13.僕と彼女と猫と少年と
畑中の指先から無数に放たれたそれらは、夜間の公園のすべてを例外なく曝け出すべく眩い赤光を放ちながら、ものすごいスピードで男へ向かって飛翔していく。対するその小男は進路を変える素振りなど一欠けらも見せず、チェストに白いラインの入ったオレンジのTシャツをはためかせ走り続けていた。そして躊躇なく、煌めく紅の流星群へと突っ込む。
見るに、アーティストと判断しての攻撃。今や魔術に携わり、微弱ではあるが力を得た僕にも、その感覚がなんとなく掴みとれていた。あの男がこの公園に飛び込んできた時から空気がピリリと痛い。おそらく、僕たち二人が入ってきてからしばらく安定していた公園内のマナの流れに、小さな乱れが生じた為だ。と言葉では言うものの、概念はほとんど理解できてはいない。だが、それが振動となって、僕の現実的でない神経を揺らす。
それを感じた畑中が、攻撃した。少なくとも僕なんかよりはベテランである彼女の判断に間違いはないだろう。
その畑中は今、この立ち位置では栗毛の後頭部しか見ることができないが、僕よりもずっと冷静にその男がどう振る舞うかを観察しているようだ。だがこのままだと小男は間違いなく、畑中の放った閃光を全身に食らうことになる。そうなった場合、あの男は大丈夫なのだろうか。見ず知らずの人間を心配する義理など僕には一つとしてありはしない。しかし、湿度の高い空を切って飛びゆく魔術の閃光は見るからに鋭利かつ危険そうな凶器だった。
グロテスクなワンシーンを見なければならないとすれば、僕は目を背けたいところである。
さあ、どうなる? 僕も畑中に習い目を細め、なり行く先を見極める。
そして鋭い赤光の群れが、走り続ける小柄な男の身体と接触するというその瞬間。男は、まるでそのすべてを遊びだとでも思っているかのような満面の笑みを、その童顔に浮かべた。
消える。
消えていく。
男に触れるか触れないか。その位置で、閃光が次々と消滅していく。いや、その表現は的確ではない。その様子は、水に投げ込まれた小石が、その水面に波紋を打ち放って沈んでいく様に近かった。小男の周囲にある何らかの境界面に触れた何本もの閃光は、無色の液体に飲み込まれるように、虚空に赤い鮮やかな波紋を伴ってゆっくりと沈み、そして無に帰す。生き残った幾本かの赤い閃光は公園の対辺まで飛んで行って、リズムよく木の幹に刺さると、これらは花が萎れるようにしてまた消えてなくなる。
「……なんだよ、あれは」
新鮮な驚きに、自然と口から言葉が出た。
その結果、元の暗い公園に残されたのは僕と畑中と、そして奇妙な雄たけびを上げながら駆けて来るその男だけだ。
「うはあぁぁぁっ! 超すげぇっ、こんなにたくさんの魔弾は見たことがねえぇっ!」
畑中は一歩後ずさりすると、男とは対照的に緊迫した口調で言う。
「あの量を一瞬でディスペルですか……何者です」
ディスペル。畑中に聞いた話だと、確かそれは打ち消しの呪文。
「おぉぅっ! お前らあっ!」
なんて畑中の言葉に耳を傾けている場合ではなかった。
その男は勢いを衰えさせないまま、唖然とする僕と畑中の1メートル手前で両足の運動靴を揃え地面を打ち鳴らす。そして。
嘘みたいに跳躍した。
口を開けて驚く僕たち二人の頭の上を軽やかに飛び越え、その高さを保ったまま一直線に左後方のブランコの支柱まで飛んでいく。かと思えば今度は、その青い支柱の中ほどを左足で蹴り、身体をしならせてさらに高く跳ね上がる。
完全に、この地球上の物理法則に逆らった動き。どう見ても、人の持つ重量で出来得る運動ではない。滅茶苦茶すぎる。
手入れのされていなさそうな量の多いぼさぼさの黒髪が、公園の街灯に照らされながら風圧に揺れる。男は、仕上げとばかりに空中で前方宙返りを打つと、ブランコを吊り下げている支柱の上辺に音も立てず、すたりと着地してみせた。
さながら、何かの大道芸を見ている気分だった。僕の常識を遥かに逸したその一連の動作には、あっけにとられるとしか言い表しようがない。
僕たちはそれを目で追いながら反射的に振り返り、オレンジ色のTシャツの薄汚れた背中を見た。するとその男はにかあっ、と邪気のない笑顔でこちらを振り返るなり、口角泡を飛ばして僕たちに語りかけてくる。
「なぁなぁ、猫見なかったかっ?」
猫だと?
