだって?」

 僕は体中の血が音を立てて秒速5センチメートルくらいで退いていくのを感じた。

「五時だ。午後のな」

 関田があっけらかんと述べる。待てよ、そうだ、今日は金曜日じゃないか。授業は六時間目までだから、終わったのが三時過ぎ。ということは、だ。

「僕は三時間くらい寝てたってことか」

「さらっと六時間目丸々寝てました、って言ってんじゃねーよ! 一瞬考えちまっただろうが!」

 さらに強く頭にグーが押し付けられる。その痛みを皮切りに、やってしまった、という感覚が隊列を組んで押し寄せてきた。まさか授業中に夢の世界で遊んでいたなんて、僕の人生に最大の汚点を穿ってしまったのと同義である。大体、僕の席は教室の中でも前から二番目の席と夢の世界に居れば目立つほうなのだ。先生でも生徒でもよかったのに

「何で誰も起こしてくれなかったんだろう……」

「ばーか、六時間目はホームルームだ」

 言われて、急速に記憶がよみがえる。そうか、そういえばそうだった。なんだ、よかった。それなら別に寝てても問題はなかろう。と一安心したところで、思考が一巡し、六時間目の始めのものと完全に一致した。そしてここで思い出したことがもう一つある。

「僕は文化委員だった気がするけど」

「気がするけど。じゃねえ! 誰もお前を起こさなかったのは、みんながみんな、お前が頼りにならないことを知っていたからだ」

 理不尽な話だな。

「理不尽でもなんでもねえよ、当然だろうが」

 授業が終わったのに起こしてくれないというのはさすがにどうかと思う。いくら帰宅部とはいえ、時間を無駄にし無為に過ごすことを好むほど八代椎奈という人間は堕落していない。なんて、僕は自分の責任は棚に上げて口に出さずに毒づいておいた。とはいえ、こういう経験はすでに二、三度繰り返しているので、もう慣れてしまっている。それはそれでどうなんだか、とも思うが。

 六時間目のホームルームは確か文化祭のクラス展示物について、だったかな。僕は思考のレールを本線に戻すと関田の拳を手で払い除け、椅子に座りなおして黒板を見た。

 関田のへたくそな字でいくつか挙げられている候補のほとんどには落選を示すバツ印が赤色のチョークでつけられている。残っている一つはこれ。

「『トランプ』?」

 文化祭の展示物と、トランプ。互いに等号関係で結ばれるには些かジャンルが違う気がするのだが。僕の頭の上にハテナが浮かんでるのを見てか、腕組みをして僕の傍らに立つ関田が補足説明をしてくれた。

「絵の得意なやつがクラスの全員の似顔絵をトランプの図柄に合わせて描いて、それを展示するんだそうだ。勿論それだけじゃクラスの出し物じゃなくて個人展示と変わらんから、塗りは本人がやれということらしい」

 ふぅん。馬鹿馬鹿しいな、君が塗ってくれるか?

「今日お前と畑中の代わりをした人間が一人ここにいるんだが、そのことについてどう思う?」

 うん、そうだな、だったらそいつは素晴らしい人間だ。よし、わかった。

「わかったからその臨戦態勢にある危なっかしい握り拳を僕の視界から消してくれ!」

「そうしてほしければもっと口を慎むことだな、このジョーカーめ」

 僕の耳に違和感のある単語が一つ引っ掛かった。

「ジョーカー?」

 思わず聞き返すと、関田は少し真剣な顔で咳払いをひとつして、バツが悪そうに左手のカバンを肩の上に持ち上げる。そんな呼ばれ方をされたことは今まで一度だってないし、されるような覚えも一応ない。

