ナオとヨシ
「おねえちゃん、どこ行くの?」
こっそり靴をはいていたら真後ろで声がしたもんだから、びっくりしてコテンと前に倒れた。
振り返るまでもなく弟のヨシの声だ。こいつのせいでコケたかと思うと、イライラがドロッとした大きな塊となって下腹の方から胸の辺りまでせり上がってくる。
「うるさいな。どこでもいいでしょ」
わたしは脱げてしまった靴をはき直しながら自分の手元に向かって声を荒げる。
「ねぇねぇ。どこ行くの~?」
小学三年生にもなって子供っぽいしゃべり方をするヨシの声に、胸で止まっていたドロドロが口まで上ってくる。
「だ・か・らっ! どこでもいいでしょ! あんたには関係ないのっ!」
「関係なくないもん。ぼくも一緒に行く~」
「関係ないってば! そんでもって、来なくていいからっ!」
ドロドロを声に乗せてヨシに投げつける。
「おねえちゃんの鬼! 悪魔!」
そう叫んでヨシは黙り込んだ。あ、まずい! と思った瞬間にヨシはビエーンと泣き声をあげた。
ほらね。だからいやなんだよ。ほんと、めんどくさいやつ。
「おに~!」と泣き叫ぶヨシの声に頭のてっぺんがムズムズして、まさか鬼の角でも生えてきたのではないかと思わず手をやってしまった。もちろんそんなものは生えていない。
わたしはヨシが泣くのに忙しくてついてこないのをいいことに、さっさと玄関を出ようとした。
「ナオ、ちょっと待ちなさい」
ああ、もうっ!
またもや背後からの声にわたしはうんざりして天井を仰ぎながら振り返る。濡れた手をエプロンで拭うお母さんが立っている。
「あんた、またヨシのことを泣かして」
「だって~」
「言い訳しないの!」
ああっ、もうっ! イライライライラ……。
わたしは口をギュッと結んでドロドロが出てこないように閉じ込める。
「なにがあったの?」
お母さんの問いかけにわたしは更に上下の唇をギュッと閉めた。そうしないとドロドロをお母さん目がけて投げつけてしまいそうだから。
「ナオ。ちゃんと返事しなさい」
お母さんはちっともわかっていない。今この口を開いたら絶対に怒るくせに。
「ナオッ!」
強い声がわたしのおなかにドンとあたる。その勢いでドロドロがグイッと喉まで一気に上ってくる。
「お母さんが言い訳しちゃダメっていったんじゃん!」
あーあ。出ちゃった……。
「へ理屈言わないの!」
「へ理屈なんかじゃないもん! わたしが話そうとしても聞かないのに、なんで今度は返事しろっていうわけ?」
一度飛び出たドロドロはもうしまうことはできない。後から後から流れ出てくる。
わたしが話そうとしたことだって、お母さんが聞こうとしていることだって同じ話なのに。
大人は勝手だ。小さい子も勝手だ。わたしは学校の友達以外はみんなきらいだ。友達となら話ができる。ちゃんとお互いに話したり聞いたりできる。一緒に笑ったり怒ったりできる。なのにどうしてお母さんやヨシとはできないんだろう。
六年生になったわたしのことをお母さんは「こどな」だという。大人と子供の間って意味らしい。うまい言葉を思いついた、って感じでよくその言葉を使う。別にうまくもなんともない。ばかみたい。
どうせ大人の都合で「大人と子供の間」って言っているだけなんだ。少しでも寝るのが遅くなると「子供なんだから早く寝なさい」って言うくせに、ごはんの片付けとかを手伝わないと「もう大人の仲間入りするんだから手伝いなさい」って言う。「こどな」って、そうやって利用するための言葉なんだ。
「図書館に行くんだったら、ヨシも連れて行ってあげなさいよ」
ほら。わかっているんじゃん。なにがあったかわかっているのにわざわざ聞くんだ。わたしに答えさせて叱るために聞くんだ。大嫌い。大嫌い。大嫌い。
だけどくやしいことに――本当にくやしいことに、わたしはまだ小学生で、お母さんにいろいろやってもらわないといけなくて。小学六年生のおねえちゃんは小学三年生の弟のめんどうをみるのはきっといいことで。
「……わかったよ。ヨシ、早く靴をはきな。10数えるうちにはけなかったらおいていくからね」
ヨシは慌てて靴をはきはじめる。
「ナオはまたそんないじわるを言って」
にらんでくるお母さんを無視して、わたしはカウントダウンをはじめる。
「10、9、8、7……」
「まって! 今はいているから待って!」
ばっかじゃないの。手を止めて話している暇があったら、さっさとはけばいいのに。
またドロドロがせり上がってくる前にと思って、わたしは5から1までを早口で数えて玄関を飛び出した。頭のてっぺんがまたムズムズする。
