12.猫を探して
閑散とした住宅の合間を縫うようにして、アスファルトで舗装された夜道を同級生の女子と並んで歩く。
それが今でないならば、例えそのチシュエーションが必然の産物でないとしても、僕は充足たる悦びを感じることができたに違いない。少なくとも隣を行く女の子を美少女と形容するのに抵抗はなく、僕だって一端の男児だ。この状況に関して興奮が全くないと言えば、その言動は限りなく虚に近づくことになる。
だが現実というものはあまりに厳しい。そして虚しい。
世の風あたりはつらく、人間が幸福に近づくためのハードルというのは意外と高いものなのだと痛感する。僕の気持ちは少し沈み気味であり、これからどんな危険な目に逢うかもしれないと考えれば、女子と歩いているからといってそんなことで浮かれられるわけもないわけで。
要するに僕は沈痛な面持ちを持つ他にないということである。どうせなら昼間がよかった。曇り空の夜ではおどろおどろしさも当社比2割増といったところだ。たかが公園に向かうのにこれほど気乗りしないことがあるなんてな。果たして神は僕に楽しい思いをさせてくれる気があるのだろうか。
などというぼやきは口にだせるはずもなく。
「なあ畑中」
こうして一緒に歩いてみると、女子と男子の歩くスピードの違いに気づく。男だけで歩いている時には、そんなこと気にも留めなかった。が、二人で歩いているとどうも畑中が早歩き気味になるのが気になって、僕はやや歩幅を狭くする。
「なんですか?」
畑中は顔は前へ向けたまま、目だけでこちらをちらりと見た。
「僕はこれからどうなるんだ?」
「どうなる、と言いますと?」
「うーん」
一体いつになったら元の生活を送れるようになるのか、ってことかな。
「……私には何とも言えません。残念ですが、記憶を消すと言った都合のいい魔術はありませんから、あなたが考えているような元の生活に戻れるということはほぼ不可能と考えたほうがいいでしょうね」
「そうかあ」
まあ、そうだろうなとは思ってたけどさ。現実に言葉にされるとその事実が目の前に強く叩きつけられてしまった気がする。
もはや、つく溜息の在庫も切れかけてきていた。なんとも少ないストックだったという気がしなくもないが、こうも連日で嘆息させられるような経験は今までになかったのである。在庫確認が間に合わないのも仕方がないと頷かざるを得ないだろう。
あ、ここ左。と、畑中の少し先を行きつつ入り組んだ住宅街の中、彼女を公園へと導く。
「でも、大丈夫です」
何が。
「私だってすぐに慣れましたから。麻痺とも言うかもしれませんけどね」
慣れる、この世界にってことか?
「ええ」
「僕は……今のところ慣れたいとは思えないけどな」
そりゃあ魔術なんてものを使えたら楽しいんだろうし、僕自身の見聞だって広まるのかもしれないが。それでもやはり、今まで造り上げてきた僕だけの世界を唐突に突き崩すというのは、いささか惜しい気がしてならない。僕の世界にとってこれは根本からの改革なのだ。
って、慣れる?