「ってのは、まあ、なんだ。お前のことだ。出し物がトランプって決まったとき、クラス中でジョーカーは八代に決定だな、ってさ」

 僕はすぐさま滑稽な恰好で一輪車を乗りこなすピエロを頭に思い浮かべた。だが、どう考えてもそういう意味での形容ではなさそうだ。

 なるほどね、ジョーカーか。

「いいんじゃないか? ジョーカーってのも」

 僕が平坦にそう述べると、関田は一瞬驚いたようにもみえたが、すぐにいつもの笑い顔に戻ると言った。

「……そうかい。まあ、お前も起こしてやったし、俺もそろそろ部活行くとするかな」

 そういえばお前何で教室にいるんだ。

「俗にいう補習ってやつだな、三須にえらく絞られた。こないだのテスト赤点だったし。そもそも俺は日本人だから英語は向いてないんだよ」

 一応僕も日本人だけどな。

「……だからというかなんというか、お前を起こしてやったのはついでだ、気まぐれだ。目覚めの景色が夜じゃなかっただけ、ありがたく思うことだな」

 それは本当にありがたい話だな。

「ありがとう」

 僕の礼の言葉が聞こえるか聞こえないか、関田は自分のセリフを言いながら既に教室を出かけていた。結局、本当に気まぐれで僕を起こしてくれただけらしく、彼には奉仕の精神など欠片もないようだ。

 もともと期待もしていなかったが、窓の鍵も閉めず黒板も消されていない。僕は確認の為に黒板の端に目をやったが、今日の日直はどこからどう見ても関田だった。自身の責任を全うできていないのは関田も同じじゃないか。

 どうやらこの職務怠慢は、僕と畑中の代わりにホームルームを進行してやったのだから日直の仕事くらいは僕が代わりにやっておけ、という嬉しくもないメッセージだと受け取るしかなさそうである。このまま休み明けまで放っておいて、書かれた文字が消えにくくなった黒板を担任に見つかる関田を想像するのもなかなか興味深かったが、結局そのあと僕に二次災害(主に打撲等)が起こることを考えるとそれは想像だけに止めておくのが賢明だろう。それに物事はギブアンドテイクだ、僕だって社会的道理くらいは弁えている。

 起きてすぐ関田と話したおかげか、不自然な体制で寝ていた寝起きの気だるさは思いのほか少ない。僕は首を左右に捻った後、机の横に下げられたカバンを取ると、雑事に取り掛かった。

 ジョーカーか。

 五十四枚組のトランプデッキに、大抵は二枚ずつ組み込まれている特殊なカード。多様に使用され、有益にも有害にもなり得る。もっともその実、大半のゲームでは使用されることもなく、時には『ババ』として扱われ、忌避され。ジョーカーが最上位になるゲームだろうと、ジョーカーを持つプレイヤーが非難の目で見られることもしばしば。まあ、これはさすがに被害妄想かもな。

「……」

 僕は『天才』という言葉が大嫌いだ。

 『天才』なんて言葉はいったい誰が作り出したのだろうか。結局今の世の中でその言葉は本質を見失っている。

 天才は結果から作り上げられ得るのだ。

 たとえば、全く新しいスタイルで練習とプレイを積み重ね、世界の頂点に輝き、その世界の常識を一新したスポーツプレイヤーがいたとして。その彼が天才と称賛されたとして。では逆に、そのプレイヤーが成功を収めることができていなければ、どうなる。

 その場合、やはり彼は異端として扱われる他はない。天才どころか、実験的ギャンブルに身を投じて身を滅ぼした馬鹿、として扱われるかもしれない。そもそも、世間に取り上げられることすらもないだろう。

 失敗か、成功か。結局問いの答えは結果にすぎない。失敗してしまえば、中で何が行われているか、そんなものに興味を放つ理由もない。そしてそんな結果から、天才はいくらでも作られ得る。成功をはじき出したブラックボックスだけを拾い上げて、『天才』にしてしまう。今の世の中は、そういう世の中だった。

 その世界に生きている僕らにとって、それではそんな言葉のどこに栄光がある? 勿論中には本物の天才もいるだろうが、そんなものは一握りだ。大半は贋作。つまるところ。

 『天才』とは、天才の為の言葉ではない。

 『天才』とは、凡才の為の言葉なのだ。

 『天才』とは、逃げの為の言葉なのだ。

 自分たちの怠慢を、才能のせいにして、あるいは『努力の天才』などと称して、自分たちでは決してたどり着けないというラベルを掲げられた架空の立ち位置に、多少の能力を備えた人間を勝手に置いておくことで。

 逃げる。逃げられる。逃げることができる。

 どんな手段を使っても超えることのできない壁が目の前に立ちはだかれば、あるいは自分とその人間はそもそも同種の生物じゃなかったとすれば。そんな感じの絶対的な理由があれば。自分が出来ないという事実を「しょうがない」ことにしてしまえるから。努力じゃどうにもならない才能が、自分にはなかったと、悲観して、自分に同情して、同情されて、そういう人間同士で集まって傷口を舐め合う理由にして。

 逃げる為の、言葉なのだ。

 所詮『天才』なんて、そんな言葉でしかない。

 だから僕は『天才』という言葉が大嫌いだ。

 僕は黒板消しクリーナーの騒音がかき消してくれるのをいいことに、独り言を言ってみた。

「鶏と卵だな」

 ジョーカーは?

