第九節*洗濯屋と青空
ふかふかの羽毛がたっぷりと詰められた布団にカールはぬくぬくと包まれていた。ベッドマットは分厚く、寝返りを打った体がほどよく沈む。昨夜は騒動のせいで寝るのが随分と遅くなってしまい、普段なら起きている時間でもカールはまだ夢の中にいた。
昼間は一つにまとめている襟足の毛が長くシーツの上に散らばっている。静かに寝息を立ててカールは幸せそうだった。
遠くで扉の開く音がした。誰かが居間に入ってきたのだろう。続いてカツカツと響く足音が室内を一巡りし、次いでカールの部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「カールッ! 起きろカール! 見たぞ、私の衣裳をっ! 嗚呼っ、何て素晴らしい仕上がりなんだ! 黒が、黒があんなにも美しく! 初めてあの衣裳を目にしたときのような、いや、いやっ、それ以上の感動だ! くすんでいた漆黒が蘇り、以前にも負けぬ美しさを取り戻したのだから! それにシャツの! あの薄雲のサテンの輝きはどうだっ? あの繊細なシャツをよくぞ洗ってくれた! おかげで汚れもシワも取れて目映いばかりじゃないか! 嗚呼、本当に、本当にお前に頼んで良かった。私の最も美しい衣裳が、その美しさを取り戻せたのだから……。ありがとう。ありがとうカール!」
ぎゅううううっ。
足早に入ってきたのは久しぶりに会うヴフトだった。彼はカールを見つけると布団ごときつく抱擁し、喜びを表した。体がふるふると震え感動を噛みしめていた。
すらりと伸びた両腕で圧縮された布団の中から呻き声が上がる。
「あぐっ、ううっ、ヴ、ヴフトさ……? ぐる、し…」
その声を聞いてヴフトは軽く詫びながら手を引いた。しかしまだその目は宝物を見つけた子供のようにきらきらしている。
カールが咳き込みながら起き上がると、ヴフトの後ろにはハルの姿もあった。
「げほっ、ごほんっ。ヴフトさん、どうしてここに……?」
寝起きの頭はまだぼんやりとしている。
「どうしてもこうしてもあるか! ハルから私の衣裳が仕上がったと聞いてな! 朝一番で飛んできたんだ! そしたらどうだっ? あの衣裳の素晴らしさは! あの艶やかな黒の美しさはっ! カール、本当にありがとう。お前のおかげで、歳月によって失われていたあの衣裳の美しさが蘇ったのだ。またあれほど美しい衣裳を着られる日が来ようとは……。嬉しいぞ、カール。私は本当に嬉しい!」
ヴフトは翡翠の瞳を喜びで溢れさせながら重ね重ね賞賛を述べた。ベッドにぽかんと座ったままのカールの手を熱く握り、心からの感謝を示す。大きな口が有り余る嬉しさできゅっと吊り上がっていた。
それを見てカールもやっと状況を理解し、彼につられて笑顔になる。まだ眠気を引きずっていた目元が嬉しさでふわりと蕩けた。
洗濯をすること以上に、仕上がりを喜んでくれる持ち主の笑顔が大好きなのだ。
カールが洗濯屋でいる理由はそこにあった。
「喜んでもらえて俺も嬉しいです」
へへへ、と少し照れくさそうに笑う。ヴフトに喜んでもらえたことで昨日の苦労もすべて消し飛んでいた。いくらか危ない目にも遭ったが、《終わり善ければ全て善し》だとカールはそう思った。自分でも良い仕上がりだと思っていたし、ヴフトにも満足してもらえて最高の出来が保証されたのだ。カールも嬉しさが有り余って「ふ、ふふふ」と笑みを零した。
だが世界は甘いばかりではない。
カールの笑みが蕩ける頬肉は、それを教えるために強く左右に引き延ばされた。
「あえっ? い、いああああっ!」
「ところでカール。服を仕上げたのは褒めるがお前、シュピッツの言いつけを守らず外に出たそうだな? しかも洞窟で滑落しただと? たまたまハルが気付いてくれたから良かったものの……、お前は馬鹿か? 馬鹿なのかっ? ……はあ、少し話があるからすぐに着替えて隣の部屋に出てこい。分かったな?」
「…あい……」
ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ、と肉が裂けるほど抓られカールから一瞬にして笑顔が消える。笑顔が消えたのはヴフトも同じで、すっと冷えた翠玉の眼がカールを見据えていた。低く発せられた声が地鳴りのように振動し、体の奥底へと響く。洞窟での滑落以上に背筋が凍り、カールは返事を絞り出すのが精一杯だった。
ヴフトが部屋から出ていった後も彼はしばらく動けずにいた。
『洗濯屋と魔王様』
寝間着から着替えたカールはまだひりひりする頬に手を当てながら出て行くのを躊躇っていた。扉の向こうには魔王が待ち構えていて、行けば十中八九雷が落ちる。だがしかし、ずっと部屋に留まっているわけにもいかない。それに遅くなればなるほど状況は悪化しそうな気がした。
ドアノブに手をかけるも、それを引くのに躊躇いが生じる。
迷っているうちに子供の頃の記憶が思い起こされた。街で有名な雷親父の植木鉢を割ってしまったことがあった。遊んでいたボールが運悪くそちらへ反れてしまっただけだったが、そのときは大層怒鳴られ泣きながら謝った。幼少期の苦い思い出である。大きな怒鳴り声はただただ恐ろしく聞こえたものだ。
さっき聞いたヴフトの声はそれと正反対の、とても静かな声だったが恐ろしさは一層上だった気がする。
でも、出て行かなければならない。
カールは一呼吸おいてがちゃり、と控えめに扉を開いた。
居間をそっと覗くとヴフトはこちらに背を向けて座っていた。その正面にいたハルと目が合い、さらにハルの後ろに立ち控えていたシュピッツとも目が合う。カールが入るのをまだ躊躇っていると、シュピッツに「早くしろ」と手で促された。
それでやっとカールも心を決めた。
「お待たせしました…」
小声で謝りながらさっとヴフトの近くへ寄る。ヴフトは普段の整った表情でカールを見ると、空いた椅子に座るよう言った。
いつも食事を取っている小さな円卓にヴフトとカール、そしてハルが座った。シュピッツはハルの後ろに直立不動で立ったままだ。
ヴフトの奥に控えていたフリーレンが三人分のお茶を淹れた。白いカップに琥珀色の紅茶がさわやかな香りを湛えて提供される。かちこちに緊張していたカールは心地よい香りに少しだけ肩の力が抜けた。
かちゃり、と小さな音を立てて褐色の美しく伸びた指先がカップを持ち上げた。魔王は香りごと含むように紅茶を味わい、カップをソーサーに戻す。
小さく縮こまっているカールの視線と、呆れと怒りを湛えたヴフトの視線が一瞬だけ合わさった。気まずく思ったカールがすぐに顔を背けたのだ。
ヴフトはカールの方を向いたまま言った。
「カール、だいたいのことはハルとシュピッツから聞いたから承知している。だが、少しお前と話さなければならないと思ってここへ来た。洗濯のためとは言え、一人で洞窟に入ったそうだな」
「はい……」
優しいがはっきりとした口調で問いただされ、カールの視線がヴフトと紅茶を行ったり来たりした。頬がまだ少しひりひりしている。ヴフト以外誰も口を開かなかったので、カールの弱々しい返事の後、室内はしんと静まりかえった。
その様子を見てヴフトは小さなため息をつく。体をややカールの方へずらし、俯いた額を軽く突き上げる。
「カール、お前年はいくつだ?」
「ううっ! えっと、二十一です…」
「それならヒト族でも大人と言える年だろう? 悪いことをしたという自覚はあるな?」
「あります……」
反動で仰け反ったカールとヴフトの視線がまた合わさり、今度はすぐに離れることはなかった。年のことを指摘されると、改めて軽率なことをしてしまったと感じてカールはぐうの音も出ない。彼はまだ結婚せずに実家で暮らしていたが、二十一にもなれば一所帯の主になっていてもおかしくはない年なのだ。それが約束を破って危険を冒し、助けられて説教を食らっている。
やったら危ない、と分かっていて行動したことは植木鉢を割った頃と大差なかった。
「カール、お前に不自由させているのは分かっている。済まないとも思っている。お前欲しさにいきなり連れ帰ったせいで、十分な生活環境すら整えられてない。そのせいで太陽の下で生きていたお前を部屋の中に閉じ込めてしまった。……だが他種族の、獲物であるお前が、安心して魔物の国を動き回るにはどうしても認知が必要なんだ」
