第七節*洗濯屋と魔王の衣裳
ドロシーのスーツを洗ってから丸三日が経った。その間にカールはシュピッツ家の溜まっていた洗濯を手伝い、メアリーが困っていたクロスを漂白し、ペンキを被ってしまったテディーを元通りにした。それでも部屋で大人しくしているようにと言われてから四日目の朝にはやることがなくなり、昼食を持ってきたメアリーにそれとなくヴフトの様子を聞いてみた。カールとしては早く外を出歩きたかったのだが、彼女によるとまだ処遇が決まっていないとのことだった。それでは青空の下で洗濯物を乾かすどころか、城の中を自由に行き来することすら難しい。完全に手持ち無沙汰でどうしようもなくなったカールは、食後、遂にテーブルの上に突っ伏してしまった。
「カールさん。大丈夫ですか? カールさん」
それを心配した小さなテディーが熱でもあるのかとカールの額に手を当ててくる。カールは小さな声で「大丈夫ですよ」と答え、ぺったりと伏せたままテディーを抱き寄せた。そのふかふかのお腹に顔を埋めると、テディーはくすぐったそうにうひゃひゃ、と笑い声を上げた。
向かい側で新聞を読んでいたシュピッツがその光景を見て呆れる。
「カールさん、いくら暇やからってその格好はどうかと思うで」
「それはそうなんですけど。俺、毎日洗濯して過ごしていたんで、洗濯物がなくなると何をしたらいいのか分からないんですよ……」
柔らかいテディーの腹で慰められながらカールは情けなく答えた。
店が開いている日は客の洗濯物を、店が閉まっている日は家の洗濯物を、と年がら年中洗濯をしていたカールである。それが途絶えてしまうということは今まで考えられなかったのだ。しかも、いつまでこの状況が続くのか分からない。
魔国に連れて来られてからここ数日、洗濯物に囲まれたカールの日常は崩れてしまっていた。想像だにしなかった状況に思わずため息が漏れる。机目線のままカールが顔の向きを変えると例の衣裳箱が目に入った。
それは今、唯一残っている洗濯物だった。
「ヴフトさんの服、できれば外で干したかったんだけどな。裏庭でやろうか」
ぼそりとそう呟くとカールは椅子から立ち上がって箱の蓋を開けた。中には暗闇を織り込めたような美しい衣裳が入っていた。見事な黒色だったが、よく見ると点々とした汚れがついていたり、変なシワが寄っている部分がある。ヴフトが洗ってくれと言う理由がそこにあった。
中を覗いてざっと汚れの確認をし、カールは意を決する。
「シュピッツさん、ヴフトさんの衣裳を洗います。拭き洗いが必要なんで、また裏庭に出てもいいか聞いてきてもらえますか? あと、このシャツと同じ生地が残っていたら切れ端が欲しいんですが」
「おお、そういえばまだ洗うてなかったな。またあの臭いやつ使うんか……よっしゃ、すぐ聞いてくるわ」
何だかんだでシュピッツも暇を持て余していたので、カールの言葉にさっと動いてくれた。裏庭へ出る許可を取りに行くのと同時に、大きなテディーに端布を持ってくるよう指示を出す。残ったテディーとカールは衣裳を持って作業部屋へと移動した。
『洗濯屋と魔王様』
部屋へ入るとまず、カールは大鍋でたっぷりの水を火にかけた。竈の火はテディーが魔法石という呪文の刻まれた石を使って一瞬でつけてくれる。
通常、魔物が魔法を使うには効果に応じた呪文を唱える必要がある。火を起こすには火を起こす呪文、水を出すには水を出す呪文、という具合だ。けれども生活の一部として使うときに一々それを唱えるというのは至極面倒で、彼らは口で唱える代わりに呪文を道具に書き記した。その代表例が魔法石である。
魔法石はそれに魔力を注ぐことで、刻まれた呪文に対応する魔法を発動することができる。魔力の加減によって火種を発生させることも、大火事を起こすことも可能だ。安価な魔法石は表面を研磨した不定形な石に墨で直接呪文が書かれている。値段が上がるにつれ石の形が整えられていたり、呪文が消えないようにワニスが塗られていたりする。テディーが使っているのは水餅のように底が平らになった、半円の形をした魔法石だった。表面はたっぷりのワニスで保護されている。