 ジョーカーはどうだろう。

 黒板消しをもとあった場所に戻し、今度は窓のかぎを閉めて回る。もう暗くなりつつある校庭では、数人が走りながらサッカーボールを奪い合っていた。

「……ま、ババ抜きに便利なカードってところか」

 今までの人生でつぶやいた独り言の中でも最高につまらない独り言だった。僕は言ってから、センチメンタルにすらなりきれなかった自分に対して、僕しかいない教室で一人、苦笑した。

 帰ろう。

 綺麗になった黒板をもう一度眺め、僕は夕闇に染まる窓に背を向ける。

 僕が僕であるべき世界に背を向けてしまったことにも気付かずに。

 そんな時だった。始まりの音が鳴ったのは。


 キィ――――――ン


 すべて深い青で統一されたブックカバーが並ぶ本棚の途中に、一冊だけ真っ赤な本が無理やり差し込まれた。最初はそんな違和感だった。遅れて全身の汗腺が開いて汗が吹き出し、さらにそのあと、それが「音」なのではないかと僕は疑いはじめた。

 疑い始めた? 音、じゃないか。それは確実に音だった。音、だった……。

 音だったのか? そうじゃなかったら、何なんだ。

 何だ、今のは?


 キィ――――――ン


 っまた!

 脳髄を直接ガンガン揺らす得体のしれない、縦揺れとも横揺れともつかぬ振動。脳みそがぐちゃぐちゃに溶けてオレンジ色の液体が今にも耳から流れだしそうな、そんな強烈な不快感と疼痛が僕を襲い続ける。決して音じゃない、音じゃないけど、音に限りなく近い何かが、八代椎奈という存在にどこかの隙間から入り込んで、内側から僕を破裂させようと蠢いていた。いつもの教室が目の前でぐにゃりと歪み、何回転もするように僕の視界を揺らす。

 いつの間にかそばにあった机に左手を突いていた。カバンは床に落ちている。

 わからない、なんだこれは。分からない。

 もう片方の空いた手が頭に信じられないほど強く押し当てられて、その痛みが内側からくる疼くような感覚を、ギリギリのところで打ち消そうとしていた。

 気持ち悪い。

 これは一体何なのかとか、何の超常現象が起こっているのかとか、これは自分の体の中だけで起こっている自分の命を奪う何かなのだろうかとか、そんなことは一ミリだって考えられないように脳の構造がすべて変えられていたのかもしれない。僕の思考回路が色と光をどんどん失っていくのが分かる。

 ジリジリと瞳の奥が焼けて、目玉が涙のように零れ落ちる。額に当てていた掌が焼けるように熱い。服を着ている感覚が全くない。全身から煙が立ち上る。溶けていく。

 僕が僕じゃなくなっていく。

 もう、駄目かもしれない。そんな考えがふと脳髄に突き刺さったと思ったら。


 キィ――――――ン


 繋がった。

 三度目のそれは、一気に僕を、僕の意識を現実に近いところへと引き戻した。高波が打ち寄せた後引いて行く時の如く、今までの不快感がたちの悪い嘘であったかのように連れ去られていく。僕の身体が、形を取り戻す。

「……何だ……?」

 繋がった――あまりに自然に、言語化されたモノローグ。

 確かに感じた、繋がった、と。……何とだ?