ヴフトの言葉はまっすぐで、一つずつゆっくりとカールの中に染みていった。
「シュピッツはお前の安全を考えて、部屋に残るよう言った。別にお前を仲間はずれにしたわけではない。彼も長年、護衛兵として勤めそれなりに魔法が使える。やろうと思えば部屋の扉を魔力で閉じてしまうことも、お前の姿を石ころに変えることもできた。でも彼はお前を信じて、言葉で止めるだけにしたのだ」
「っ……」
カールは胸に剣が突き刺さったような気持ちがした。息が詰まるような思いがして、そっとシュピッツの方を振り向くと彼は少し寂しそうに笑ていった。がたり、と大きな音を立ててカールは思わず立ち上がる。
彼はシュピッツに向かって深く頭を下げた。
「シュピッツさん、俺っ、俺、本当に……本当に済みませんでしたっ」
「もうええよ。それはもう昨日聞いた。とりあえず、無事に戻ってきてくれはったからセーフや。もうあんなビックリはしたあないけどな」
そう言って低く垂れ下がる頭を肉厚の手が優しく撫でる。カールは自分がただ危険を冒しただけでなく、彼の信頼も裏切っていたことを深く反省した。
「シュピッツさん……ありがとうございます!」
にこにこした優しい笑顔に許されカールはがばりと抱きつく。同じようなことはもう二度としない、と天に誓う。小柄だがしっかりとした四肢がそれを受け止めた。
ひとしきり抱きついたカールは、ヴフトに言われて再び席に着いた。
「話を進める。今回の件はハルが上手く納めてくれたおかげで余所へ飛び火していない。お前に怪我がなかったのも不幸中の幸いだ。今回のことでもう勝手に出歩いたりはしないと信じるが、お前にもいろいろと思うところがあるだろう。そこで、少し場所を変えようと思うのだがどうだ? 渓谷の底でも太陽の光が届く地域がある」
「太陽の……陽の光が入るってことですかっ?」
「そうだ。城と反対側の端に行けば地表が抜け落ちているから、頭上には空が広がっている。ただ、城から出ることになるから部屋や食事の面で今より不便になると…」
「行きますッ!」
がたんっ、と軽やかな音がすぐに響いた。ヴフトの提案を聞き終わらないうちにカールは勢いよく立ち上がった。半月近い洞窟生活で気が滅入っていたのは事実。青空の下に出られるのであれば多少の不自由なんて構わなかった。そもそも、今の状況は故郷の何十倍も厚遇なのだ。それが不便になったところで青空と洗濯があれば何とでもなる。
先ほどまでの暗く沈んでいた顔は一瞬で消え、カールは満面に喜びを浮かべていた。
「あ、すみません。俺、つい。……でも外に出てもいいってことですよね? そこに行けば外に出られるんですよね?」
周りが驚いたことに気付きカールは椅子に座り直した。それでも外に出られる嬉しさが勝って体がそわそわと揺れる。カールは少し冷めて飲みやすくなった紅茶をぐっと半分ほど飲んだ。爽やかな味わいが気分を落ち着かせ、話の続きを聞けるようにした。
「あー……、今まで洞窟の中で本当に済まなかったな。向こうの端に行けば空があるし、周りは畑だから洗濯をする場所もある。陽の光が差すから滅多に近寄る者はいない。お前を預ける相手は魔物のことも獲物のことも、この世界のこともよく知っている博識なお方だ。身の回りの世話をする者がいなくなるが…まあ、お前は大丈夫そうだな」
「はい! 大丈夫ですっ!」
ヴフトの言葉にカールは元気良く返事をした。今すぐにでも飛び出して行きそうなほど顔が輝いている。先ほど怒られ小さくなっていたのが嘘のようだ。
それだけ空の下に出られることは嬉しかった。
行き先の説明をするために机の上に細長い地図が広げられた。地図のほとんどは灰色に塗られていて、その上に道や建物が記されている。一番端に大きな城の絵があり、そこから兵の訓練所や宿舎、教会のようなもの、商店街、民家、と街は真っ直ぐに伸びていた。民家の戸数が減りぱったりとなくなった先が白くなっていて、そこには田畑や果樹の印がついていた。白い部分は国全体の三分の一ほどである。