魔法石のように呪文を記した道具は広く《魔道具》と言われ、魔物の日用品であった。中には呪文を彫刻したり、刺繍したりと装飾や美術面を重視した物もある。
呪文は普段の生活では使わない特別な二十六文字で構成されていた。この文字は学ばなければ魔物でも発音が難しく、それもまた呪文を書き記す理由であった。
そんな魔法石で着火した薪がパチパチと勢いよく燃え上がる。いくらもしないうちにお湯が沸いてくる。ここ数日で「洗濯にはお湯が良い」という知識はテディー全体に広まっていた。また別のテディーがカールの指示で作業台に大きなシーツを広げる。カールはその上に衣裳をそっと出した。これは初めてのことで、小さいテディーは机の上によじ登ってその理由を尋ねた。
「どうしてシーツを敷いたんですか? 机はきれいですよ?」
テディーがよたよたと歩く度、布に小さな皺が寄る。
「うん。机はきれいだけど木で出来ているから尖ったところや溝があるでしょう? ここに服が引っかかると傷の原因になるんだ。ヴフトさんのこのシャツ、見たところとても繊細な生地のようだから、念のためにね」
「へえ~」
服を一着ずつ広げていくカールの説明を聞いて、テディーは薄紫のそれには近づかないように気を付けた。ヴフトの衣裳一式は全部で五つに分かれていた。
シルクのように光沢のあるシャツは薄紫色で胸元に襞が施されたていた。襟元は丸く、幅の狭い立襟になっている。ボタンは隠れた位置に取り付けられていて、閉じるときれいな襞だけが見えるデザインだ。その上に着るウエストコートは前が大きく開き、胸よりも下の位置に黄金色のボタンが四つ、こちらは控えめに輝きながら堂々と並んでいた。生地は濃い赤葡萄酒の色である。
またジャケットとズボンは同じ素材で作られていて、それがこれ以上はないぐらいに黒く美しかった。全体的に黒紫色の糸で模様が織り込まれているようで、見る角度によっては高貴な葡萄色にも思える。ジャケットも立襟仕立てで、芯の入った堅い詰襟だった。それを彩るように赤紫の刺繍糸が縁をなぞっている。両肩と折り返された袖に施された刺繍は灰色だった。前は閉じないデザインで、襟の根本に大きなボタンが一つあるだけだ。ズボンの先は膝下あたりで細い筒状に切り替わっていて、ホックで留められるようになっている。灰色の手袋はシンプルだが美しいラインを描いていた。
どれも特別豪華な飾りがついているわけではないが、仕立ての良いことが一目で分かる美しい衣裳である。多少の汚れがあっても、きらきらと誇り輝いているようだった。街の金持ちや劇団の衣裳など、カールはこれまでに何度か上等な衣服を目にしたことがあったが、それらとは比べものにならなかった。
思わず洗うことを忘れて見入ってしまいそうになるそれらをシャツ、ウエストコートと手袋、ジャケットとズボンに分ける。お湯が沸き始めたところでタライに粉石けんで石けん水を作る。まずは目立った汚れのないウエストコートと手袋をそこに浸した。衣類はシワが入らないようにできるだけ平たく沈める。手袋も五指をまっすぐに伸ばして入れた。これでしばらく放置すれば基本的な洗濯の完了だ。
タライを置いて、次にカールが取りかかったのはジャケットとズボンのブラッシングだった。立襟や折り返された袖口など注意する部分がいくつかあったが、作業方法はスーツのときと同じである。大きいテディーと小さいテディーはブラシの動きを目で追って遊んでいた。途中でシュピッツが帰ってき、裏庭に出ても良いと知らされた。
ズボンの方までブラッシングが終わった頃、端布を探しにいっていたテディーがドロシーと一緒に戻ってきた。
