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●4-6
人を焼く臭いが、どこからか漂ってきた。
違う。
僕の頭の中にだけ、吹いているのだ。故郷の、恐ろしい思い出が。
「僕は、堕天使を、殺す……」
どうにか、唇を動かす。肉と木と石を焼いた臭いが、口から出るようだった。
だが足が動かない。堕天使を前に、体が竦んでいた。
炎の魔人と戦った時、僕はそいつの事を堕天使だと思い込んでいた。しかし、ここまでの恐怖は感じなかった。本物の堕天使の持つ圧力とは、これほど圧倒的なものなのか。
赤ん坊の丸っこい足が、前に出た。
磨かれた大理石の床が、薄い氷のように割れていく。
足の付け根に、赤ん坊らしい男性器がある。その上には丸々とした腹がある。
腹に、影のようなものが透けて見えた。膝を抱えて丸くなる人影のようなもの。それは、胎内で眠る胎児のようだった。
「……サーラさんだ」
間違いない。サーラさんは堕天使の体内に取り込まれている。
助けねば。やらねば。
胸に手を当てる。
僕には、命がある。魂の宿った折れたナイフがある。
そして、
「僕にはこの鎧がある! サーラさんから託された破邪の鎧が!」
村の皆が殺された時、僕らには鉄の武器しかなかった。布の服しかなかった。
だけど今は違う。
この鎧ならば、戦える!
「行け! ギスタ!」
自分で自分の名を叫ぶ。
足を踏み込み、前に出る!
体が動く!
「うおお!」
盾のクロスボウを二連射しながら、一気に距離を詰める!
堕天使が、鉄矢から顔を庇うように振り上げた右腕に、七爪剣で斬りつける。手ごたえがあった。
即座に丸太のような左手が飛んできて、僕は掻い潜り、むちむちした脇腹を斬る。
返す刀で、背中をさらに斬った。
巨大な赤ん坊が、手を振り回しながら振り向く。
僕は後ろへ飛び退いた。
「傷は与えたが……」
確かに、三か所を深く斬った。傷口はぱっくり開いている。まるで唇のように。赤黒い血が溢れている。
その傷の中に……人の顔があった。その顔が、僕を見ている! 赤黒く濡れた顔が、笑っている!
「なんだ……!?」
三つの傷口から、笑った顔が手を伸ばす。生まれ出ようとしている!?
「出てくるな!」
傷口から飛び出している赤く濡れた手に、斬りつける。
手ごたえで、その腕にも肉と骨がある事が分かった。
斬られた腕が、赤ん坊の傷口に引っ込む。だが、そこから覗く顔は笑ったままだ。
「なんなんだ、なんなんだよ」
あの堕天使の体の中には、あんな奴らが棲んでいるのか? 吸収された家来か?
そんなところに、サーラさんを置いてはいけない!
僕は巨大な赤子の腕と、その腕の傷口から生える血に塗れた細い腕を躱し、胴体へと接近する。
地を蹴り、跳ぶ。
中にいるサーラさんを傷つけぬよう、腹の上、心臓の位置へ七爪剣を突き入れる!
「通った!」
鍔元深くまで突き込み、柄を捻る! バシン! と衝撃が掌に伝わる。
堕天使の胸に、傷が、花のように開いていた。
七爪剣を引く。だが、抜けない! 肉が刃を噛んでいるのか。
そうこうするうちに、堕天使の傷口が下へと、腹の方へとめくれ……。その中にいたサーラさんが、傷口から、こちらを向いた。
「サーラさん! 手を!」
僕は右手で七爪剣を掴んだまま、左手を傷口へと伸ばした。それなのに。
「邪魔しないで! 私からお父様を奪わないで!」
サーラさんが叫んだ。拒絶。助けようとしたのに。それだけじゃない。
「奪う? 僕が?」
堕天使が僕の父さんや母さんを奪ったように?
「私を愛してくれるのはお父様だけ! お父様だけが私を認めてくれる! 私の幸せを壊さないで!」
「サーラさん……違うよ……」
僕がもたついている間に、堕天使の傷口は閉じていく。サーラさんの顔はもう見えない。
「サーラさん、駄目だ! 行かないで!」
左手を傷口に捻じ込もうとしたが、完全に塞がってしまった。
なぜ僕は手を伸ばさなかったのか! サーラさんの言葉がショックだったのか? あんな言葉に……! 情けない!
「ちくしょう! ちくしょう! サーラさんを返せ!」
左手で、赤ん坊の胸を殴りつけ、その柔らかい肉を、破邪の鎧の力で引き千切ろうとする。
しかし、千切れない、破けない。
「どうして!? 破邪の鎧なのに……! なぜ傷つけられない!?」
それどころか、左手が胸の肉に沈む。飲み込まれる!?
鉄靴を腹に乗せ、踏ん張り、どうにか左手を引っこ抜く。
だが、七爪剣は抜く事が出来ない。
見れば、刀身に、脈打つ「血管」のようなものが浮き出ていた。紫色に、不規則に光っている。これは……、クーリカが魔力を暴走させた時に浮き出ていた血管に似ている?
七爪剣が、堕天使からの、『堕天の力』の影響を受けているのだ! 堕天使の『力』を流されている!
「まずい!」
七爪剣から手を離さねば……!
だが、手が離れない!? 指が動かない!
「なんだ!? これは」
七爪剣から、手甲の指や腕にまで、表面に紫色の「血管」が走っている!
それどころか、さっき堕天使の胸に手をついていた左手にも、「血管」が浮いていた。
「あ! ぐああ!?」
手甲の内側から、中の肉体に、何かが「刺さって」いく! まるで内側に刃が突き出ているかのように。手甲が、腕鎧が、装着者を殺す兇器へと変化しているのか!?
「よ、鎧が……!?」
「破邪の鎧とか言ったな?」
巨大な赤ん坊が、赤ん坊らしくない、人でもない声で言った。
「そんな鎧に破邪の力などない。サーラ、また兄達に騙されたのか。あわれよのう」
破邪の鎧ではない!? これは、単なる銀色の鋼でしかないのか。
教会の、聖別の祈りなど無意味だったのか……。彼らは『堕天石』の力をこの鎧には使ってくれなかったのだ。金だけ取って約束を果たしてくれなかったのか、そもそもクーリカが言うように、教会の『力』などニセモノだったのか。
「あ、ああ! あああ!」
脈打つ「血管」は腕から肩、胸甲、首へと伸び、その内側では内部の肉体を滅多刺しにしていく!
ただの刃ではない。『力』を持った、痛みと恐怖を与える刃だ。
僕を守る為の装甲が、僕を傷つける兇器と化している!
「うあああ!」
胸を抉っていく『力』の刃が、僕の魂を宿す折れたナイフに急接近する! それが分かる! それを感じる!
「やめてくれええ!」
『力』の刃と魂の刃が触れる……!
〝サーラ……ここにいてはならぬ……お前は幸せに……なるのだ……〟
一瞬、温かい意思を、言葉を、僕は聞いた。
なんだ? キルカムナ卿? サーラさんのお父さん?
直後。
ビキビキという音が、鳴った。
それは、僕の胸の中の折れたナイフに、僕の魂の刀身に、亀裂が走る音だった。
味わった事のない痛みが、僕の中で、僕そのものの中で巻き起こった。
僕は声を限りに叫んだ。だが声も出なかった。