 ――見つけた。


 今度は、音と認識できるものが僕の頭の中に響く。僕はその現象に、必要以上に反応し、全身を震わせるが、どういうわけか不快感は微塵もない。淡い光が足元から僕を包み、暖めてくれているような。そしてふわふわと浮きあがってしまいそうな神秘的な感覚。

 声。

 これは声だ。細く、柔らかく、小鳥がさえずるような声。これは他の人間にも聞こえているのだろうか? そうだとしたら他の人間もさっきの音を聞いたのだろうか。

 考えるべきことはいくらでもある。今が緊急事態だというのもわかる。

「君は――誰だ?」

 だけど気付けば、僕はその声に返事を返してしまっていた。

 心だけが取り出されて、まるで宙づりにされてしまっていた。その僕の心にがんじがらめにされたロープの先に、この声の持ち主がいる、確かに絶対、繋がっている。それは根拠のない自信で、確信だった。

 そして僕は急に懐かしくなって。なんでだろう、なんでそんな気持ちになったのかはわからないけれど。

 その誰かに、会いたくなった。

 それだけが放課後の教室で僕を未知へと突き進めていた。

 

 ――美術準備室。


 しかし、僕の期待に反してその感覚はあっという間に終わった。心地よい気分は急激に冷めてゆく。女のような、あるいは子供のようなその声は一つの単語だけを告げて僕との繋がりを断ってしまったのだと、僕は数瞬の間を経て意識する。

 ハッとした。

 頭を左右に振って、脚にちゃんと力が入ることを確認する。僕は支えにしていた手でカバンを拾い上げ、ひどく崩れた髪を整えた。ひとつ大きく深呼吸をして、手首で脈を確かめる。どうやら僕はまだ、生きているらしい。滑稽な行動だったが、今の現象が少なくとも僕に、明確な死のイメージを抱かせたというのは決して間違いではない。

「……なんだったんだ、今のは」

 僕は自分の中に残る僅かな嫌悪を吐き捨てるように呟いた。そしてしばらく、ぼうっと立ち尽くす。

 何もかも根こそぎ削り取られるような、正体不明の衝撃。

 なんだったんだろうか、本当に。

 意味が意義が趣旨が内容が、本質が本性が本体が実体が、見えない、分からない、解せない。

 限りなく遠くて、この上なく近すぎる。

 どうしようもなく日常で、あまりにも非日常。

 そんな、何か。

 僕は何度か深呼吸して気持ちを落ち着かせるよう努力してから、誰もいないはずの教室を見渡した。いや、やはり誰もいない。ここには、僕一人だけ。騒がしい友人も喧しい担任も、誰一人として僕の孤独に終止符を打ってはくれない。和気藹藹が危機一髪で、合縁奇縁の一人芝居。

「……いや、落ちつけ」

 意味わかんないこと言ってるぞ。

 僕は軽く放心状態だ。

 無理やり心臓を握りつぶすようにして、考える。まずは連絡。誰かに助けを求めよう。いや、僕は生きている。助けというのは少々変だ。単純に、誰かとコンタクトをとれさえすればいい。

 こういう時に携帯電話を持っていないのはすこぶる不便だった。普段はとてもじゃなく必要だとは思えないものではあるが、備えあれば憂いなしとはよく言ったものだ。

 どちらにしろ階段を二階駆け降りて廊下を少し進むだけでそこにはまだ職務中の職員が何名もいる。彼らに事の詳細を聞き、返答次第では僕が病院へ足を運べばいいだけの話だ。そうだ、それだけだ。考えるのはそれからでも遅くない。

 不良グループ同士での大規模な喧嘩があった、と言っても通じそうな程散乱した教室の机を、なにをどうすればこんなことになるのかと自分でも驚きながら正常な配置に直し、僕は教室を出た。だけど。

 すぐに階段を降りる気にはならなかった。

「美術準備室……」

 自分にしか聞こえない声でその単語を繰り返す。

 体が内側からじわじわと熱くなってくる。

 さっきとは違う熱さ。これは嫌いな熱さじゃない。僕の足は自然と職員室から離れていく。

 気になる。気にならないはずがない。

「新手のテロだったりしてな」

 言ってから、その言葉のあまりの現実感のなさに、僕は少し笑った。全然、そんな感じじゃなかったからだ。ヘタをすれば、神様なんか生まれて一度も信じたことのないこの僕でさえ、あれは神の啓示だった、とでも言ってしまいそうな、さっきのはまるでそんな類のものとしか思えなかった。