「シャツと同じ生地の端布が欲しいっていうから持ってきたんだけど、これで足りる?」
「ありがとうございます。テディーもありがとう。これだけあれば十分です」
ハンカチほどの大きさの布を受け取りカールは礼を言う。その後ろに洗濯中のタライやブラッシングされたジャケットなどを見て、ドロシーはそわそわしながら続けた。
「ヴフト様の王衣を洗うんですってね! 見学……していっても良いかしら?」
「あんさんそのつもりで来たんやろ」
「そうよ!」
ドロシーの溌剌とした返事にシュピッツはため息をついた。どうやら端布の話を聞いて彼女は仕事を切り上げてきたようだった。カールが「構いませんよ」と快諾すると、「あまり甘やかすな」とシュピッツが釘を刺した。
一応、彼女は城の裁縫師の長で、特別な制作物がないときは後輩の練習を見るのが仕事らしい。けれども物が仕上がってから評価をする彼女は、制作中の子らには特に口出しをしなかった。彼女曰く、仕上げることが一番大事で必要な経験、だそうだ。だから後輩たちが針仕事に必死になっているとき、彼女は自分の好きな物を作ったり出歩いたりと自由にしていた。護衛兵所属のシュピッツが顔をしかめるのは致し方ない。
ともかく端布をもらったカールはそれを四つに切り分けていろいろと実験を始めた。
一つ目は色落ちのテストで、石けんをつけたバチで生地を擦ったがバチに色が移ることはなかった。二つ目は縮むかどうかの判断で、お湯の石けん水で軽く洗ってみた。すると同じ大きさに切ったはずの他よりも、一回りほど布が大きくなった。水洗いで縮む素材は知っているが、反対に伸びた生地を見てカールは不思議に思った。
「この布、シルクだと思ったんですがお湯で伸びる……? シルクじゃない?」
隣で見ていたドロシーがそれに答える。
「それはシルクじゃなくて薄雲のサテンよ。ほら、光沢があるけど触っても冷たくないでしょう? これは新月の夜、一晩中暗闇に晒された雲を、明け方の弱い陽の光に当てながら紡ぐの。それがこの薄雲のサテン。アラーネアっていう蜘蛛の種族がいるんだけど、その魔物の女だけが織れる特別な布なの。これはもう布の形を持っているから大丈夫なんだけど、布になる前の薄雲の糸は温めると霧散してしまう性質があってね。布になってもその性質が少し残っていて、温水に浸けると膨張して、冷水に浸けると収縮するのよ。あんまり伸び縮みさせると光沢が損なわれるわ」
ドロシーは一息にそう説明し、伸びた端布をただの水に浸けた。それを広げてみると先ほどより僅かに縮んだようだった。
「水の温度で伸び縮みする布ですか……、雲から糸が作れるなんて。初めて見ました」
「アラーネアは結構プライドが高い一族だからね。獲物の国とは取引してないと思うわ」
「伸び縮みしない温度は分かりますか?」
「確か汲み置きをして常温になった水なら平気だったはずよ」
「じゃあ残った端布で試してみますね」
カールはそう言うと部屋にあった桶とタライすべてを使って水を汲んだ。実験用と一緒に洗濯用の水も汲み置いたのだ。思わぬ手間が発生したので、シャツを洗うのは一番最後になりそうだった。
それからアンモニアの匂いが苦手なシュピッツとテディーを残し、カールとドロシーは裏庭へ向かった。先日使った竿がそのまま残っていて、スーツのときと同様に細かく拭き洗いをしていく。今回は足元に浄化草の植木鉢も置いて臭いが発生するそばから食べてもらうことにした。草はアンモニアの蓋を開けた途端にはくはくと呼吸を始めた。
カールが拭き洗いを始めると、ドロシーもまた以前のように手伝いたいと言い出した。そう言うだろうと思っていたカールは多めに持ってきていた布を手渡す。二度目になるとドロシーも少しコツが分かってきたようで、手際よくズボンを洗っていった。ジャケットには飾りや刺繍が施されていたのでカールでも少し時間が掛かったが、拭き終えた上下は色つやが増したように見えた。
