第百七話 決意
「……ホントに大丈夫かしらね?」
システィーナさんが出かけてから、はや数時間。
いつ戻るとも告げずに行ってしまったため、俺たちはずっとフィオーレの店内で彼女を待っていた。
いったい何をするつもりなのか。
そして、どこへ向かったのか。
システィーナさんは非常に優秀な魔導師である。
そのため、身の危険は万が一にもないと思われたが……それでもやはり心配だった。
「システィーナさんのことですし、何か考えがあるんでしょうけど……うーん」
「待つしかない」
カットフルーツを手にしたテスラさんが、落ち着いた口調で言う。
それに合わせて、ツバキさんもまたうなずいた。
「大丈夫だろう。システィーナはしっかり者だからな」
「それはよくわかってますけど……」
「心配しても仕方あるまい。それより……」
ツバキさんは目を細めると、顎に手を押し当てた。
何か思うところがあるのか、その顔つきはやけに鋭い。
形のいい額に、深いしわが刻まれた。
「ロート商会は、どうしてこのタイミングで船を襲った? さすがにタイミングが良すぎるだろう」
「そう言えば……俺たちが来たことを知っていたみたいですね」
「情報が漏れていたってこと?」
シェイルさんの声が低くなる。
もしそうだとすれば、大変な事態であった。
俺は思わず、周囲に立っていた女性たちへと視線を走らせる。
同時に、そこかしこから動揺の声が上がった。
不安が伝播し、たちまち広がっていく。
「落ち着け! 騒げば騒ぐほど、ロートの思うつぼぞ!」
一喝。
メリージャさんの声によって、その場の空気は一気に沈静化した。
さすがは歓楽街の女帝、大した迫力である。
重々しく威厳のある声は、ちょっとやそっとの年季で出せるものではなかった。
「ロートのことだ、ネズミぐらい飼っておるだろうよ。それぐらいで動揺するでない」
「ネズミねぇ……。そこまでするなんて、そのロート商会って言うのはよっぽどあなたのことが嫌いなのね」
シェイルさんが、チクリと刺すような口調で言った。
――ロート商会に恨まれるようなことを、何かしでかしたのではないか?
その疑わしげなまなざしは、彼女の考えをこれでもかというほどに伝えてきた。
するとそれを受けたメリージャさんは、法ッと大きなため息をつく。
「なに、簡単なことさ。私はもともと、ロートの家で生まれた奴隷だったんだよ」
「えッ?」
意外な言葉に、思わず聞き返してしまった。
歓楽街の女帝と呼ばれる人物が、奴隷?
威風堂々とした現在の姿からは、あまりにもかけ離れた過去である。
「よくある話さ。ロート家に飼われていた奴隷の一人が、不義を働いて子を孕んだ。で、何とか産むところまではこぎつけたものの主人にばれたってわけさ」
「それがどうして……今の地位に?」
「まぁ、見ての通り容姿には恵まれたからねぇ。売り飛ばされた先の娼館で、上手いことやったのさ」
そう言って笑うメリージャさんの表情には、形容しがたいほどの凄みがあった。
いったいどれほどの経験をすれば、このような顔ができるのだろう。
寒気がして、身体がわずかながら震えてしまった。
「オーナー!」
「……なんだい?」
俺たちが固まっていると、いきなり部屋の扉が押し開かれた。
勢いよく走り込んできた女性が、息も整えぬうちに言う。
「ロート商会の会頭、ファウード様がお見えになりました!」
「ファウードが? 話すことなんてない、すぐに追い返しな!」
「それが、無理やりにでも話がしたいと言って――」
女性がそこまで言ったところで、ダンダンと乱暴な足音が聞こえてきた。
それと同時に、怒号や悲鳴など様々な声が響いてくる。
雰囲気から察するに、何人かの男が従業員たちの制止を振り切って向かってきているようだ。
「邪魔するよ。すまんねぇ、どうしても話がしたかったんだ」
やがて現れたのは、屈強な男たちを引き連れた恰幅のいい中年男性だった。
その下品なまでに豪奢な装いから、金回りの良さが嫌でも伝わってくる。
まさに絵にかいたような成金だ。
これでもかと身に着けられた宝石は、美しいを通り越してもはや威圧的ですらある。
「何の用さね? 人の店にいきなり乗り込んでくるなんて」
「乗り込んできたとは人聞きが悪い。なに、あとで少しは金を落としていくよ」
「結構。アンタの相手なんかしちゃ、うちの娘たちの価値が下がっちまう」
「そいつは手厳しい。まだまだいけるつもりだったんだがねぇ」
互いに軽口を叩きながらも、視線をぶつけ合うメリージャさんとファウード。
肌がしびれるような緊迫感が、その場に満ちる。
額に汗が浮いた。
見渡せば、テスラさんたちまでもが二人のことを注視している。
二人の大物の存在感は、歴戦の魔導師たちですら注目させるほどのものらしい。
「アンタのとこの船、事故にあったそうじゃないか。御気の毒様だよ」
「ありがとう」
「しかし、船が事故に遭ったのでは海の主のところまではいけないねぇ。魔導師を雇ったと聞いたが、無駄になってしまったようだ」
「ようは、何が言いたい?」
「素直に娘を差し出すんだ。一人の尊い犠牲でみんな救われる。それでいいじゃないか、なぁ?」
にわかにファウードの声が低くなった。
メリージャさんの目つきが、それに呼応して鋭くなる。
固く結ばれたその唇は、激しい怒りを押し殺しているようだった。
「尊い犠牲? 物は言いようだな、自分たちのために娘を殺すというのに」
「仕方なかろう。海の主に従わなければ、街はおしまいなのだから」
「本当に街のことを考えているなら、海の主は退治すべきさ。アンタの頭の中にあるのは、私の力を削ぐことだけだろう? ここで私が娘を差し出せば、間違いなく求心力を失うからね」
すっぱりと、相手の狙いを言ってのけるメリージャさん。
しかし、ファウードは眉一つとして動かさなかった。
痛いところを突かれたというのに、さすがの胆力である。
「私の思惑なんて、今はどうだっていいことだ。娘を差し出すか断るか。その返答が欲しい」
「ダメだと言っても連れていくだろう?」
「回答によって、アンタの処遇は変わるよ。街のために娘を差し出した賢者になるか、それとも身内可愛さに街を危険に晒した愚か者になるか」
「ちッ……」
言葉に詰まるメリージャさん。
さすがの彼女も、こうなってしまっては上手い策が思いつかないらしい。
無言。
ただただ、時間だけが静かに過ぎていく。
するとここで――思わぬ人物が声を上げた。
「ひとつ、聞かせてもらっても良い?」
「誰だい、君は」
「メリージャさんに雇われた魔導師、テスラ」
「ほう。それが、いったい何のようかね?」
急に話に加わってきたテスラさんに、戸惑いを隠せないファウード。
平静を装いつつも視線が定まらない彼に、テスラさんは淡々と告げる。
「海の主の生贄、私がなる」
「な、なに!?」
「テスラさん!?」
誰もが予想だにしていなかった、衝撃発言。
たちまち、場は騒然とするのであった――。
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