14.布石投石
振り返らずともわかる。この声、あの少年だ。
まずい。
背筋を凍り付かせそう思った刹那、ひどく眩い光が背中側から僕の影を長く目の前へと伸ばした。
「どわああっ!」
何が起こったかわからぬままに素早く頭を右回転、後方へと目を遣ると、悲痛な叫び声をあげる少年の小柄な体躯が、強烈な赤い光の筋に横槍に吹き飛ばされている最中だった。僕が振り返り切ると同時にその身体が有に数メートルはぶっ飛んで、公園の地面を無様に転がる。
「早く行ってください、あなたに狙いを定められても面倒を見切れませんから」
淡々とした調子で畑中が僕の左横から声をかけた。忙しくも反対側へと首を回転させると、畑中の顔を見つけて一つ早急に頷く。悠長に徒歩で移動している程余裕のある状況でもない。僕は駈け出した。
「ちくしょおぉおぉぉぉっ! なんっなんだよ! このババァっ!」
「バッ……!」
うわあ。あれは即ち、子供ながらの無邪気の刃というやつだな。しかし畑中は相当いきり立っている。
少年、今のは残念ながら死亡フラグだ。
「あなた……あまり私を怒らせないほうがいいですよ」
そして怖い、畑中さん! さすがにドスが効きすぎ! 君は宝塚の男役ですか!
なんて思いつつ、猫耳男へと走る。向こうも僕に気づいたらしい、滑り台の前に佇みつつも、その面構えをより一層硬質なものへと変えた。後ろからは例の赤い閃光が飛び交っている振動が宙を飛散して、僕の透き通った感覚神経を凛と揺さぶる。この感じから判断するに、どうやら二人は僕と猫耳男から遠ざかっているらしい。畑中がうまく誘導してくれているのだろう。
まさか畑中が負けるなんてことはないとは思うが……いや、僕が心配するような身ではないだろう。今は自分のことだけ考えるべきだ。それが畑中の為にもつながる。僕は再び前へと顔を向けた。
「猫さん、でいいのかな。僕は敵じゃないから、まずその爪はおろしてくれないかな」
念のため猫耳男とは10メートル程の距離を置き、そこでゆっくりと足を止める。後方でドンパチやる二人を除けば、ここはしんと静まり返った夜の公園だ。明かりだって脇にある街灯の無機質な白光だけ。ようやく本来そこにあるべきどこか寂寥な空気を取り戻しつつ、僕は出来るだけ柔らかに猫耳男へと語りかける。
「あー、日本語わかる?」
細身ながらもひょろりと背の高い白髪の猫耳男は、掲げた鋭い爪を胸の高さで光らせたまま猫の目で僕をギラリと睨んだ。軽く二メートルは身長がありそうで、これだけの距離があっても未だかつてないほどの威圧感を受ける。関田だってかなり大柄な部類の人間だが、こいつの身長は全くの規格外だ。背に羽織る白い毛皮のようなものが、風に揺れて白光を反射する。その立ち姿は小粋というよりもむしろ不気味だった。
猫の目をした男からの返答はない。
「……えー、と。Do you speak English?」
日本語に見切りをつけてにわか英語で挑んでみるも、またもや返答はないどころか、代わりに細長い五本の猫爪が軽く持ち上げられる。警戒を強められたということだろうか。そんな些細な畏怖でさえも、いちいち身体に震えが走る。怯む。
いや、物怖じするな。僕は余計な感情を頭から吹き飛ばして表情を引き締め直し、両手を高く挙げた。
「ほら、丸腰だ。安心してくれ、僕は君を保護しにきたんだ」
このジェスチャーはある程度世界共通認識のはずだ。そう思い、上目づかいに対峙する男の表情をチラリと窺う。
「保護だと?」
低いとも高いともつかぬ、平坦な声が言った。
って日本語話せるのかよ!