後は洞窟から吹いてくる風で乾かすだけである。他の作業をするために、洗濯物をドロシーに見ていてもらい、カールは一足先に作業場へと戻った。
「あ、カールさんだ」
「カールさんお帰りなさーい」
「おかえりなさーい」
部屋に入るとよほど暇だったのか、床の上をころころと転がって遊んでいたテディーたちがぱっと起き上がり駆け寄ってきた。頭の上や背中に埃をつけた彼らを見て、カールは思わず引き下がる。洗濯の最中に自分が汚れるのはまずい。
「こら、あんさんら埃っぽいんやから近づくな」
それを見たシュピッツがテディーたちを摘み上げ、カールから遠ざけてくれた。摘まれたテディーたちは不機嫌だったがこればっかりは仕方がない。カールは苦笑しながらタライの方へと逃げていった。
洗濯をしていたウエストコートと手袋は濯ぎの頃合いだった。またお湯をたっぷりと沸かしてぬるま湯を作り直す。
その隣でテディーを捕まえていたシュピッツは、思い立ったように彼らを深い流し台の中に突っ込んだ。そして台に水を溜めてから柄杓でお湯を加えた。
「あんさんら、暇やし石けんもあるから洗うたるわ。万が一、陛下の衣裳を汚されても敵わんしな」
「えーっ! ひどい!」
「そんなことしませんよーっ!」
突然濡らされたテディーたちはシュピッツに憤慨した。しかし柄杓でお湯をかけられているうちに何だか楽しくなり、やがて遊び出す。小さいテディーが一人に大きいテディーが二人。流し台の中はぎゅうぎゅうである。そこへシュピッツが固形石けんを適当な大きさに切り分けて渡す。テディーたちは互いに石けんを擦りつけたりお湯に溶かしたりして、台の中はあっという間に泡だらけになった。
遊び程度にしか洗わないテディーたちをシュピッツがごしごしと擦る。
その豪快な洗い方にカールは少し驚いた。
「あの、テディーの肌って痛んだりしないんですか? ヌイグルミの体、なんですよね?」
力任せな手の動きは彼の洗濯では決してしない動作である。
「ん? 平気、平気。こいつらの風呂なんていつもこんなもんやで。つなぎ目は魔力で留まっとるし、強めに擦ったぐらいで裂けたりせえへん」
「そうなんですか……?」
シュピッツの説明にカールが疑問を飛ばすその間にも、テディーはぐわっしぐわっしと洗われていく。
「んんんん、でもこの前、カールさんに洗ってもらった子が、優しくて気持ちよかったって言ってましたあああ、いた、シュピッツさんつよおおお」
「ちと我慢せえ」
「んああああーっ!」
「ぼく! ぼくは自分で洗えますっ!」
「僕もちゃんと洗いますっ!」
一人のテディーが容赦なくシュピッツに洗われるのを見て、残りのテディーは必死に自分で体を洗ってみせた。台の外までお湯や泡が飛び散り大騒ぎである。
些か可哀想な気もしたが、そこは手慣れているシュピッツに彼らを託し、カールは自分の作業に戻った。
十分に汚れを溶かした衣服を新しいお湯で濯いでいく。シワが入らないように注意しながら動かし、クエン酸で仕上げる。濯ぎ終わった洗濯物はきれいなタオルで包み、軽く叩いて水気を取った。湿ったタオルを取り替えてもう一度水気を取り、別のタオルの上で平らに乾かす。一先ずウエストコートと手袋はこれで洗濯が完了した。
そして最後に残ったのは、やはり薄雲のサテンで出来たシャツである。常温にした水に端布を入れ、取り出した物が元の大きさと変わらないことをカールは確かめた。
「うん。これなら大丈夫そうだ」
実験の結果に満足したカールはさっそくシャツの洗濯に取りかかった。常温の水に粉石けんをよく溶かし、重曹を少し加える。首回りや袖口など汚れが多い部分に予め石けん水を染み込ませ、それから全体をゆっくりとタライに沈めた。サテンの上品な光沢が水の中でもきらきらしている。折り畳んだままのそれをゆらゆらと揺らし、石けんと混ざり合うように動かす。