「畑中は生まれつきとかじゃなかったのか?」
街灯に照らされて揺れる栗毛を後ろに見つつ、意外を込めた声をかける。
「魔術がということですか?」
うん、まあそういうことだ。
「そういえば先ほどは魔術の概要ばかりお話ししていましたからね」
「あれで概要なのか……」
かなりの情報量があったように感じたが、魔術というものは僕が考えているよりずっと深いらしいな。
「私が魔術を使うようになったきっかけといいますか、原因は兄の死なんです」
僕は何の躊躇もなく発せられた畑中のその言葉に少々動転した。
「お兄さんが居たんだ?」
「ええ。でも私が小学四年生の時に亡くなってしまって」
そうだったのか。何気ない気持ちでその質問を口にしたことを少し後悔した。
畑中は何ともない風に応答しているが、実際のところはどうなのだろう。この手の話題になると、聞いた方がいいのか聞かない方がいいのか僕はいつも迷ってしまう。聞かないなら聞かないでそれは失礼なのではないか、とか。
「人が魔術を使えるようになるには様々なパターンがあるのですが、私の場合は兄を亡くしたショックだったのでしょうね。今でもその時のことははっきりと覚えてますから」
そんな僕の心配をよそに、けろっとして畑中は言う。
「まあ、昔のことですよ」
「ふぅん……」
きっかけ、か。僕の場合何がきっかけだったんだろう? いろいろありすぎたせいでわからないな。
そうこうしているうちに、僕は見なれた光景を発見し、足を止めた。
「着いたよ。ここだ」
畑中も僕の隣で止まる。
「結構広いんですね」
その通り、星の街公園は高校生になった僕の目から見ても、大きめの公園だった。平均的な小学校のグランドと同じか、それ以上の広さを保有しているのではないだろうか。
遊具がぽつんぽつんとある以外には小さな砂場があるだけなので、親子連れよりも、鬼ごっこだとか、あるいはサッカーや野球といった球技をする小学生がこの公園の主な利用者層だ。とはいえ、ブランコやシーソーと言った定番の遊具がそろっているためか、親子連れにとってもそれなりの人気を誇っている。住宅街のまん真ん中にある緑、というのが案外その魅力の一つなのかもしれない。
公園の周囲には、内側に沿って主にブナの木が多く植えられており、その下の土には公園の大部分を占める砂にはない、こぶし大の石がいくつか落ちている。親父に連れられてここに来た僕は、その石と遊具を使い、今になってよくよく考えてみると随分過激な遊びをしたものだった。
本当に過激だったな、あれ。親父もよく許容してたよな。というか親父本人がノリノリじゃなかったか?
恐ろしい。
僕は畑中を連れて、中に入る。畑中は念のため、と胸の前で手を組み合わせて
「セット」
と声をかけた。一瞬、柔らかな風が畑中の下から吹き上げるようにして、髪とスカートがふわりとひらめく。見えない。いや、見ない。僕は敢えて見ない。
とりあえず。これは右手と左手の回路をつないで、導力と魔力の流れを自分の中に作り出す、その為の共通の発動呪文らしい。昨日龍ちゃんがやっていたのはこれだったのだろう。
しかし必ずこれをしなければならないということはなく、未使用だろうと魔術の使用自体には別段問題はない。ただ、それでは一つの魔術を発動するのにいちいち諸手順を踏まなければならない為、連続して術を使う場合には時間も手間もかかる。発動呪文はその手順のいくつかを簡略化する為の呪文であり、いわば一種の魔術発動のルーチン化でもあるのだ。どうでもいいが、この魔術を使っている間の状態のことを『パレットを作る』という。おそらくアーティストと呼応した表現なんだろうな。
「パレットを作ると精神力を通常より早く摩耗します。出来るだけ早く目的を達しましょう」
目的を達すると言ってもなあ。
迷い猫を探して保護しろ、だっけ?
