これってキスですか?
まあな、嫌な予感はしていたんだよ。
俺はそういうの鋭いから。
ゴッゴッと男前な飲みっぷりを見せたムチルは、わずかな時間で頬を赤く染めてしまう。そして酒臭い息を吐き、ぐるんと振り返ってきた。
もちろんギクッとしたよ。嫌な予感メーターは既に最大だ。
「あたしもまだらろ」
「……は? なんだって? それより瓶を返せ」
ひょいとかわしやがった。取れそうで取れないとか、どこの酔拳使いだよテメーは。
「まだなんふ。むひるはひとりぼっちなんふ。ずっと一人で地面の下に住んでたっふ」
「やべ、けっこう出来上がってるな。アルコール慣れしてないせいか……って、その地面の下から出てきた所だろうがお前は」
うつむいていた娘は、その言葉を聞いて顔を上げる。それから顔を緩ませて、肩にころんと頭を乗せてきた。
「トラひゃぁん、子供好きぃ?」
「こらこら、ベタつくな。好きでも嫌いでも無いし、ものすごく酒臭え」
ぐふふーー、とムチルは変な笑いをし、急に抱きついてきた。
たぶん酔っ払っていたせいだろうな。力加減が出来なくて、ゴツッと牛角が俺の上唇あたりに突き刺さった。
「ってーー……!」
「え? あっ、ごめん! 大丈夫? トラひゃん大丈夫っ!?」
平気だ、こんなもん。
俺も酔っていたし、魔物と一緒なのに警戒するどころかダラけきってたもん。そう答えてやると、幾分か酔いの醒めた顔で覗き込んでくる。
「あたしに見せて。血が出てる?」
「ちょっとな。平気だって、これくらい。傷のうちにも入らな……」
そう答えていたとき、不意にムチルは覆いかぶさって来た。
ゆっくりと床に押し倒され、驚くほどの体重が肩にのしかかっている。わずかに目を丸くし、頭上を見上げた。
俺はこのとき、少し油断していたかもしれない。
彼女が魔物であることを忘れ、人間の血を見せてしまった。
ごふうっ、と動物的な音で匂いを嗅がれた。
のしかかる重圧は普段とまるで異なるもので、高レベルのミノタウロスだと認識する。
そして傷口あたりに小さな鼻を近づけ、くんくんと血の匂いを嗅いで来た。
「こらこら、何やってんだお前は。早いとこ正気に戻……」
ちう、と唇を吸われた。
正確には上唇の血を舐められたんだけど、そんな経験も少ない俺はフリーズをした。
いやいや、これってキスなの? それとも捕食? どっち?
などと混乱しつつ、少女をどかそうと筋肉質な肩を掴む。
「……邪魔ぁーっス」
しかし、そのように不満げな声を返された。
俺の手を掴んで床に押しつけ、その上から太ももを乗せてくる。より優位なマウントポジションを取りたいらしく、反対側の腕も同じようにされた。
いや、大丈夫なんだよ?
これでも俺は普通じゃないほど強いから、その気になればいつでも脱出できる。マウントを取り返してフルボッコにだって出来る。
……なのだけれど、問題はもう一人の敵がいることだ。
そいつは俺自身の興味や欲望という感情で、女の子に暴力は駄目だよとか、もうちょっと良いじゃんとか、すごく真面目な顔で囁いてくるのだ。
「ま、まいったなぁー」
だから、こんなバカっぽい台詞しか出てこない。
妙に胸をどきどきさせながら、舌なめずりをするムチルを見上げる。
あんっと唇を開き、娘は舌を見せてきた。
わずかに染まっているのは俺の血で、よほど美味いのか頬を赤く染めている。とろんとした瞳、のしりと包み込んでくる尻の感触に、俺の防衛本能は低下する一方だ。
ふううと甘い息を吹きかけられ、頭がくらりとする。
分かっていたが、こいつは色気が強い。全身から発せられるフェロモンのせいだ。人間などとは比べ物にならないほど強く、甘く、そして本能へ訴えてくる。
食べごろの果実を味わい、ただ楽しめと。
ねとりと舌を押し当てられた。
それは垂れた血をすくい、溢れてしまうのかより深く、むちりと唇で吸いついた。
よほど興奮しているのか鼻息は荒く、じっとりと彼女は体温をあげつつあった。
予想していたよりずっと柔らかい。
すべすべて肉厚で、吸いつき、嚥下し、また吸いつかれる。
息苦しさに口を開くと、俺が迎え入れたと誤解をしたのか、歓喜するように舌が入り込んできた。
うっ、舌が甘い……。
小娘とは思えないほど頭がジンとする。
