第一章 六 S級
(なんだ?)
十数メートルくらいの高さから落ちたというのに、落下時のベクトルを無視したゆっくりとした地面への着地に、疑問を浮かべる。それだけではない。蓮は吸血鬼から追撃を受けていないのだ。あの真祖――フェグダの速度なら十分に間に合ったはずなのに。
落下時の空間魔力の妙な動きと、地面への着地。さらには追撃を受けていないという事実。よくわからないことは多いのだが、落下直後に感じた、躰を突き抜けていった衝撃波には敵意はなかった。
「痛っ。」
腹部からの痛みに耐えながら、砂ぼこりを払って立ち上がる。ん――そこで気づく。降魔刀が無い。どうやら落下するときに手から離してしまったらしい。また工場の屋根に上がって拾えばいいのだが、今上がるとフェグダと鉢合わせしかねない。
立ち尽くす蓮の前に黒い影が降り立った。フェグダだ。
「くっ。」
両手と両足を軽く広げて、得物は無いがそのまま臨戦態勢を取る。全身に流れる魔力を増加させ、いざというときに備える。最悪、蒼炎の操作も行わなければならない。
「全く、さっきのはなんだよ。お前の力って火を扱うだけじゃなかったのか?」
蓮には身に覚えのないことを毒づきながら二本の短剣を手の中で回し始める吸血鬼。
「ちょっと時間がかかりすぎてる感じもするけど、上にはS級特異者と争ってたと言えばいいか…。」
独りごとのようにそうつぶやくと回していた短剣の柄をしっかりと握って、右手の物を逆手に持ち替えた。
「ボクにこの持ち方をさせたのは君で三人目だ、S級特異者君。」
S級、という言葉に疑問を持ったが、すぐに振り払って蓮は両掌の上に青い火の球を作り出す。目の前の魔族はここで終わらせようとしているらしい。しかし、蓮は戦うにしては躰の状態が悪い。だから相手が動き出した瞬間先ほどの二つの炎弾で視界を遮り、逃げる。そう考えていた。
「なら、最後に二つ教えてくれ。」
「…。なんだいきなり? 何が聞きたい。」
退屈そうに蓮の言葉を聞きながら吸血鬼はそう答える。
蓮が状況で聞きたかったのは言葉で言った通り二つ。工場の屋根の上から落ちるときに何があったのか、と“S級特異者”とは何なのか。
「じゃあ、お言葉に甘えて。一つ目。俺があそこから落ちるとき何があった?」
蓮は工場の屋根を指さしながら質問する。
「…自分でしたことがわからないのかお前は。知っていることを聞くなよ。二つ目は?」
一つ目の質問こそ一番知りたいことだったが答えてくれないらしい。
「はあ、じゃあ二つ目。さっきからお前が言ってる“S級特異者”って何だ?」
この質問に吸血鬼は一拍開けて答える。
「人間の方ではそう呼ばないのか…。自然界の五つの元素、火、土、水、風、雷、これらの力、まあ実際には蒼炎、黒土、白水、碧風、紫雷だが――を使う、魔族のものに近い魔力を持つ特異者のことを言う。」
知っていて当たり前、みたいな高飛車な態度があまり好印象を与えないが、吸血鬼の真祖――貴族だからしょうがないと言えばしょうがない。そこは我慢だ。
「これで、満足か? ならボクの方も…あの刀はどうした?」
(えっ?)