「……畑中。これはどういうことだ」
桃色のスカートをひらひらさせながら忙しく僕の前へと移動しつつ、畑中は唸り声を上げる。
「わかりませんが……しかし、この男は私の友人ではありません。勿論、知り合いでもありません」
だろうね。こんな粗野な男が君の友人だったら僕は君を少し軽蔑していたかもしれない。
「冗談を言っている場合ですか」
場合じゃないかな、やっぱり。
細い棒の上で器用にバランスをとる男は、左手で頭をぼりぼりと掻きながら、まるで何か物珍しいものでも見る目つきで僕たちの返答を待っていた。改めて見てみると、身体が小さいとかいう話ではなく本当に子供らしい。推定するに、まだ中学生にもなっていない。道理でボーイソプラノかつ幼い顔つきなわけである。
「猫ね……知らないな」
僕はその事実に面食らいつつも、畑中の背中越しに黒い瞳を持つ少年を見上げ答える。僕のその答えに、大きなその目が少し見開かれた。
「あんれえ? おっかしいなあ!」
そして幼児向けの絵本にでも出てきそうな大げさな動作で、首を横に傾ける。
「あなた……所属は」
対蹠的に畑中が声を低く落とし、神妙に問う。
「しょぞくぅ?」
なんだそれ、食えるのか? というセリフが驚くほどシックリきそうなその聞き返し方に、僕は唐突に吹き出しそうになる。
「ふざけないで下さい……回答によってはそれなりの処置を下しますよ」
だがその喜色のない声に込められた水面下の憤懣と、目前の少女の纏う真剣な雰囲気を見る限り、その反応はあまりに不適切だ。そう思い、何とか堪える。
「なんだそれ、食えるのかぁ?」
僕は吹き出した。
「八代君! これは遊びじゃな……っ!」
畑中が目を怒らせて僕を睨みつけた、と思ったら。彼女のその綺麗な栗色の瞳は僕の間抜け面を通り越して、はるか後方を眺めている。
途端、もう一度、盛大に枝を折り、乱暴に木の葉を叩き落とす音が夜の公園に響き渡る。
「ん、お! ああぁぁぁぁぁぁぁっ! みぃーつっけたぁっ!」
と、語尾に音符の付きそうなセリフを聞いて後ろを振り返る間もなく、そのぼさぼさ黒髪の少年は、再び僕たちの頭上をひらりと公園の入口側に向かって飛び越えていった。人様の頭を二度も飛び越えるとは、なんて失礼なガキなんだ。と言いたいところだがこれはもう逆に敬意を表すべきレベルなのかもしれない。
「八代君!」
甲高く言われて、見上げていた頭を正面へと振り戻す。
「あ……」
そこには居た。多く草木を身体にまとわりつけて公園のど真ん中に着地したそれは。
猫だ。
ぴんと立てられた白毛の耳に、柔らかい背骨。その背中には白く美しい毛並みが生えそろい、顔には街灯の明かりに光る髭と、暗闇にぎらつく鋭い眼。その脚先には、猫としか思えないような鋭い爪がついている。
きっと猫、だ。
そしてそいつは獲物を狙う虎の眼光を放ち、俯いた顔はこちらを厳しく睨んでいる。そこまではいい。
うん。あれは…………猫か?