話が通じることに僅かな希望を見た僕は、少し安心してそれに返す。
「ああ、保護だね」
「戯言を」
しかし猫耳男は鼻で笑う。合わせて揺れる猫髭が場に似付かず滑稽だ。
「あの小僧も同じことを言っていたぞ」
「……そうか。うん、ではこうしよう。僕は君に危害を加えない。暴力に帰依するのは好みじゃないのでね」
とまあ、ジョーカーの受け売りなのだが。
「同じことだ。得体のしれない人間に保護を被るほど俺は貧弱じゃない。それならばまだあの小僧とやり合って無理やりにでも連れて行かれる方がマシだ」
プライドが高いんだな。僕は苦笑した。だが笑えるような場合でもない。
「いいか、ついて来いと言うのなら答はノーだ。小僧、お前に俺の相手が務まるとは思えん。俺の気が変わらないうちにさっさと選手交代するんだな」
食い気味に言葉を放つ猫耳。よく喋る。
僕は数杖先の男から目を離すことなく、考える。頭の中を光がかけ巡り、その思考をより複雑な造形へと高めていく。
最もありそうな可能性を考えよう。
とりあえず今はこの猫耳男がどんな存在なのかってことは置いておくとする。その上でジョーカーの狙いだけを考慮するならば、それはおそらく僕が『封じ屋』の人間としてこの男を確保することだ。そうでなければ『32号機関で保護するように』などと僕に言う必要はないし、そもそもそんなことを頼む必要もない。保護しろと言うのならば直接ジョーカーが確保に向かうか、その仲間を仕向ければいいだけのことだ。
前者は、それをする必要のないことであるという可能性が一点、もしくは考えにくいが、本人にそれをする余裕がないと考えればいい。どちらにしろ奴が現実に行動を起こしていない今それを考えるのは無意味である。
それでは残った後者を既に実行しているのだとすれば、あの少年こそがジョーカーサイドの人間と考えるのが妥当。さらに少年の様子とジョーカーの口ぶりからすれば、任務の遂行が滞り、速やかにステップが踏めていないことが伺える。そこで僕が別の側面からのアプローチによりこの男を捕獲するという算段。同じ機関からの追手が増えるよりも、天から射す希望の光を見せた方が捕獲はより容易だ。あくまでも可能性としてだが、下手をすればこれがジョーカーの最初からの策だったとも考えられる。何らかの方法で僕に腕輪を装着し、腕輪が狙われているという情報を流すことによって僕をいいように使う、という知略。そうなればこの役回りが僕である必要があったとも思えないが。
さらに僕に護衛が一人つくことも予想していたのだろう。それを踏まえた上での『32号機関で保護せよ』という指令。
保護という言い方をするあたり、不用意に傷つけるようなこともしたくないのだろう。先ほどの攻防を見た限りでこの猫耳男と同等の力を持つあの少年を派兵しているのも頷けた。
白い猫耳の付いた、一見ふざけているとしか思えない男を強く睨みつける。
つまり、僕が今一言でもジョーカーと繋がっているようなことを口にすれば、その瞬間交渉は決裂し、即ち僕の危機へと直接する。何故ならそれはジョーカーの意にそぐわない終了であり、なおかつ展開はほぼ確実に実力行使の土壇場へと移行するからだ。そしてそうなった場合、物理的な危険という名のモンスターが僕へ魔の手を伸ばすのである。
畑中とあの少年が敵対するのも策の内、ということ。
一先ず。いいだろうジョーカー、あんたの要望通りに動いてやるよ。
僕はそこまでを考えると、考察を一時停止して静かに口を開く。
「僕は『封じ屋』の人間だ」
それを聞いた猫耳男の表情が一転、驚愕のそれへと変わった。
「本当か」
ああ、と僕はうなずく。眼の前のこいつにとって『封じ屋』とやらがどのような意味合いを持つかは知らない。だが、僕に渡されたカードは使うべきだろう。
「君も知っているのだろう。『封じ屋』がどういう存在か、くらいは」
口から出たままを適当に並べた。今はそれっぽく聞こえればそれでいい。ぽかんと開いていた口を閉じた猫耳男は、疑念を顕わにして僕へと聞き返す。
「お前はジョーカーの手先じゃないのか」
やはり。
ドンピシャだ。
「ああ、だから安心してくれ」
そこで調子に乗った。漏れそうになる笑みを堪えたりして、要するに僕は是が非でも馬鹿だったのだ。喜々として語りだした僕は、その帰結を思い知ることになる。
「あの少年は僕たちがなんとかす」
ヒュと。
「え?」
僕の鼻先数寸を、風を鳴らす猫の爪がかすり抜けた。
上半身と視界の反射だけで間一髪、僕はそれを空切りの一撃とする。
――なんで?
僕はそのままグシャリと、腰を砂利へと打ち付けた。粘っこい脂汗が一気に、背筋にねとりと湧きだしてくる。
どうして。
どこで失敗した? いや、失敗なんて状態か、これは。僕はまだ何もしていないはず、ならなおさら何故だ。
「ああ、よく知っているさ」
瞬刻にして僕の眼前へとその身体を移動させていた猫の眼が、冷たい光を宿して尻餅をつく僕を見下ろす。
「『封じ屋』が」
ゲームやアニメなら「ジャキン」といった感じの効果音が入っただろう、そんな動作で、右手の指それぞれに生えた五本の長い爪がゆっくりと構えられる。僕に向けて、殺しの予備動作として。そして、男は言った。
「所構わずメルシングを殺して回る集団だってことはな!」
「――っ!」
この猫耳男は――メルシング!
