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二体のリザードキングの死体。
傷口はゴボゴボと音を立て、泡立った青い血液が流れ出す。それは冷たい、嫌な臭いのする蒸気を立てた。
僕は咳をしながら、顔の前の蒸気を手で振り払う。
しばらくして。
蒸気が晴れると、リザードキングの姿はなかった。そこにあるのは、体の千切れた、二匹のトカゲの死骸だけだった。これが、リザードキングの「正体」だったのだ。『堕天の力』を受ける前の、本来の姿だ。
「手強い相手だった……」
倒したと思うと、気が緩んだのか、猛烈に痛みが湧いてきた。頭の左側が燃えるようだ。既に包帯を巻いてある傷も、口が開いてしまったようだ。
こんな傷、『堕天石』を手に入れる事を考えれば、安いものだ。死ななかったのだから、これは大した幸運なんだ。
トカゲの向こうに目をやる。祭壇の上。石で出来た巨大な匣。
僕は痛みに呻きながら、体を引き摺るようにして、祭壇の低い階段を上る。
匣には見た事もない様々な紋章が彫られていた。人が刻んだ文様ではない。『堕天石』が眠るに相応しい匣だ。
「この中に、『堕天石』が……」
盾と七爪剣を床に落とす。
「父さん、母さん……」
右手を胸の鞘に手を当てる。鍛冶屋の父さんが、僕の為に打ってくれたナイフ。僕に贈ってくれたナイフ。
それを、抜く。
ナイフの刃は、しかし半分で折れている。折れたナイフ。これが、僕の傷だ。このナイフは僕自身だ。僕の半分は、あの時に死んだのだ。堕天使が……、「彷徨う堕天使」が村を襲い、愛すべき全ての村人を殺した時に。
だが僕は生きている。
大切なものを全て殺され、心の半分を殺されても、もう半分は生きているんだ。皆の敵を討つ為に。
『堕天石』を鍛え、魔剣を打つ。鋼の刃では殺せなかった堕天使を、魔剣で斃す。それが僕の願い。いや、使命だ。
「父さん、母さん、きっと魔剣を打って、皆の敵を討つからね」
匣の蓋に手をかけようとした時。
「なんと」
匣自ら、音を立て、石の粉を落としながら、開いて行く……! これは、魔法だろうか。
僕は息を飲み、恐る恐る匣の中を覗いた。そうして、もう一度息を飲んだ。
中には……。一人の女の人が横になっていた。
「え……え!?」
どういう事だ!? 『堕天石』って、石って言われるぐらいだから、鉱物や金属の塊みたいな物だと思っていたんだけど!?
まさか、この匣は『堕天石』とは関係のない、本当の棺だったのか? この人は死体で、この中に収められていただけなのかも……。だとすると、僕はとんだ罰当たりな事になるけど、いや、しかし……。
それにしても、綺麗な人だ……。
僕よりはいくつか年上だろう。黒い艶やかな長髪。褐色の肌。目鼻立ちのはっきりした、エキゾチックな顔立ち。美人だ。とても死んでいるとは思えない。
着ている物と言えば、、ほとんど透けている薄布一枚で、その下の肉体のむちむちさがよく分かってしまうほど。今にも起き上がりそうだ……。
「んん……?」
美女の死体が、色っぽい吐息を洩らした。
……え、やっぱり!?
「んんーっ」
彼女は寝たまま伸びをし、そうして上半身を起こした。驚く僕の前で、目を擦り、欠伸をする。
死体じゃない! ただ寝ていただけだよ、やっぱり!
「ふああ……。あら、可愛い坊やね」
女の人は、横に立っている僕に気付いても全然怯まない。
「あ、あの」
僕の方は呆然としちゃって、何を言っていいのか分からない体たらく。
「坊やなんて言って、失礼だったわね。あなたを待っていました。あなたの望みの物はここにあります」
美女が言う。
「待っていた……?」
ああ、もしかして、この人は『堕天石』の精霊のような存在なのだろうか。だから僕が『堕天石』を求めてここに来た事も知っているんだ。これもみな、『堕天の力』のなせる業なのか。
「さあ、突っ立っていないで、こっちへいらっしゃいな」
美女は匣の縁に肘を付き、反対の手で僕を誘う仕草をした。目が笑っている。
「え、え、いらっしゃいって、いったいどういう事です?」
『堕天石』をくれるんじゃないのか?
「ほら、怖がってないで。男の子でしょ」
美女が僕の腕を掴んで引っ張る。結構強引に。
「わ、ととと」
疲れ切っていた体は踏ん張りが利かない。僕は無様に匣の中に転がり落ちた。
「痛っ、くない?」
石で出来ていたはずの匣は、柔らかなクッションが敷かれていた。ふかふかだ。見上げれば、匣の蓋にもクッションが張られ、レースの幕が下がっている。さっきまで棺のように見えていたのに、これではまるで天蓋のある高級なベッドだ。
柔らかなクッションに埋もれた僕の首に、美女が腕を回してきた。その手に力を込めてくる。
「わわわ、ちょっとちょっと!」
僕は引き寄せられ、彼女の胸に顔をむぎゅっとしてしまって……! クッションよりもさらに柔らかで、すべすべしていて、良い匂いがする!