 教室を出て正面に伸びる渡り廊下を進み、突き当たりで右に曲がればすぐそこに美術室がある。美術準備室はさらにその隣、まだ木造の旧校舎の一番端っこだ。そこに着くのにはゆっくり歩いても三分とかからない。そして歩みは無意識のうちに早くなる。それにつれて、心臓の鼓動がどんどん速くなる。

 理由は分からないけど、体から飛び出していきそうな自分の興奮を押さえつけることが、できそうにない。逆にどういうわけか気分は驚くほどスッキリしている。先ほどの痛みや苦しみはまるっきり冗談であったのではないかと、簡単に言葉にできそうだった。いっそそう言ってしまえば僕は割り切って、職員室を訪ね、そして入院を決めていたのかもしれない。

 だが現実はそうはならなかった。

 コンクリートを打つ足音が木を打つ物に変わっているのに気づいた時、僕は既に美術準備室の古めかしいドアの前だった。そして僕は一つ息を吸った後、ほとんど躊躇いもなく美術準備室のドアを開けた。

 そこにはそこにあるのが当然とでも言いたげに。

 銀色の草原が広がっていた。

「………………」

 絶句して、一歩だけ進んで、唖然として、再び絶句した。風が吹き抜けると地平線まで草が棚引く様がよく見える。白銀の光沢を目に感じたのも勘違いではなかった。間違いなく銀色の草で覆われた地面に、空は橙色の光で満たされている異様で異質な空間。

 バタン。

 無意識のうちに後ろ手にドアを閉めてしまい、僕はひどく後悔し、狼狽した。

 たちまちのうちに、影も形もなくドアが消えている。

 僕の前後左右にはただただしろがね色の草だけが広がっていた。見たことも聞いたこともない場所に一人取り残された不安から、ドアがあったと思われる場所に何度も手をやる。僕の手はその度に空を切り、傍から見ていればパントマイムの練習でもしているようなユーモラスで微笑ましい光景にでも見えたかもしれない。

 どうもここは美術準備室ではないようだ、僕はざわめく草の中に立ち尽くしながらぼんやり考えた。

 明らかに思考が麻痺している。

 僕を惑わしている原因は、さっきのひどい不快感と種類こそ違うが、系統は同じもののように思えた。そこまで分かっているのに、頭は働く兆しを見せてくれない。狼狽も不安も再び吹き飛び、奇妙な安心感が僕の心を満たしている。それは寝起きの感覚とよく似ていた。起きようと思っているのに、起きられない、体が動かない。そんなまどろんだ感覚。

 周囲にはたくさん木があって、それらの木がつけている葉もこの空間の他の植物と同じ、例外なく銀色に発光している。こんな場所が校内にあったのか?

 そしてそこには誰もいない。いないのに、人の気配は感じられないのに――声は僕の耳朶を打つ。


 ――手をだしなさい。


 気がつけば右腕が僕の意識とは全く無関係に、何か他の見えない存在の手によって、空高く持ち上げられていた。目線の位置でそれは停止する。


 ――少し強引だが、許せ。


「え?」

 次の瞬間、手首が燃えるような熱を帯び、そこから強い光が放射状に放たれた。


 ――あなたががセイサンシャなのだから。


 まるで灼熱で熱したばかりの鉄を押し当てられたような熱はとっくに骨まで浸透していて、この不思議な空間のすべてを満たすかのような勢いで手首からの光はさらに強く、眩しくなり、四方八方に輝きを放射し始める。

「――――!」

 熱さに耐えられなくなるよりも先に、僕はそれを直視していることができなくなり、自分のものとは思えない獣のような叫び声をあげながら顔をそらして目をつむった。だが肝心の右手を下げることが、どうしてもできない。ものすごい力で何者かに掴まれて身体をどれだけ暴れさせてもびくともしない。

 セイサンシャとはどういう意味なんだ?