地図の端は大きな木の絵で終わっていた。
「カール、お前は今この渓谷の最深部にある城の中にいるが、移動先はこの反対の端にある霊樹だ。現地まではハルに送らせる。準備が整えば昼にでも出られるがどうする?」
「フリーレンさんに集めてもらった薬品は持って行ってもいいですか?」
「もちろん。日に一度、城の洗濯物をテディーに運ばせるから洗ってくれ。仕上がりの違いを知らん奴らに口で説明しても一向に埒があかないからな。こっそりお前の物を混ぜて、洗濯屋の実力を知らしめてやろうと思う」
「毎日洗濯ができるんですね! ありがとうございますっ!」
ヴフトの提案にカールはまた喜びの声を上げた。
「陛下お墨付きの仕上がり、私も楽しみにしています」
「はいっ!」
***
話がまとまった後、ヴフトとハルは朝会のためすぐに部屋を出た。昼にもう一度ハルが来てカールを霊樹まで連れて行ってくれることになった。霊樹に行くのはカールとシュピッツの二人である。
朝食を取ってからカールは嬉しそうに荷造りを始めた。それを手伝いながら自分の荷物も用意するシュピッツの顔はやや暗い。
「ううう、あかん。行く前から気疲れ起こしそうや」
「シュピッツさん……すいません、俺に付き合わせてしまって…」
「いや、あんさんは悪うないで。事情知っとる奴の中で城を抜けても平気やのわいぐらいやし。日光平気なのもわいやし……。物は考えようや。これは凄いことやねん。大、大、大抜擢で……、やっぱ気い引けるわ」
「ですよね…。元魔王様と一緒に住むなんて」
「二代目様は式典のときにとお~っくから見たことあるだけで、お側に仕えたことがないからまったく分からんし。どないな方やろ?」
「ヴフトさんは博識な方って言ってましたね」
「せやな。二代目様は魔物の中でもかなり長寿なヒーシ族でな。この国ができる前からずっと森におられたらしい。あんさん移動魔法で連れてこられたから知らんやろが、ドゥンケルタールの周りは《常闇の森》っちゅー深い森やねんで。ヒーシはそこに何千年も前から住んどる種族や。森について彼らが知らんことは何もないわ」
「何千年も。凄いなあ…」
考えたこともない時の単位を聞かされてカールは目を丸くした。カールの故郷は建国からせいぜい数十年だし、そもそもヒトの独立からまだ半世紀ほどしか経っていない。何千年も歴史を持つ種族など聞いたことがなかった。
カールは元魔王のところへ行く緊張と同時に、自分の世界が広がる喜びを感じていた。それは薄雲のサテンを洗ったときと同じ、知らなかった物を知る喜びだ。引き続き護衛役として霊樹まで行くことになったシュピッツには申し訳なかったが、カールはとてもわくわくしていた。
シャツやズボンの間に割れないよう瓶を挟み込み、背負い袋一つだけの小さな荷物ができた。一着分の服しか私物がないのですべて借り物である。
もう一時ほどで昼になる、という頃にここ数日手伝ってくれていたテディーたちが転がり込んできた。
「カールさん! カールさん、お外行っちゃうんですね! ううう、僕、寂しいです!」
「カールさん、またお城に戻ってきてくださいね!」
「僕もカールさんに洗って欲しかったです!」
「もっとカールさんと遊びたかったです!」
「お城に戻ってこれますよね? カールさん!」
一番懐いていた小さいテディーの他、シュランクの大掃除に付き合ってくれた大勢のテディーもカールを取り囲む。もふもふごわごわ体を寄せ合いながら皆別れを惜しんだ。
カールはいつものように小さい彼を抱きながら、慰めるように頭を撫でた。
「ありがとう、みんな。でも一日一回洗濯物を運んでもらう、ってヴフトさんが言ってたよ? またすぐに会えるんじゃないの?」
今までより会う時間は減るがまったく会えなくなるわけではないだろう。カールはそう思っていた。だが、小さいテディーは悲しそうに答えた。
「お洗濯は別の子たちのお仕事なんです…」