「そんなのどこにいるんだよ」
僕は言いつつ、固い地面から砂利を踏みしめる感覚へと移行する。見渡す限り障害物のないこの公園では、夜に光る猫の目を見逃すことのほうが逆に難しい。
まず、僕と畑中はゆっくり歩きつつ、木と木の間を隈なく探しながら、ぐるりと公園を一周してみた。しかし、何も見つからない。二人で顔を見合わせたあと、もう一周。念のためにと追加で一周。さらに遊具の周りと砂場の中を探して、また一周。
計、4周。始めこそ緊張の糸をピンと張り詰め、小さな物音にも過剰に反応しながら公園を回っていたのだが、それも4周もするうちにだれてきた。公園に足を踏み入れてから、もうそろそろ二〇分になる。暗闇の中の単純作業は僕のやる気を淡々と奪い去っていく。
結局、僕ら二人は何の収穫もなしに、入口とは対極に位置するカラフルに塗装された木製のブランコに腰を落ち着けた。
「……いないじゃないか」
「探し方がいい加減すぎますよ、八代君」
何を言うか。
「そう言う君だって見つけられてないだろう」
まあ、畑中は僕よりも疲れやすいというハンデを背負っているわけだが。
キィキィと鳴るブランコを揺らしながら、僕も大きくなったんだなあ、と靴の裏の擦る地面を感慨深く見つめた。昔はこの高さでも結構高いと思ったものだけど。人の目に見える世界なんていうのは、成長につれて全く違うものへと変質してしまう。だとすれば幼い思い出は大切にしなければならない。
実に典型的な現実逃避である。
「もう一度探しましょう」
面倒臭い。
「馬鹿ですか、あなたは。本当に死にますよ?」
それは嫌だな。
「ではさっさと立ちなさい」
一度座ってしまうと、再び立ち上がるのに倍以上の苦労を要するという真実に僕は気がついた。
「何を年寄りみたいなこと言ってるんですかあなたは」
「そう言う君がまず立つべきだ」
「ええー、面倒くさいじゃないですか」
「ちょっと何この娘、超ムカつくんですけど!」
と、畑中の座る赤いブランコに目をやって、気づく。
あの仕掛け、まだ残ってたんだ。
昔この公園の入口にあった人型の看板が撤去されていたから、てっきりあれも取り払われたものだと思っていた。とはいえ、一応隠ぺいはされているわけだから、気づけなかったからといって撤去者を責めるわけではないが。
僕は無性にそれを試してみたくなった。
先にブランコから立ち上がり、畑中の後ろへと回る。
「ほれ、立つ立つ」
「八代君が探してきてくださいよ……私はここで見守ってますから」
「それがボディーガードの言うことか?」
「だから、見護るって言ってるじゃないですか」
「漢字を格好良く訂正したって駄目だよ! そもそも見守るという言葉に護衛するという意味合いは微塵も含まれていない!」
ああ、もうしょうがないですねえ。のんびりとそう述べた畑中は、いかにも大仰な動作でブランコからその腰を上げる。君こそ年寄りかと言ってやりたい。言わないけど。
立ち上がったその後を見ると、やはりそのブランコの後ろ側面には小さな釘が刺さっていた。完全に刺さりきっていないその先は、何かが引っかかりそうなフックのように曲げられている。
振り返って、植栽のブナの木に目を遣る。これもまた昔と変わらず、人が仁王立ちするように枝分かれした太めの幹がそのブランコの真後ろにあった。その幹の下から数えて4番目の枝に目を凝らすと、その元には細めの工事用の黄色と黒のロープの先端が、チラリとこちらを覗いている。
本当にそのまま、親父と一緒に作った仕掛けが丸々残っていた。
「……迷い猫とやらが見つかりましたか?」
「あ、いや。違うんだけどね」
僕が少しにやにやしながら答えると、畑中はむすっとした。
「ほら、早く探しますよ」
ああ、うん。
そう言いつつも、僕はブランコを持ち上げる。
「何やってるんですか……」
もう、知りませんからね。と言って、畑中はまた公園一周の旅に出てしまった。僕の悪い癖が如何なく発揮されているな。いや、頭でそれは理解できているのだが。本当によろしくない癖だ。
って先にブランコを持ち上げてどうする。
僕はそれを一旦手放し、ブナの木のロープへと向かう。
