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そうだ、僕は、死ぬんだ……。
胸に手を当てる。半透明な胸の奥に、折れたナイフが納まっている。僕の魂が宿る、僕の命。
堕天使の『力』に侵されて、細かくひびが走った刀身。亀裂はじわじわと広がっていく。死につつある。
ぱきりと、刃の一部が砕けた。小さな火花が咲いた。
その瞬間。
〝ギスタ、弱くてもいい、駄目な奴にはなるな。約束出来るな〟
言葉が弾けた。
「父さんの……声……?」
ああ、覚えている。これは、父さんにナイフを贈られた時の、言葉……。
なんで。
そしてまたも、ぱき、ぱきりと刃が欠けて。
〝走れ、ギスタ〟
〝ギスタ、振り向かないで走って、お前だけは生きて、幸せに、なって〟
言葉が飛んだ。父さんの、そして母さんの声だ。
「走れ、だって? 幸せに、だって? 父さんと母さんが、僕に……」
そうだ、そうだよ。それは、彷徨う堕天使と僕の間に飛び出し、僕を逃がす為に犠牲になった、二人の最期の言葉だった。僕の背中に叫んだ言葉だった。
二人の今わの際の声を、僕は今になって、胸の奥で聞いた。
胸に拳を押し付ける。
このナイフは僕の命だ。でもそこには、父さんと母さんの気持ちが込められていた。僕は二人の子供なのだから。
「……ギスタ?」
エルの顔が近かった。
「エル。今度こそ、僕は幸せにならなくちゃいけない。それが僕の父さんと母さんの願いだったんだ」
「うん……。だから、このまま楽に……」
「違う」
僕は弱い。戦技も弱い、心も弱い。
でも……、駄目な奴になってはいけないんだ。
「僕は、サーラさんとクーリカの元に戻らなくちゃならない。堕天使の所へ」
「戻るって、そんなの無意味よ」
「戻るんだ。僕を生かしてくれた父さんと母さんの為に。僕の命をもう一度目覚めさせてくれたサーラさんの為に。大切な友達のクーリカの為に。僕は行かなきゃ」
それが、僕が僕として生きるという事なんだ。それが、僕の幸せなんだ……。
「お願いだ、エル。一緒に行こう」
「戻ってどうするのよ。サーラも父親と一緒になれて幸せなのかもしれないよ。親の方だって娘と会えて。アンタが行っても、また邪魔者扱いされるだけよ」
「あれはサーラさんの言葉じゃない。『堕天石』に惑わされただけだ」
「アンタは自分がフラれたと思いたくないだけよ。都合の良い解釈」
「サーラさんも、キルカムナ卿も『力』に囚われている。そんなのが幸せなもんか。カラトだって、苦しんでいた……」
「ギスタ!」
さらに視界が揺らいだ。魂のナイフへのダメージが、傷を広げ続けている。
「アタシは行かない。そんなのはアタシの幸せとは関係ない! カラトが死んで、もう全部終わったのよ! だからアタシは……後は死ぬだけなの」
「君は死なない。堕天使の『力』に傷つけられたのは僕の魂のナイフだけだ。気持ちさえしっかり持てば……」
「うるさい。アタシは行かない。アタシの幸せはもうどこにもない」
「エル。でも、僕は行くよ。この体、はんぶんこしよう。僕と君のものなんだから、頼む」
「じゃあアタシはどうなるの。一人で干からびろって言うの?」
エルの顔が歪む。
「君は僕よりもずっと強いんだ。半分の体でも、君なら上手く出来るよ。別の有機物を取り込んで、回復していけば。悪いけど、半分の体でどうにか生き延びてくれ……。鎧も半分あげるから……」
魂のナイフが軋みを上げる。
「ふざけてんの? はい、いいですよ、なんて言うわけないでしょう。アンタだってそんなボロボロで行けるはずないじゃん。アンタはアタシとここで死ぬのよ!」
「身勝手を言っているのは分かっているよ。ひどい事を言っているのは……。でも、僕は……」
自分の声が、はるか遠くに聞こえる。生き埋めにされて、耳や口が土で詰まったような。
「それでもアンタはサーラのところに行きたい、と」
「僕はサーラさんに約束したんだ」
「約束?」
弱々しかったエルの目が、硬く光る。
「約束って何よ」
「僕は死んだけど、サーラさんに命を救われた。だからこの命をかけて、サーラさんを助けるって」
ハッ、とエルが笑った。
「だから、約束が何だって? 約束なんてものに何の意味があるのよ」
「意味はあるよ。本当の約束なら。人と人の命の繋がりだから」
「そんな曖昧なもの、誰が証人になってくれるの? 何が証拠になるのよ。それに、だったらクーリカは関係ないね」
「約束は契約じゃないよ。証拠も証書も必要ない。言葉だって本当は必要ない……。人と人が繋がった時に、大切な人だって思った時に、心の中に生まれるんだ……。クーリカは大切な友達だ。だから、クーリカの元にも戻らなくちゃ……」
クーリカに必要なのは、修道院の祈りなんかじゃない。友達の助けだ。
「僕は、僕の家族は皆死んでしまった。村の皆も。僕の好きだった人達は、みんな死んだ。死んだら約束を果たせない。もう助けられない。でも、今好きな人達はまだ生きている。そして僕にも……まだ、命があるんだ……。人間の僕は死んでいるけど、命は、あるんだから……」
まだだ、まだ、砕け散らないでくれ、魂のナイフよ。
「サーラさんもクーリカも友達だ。今行かないと、僕は駄目な奴として死ぬ事となる」
ほとんど感覚がないはずなのに、僕の村を焼く臭いが、心の中で吹いた。
「僕はもう、僕の好きな人を死なせない……! 僕の命がある限り、もう誰も、不幸になんかしない。僕には……まだ心がある。行かなくちゃ」
「行くの、アタシを置いて。アタシは? アタシの事はどうなのよ。アンタは体を裂いて、アタシを置き去りにするつもりなんでしょ。アンタもアタシを捨てたいだけなのよ」
「僕とエルは繋がっている。体を切り離しても、きっと繋がっている。だってエルは、僕が一番たくさん繋がっていた女の人だから。エルの元へもきっと戻るよ。エルが幸せになる為に僕が助けられるなら。それをする事が、僕の幸せだから」
「そんな約束はしないわ。厄介だもの」
「約束は厄介なものだよ」
どうにか笑ってみせる。
「だって、人と人の繋がりが、厄介なんだから。死んでも忘れられないんだから……」
父さん、母さん、皆。
びしびしと、刀身への亀裂が進む。僕自身が砕け、零れ落ちていく。
こんなところで、こんな風に、僕は終われない!
「全部が砕ける前に、その前に、僕は行くよ……!」
エルから離れる。これから、最後の力を振り絞らねば。