「僕たちはお手伝いが担当だから」
「みんな役目が違うんです」
代わる代わる手伝いに来ていてくれたことは知っていたが、それぞれ持ち場があることをカールは初めて知った。今まで一緒にいた彼らと、今度から洗濯物を届けてくれる子たちは別であるらしい。
カールもそれを聞いて少し寂しくなったが、あえて明るい声を出した。
「そうか。それじゃあしばらく会えないんだね。でも、俺はきっとまたお城に戻ってくるから! そしたらまた一緒に洗濯をしたり遊んだりしよう! ね?」
「絶対ですか?」
「うん。ヴフトさんも頑張ってくれてるって言ってたから。大丈夫だよ」
「はいっ!」
しょげていたテディーたちはカールの言葉を聞いていつもの元気良を取り戻した。それから我も我もとカールに飛びつき、しばらく会えない分の抱っこをせがんだ。大きい子は一抱えもあるテディーをカールは順番に抱き上げてやった。
そうこうしている間に昼の鐘が鳴り、小さい包みを持ってハルが姿を現した。
カールの周りに散らばるテディーたちを見ておやおやと驚く。
「君たち、随分と仲が良くなっていたんですね。そんなに囲まれて。テディー、サボりはいないだろうね?」
「お休みでーす」
ハルの問いかけにテディーたちは声をそろえて言った。城中の手伝いをしている彼らはハルとも親しいようで、何体かが彼に駆け寄った。ハルがカールに近づくとテディーたちは道を空けて左右に散った。
「準備はできましたか?」
「はい。大丈夫です」
背負い袋を手にカールは答えた。後ろでシュピッツも同じく用意を済ませている。ハルはその様子を見て手にしていた包みをカールに渡した。重さはないが、わりと嵩張ってもさもさしている。
「これは陛下が出してきてくださった二代目様のお衣裳です。時間のあるときに洗ってください。戻すときは、洗濯係のテディーに渡してもらえれば大丈夫です」
「分かりました。お預かりします」
魔王の衣裳と聞いてカールの顔が引き締まる。またヴフトの衣裳を洗ったときのような素晴らしい衣裳を洗えるのかと思うと、嬉しさが口元に滲み出た。
それからハルはシュピッツに割符の片割れを渡して言った。
「シュピッツ、厄介な任に就いてしまって大変だと思うが、君にしか務まらないことだから、よろしく頼むよ。二代目様は温厚で飾らないお方だからそんなに硬くならなくても大丈夫だ」
「はい」
「で、さっそく厄介なことを頼んで悪いんだが、手土産を左の砦に用意させてある。門番にそれを渡せば分かるから、君は土産を持って霊樹まで来てくれ」
「はいっ?」
「私は彼を連れてここから直行する。シュピッツ、遅れないように」
「ちょ、ハル様! 言ってる事とやってる事が!」
悲痛な叫び声と同時に扉の開く音が響いた。シュピッツはハルの言葉を聞いた瞬間にそれを理解して駆け出し、カールが一つ瞬く間に消えていた。てっきり一緒に行くものだと思っていたカールはどうして彼が駆けて行ったのか分からない。
ハルは開けっ放しにされた扉を見て楽しそうに笑っていた。
「さあ、カールさん。私たちも行きましょう。荷物を持ってこちらへ」
「え? はい……あの、シュピッツさんは?」
「彼は足が速いから大丈夫ですよ」
カールが荷物を持ってハルに近づくと、ハルは翼の両腕を広げてもふりとカールを包み込んだ。洞窟の中から出てきたときと同じように、羽毛の中に包まれる。外からテディーたちの別れの言葉が聞こえた。
***
ハルの翼でしっかりと抱えられながら、カールはまた一瞬足が浮くような感覚を経てふわりとした草の上に着地した。
着きましたよ、という言葉と同時に翼から解放される。太陽は丁度、真上にあった。
「空だ……!」
半月ぶりの眩しさに目を細めながらカールは青空を見上げた。細長い雲が、流れていく空が、記憶よりもずっと明るく輝いて見える。目の前には穂先の重くなった麦畑も広がっていて心地の良い風が吹いていた。
カールは太陽の光を全身に浴びながら大きく深呼吸をした。陽の光が、緑の風が、肺を通って体中に満ちていく。こんなにも太陽の光は気持ち良かったかと思うほど、カールはその恩恵を強く噛みしめた。