目をこすり、見なおす。だが僕の網膜が脳みその視覚野へ送る情報にブレはない。
「おい。畑中」
ついでに聞こえていれば少年よ。
「世間一般にあれは猫とは言わない」
いいか、あれは。
「猫耳をつけて猫のコスプレをした人間だ」
しかも男。
女ならまだ許せたものを。暑苦しくも毛皮みたいなものをかぶってはいるが、ちゃんと服らしきものを着ている。というか、そもそもしっかり二本足で立ってるじゃねえか。そんな不気味な猫はこの世に存在しない。いやまて、今となってはそうとも言い切れないので、存在しないはずだ、と語尾を変えておこうか。
ズボンは黒く、全体が白基調で統一されている分、脚だけが闇に溶けた。そのせいで、前方数十メートルに白い毛皮をかぶった大柄な猫耳男の幽霊が浮かんでいるかのような印象を受ける。
「……えぇ……?」
えぇ? と言われましてもね、畑中さん。それこそ僕のセリフだよ。
釈然としない僕たち二人を置いて、眼前に着地した少年は、膝に手をついて頭をうなだれるその猫耳男の方へ、勢いよく顔を上げた。そして地を踏みしめる足で砂石を蹴り飛ばし、放たれた銃丸のごとく爆走する。
「だあぁぁぁぁぁりゃっ!」
一瞬にしてその男と距離を詰めた少年は、猫耳男の前で砂塵を巻き上げて1メートル近く垂直跳び。宙に浮いたまま体を捻るようにして、猫耳のついた頭部に右足とび蹴りの急襲をかける。すると、割合大人しかった猫耳男は、俊敏な動きで前かがみだった上半身をさらに低く落とした。足蹴りは綺麗に空を切り、勢い余った少年は空中で態勢を崩す。猫耳男の目が敵意に満ち溢れ、ギラリと光る。と思えば、間髪を入れず射程圏内に入ったその横っ腹に、切っ先二〇センチはあるだろう先鋭な猫の爪が襲いかかっていた。
だが、少年もそのままでは終わらない。どんな運動神経をしているのか、少年は蹴りの勢いを逆に利用してさらに右回りに身体をひねりつつ、地面すれすれに髪の毛をかすらせながら急激なとんぼ返りを打った。その目論見は功を奏し、一瞬前まで少年の胴があった場所を白銀の光が尾を引く爪が横様に通り抜ける。
それらの動作が一瞬のうちに開始され、次の瞬間には終わりを迎えていた。少年はしなやかに宙返りを完了すると膝をついて砂の地面へと着地し、猫男は振り切った腕の反動をを再び次の攻撃に向けて、繰り出そうとしている。
なんてことだ。二人とも人間業じゃあない。少なくとも僕には、一生をかけてみたところであの動きに辿りつけるとは思えない。どういうわけか、軽い絶望感に似た何かが僕の心を打った。ってあれ。
「……畑中?」
数十メートル先での紙一重の攻防に気を取られていたせいで、僕は目の前に居たはずの畑中の動きに気づけなかった。灯台もと暗しとはよく言ったもので
「じゃない! おい、何やってんだ!」
恐るべきことに、彼女は依然として戦闘を続ける二人に向かい、駆け出していたのである。猛然とダッシュする畑中は、動作を順行しつつ右手を大きく後方に振り上げる。他方では体をねじって白い片腕を高く掲げる猫耳男が、目尻の釣り上った猫目で少年をロックオンし、切り裂きのアクションを起こそうとしていた。
それを跪いた体制で見上げる少年は、また楽しそうに笑う。だが、今度の笑みにはどこか含みがあった。見ると、地面近くの右手が面妖な光を放っている。
「させません――」
それを見てか小さく呟いた畑中は、走りながら振り上げた右手で空中の何かを掴み、ボウリングの球を投げるかのように前へと振り抜いた。寸陰にして、どこからともなく具現化したダーツが少年と猫耳男を分かつ位置にヒュンと飛んでいく。
先にそれに反応を見せたのは、攻撃態勢に入っていた猫耳男だ。少年に対するその動作を中断し、電光石火の動きで後ろへと跳ぶ。
「おぉっとぅ?」
急速に攻撃を取りやめた眼前の猫耳男の動きから状況を読んだのか、少年も数瞬遅れてバク転で後ろへと跳ね、襲いくるダーツをギリギリで回避する。次の瞬間、ダーツはその二人の居た地面に突き刺さった。
「八代君、ぼーっとしないでください!」
「え?」