戦いでなら決して負けないし、尻を蹴飛ばして遊ぶ余裕だってあった。しかしこちら方面はからきしで、いつの間にか俺の手もだらんとしている。
ふうふう響く息と、はぜる焚き木の音が全てだ。
狭い小屋はより気温を高め、むあっとした湿度を俺たちは感じていた。
「ぷうーっ、熱いっスぅー……」
「こらこら、それを脱いだらいけません」
ぐいーっと上着を脱ごうとしたので、おへその見えたあたりで制止する。寝ぼけ顔をしたムチルは、きょとんと首を傾げてから頷いてくれた。
仕草としては子供っぽい。しかし首から下は別物だ。汗でぴっちりとした服で、人間なんて比べ物にならないほどの身体つきを見せている。
あーんと唇を開いてきた。
もう一度開いて見せたのは、先ほどと同じように「迎えろ」という意味か。冗談だろうと頬を引きつらせたが、俺の目の前には色づいた小さな唇が迫っている。
まずい。ひじょーーにまずい。絶対に手を出してはいけない相手だというのに、バカでアホなムチルに俺は魅了されかけている。
分かっているんだよ。こいつは美人だし、顔を近づけられるだけでドキッとするんだ。
ドッドッと俺の心臓がうるさい。小さい魔物の癖に、のしかかる迫力は一線を超えても構わないという本気を伝えているかのようだ。押し当てられた尻は汗をかくほど熱く、雪国らしからぬ熱気と湿度を俺は覚えている。
この色気と誘惑を受けて、絶対に手を出すなだって?
教会ってのはとんでもない命令をしてくるもんだよ。俺がどれだけ苦労しているか分かってくれないかなあ。
などと内心で文句を言っていたのだが、まさか本当に見られているとは思わなかった。
小屋の外、汚れた窓から覗きこんでいたのは教会のシスターだ。
しかし流石の俺であっても、正確には気配を察知できない。
それはつまり精神体を使うという遠隔術であり、誰の目にも耳にも触れはしないからだ。
その彼女はというと、無表情ながらも殺気に近しい迫力を放っている。私が働いている時に、どうしてお前は遊んでいるのだ、とその瞳が語っていた。
接近しつつある魔物の群れを監視するつもりだったのだが、ふと立ち寄ったこの小屋でシスターは一歩も動けなくなった。
魔物風情から骨抜きにされるとは。
そう内心で侮蔑の言葉を漏らし、もう少し窓辺に近寄る。
そして額にミシリと青筋が浮かび上がらせ、殺したいという表情を彼女はした。
「――?」
しかし奇妙な違和感を覚える。
今のは明確な殺意だった。そしていま睨みつけている相手はミノタウルスだ。
魔物を殺したいと思うのは、統治をする彼女にとっておかしな事ではない。しかしなぜ私はカズトラから目を離せないのだろうか。
「……?」
違和感はさらに募る。
窓に映る私の顔は――なぜか泣きそうな表情をしているのだ。その頼りない小娘のような顔つきは、シスターの知らない顔だった。
ぱっと窓辺から離れた彼女は、すぐに遠隔術を解いた。
戻ってきたのはいつもの教会であり、祭壇へ跪いている己の身体だった。両目は固く閉じられ、ずっと同じ姿勢をしていたせいで立ち上がると節々が痛む。
それよりも彼女は疑念に囚われていた。その疑念とは……。
「まさか祖先の血が?」
疑っているのは身に宿る魔族としての本能だ。
あの恐ろしいミノタウロスでさえ、己の身体を人の姿へ似せている。それは魔王の消えたいま、種を残するための手段なのだろう。そのような仮説をカズトラは言っている。
いや、たったいまシスターは確信をした。彼の言葉は真実であると。
律することに長けた身であろうと、この抗いがたい本能は強烈過ぎる。汗だくの身体を祭壇に預け、額を拭いながら尚も考えた。
魔人戦争。
生き残りをかけた教会により、間も無く騒乱が始まってしまう。しかしそれは取り返しもつかない結果になるのでは、と根拠もなく思う。
魔族の生存本能は強烈だ。
ズズと腰から落ち、シスターは己を落ち着かせようと息をひとつ吐く。
閉じた瞳で思うのは、この本能が導く先のことだ。そこは善い世界だろうか。あるいは迫害に耐え続けるだけの日々だろうか。
律するべき身でありながら……いや、だからこそ真剣に考えてしまう。
隙間風はピイピイと鳴り続け、天候が荒れてゆく様子を伝えていた。
明日は嵐になるかもしれない。
そうシスターは思った。
話の流れを一部修正しました。