 ――意味はわかる、いずれ、きっと。


 その声が再び僕から離れようとしているのを唐突に感じた僕は焦り、手首の焦げるような熱さと痛みを我慢して目を見開き、前を向きなおして叫んだ。


「待ってくれっ!」


「何を待つって?」

 二年二組の教室の自分の机で、僕は不自然に右手を高々と掲げたまま大声をあげていた。

「か、関田……?」

 教室を満たすのは、静寂のみ。僕がいて、関田がいた。立ち位置もさっきと同じ。

 僕は関田と眼を合わせたまま、ぎこちなく右手を懐に引っ込める。

「……あー、えー、部活に行ったんじゃなかったのか?」

 傍らに立ち、時々声のひっくり返る科白を吐く僕を、明らかに不審そうな眼で見ていた関田は、その白い眼差しを僕から一瞬たりとも外さないまま、祈りをささげるようにして両手を胸の前でがっちりと組んだ。

「私はここにいるわよ、椎奈。部活も終わって帰ろうという時に教室からあなたの叫び声が聞こえたからまた戻ってきたの」

「関田、気持ち悪い」

 即答した。

「……正直でよろしい」

 こころなしか、彼はショックを受けているようにも見えたが、まあそれはどうでもいい。

 一呼吸おいて、僕は関田に背を向ける形で机の上に腰を落ち着けた。それを見た関田が、何があったのかと言いたげな顔で僕を見つめてくる。

「椎奈よぉ、今何時だと思うね?」

 僕はそれを聞くことが何故だかとてつもなく恐ろしく感じ、そしてこういう時に限り、僕の直感は大抵当たるわけで。僕は問いに対して答えを返さず、だんまりを決め込む。それを見かねたのか、関田は時間を置かずにそのアンサーを口にした。

「六時だ。勿論夜のな。教室で叫び声上げるには少々適切でない時間だなあ」

 時計を見上げると、確かにその短針はアラビア数字の六を少し過ぎたところを指している。教室も先ほどよりずっと暗い。

「……マジか」

「さっきの冗談に比べりゃ限りなくマジだな。むしろお前がマジに正気かどうかを俺は疑おうと思ってるところだが、まずそれについてお前自身の意見を聞かせてもらおうか?」

 僕は力なく首を横に振って、右手を額に当てた。例え逆立ちして眺めてみたところで、何をどう見てもここは二年二組の教室だ。いつの間にか僕は元の位置に戻ってきているのだ。不可思議な時間はとっくに終了していた。

 何だ、これ。

 何が一体どうなってるっていうんだ?

「そうだな、僕は気が狂ってるのかもしれない。だから一人にしてくれないか、気持ちの整理が必要なんだ」

 それを聞いた関田は変に勘違いをしたようで、

「おお友よ! そういう時は一人でため込まない方がいい、勉強も出来て運動も出来て、その上顔がよくたって、振られることはある。ドントマインド、気にするな。飯行くか? 今日くらいは奢ってやってもいいぜ」

 うん、違う。君はクイズ番組の早押し問題でまだ問題文が読まれていないのに回答ボタンを押してしまったのと同じくらいの過ちを犯したと考えていい。

「違う、ってお前。帰宅部で勉強机がお友達みたいな奴が放課後の教室で六時過ぎまで馬鹿みたいに残るのに他にどんな理由が……ん?」

 僕の右手首を見て、関田は目を丸くした。――右手首?

「ははあ、なるほどなるほど。一方的にプレゼントだけされて逃げられたと、そうだな? 図星か」

 腕を組み大げさにうなずく関田。

「なんだかんだいってモテるんじゃねえか、俺も親として嬉しいぞ椎奈」

 だれがいつお前に育てられたっていうんだ、ふざけるな。それよりもプレゼントってなんのことだ? 僕は恐る恐る自分の右手首を凝視した。凝視するまでもなかった。

「……なんだこれ?」

「おいおい、なんだこれ? じゃねえだろうが」

 とかなんとか言い残すと、関田は僕の肩を二回叩いて無駄にいいスマイルを残し、無言で教室を出て行った。それはそれでとりあえずはいいとして。

 僕は混乱した。

 僕の右手首に幅三センチ程の、青い半透明の腕輪がはめられていたのだ。

 こうして僕は、すべての意味がわからないままにそれまで思い描いていた人生の設計図を捨てることを余儀なくされた。

 それが夏の始まりで。

 それがすべての始まりで。

 それが六月三十日の出来事だったことを、僕はたぶんずっと覚えているのだろう。

 そしてその悪夢のような現実がまだまだ続くということを、その時の僕は知る由もなかった。

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