勢いよく踏み出した足の先にいた二羽の雀がチュンチュン鳴きながら飛んで行った。見上げた空は作り物みたいにまん丸い雲が三つポコポコと浮かんでいる。どこかの家で草むしりでもしているのか、苦そうな緑色のにおいがする。
歩きながら深呼吸をしたら、胸のドロドロと頭のてっぺんのムズムズが消えていくのを感じた。ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、ヨシがかわいそうだったかなと思ったりもした。
だからわたしは左手を開いて後ろに伸ばした。すぐに小さな汗ばんだ手が握り返してきた。
そうしてわたしたちは図書館までの道を黙々と歩いた。
*
図書館に着くと、わたしはヨシを子供の本のコーナーにあるマットが敷かれたスペースに座らせ、乗り物や動物の図鑑をおしつけた。
「わたしは借りる本を選んで来るから、ヨシはそこにいてよね」
「うん」
家を出る前にわたしに怒鳴られたせいでしばらくはおとなしいはずだ。でもまたすぐに「おねえちゃん、おねえちゃん」ってすり寄ってくるに決まっている。その前に早く本を選ばなくちゃ。
わたしは物語の本のコーナーを「あ」の本棚から順に背表紙を眺めていく。そしてちょっとわくわくしそうな題名の本があったら手に取って表紙を見てみる。中身をパラパラとめくってみる。読みたい本に出会った時はパッと目に飛び込んでくる言葉があるからすぐにわかる。
「本を選ぶ」と言ったけれど、わたしはいつも「本に選ばれている」って感じる。だけど本がわたしを呼ぶ声はささやくように小さくて、耳を澄まして目をこらさないと気付くことができない。
本の貸し出しは一度に五冊までだ。わたしはいつも五冊借りることにしている。選んだ本を抱えたまま歩き回るのは重いし、本棚の本を手に取ってみるにも邪魔になる。
でも今日は一冊選ぶごとにヨシの前に置いておけばいい。めずらしくひとりでおとなしく本を眺めているし、ちょっとだけ連れてきてよかったと思った。――のも、つかの間。
「おねえちゃん、これ、なんて読むの?」
「ここにふりがながついているでしょ!」
「おねえちゃん、これ、なあに?」
「知らないよっ! その本を読んでるのはあんたでしょ!」
おなかの底から湧き出してくるドロドロが一気に口まで上ってきて、ヨシに投げつけられた。たちまちヨシの顔がクシャリと歪んで、目がうるみはじめた。
「おねえちゃんの鬼。悪魔」
いつもの呪いの言葉を口にするヨシ。
また頭のてっぺんがムズムズして、なんの気なしに手をやると、ピョコンとなにかが突き出ていた。心臓のあたりがゾクリと冷える。
え? まさか、本当に角が……?
わたしはトイレに向かって駆け出した。
「おねえちゃん、どこいくの?」
置いていかれると思ったのだろう、ヨシが私の腰にガシッとしがみつく。
「離して」
「やだ~。置いて行かないで~」
「離してってばっ!」
今はもう本当にヨシなんかの相手をしている場合じゃない。頭のてっぺんのムズムズは強くなってきて、触ると突起がさっきよりも伸びていた。「鬼、悪魔!」と叫ぶヨシの声を振り切って今度こそトイレに駆け込む。
洗面所の鏡に身を乗り出し、両手で髪をおさえて突起を見ようとするけれど、頭の角度と視線がうまく合わずになかなか見ることができない。
頭のムズムズは耐え難いほどになってきた。両手の指を折り曲げてガシガシと頭をかきむしる。突起はにょきにょきと伸び続ける。
ああ、どうしよう。このまま鬼になっちゃうんだろうか。本物の鬼になっちゃったら、ヨシは今までにないくらい大泣きするだろう。お母さんも人間じゃない子供なんて追い出すかもしれない。学校にだって行けない。友達もだれも話してくれなくなっちゃうだろう。
病気、なのかな? 病院に行けば治るのかな? でもどの病院に行けばいいの? それにお母さんと一緒じゃないといけないし。
もし病院に行ったら、これ……たぶん、角、だと思うんだけど……切るのかな。痛いのかな。薬で縮んだりしないんだろうか。
そんなことをグルグル考えている間にも角がにょきにょきと伸び続けているのを感じる。
もう鏡で確かめる勇気もなくなった。わたしはポケットをあさってヘアゴムを取り出すと、角を隠すように頭のてっぺんでおだんごを結んだ。ちらりと鏡に目をやると、とっても変な髪型だった。
泣きたいほど怖くて悲しいのに、不思議なことにちっとも涙は出てこない。ただ手や膝がプルプルと小刻みに震える。ものすごく高い熱が出たときみたいに、奥歯がガチガチ鳴って舌をかみそうになる。
角がこれ以上伸びたら道を歩けなくなる。早く家に帰らなくちゃ。
トイレを出て子供の本コーナーに向かうと、中学生らしい男の子三人にヨシが飛びかかる姿が目に入った。
――え?