「道理で」
こんな男も、こんな猫も、この世に存在するはずないと思ったわけだ。
だが、どうして。それならば何故ジョーカーはあんなことを。
『ついでに、君のレベルアップに協力してあげようかと思ってね』
その発言が頭の中に響いた瞬間、僕は激昂と共に奥歯を猛烈に噛みしめた。
どこかでジョーカーの笑い声が聞こえた気がしたからだ。
やりやがったな、ジョーカーの奴め。初めからこうなることが奴にはわかっていたんだ。その上で僕に勘違いを起こさせるように誘導した。
あくまで可能性に頼った賭けだったことは否定できない。
しかし、この賭けは僕に分が悪すぎた。
この猫が何者なのか、あの少年が何者なのか、『封じ屋』とジョーカーの関係が何なのか。掴みかけていたもの全てが指と指の隙間からさらさらと砂のように零れ落ちていく。ブラインドをかけられたように、何もかもが見えなくなる。
てっきりこいつは僕に助けを求めるだろうとばかり思っていた。畑中やあの少年と同じ、アーティストだと思っていた。だが、それは全くの間違いだったわけだ。この猫耳男はメルシングで、表の世界の不穏分子を排除するのが目的である『封じ屋』にとってはただの目障りな存在でしかなかった。
畑中は大抵のメルシングなら一目見れば見抜けると言っていたはずだが……いや、そんなことはどうでもいい。保護? ふざけるな。この場合の保護とは畢竟、端から実力行使を意味していたんだ。だがあいつはそんなことは一切口にせず、保護なんていう曖昧な言葉で僕の考えを撹乱した。いや、そんなものは言い訳だな、僕が勝手に思い違えただけ。だが。
汚らしい。
汚らしいやり口だ。奴はすべてを解った上でやはり、僕をからかっているとしか思えない。奴はあの電話の時から、僕が『封じ屋』の人間としてこの猫耳男と対峙するだろうことを読んでいた。ジョーカーの発言はそれを踏まえた上での情報の操作だったんだ。僕にこの賭けに分があると思いこませた。
迷い猫。
それが何なのか口にしなかったことを、もっと素直に疑っておくべきだった。
保護。
奴の言い回しを、もっと曲解しておくべきだった。
結局一から奴は、僕とこいつをやり合せるのが目的だったんじゃないか。だとすればあの少年も僕とこの猫をやり合せるための? いや、それはまだ早い、考え過ぎた。
ともかくそれをさせるためだけにここまで回りくどい手段を――ここまでのやり取りと僕の思考のすべてが奴の計算の上だったということか。ほんのわずかな時間の思考でさえも、僕へのいやがらせへと活用か? いや、違う。
そんなレベルではない。
それは誇示。たった数時間前にその存在を知った程度の人間に、僕は完全に思考過程を読まれ、一方的に弄ばれているという、示教。僕がどれほど奴に支配されているかを見せつけられたに他ならないのだ。その事実は究極的に胸糞が悪い。
やられた。
だが、どうする。怒りと失望はつばと一緒に地面へと吐き捨て、目の前の危険分子へと思考のフォーカスを合わせなおす。
少なくともあの格闘戦を見る限りでは、この猫耳男と黒髪少年は対等。さらにその黒髪少年を畑中は高く買っていた。となれば眼前のこいつだって相応の実力を持っていることになる。
「っ!」
僕は瞬時に身を翻し、振り下ろされた爪の一撃を辛くも横に回避した。
対してこの僕は魔術素人のほとんどが一般人に程近い存在だ。
「どうしろ、ってんだよ!」
そのまま片手をついて立ち上がり、何とか横っ跳びに逃げ出そうとする。
「遅いな」
だが、視界から消したはずの鋭い猫目が、僕の進行方向真正面から僕を睨みつけた。
「くっ!」
運動靴のかかとで急ブレーキをかけ、バックステップ。もう一度距離をとる。だが。
「遅い」
僕がとったはずの距離が、無い。
鼻のくっつきそうなところに、腰をかがめた髭付きの男の顔がある。目と目が、合った。
「遅すぎる。お前が『鬼』だぞ? はん、少し待ってやる。あっちの小娘ならともかく、お前のような弱小小僧はハンデの一つでもなければ相手にもならん」
「ふっ……言ってくれる!」
返事だけは強気に返す、いつもの僕だ。少しダボダボな長ズボンの右ポケットから、公園巡回の間にたっぷり拾っておいた小さな石ころを一個取り出す。