蓮の聞き間違いでなければ、今の言葉から推測するとフェグダは蓮が屋根の上に刀を落としたことに気づいていないとなる。
「さ、さあ? お前とぶつかってる間になくなったからな。」
「あんなに大事そうにしていたものをそんな簡単になくしていいのかい…? はあ、あとで探すか、それじゃ――」
最期が言葉にならないうちに地を蹴って、姿が霞むような超スピードで動き始める吸血鬼。
(まずっ)
降魔刀が手元にない今、あの恐ろしいくらいの切れ味の短剣を防ぐ術は一つしか無い。全身に魔力を巡らしてから何も考えずに真横に跳ぶ。地面に頭から突っ込み、軽く脳震盪を起こしたが今はかまっていられない。すぐそこまで“死”が近づいているのだから。
蓮は逃げることだけに全力を注ぐ。今更、戦いを挑まないほうが良かったなど思っていても仕方がない。
全く衰えない吸血鬼の移動速度に、とうとう逃げていた方向に回り込まれる。こうなってしまえば、逃げることができないことを蓮は気づいていた。だから蓮はある程度動けるくらいの魔力だけを残して、残りを両手に集中させた。両手を近づけて、少しずつ魔力を炎に変換。すぐに、近づけた両手を覆うくらいの火球が出来上がった。
目でしっかりと標的をとらえて蓮は間髪入れずに両腕を振り上げた。青い火球は手から勢いよく離れ、まっすぐに突き進む。
人の頭位の大きさの火球を目の前にして、吸血鬼の目が大きく見開かれた。その直後、青い炎の大花が咲き誇る。
(…これで。)
一度目の火球よりも多くの魔力をつぎ込んだものがあれだ。さすがの吸血鬼の貴族でもただでは済まないだろう。とはいっても、蓮の方はもう魔力も枯渇寸前。おそらくそれは、吸血鬼と戦う前に自宅でしばらくの間、空間と魔力をリンクさせて日課の“特異者探し”をしていたからだ。
地面まで炎が燃え移りあまりよく見えないが、吸血鬼の羽織っている黒い布が目の先で翻った。
(やっぱ、動けるか。死ぬとは思ってなかったけどさ…。)
そう思いながらも少しは期待をさせてほしかったと落胆する。
(にしても、あいつなんであそこから動かないんだ?)
大きく燃え上がる火が移動の障害にならないことくらいは、目の前の吸血鬼フェグダをわかっているつもりである。だから蓮はなぜその場から動かないのかがわからなかった。
「――どこを探しているんだい?」
「…っ!」
突然真後ろからフェグダに声をかけられ、蓮は半ば反射的にその場からもてる魔力全てを使って大きく距離を開けた。移動してすぐに視界に入れた吸血鬼の姿は黒いローブを着ていないだけで、汚れどころか傷一つない。
「まだ成長途中で魔力が最大量に達していないからって、それにしてもS級のくせに動きが遅いよ。」
余裕の響きを残す吸血鬼の声が遠く聞こえる。意識が朦朧としてきた。魔力酷使の代償だろうか。
「……ぐっ。」
突如感じた肩に鋭い痛みに蓮は何とか意識を取り戻す。見ると方に吸血鬼の短剣が深々と刺さっている。大きさで言えば投げナイフくらいだ。魔力枯渇の代償で視界もぼやけているのでよけることができなかったらしい。魔力が残り少なく、よけることができないと判断して短剣を投げたのだろう。
「う…。」
なんとか短剣を引き抜いて放り投げる蓮。刺さった腕が動くあたり重要な部分だけは無事だったようだ。
「はは、本当に当たるとはね。予想通り魔力枯渇と来たか。なら――」
視界の先で吸血鬼がふっと消える。相変わらずの速度。それも今まで以上の。
「ぐっ。」
突如響いたガラスが割れるような音とともに、勢いよく地面にたたきつけられる吸血鬼。
(…何が起きた?)
目の前で起きた出来事に疑問を抱く蓮。わかるのは吸血鬼が移動途中に謎の力のせいで、その勢いのまま地面にたたきつけられる形になってしまったということだけ。
「君、こっち。早く。」
聞き覚えのない声が蓮に投げかけられた。その方向には建物の細い隙間から蓮を手招く人影が。
その姿が敵かはたまた味方か。蓮には見抜く術は無い。だからと言って迷っている時間はもちろんない。今が移動するのにまたとない好機だ。
(このままだとどちらにしろまずい。なら…信じるか。)
蓮は血があふれ出てくる肩の細長い傷口を逆の手で押さえながら精一杯走った。