わたしは頭のムズムズも胸のヒヤヒヤ痛い感じも忘れてその場に立ちつくした。
中学生は一冊の本を手に持って高く掲げている。ヨシはそれを取ろうと必死に飛びかかっているようだった。
だけどどう考えても小学三年生の手が中学生の頭の上まで届くはずもない。中学生はわざと本をヨシの目の前にちらつかせ、ヨシが手を伸ばした瞬間に高く上げたりしては、ヨシの手が空を切るのを見て笑い声を上げていた。
明らかにからかわれている。ううん。そんな楽しそうな雰囲気じゃない。いじめられている。小学三年生が中学生にいじめられている。
わたしはもう六年生の「こどな」だというのに、中学生の男の子たちが怖くて足が動かない。
なのに泣き虫のヨシは顔を真っ赤にしながらも泣いたりなんかしないで、本を取り返そうと何度も飛びかかっている。
なぜこんなことになっているのだろう。そう思った瞬間、ヨシが叫んだ。
「その本は、おねえちゃんが借りるんだからな! かえせっ! 人のものを取ったらいけないんだぞ!」
心臓がドクンッとひとつ大きく跳ねた。急に目の前がゆらりと揺れる。ちがう。揺れたと思ったのは涙だった。ブワッと溢れた涙の向こうでヨシが本を取り返そうと戦っている。
「ばーか。この本はおまえのねえちゃんのなんかじゃないぞ。図書館の本だ」
「でもおねえちゃんが借りるんだ! ぼくが見張っていたんだ!」
ヨシが図書館中に響き渡る大声で叫んだ。
「あなたたち、騒ぐなら外に行きなさい」
エプロンをしたおばさんが子供の本コーナーへと向かって行った。図書館の人だ。
中学生たちは急につまらなそうな顔になって、本を乱暴にマットに投げ捨てて出ていった。ヨシは中学生たちの背中を睨みながら、イーッと大きく歯をむき出しにした。
わたしの足はようやく動き出し、ヨシに駆け寄った。
「あ。おねえちゃん」
ぱあっと笑顔になるヨシの目はちょっと赤かったけれど、涙のあとはない。
泣き虫のチビ助がかっこつけてんじゃないわよ。
わたしは初めて自分からヨシと手をつないだ。
「あなたがおねえちゃん?」
図書館の人の問いかけにわたしは黙ってうなずいた。ちゃんと返事をしなくちゃいけないのはわかっているけれど、今口を開いたら、タプタプに溜まっている涙がポロリとこぼれ落ちてしまいそうだった。
「この本、貸し出しの手続きしようか?」
もう本なんてどうでもよかったけれど、借りないとヨシが戦った意味がない。わたしはまた無言でうなずいた。図書館の人はカウンターで手続きをすると重ねた本の山を差し出してくれた。わたしはやっぱり無言のままお辞儀をして本を受け取ると、ヨシの手をひいて図書館をあとにした。
*
外の光が眩しくて、わたしの目から涙がこぼれた。大きな一粒がこぼれ落ちると、次から次へと連なってポロポロポロポロ落ち続けた。
「……おねえちゃん?」
ヨシが不安そうにのぞきこむ。
「ぼくがちゃんと本を見張っていなかったから泣いているの?」
ちがう。そうじゃない。
でも声にならなくて、わたしはブンブン頭を振った。その勢いで髪がパサリと落ちてきた。あまりに勢いよく頭をふりすぎてヘアゴムがとれてしまったようだ。
「あ! おねえちゃんの頭!」
ヨシがつないでいた手を離して叫ぶ。
頭のてっぺんがまたムズムズしている。角がにょきにょきと伸びているのを感じる。
……もういいや。
わたしがいけなかったんだもん。いつもいつもまとわりついてくるヨシのことが邪魔で、すぐに泣くヨシのことがめんどくさくて、ひどい言葉を投げつけていた。
鬼とか悪魔とか言われても平気だったのは、それでもヨシはわたしのことを好きでいてくれると知っていたから。
べつにヨシのことなんか好きでもないし、どっちかっていうと嫌いなんだけど、それでもヨシに嫌われるのはちょっとさびしい。
……でも、もういいや。
バチが当たったんだと思う。だから本当に鬼になっちゃったんだ。しかたないよ、わたしがいけなかったんだもん。わたしは鬼なんだもん。
今度こそ本当にヨシに嫌われちゃうな……。
ヨシの手が恐る恐るといったふうにわたしの頭に伸びてくる。でもヨシの背では届かないから、よく見えるようにとわたしは腰をかがめた。
ヨシは両手で包み込むように私の角に触れた。
――ブチンッ。
え? 「ブチンッ」?
わたしはあわてて両手を頭の上に持っていく。なで回す。グリグリとなで回す。
――ない。
わたしの頭は昨日までと変わらない真ん丸だった。突起なんてどこにもない。
「おねえちゃん、これ」
ヨシが差し出したのは一輪の花。ハルジオンに似た、でも鮮やかな夕焼け色の花。
「おねえちゃんの頭についてたよ」
そう言ってわたしに握らせる。
「かわいいお花だね。とってもきれいな色」
ヨシがそう言うから、わたしはその花を大切にしようと思った。家に帰ったら押し花にしよう。そして厚紙にはりつけて本のしおりにするんだ。「こどな」がお花一輪分だけ「おとな」に近づいた記念に。
「ヨシ、ありがとう」
わたしたちは家路をたどる。
つないだ手を大きく振りながら顔を上げると、きれいな夕焼け空が広がっていた。
* おしまい *