太陽も空もそこに流れる一筋の雲も、すべてがカールに活力を与えた。
「いい天気。風も気持ちが良くて、土の臭いがする。ああ、太陽だ! 空だ!」
ずっと望んでいた青空にカールは嬉しくなって荷物を持ったまま駆け回った。足元も裏庭のような砂地ではなく、ふかふかと背の低い雑草が生い茂っている。一歩動く度にふわりと草の香りが舞い上がった。
しばらくの間、カールは陽の光を浴びるのに忙しくて周りが見えないでいた。最後にこれからは毎日この空が見られるという喜びに感謝し、ようやっとハルの方を振り向いた。するとその隣にはいつからいたのか、大急ぎで部屋を飛び出したシュピッツの姿もあった。その足元には大きな袋が置かれている。彼はいくらか疲れた顔をしていた。
落ち着いたカールを見てハルがにこやかに話しかける。
「久しぶりの外は堪能できましたか? 護衛隊長殿もさすが、遅れずに到着されましたしそろそろ二代目様を呼びに行っても?」
「あっ、はい! すいません、お待たせしました…」
彼らが自分のことを待っていてくれたのだと気が付いて、カールは急いで駆け寄った。それでは、とハルが前を歩いて大きな樹の根本まで行く。霊樹は渓谷の深さと同じぐらい背が高い、大きな大きな大木だった。その小さな葉が渓谷の幅いっぱいに広がり、傘を差したように巨大な木陰をつくっている。
霊樹の太い幹には質素な木の扉がついていた。
ハルがその戸を叩いて内側へ声をかけたが、誰かが出てくる気配はない。何度か呼び直したが物音一つしなかった。
怪訝そうな顔をしてハルが一際大きな声で呼びかける。
「二代目様ー! 二代目様っ! ハルです! 国防の卿、ハル・フォーゲルが参りました!二代目様! どちらにおられますか!」
「おおー、こっちじゃ」
すると漸く返事が聞こえ、根本の脇の方からひょこりと老人が顔を出した。
見れば茫々と伸びた灰緑の髪に、曲線を描いて一本に繋がった髭。赤茶けた顔には深い皺が刻まれ、ちょこんと丸い眼鏡が乗っている。上の服は長袖のシャツに皮の胸当てをつけていて、下はひらひらと襞のあるスカートのような物を履いていた。足元は泥にまみれてべちゃべちゃだったが、足袋と草鞋を履いているようだ。服の裾にも点々と大きな泥が跳ねていた。
全体的にしわしわの茫々で見た目や大きさはヒトと同じぐらいである。その老人が、よく来たよく来た、と呟きながら服で両手の汚れを拭きながらやってきた。下に比べればマシに思えた上半身も、近くで見るとかなり泥まみれだった。
ハルとシュピッツが片膝を折り深々と挨拶をする。カールもそれを真似て膝をついた。
「二代目様、ご無沙汰しております。この度は急な申し出をご快諾いただき…」
形式的な挨拶文をハルが淀みなく述べると、老人は手を振ってそれを遮った。そしてハルの横を通り過ぎ、シュピッツが持ってきた大きな袋の中身を検めた。
「ここは正式な場ではない。そういう長いもんはいらん。それよりも……おお、分かっとるじゃないか。鹿の干し肉に牛乳のチーズ、海魚の干物! こっちは煎り米を混ぜた緑茶か。うむ、いい香りじゃ」
「僅かですが棗もご用意できたので入れてあります」
「ふっふ、さすが六代目の坊は分かっとるの」
大袋の中から干し棗の入った小袋を取り出し、老人は嬉しそうに顔を綻ばせた。その表情は魔王というよりも、年老いた農夫のようで親しみやすさを感じる。
老人は早速中身を一つ啄みながら苔玉のような瞳でカールを見た。
「んむ。何千年も生きてきたが、独立したヒトとゆっくり話す機会が得られるとはの。世もようやっと静かになってきたということか。まあ、いろいろあるようじゃが折角来たのだからゆっくりしていくと良かろう。客人は大歓迎じゃ。儂はヒーシ族のタピオと言う。よろしくな、洗濯屋殿」
「ヒト族のカール・ベーアです。お世話になります」
ごつごつとした大きな手をカールはしっかりと握り返した。
第九節 了
2017/8/26 校正版