癖っ毛の長髪を揺らしながら疾走する畑中は首だけ僕を振り返り、日ごろ穏やかな眼を緊急に見開いて、叫んだ。そうしつつも、その右手は流れるような動作で再び初夏の空気を把持し、掴んだ何かを少年へと投げつける。
烈風を切って出現したダーツが、飛ぶ。
「おぉっ!」
少年は極めてめいっぱいに目を見開いて、側転、左手だけで地面を突いて跳ね跳び、瞬く間にその空間座標を変更した。黒髪少年の足裏が公園の地面を捉えるのとほぼ同時に、その数十センチ右隣に小石を弾き飛ばしてダーツの矢が突き刺さる。
「なんだよぉっ! 邪魔すんなあっ!」
畑中はその隙に乗じて、きぃきぃ騒ぎ立てる少年へと追いつき、真正面に対峙する。
「第三現の魔弾はそうそうディスペル出来ないようですね」
片膝立ての状態から立ち上がりジーパンに付いた砂を軽く払う少年に対し、畑中はドスを利かせた声を飛ばす。二人の間には、もはや5メートルの距離もない。
「くっそおぉ、さてはお前ら『敵』だなぁっ! いい人かと思ったのによぉお! だまされたっ、くそっ!」
少年が悔しそうに喚く。騙された、というのは身に覚えがないので聞き流しておいてやろう。
なるほどね。迷い猫を保護しろ、か。
僕は素早く、広さのある公園内に目を走らせる。居た。猫耳男はブランコの前から向かって公園右端の滑り台付き砂場の前で猫背になり、彼に役回りを取って代わった畑中を状況が飲み込めないといった風に観望している。
たった今、僕は僕のすべきことを完全に把握した。
「封じ屋には所属名も名乗れないような馬鹿はいません……結論を言えば八代君。この少年は私がなんとかしましょう。後は解りますね?」
少年から視線を外すことなく、桃色の少女は高声を張った。ええ、わかりますよ、わかりますとも。
「できれば猫の方も君に何とかしてほしいところだけどな」
ジョーカーが僕たちに期待していることは、つまり。僕たちがどうにかしてこの少年を下し、猫耳男を保護すべし、ということだ。
僕の担当はどうやら、かの猫耳男らしい。
さて、どうしたものか。保護と一口に言っても、そもそも奴に言葉が通じるのか怪しいものだ。おしゃべりな少年とは真逆で、あいつはこの公園に入ってきて(正確には飛び込んできて)から一つも言葉を口にしていない。
事実、あの猫耳は伊達じゃないのかもしれないし、そうだとすれば交渉がうまくいくかどうかは相当わからなくなる。勿論言葉だけで保護可能な話ならばそれに越したことはないが、僕の直感が「それはないな」と告げていた。こういう時に限って僕の勘は当たってしまうのである。これ、前にも独白した気がするが。
「……至極穏当、こりゃレベルアップにもなるわけだ」
何せ、下手を打てばあの運動能力と猫の鉤爪を持つ化け物みたいな奴を相手にしなきゃならないわけで。
ちなみに、僕には昨日の畑中とのゴタゴタを除外すれば、喧嘩の経験がない。全くのゼロだ。これは僕のちょっとした自慢でもあるのだが、今の状況ではマイナスファクターの一つへとその性質を変貌させかねない。
やばいな。
脚が独りでに震えてきた。出来るのか? 僕に。
しかし、弱音なんてものを吐いていられる状況でもない。こうなってしまった以上、少年は畑中に任せきりだ。もはや僕には格好つけて、女性に頼るなんて男らしくない、などと言えるべくもなく。男らしくある必要がどこにあろう、僕の精神は軟弱主体、帰依出来るものには帰依すればいい。
とにかく頼みます、畑中さん!
震える膝でこれを言うわけで、僕のへたれ具合ここに極まれり、といった感じ。
弱気になった頭が考えることといえば、増援だの援軍だのと、まさに他人に頼りきりの軟弱な逃亡策ばかりであり、僕らの行動の何がジョーカーの逆鱗に触れるかは皆目見当がつかない。あの嫌みな男の指示通りに動くのはひどく不服だが、僕が一人でやるしかないのである。
僕は猫耳男へと砂利を踏みしめて歩み寄る。
やるしかない。その言葉を心に刻みつけ、口を一文字に引き結ぶ。と、間後ろから騒がしい足音が響いてきた。
「あぁの猫はぁ! おいらの獲物だあぁぁぁぁぁぁっ!」