4-10
●4-10
赤ん坊の全身の傷口から、血まみれの上半身が出ている。そいつらが、数多くの細い手で、クーリカの体を掴んでいた。
巨大な赤ん坊が口を開けた。歯は生えていない。動き続ける歯茎だけが待ち構えていた。
クーリカを、その中の魔力ごと、取り込もうとしているのだ。
「うおお!」
僕は走りながら、右足のストライカー装置を作動させた。キックスパイクが床を強く叩き、僕の体は堕天使の頭上へと跳んでいた。
堕天使が僕を見上げた時には、僕は既に、天井に足裏を付け、今度は左足のストライカー装置を作動させたところだった。急降下。
堕天使と僕の顔が交差する。
右の手甲が、伸ばした蛇腹剣を振るった。
いくつもの細い血まみれの手が、切り離された。
左の手甲が、クーリカを抱いていた。
着地! と同時に、堕天使と一気に距離を取る。
「クーリカ! クーリカ!」
〝クーリカ! 目を覚まして!〟
クーリカが薄く目を開く。瞳の形が人間のものではなくなっていた。それでも、クーリカなのだ。
「ギスタ様……? エル様……? きっと……来てくれると……」
〝まったく〟
エルが体の中で言う。笑みを含んだ声。
〝期待されるなんて、損な生き方よ〟
「そう。厄介なんだよ」
僕は、クーリカの血管の浮き出た頬に、そっと触れた。
「クーリカ、君にしか出来ない事があるんだ。君に、酷い事を頼みたい」
約束の指輪によって、その『力』が僕らの体の隅々にまで巡っている。
とは言え、その程度の『力』では、堕天使の持つ『力』の量とは比較にならないほど小さい。
だけれど、同じ質の『力』である限り、干渉する事は出来る。そこに付け入るのだ。
巨大な赤ん坊が僕を見ている。赤子らしい、無邪気な笑みを浮かべる。本当に無邪気なのではない。そこには、本物の感情はなかった。
そして、体のあちこちに開いた唇のような「傷口」。そこにはいくつもの血に塗れた顔があり、どれもが笑っているのだ。その笑顔は、やはり嬉しさも楽しさもない、感情の伴わない笑みだった。
「サーラさんは!?」
赤ん坊の丸々とした腹。そこには、うっすらと影が浮かんでいた。サーラさんはまだあそこにいる!
「行くよ、エル」
〝はいよ〟
走る!
細い血まみれの手をいくつも生やした巨大な腕が、ごうと風を鳴らしながら迫る。
長く伸ばした蛇腹剣を、大きく振るう。三本の濡れた細い腕を、大きい赤ん坊の腕に縛り付ける。
その時には、僕は蛇腹剣から手を離し、腰のクナイを左右の手に持っていた。走りながら、二本のクナイを同時に投げる。投げたのはエルだ。
クナイが、堕天使の傷口の中の、笑う顔に突き刺さった時、僕は堕天使の懐に到達していた。
堕天使の腹だ。肉の向こうに、膝を抱えた少女の影が透けている。
「サーラさん!」
僕は手甲の両手で、堕天使の腹に組み付いた。
凄まじい堕天使の『力』が、電気のように鎧を走る。銀色の鎧の表面が、さざ波立ち、毛羽立った。
鎧の内側に棘が生え、ミミック細胞で出来た肉体を、突き刺し、抉る!
「うああ!?」
痛みと恐怖が……!
歯を食い縛って耐える!
「例え、僕が死んでも……!」
かっこいいセリフを続けようとした時、
〝ふざけないでよ! 先にアンタを餌食にしたのは、アタシよ!〟
エルの、苦しそうな、しかし不敵な声が響いた。
だから僕も、拷問具のような兜の中で、目いっぱい不敵に微笑んでみせた。
「そうだ、エルの方がずっと小癪で、手強いよ」
〝あはは〟
軋むような笑い。
「だから……僕らの力を合わせれば……!」
約束の指輪の『力』が、体の中を高速で巡る。
鎧の内部で、肉体が飛び散り、煮え滾る。人の姿など捨てた。鎧の中身に徹する。
「おおお!」
手甲が、堕天使の腹に沈み込む。飲み込まれたのではない。僕らが奴を侵食しているのだ。
堕天使の肉の中を、手甲が突き進む。
「サーラさん! 迎えにきました!」
腹の向こうの人影が、振り向いた。
鋼の手甲が、彼女の繊細な手を掴んだ。
〝ギスタ!〟
「うおおお!」
渾身の力を込めて、彼女の手を、引く! 今度こそ! 絶対に! 助け出す!
肉の中で追いかけてくる血まみれの細い手を逃れ、今、堕天使の腹から、少女の体が抜けた。裸の姿で。
はちみつ色の髪が、桃色の唇が、白い滑らかな肌が、宙をゆっくりと飛ぶ。
「サーラさん!」
サーラさんが、薄く目を開けた。
僕の手に引かれて、サーラさんが僕の胸に飛び込んでくる……。
だけど、サーラさんの手を掴んでいた手甲が、外れた。腕鎧も外れ、肩も、胸甲も、鎖帷子も、兜も外れた。
サーラさんの目の前で。
破邪の鎧がガランガランと音高く転がり。
激しく湯気を立てるピンク色でドロドロのミミック細胞が、ぶちまかれた。