ある程度だがこうなる予想はついていた。何のためにあの仕掛けをしておいたと思っている? そうだ、落ち着け。敵を間近にして、深呼吸を一つする。
勝算はある。
賭けは失敗だ。しかし、ギャンブルであった以上もう一方にはあったんだ。こうなる可能性も。
それを考慮していないほど僕は馬鹿じゃない。
「後悔することになるぜ」
さあ。
始めようか、鬼ごっこを。
「最も鬼のほうが一段と危険な鬼ごっこになりそうだが、な!」
言って、紅い攻防を繰り広げる二人を左手に、僕は一歩後ろに下がって目の前の猫耳男に向かい、至近距離でのつぶてを打った。しかしゆらりと、身体をほんの少し傾けるだけでそれは避けられる。もう一発。僕は走りだしながらもう一つ小石を投げつけた。避けられる。
さらに、投げる。避けられる。幾度となくそれを繰り返しつつ、僕は滑り台と砂場の前を離れ、ブランコへと向けてどんどん後退していく。ターザンロープを通り過ぎ、シーソーを横目にし、走りつつ、また投げる。そろそろ片方のポケットの中身が尽きるな。思いつつ、また右ポケットに手を突っ込み、振り向いた時には。
「……いない……っ!」
前からの砂を踏みしめる足音に、戦慄が走った。
「なっ?」
「振り向く方向がいつも同じ」
紙一重のところで、しゃがむ。髪の毛の先端が二、三本、切れ味鋭い右手の爪に持っていかれた。
「回り込むのも簡単だ」
そもそも、敵に背を向けて走るなんてのは通常間違いだ。が、この場合速度が違い過ぎる、一概にミスだとは言えないな。なんて、そう余裕たっぷりに続けた猫耳男の左手の爪が、白光しながら僕の右肩に振り下ろされる。
まずい。そう思うのが先か、わずかに残された野生の感覚が、僕の両手を後ろの地面に付かせ、右足を高く振り上げさせた。
「!」
それに動物的なまでの反応を見せた猫耳男は、振り下ろしかけていた左手の爪を停止させ後ろへ、僕から見れば前へと跳躍する。
やはり。
僕は無我夢中で、すかさず右手に握りしめていた石を空中の男へと投げつけた。
「さあ、避けてみろ」
いくら動物の運動神経をもつ男と言えど、空中では身動きがとれまい。だが、そうではなかった。
動物は動物でも、奴は猫なのだ。
くるり、と器械体操でいう捻りの動き。それをするという意図を持たずに跳んだ人間のなせる業ではない。高所から落ちる猫の動きを彷彿とさせた。いや、それすらも凌ぐ、猫とはまた違うオリジナルの躍動。
僕の投げた石は何に当たることもなく地に落ちた。
「俺をなめるな」
まさに猫のごとく4本の両手両足で着地した猫耳男が、白い前髪をさらりと涼しげに揺らしながら、平坦に言う。それを聞いて、思った。
馬鹿め。
お前は気づいていない。自分の弱点がだんだんと露呈している、という愉快な事実に。お前の馬鹿げた油断が近づくことを許している、自滅の足音に。
実に滑稽だ。そのふざけた白い猫耳と髭も相まってな。
意図せず、口の端が持ち上がっていた。行ける。思っていたよりこいつは単純で、何も考えていない。
戦略ゲームで王手の一歩手前、僕はもうすぐ勝ちを手にするというのに、相手はまだ迫りくる毒牙に気づいてすらいない。僕だけが相手に落ちようとする敗北の雷を知っている。その時の感覚。それに近い興奮が夜に慣れた僕の目を爛々と輝かせる。大好きだよ、この感じは。
「ふふ……」
「ちっくしょぉぉぉぉぉっ!」
のわっ?
一瞬のうちに何かが僕の目の前を右から左へ、超スピードで通り過ぎた。
「なん」
「待ちなさいこのクソガキ!」
おそらくそれは少年だったのだろう。続いて何十本ものダーツと赤い弾の一群が僕の目の前を通り過ぎ、最後に憤怒を顕わにしまくった畑中が綺麗な髪を振り乱しながら、それらを追いかけるように走り過ぎていった。僕の軟い声など無残にかき消す怒声付きで。
いや、おかしいよな。いろいろと。
そもそも魔術やら何やらっていうのは、普通の人間に見つかっちゃだめなんじゃなかったっけか? 半ば呆れつつも、それらは放っておくことにしておく。今は人にかまっている余裕などない。
猫耳男が立ち上がったのを確認した僕は、すぐさま全速力で駈け出した。
今しかない。一気に決める。