第一章 一 予感
時間は蓮の転校初日にさかのぼる。
* * *
朝のHRで蓮は教壇の上に立った。自己紹介のためだ。
「伏柊 蓮です。これからよろしくお願いします。」
(言うこともないし、これだけでいいか。)
「はい、それじゃ席に着いて。あそこ。」
担任が指さす先は男子の真ん中の列の一番後ろ。
「はい。わかりました。」
担任は蓮が席に移動するのを確認しながら「もうすぐ授業始めるから急いで」と声をかけてきた。
蓮が自分の席に着いたとき左隣の席の女子生徒が挨拶をしてきた。
「おはよう。」
「あ、おはよう。」
何も知らない転校生にとって相手から初めに話しかけてもらえるとたとえそれが挨拶だったとしても少しは落ち着くというものである。
「…初めまして伏柊君。私は速水 紫織。これからよろしく。」
「うん、こちらこそよろしく、速水さん。」
(ん?)
蓮は挨拶の前にあった妙な間が気になり、不自然に聞こえないかどうか心配しながら返しながら椅子に座る。
「あ、私のことは紫織って呼んで。呼び捨てが嫌っていうならそのままでもいいんだけど。それに私も蓮って呼ぶから。だってほら、苗字ってなんか呼びにくい時もあるし。」
初日からいきなり下の名前で呼び合おうという提案に、蓮は驚きを隠せないまま紫織のほうを見た。わずかな時間で気さくな印象は受けたが、さすがにこれには簡単に承諾しかねるからだ。
肩の下で自然に跳ねるようカットされたセミロングの明るい茶色の髪。その下にのぞく整った顔。美少女という言葉がぴったり当てはまる、そんな印象を受けた。
「・・・・。」
「あ、やっぱりいやかな。」
そう言って紫織は先ほどより近くから顔を覗き込んでくる。さりげなくそしてこちらの様子をうかがうようなあどけない黒い瞳。
「えっと、ちょっと顔が近いっていうか…」
そう言って目をそらす。見とれてしまった。こういったものには疎いはずの蓮でもそれがわかった。
「あ、ご、ごめん。」
紫織は紫織であわてて椅子の上で姿勢を正す。
「えっと、さっきの答えなんだけど別に嫌ってわけじゃなくて少し驚いたっていうか…。」
「そっか、ならよかった。」
紫織は安心したように呟いた。
挨拶を済ませてからはどちらの緊張感というものもなくなり、どんどん会話が弾んだ。会話と言っても話すことなど特にない、というかわからないので主に何か質問をしたり、また答えたりするといったものだが。
「そういえばあと五分で授業が始まるよ、準備できた?」
「いや、まだだけど。」
会話を一度中断して蓮は鞄の中から次の授業の数学の道具を出す。紫織はとっくに準備していたのかもう道具が机の上にそろっている。
(ん?)
そこで蓮はあることに気づいて準備をする手を止めた。忘れ物をしたわけではない。
その違和感の正体を確かめようと顔を上げて周りに目を走らせると、クラスの大半の男子がこちらを見ており――
(怖っ!)
こちらを見るすべての男子の顔からこちらを羨むような、また蔑むような複雑な表情が見て取れた。睨んでいるようにも見えないこともない。だが蓮にはそんな顔をされるような覚えが全くなかった。
「えっと……」
さすがに紫織に助けを求めるわけにもいかず、なにもできずに蓮は固まってしまう。
(はあ、一体どうしたっていうんだよ。)
こういうことには意外と鈍い蓮にも転校早々クラスの男子のほとんどの気に触れたということだけはわかった。
授業の終了を告げるチャイムが静かな学校中に響いた。授業開始の時にも思ったがこの学校には以前に蓮がいた学校のような号令がないらしい。その証拠に今もみんなそれぞれに席を立ち始めている。
蓮もそれに従って立ち上がろうとしたところで横から声がかかった。
「ねえ、蓮。」
声の主はすぐにわかった。紫織だ。
「ん?」
蓮は自分に興味を持って話しかけようと近づいてきた数人の男子生徒が紫織の声を聞いて離れていくのを横目に見ながら返事をする。その返事を聞いた紫織はそんな男子生徒のことなどつゆも気にせずに続けた。
「手を出して。」
どういうことなのだろう。蓮はよくわからないことを言われて戸惑いながら、ずっと立って話すのもどうかと思って腰を下ろした。
「えっと、どういうこと?」
「あー、ごめんね、いきなり。そりゃ困るよね、あんなことを前置きもなく言われたら。ううん、やっぱりいいよ、忘れて。」
「…。」
紫織はそう言って言葉を撤回しようと言葉を紡ぐが、蓮にはなぜか先ほどの言葉が紫織にとって何か重要なことではないかと思えて――
「こう?」
「えっ?」
蓮は初めに言われたように手のひらを上にして腕を伸ばしたのだった。
「うん…。」
紫織は一瞬驚いた後、ためらいがちに自分の手を伸ばして蓮の手を両手で包んだ。
「っ…!」
ここで驚いたのは蓮のほう。なにしろ…その……ね。だが、それを言葉にする前に周りの空気が一気に変わった。殺気の漂う空気に。
体ごと動かすと紫織の手を振りほどくことになるので頭だけを動かして周りを見る。
(はあ、またその目かよ。朝見たばっかりだよ。)
ここまで初日から徹底されて嫌われているような態度を遠巻きに見せられるとなんか吹っ切れるわけで…。
そこで、そっと紫織の手が離れたのを意識の片隅で感じてそちらのほうに意識を戻した。
「もうすんだのか? その、何をしたのかはよくわからないけど。」
「あっ、うん。もういいの、わかったから。」
「…えっと、何が?」
そこでふと時間が気になり、時計を見ると次の授業まであと二分くらい。何か言おうとしていた紫織もそれに気づいたようだった。
「うーん、話すには結構時間が必要だから…。どうしよ?」
(どうしよって俺に言われてもなあ。)
紫織の様子から察するに何か大きなことだというのはわかる。ただ、それを伝えるのに必要な時間の解決法を聞かれても、何について話すのかも想像がつかないためどうしようもできない。
そこでうつむいて考えていた紫織が何か思いついたように顔を上げた。
「今週の土曜日空いてる?」
この唐突な質問には蓮だけでなく、二人の様子を殺気だてて見ていた周りの男子生徒たち含め、クラス内にいたほとんどの生徒が驚いたのだった。