近づいてみると、その枝の元には同じように釘が刺さっていて、これもまた先が曲げられ、今度はアーチ状になっている。その穴にロープが通されていて、さらにそのロープの先には小さな輪が作られ、抜けないようになっていた。昔は親父に肩車されないと触れない高さだったロープが、今は目線と同じ高さにある。
それを手に取り、引っ張る。わずかな重みが僕の手に負荷をかけた。それを引っ張り続け、やがて50センチほどの長さになると、僕は足を思い切り開いて、空いている手で何とかブランコを手にとり、足を閉じつつそれを目線まで持ち上げる。そしてブランコの釘フックにロープの先の輪っかをひっかけた。夜で視界が悪いのに、手元が狂うこともない。僕にとってそれだけ刺激的な遊びだったことは確かなのだ。
結果として、ブランコの椅子が空中で固定される。
「完了……と」
全く不備がない。5年以上経った今もこの仕掛けが風化していないとは自分でもなかなかに驚かれる。懐かしいな。知らぬ間にわずかな笑みが漏れた。でも、的がない。ほんの何年か前までは交通安全君という名の不憫な看板が公園の入り口にあったのだが。
はて。まあいいか。後で始動の確認だけして、釘なんかは危ないから回収して帰ろう。僕がそのロープから離れて、畑中を探そうと公園を見回した。
その刹那だった。
「ひゃあぁぁっほおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉうっ!」
「八代君!」
その騒音に近い狂ったような叫び声にワンテンポ遅れて、僕を呼ぶ畑中の声が耳朶を打った。
「何事だ?」
僕は公園の中を僕に向かって走り来る畑中に、努めて冷静に声をかける。
ようやく何かが来たらしいな。
「ところで近頃の猫っていうのはひゃっほうって言うのか?」
「馬鹿を言ってるんじゃありません! 私から離れないでください」
君から離れていったくせに。などと言ったところでどうにもなりはしないし、彼女はほんの数秒で僕の元にすっとんできてくれたのである。それに文句をつけるような口がどこにあろう。
息を弾ませる畑中は僕の前に立ち、右手だけでファイティングポーズのようなものをとる。僕もまた、弛んだ神経をぴりりと張り詰める。
「うはあああっ! いい加減諦めろよおおぉぅっ!」
ゴミ袋いっぱいに集めた落ち葉と小枝を思い切りコンクリートの床にぶちまけたような音を伴って、入口近くのブナの木の枝と葉の中から、弾丸を思わせる勢いで人影が飛び出した。その小柄な人物は空中でくるりと一回転すると、軽やかに公園敷地内の地面へと着地、服についた枝と葉を体をぶるりと震わせて地に落とす。
既に相当人間離れした動きをそいつはしていた。
「あんれぇ? どこ行った?」
ジーパンを穿いた猫背のそいつは、ぼさぼさの頭を左右にぶんぶん振りながら、間の抜けた声で独り言を続ける。
おい、まさかあれが本当に猫なんじゃないだろうな。
「……解りません。しかしあれからは敵意を感じます。どこか禍々しい何かを」
とても禍々しくは見えないが。どちらかというと近所迷惑甚だしいといった感じだ。
「おぉぉっ、人だ!」
と、そいつは僕たちを見つけると、八重歯の除く口の端を喜びに釣り上げた。
「なあ! なぁなぁなぁなぁなぁぁっ! 聞きたいことがあるんだけどさあぁっ!」
などとボーイソプラノで叫びながら、出鱈目な走行フォームでこちらへと駆けて来る。
「止まりなさい!」
畑中がそれを、右手と鋭い声で制した。
「それ以上近づくと撃ちますよ」
「おおぉうっ? 俺撃たれるのか? 撃たれちゃうのかああっ!」
しかしその男は止まるどころかさらに勢いを上乗せし、走りながらひゃっほう、と獣のように叫ぶ。一片の迷いもなく、広い公園を真っ直ぐ僕たちへと走り寄ってくる。
「ちっ」
畑中は舌打ちして、上げていた右手をゆっくりと顔の左側面へとスライドさせた。そして間を置かずして、水平線を描く軌道で一気にそれを右側へと振り抜く。その軌道上から一瞬にして、細く尖った無数の紅い閃光が信じがたい豪速で射出される。
「うはあっ、すげええええっ!」
掠りでもすれば肉をそぎ取ってしまいそうなその赤い飛び道具が、その男へと瞬間集中豪雨のように降り注いだ。僕は息を飲む。
だが、その後だった。自分の目を疑うような光景が展開されたのは。