僕が何度もカモにされてきた場末の娼婦なんかとは全然違う。
いや、そういう問題ではない。彼女は普通の女なんかじゃない。
今まで燃えるようだった傷口から、すうと痛みが引いた。もう痛くない。これが、美女の力なのか……。
額の上から、彼女の含み笑いが聞こえる。
ああ……。『堕天石』を見つけるのに、こんな素敵なオマケもついてくるなんて……。僕は……幸せ……。
「ねえ、こっちを向いて……」
すべすべでひんやりとした手が僕の頬を挟み、上を向かせる。彼女の微笑みがすぐそばにあった。
「ね?」
褐色だった肌が、ピンク色に染まって行く。濡れた唇。
ね、って言われたって。どうしようどうしよう。
僕は、なす術もなく、目を閉じ、唇を突き出した。こういう時、息を止めたほうがいいのかしらん? 鼻息とか恥ずかしいし。でも、興奮しちゃって、息が止められない! 恥ずかしい、恥ずかしいよお。
そんな僕とは反対に、彼女の方は鼻息一つしていないみたい。さすがだ。これが大人のお姉さんの余裕なのか。
ええい! 僕だって男だ。夢見る乙女のように目を閉じてただキスを待つだけの腑抜けじゃない! 僕は『堕天石』を獲得する勇者なんだ!
僕はこっそりと薄目を開けた。距離感を計り、主導権を握って行動する為に!
だが、なんと。
そこには色っぽいお姉さんの美顔はなかった。顔がなかった! 目も鼻も口も、溶け、ディティールがなくなっている! のっぺりとした、なんだか分からない、ピンク色の不定形の物体になっていた!
「う、うわああ!?」
精霊なんかじゃない! こいつもモンスターだったのか! 逃げなきゃ!
「く!? 動けない!」
女の体も形のない何かとなり、僕の体に巻きついているのだ。
「は、離せ!」
そうこうしているうちに、匣の蓋が降りてきた。さっきまでの、柔らかなクッションとレースの幕に包まれた天蓋ではなかった。石棺の蓋でもなかった。それの内側には、びっしりと、尖った円錐が生えていた。それは、牙だ。
「……ミミック!?」
ああ……。なんてこった。
こいつ、この匣自体がミミックなんだ。美女の姿をしていたのは、ミミックの「舌」だ。女の人の形に擬態していただけだ。
蓋が落ち、閉まった。闇ではない。じんわりとピンク色に光る空間。
「くそ! 食われてたまるか!」
僕はミミックの「口」の中で手足をばたつかせる。
七爪剣は!? メイスは!? 匣の外に落としてきてしまった。
唯一残った胸の鞘からナイフを抜く。半ばで折れた刀身が、ピンク色の光を反射する。それで、棺の蓋に斬りつける。石の感触ではない。生物の細胞を斬る感触!
体液だか何だかが、ミミックの傷口から吹き出し、僕を濡らした。
熱い! 焼ける! 火?
違う! 溶かされているのだ! 消化液だ。
その時には僕の体はミミックの「舌」に全身を包み込まれていた。ナイフを持つ右手も、最早動かせない。ナイフを離す事さえ出来ない。
「うあああ!?」
体が溶けていく!
肌が引きつり、髪は縮れ、めくれ上がる。猛烈な悪臭が肺を満たす。これは、僕の体が溶ける臭いだ。咳をした拍子に液が体内に入り、歯が抜け、咽喉が焼け、内臓が燃える。
「ご、が、が、あ」
耳はとっくに利かなくなっている。自分の声など分からない。
ただ僕は、呻き、渾身の力を込めて、ナイフを持つ右手を胸に引き寄せた。腕の表面を、ズルズルと、「持っていかれる」感触。溶かされ、剥がされ、奪われる感触。
こんな事で、僕は死ぬのか。『堕天石』を手に入れるはずが。魔剣を造るはずが。皆の仇を討つはずが。
なんて馬鹿なんだ。こんな事で、死ぬなんて。こんな間抜けな死に方をするなんて。死んでも死に切れない。
あの時。村が襲われた時。父さん達が僕を無理矢理箱に入れて隠したお陰で、僕だけ死なずにすんだ。だけど今、僕は箱に食われて死ぬのだ……。
もう、体中、どこも動かす事は出来ない。筋肉も腱も溶け流れたのだ。ただ、熱だけを感じる。
死ぬんだ。父さん、母さん、ごめん……。