しばらくそうした動作を続けた後、石けんを染み込ませた部分を手で軽く揉み、カールはすぐに新しい水に替えた。まだ洗い出してから数分もしていない。だが次の水には何も加えず、同じく揺らすようにしながら濯ぎを始めた。
「何や、浸け置かんでええのか? それは」
揺らしながら数十秒。またすぐにタライの水を取り替えたカールにシュピッツが声をかけた。どうやら彼らの洗濯の方が先に終わったらしく、タオルで擦られ勇ましく毛が逆立ったテディーたちも一緒だ。茫々になった毛並みのせいか一回り大きく感じる。
「わ、何かツンツンしてますね。すごい」
「これはそのうち収まるからええんや。今は洗い立てやからな。それよか、そのシャツはしばらく石けんに浸けたりせえへんのか? えらい早いな」
シュピッツがそう尋ねる間にもシャツが優雅に一泳ぎした頃合いで水が替えられる。今までのゆっくり、のんびり、な洗い方とはまた違っていた。
「サテンみたいな光沢のある布は浸け置きに向きません。石けんも洗浄力が強すぎると生地を傷める原因になるので、今回は重曹を少し加えました。代わりに濯ぎを念入りに行って、汚れが溶け出すように揺らします。水で擦って洗うんですよ」
そう言いいながらカールはシャツをタライから取り出す。短い濯ぎを繰り返し、もう洗濯が終わったようだった。シャツを畳むようにして軽く水を絞ると、これもタオルで挟んで水気を取る。肩幅のあるハンガーに掛けて形を整えたら後は乾くのを待つだけだ。
これで衣裳すべての洗濯が終わった。
使った水を払い簡単に部屋を片付けると、カールは洗濯物を持ってまた裏庭に出て行った。今度はシュピッツやテディーたちも一緒である。一人暇そうにしていたドロシーと合流し、竿にそれぞれの衣裳が並ぶ。
渓谷の中なので服が日に焼ける心配はなかった。
「何かさっぱりしたーっ、て感じね。生地が生き返ったみたいだわ。ヴフト様ってきれい好きだから、衣服の汚れも気を付けてくださるんだけど、魔王様の衣裳ってどうしても汚れるのよね」
「表に着ていって、目立った汚れをつけへんだけでもすごいけどな」
「そうよね。私だったら絶対無理だわ。汚れどころか破けちゃいそう!」
「……お城の外はそんなに危ないんですか?」
壁際のゴツゴツと飛び出た岩の上に座り洗濯物が乾くのを待っていた。シュピッツとドロシーの会話を聞いたカールは、魔国の街はそんなに物騒なのかと吃驚する。だが彼らの言う《表》とはそういう意味ではないらしく、シュピッツが顔の前で大きく手を振って否定した。
「ちゃうちゃう。表ってのはな、城の外やのうて、国の外や。この渓谷を出た、陽の当たる場所や。表に出ると他国の奴らとか乱暴者んとか、いろいろおるんやで。それに陛下があの衣裳を着て表に出るときは、有事のときだけや」
「有事……、戦争、ですか?」
シュピッツの発言にカールは思わず背筋が凍る。まさか今、丁寧に洗い上げたばかりの服が戦装束だとは思いもしなかったのだ。何か特別な行事のときに着る衣裳だろうと、その程度に思っていた。カールは複雑な思いで洗濯物に目をやった。
それを見たドロシーが怒ったように口を出す。
「ちょっと! 勘違いしないで欲しいんだけど、うちの国の魔王様たちは一代たりとも他国に攻め入ったことはないのよっ? それでも戦狂いの国とか、天災で発生した暴徒とか、どうしても他から戦争をしかけられることがあるの。そういうときに戦闘の苦手な私たちを守ってくれるのが、魔王様と国防軍よ。ヴフト様はあの衣裳を着て誰よりもこの国を守ってくださっているの。あの服を着たヴフト様はとても素敵なのよ!」
ずい、とカールに顔を近づけて力説する彼女の目は真剣だった。その迫力に推されてカールは思わず仰け反る。
ドロシーの説明を補足するようにテディーたちが言葉を付け足した。
「でも恐いときだけじゃなくて、楽しいときにも着るんですよ。お祭りのときとか!」
「そうです、そうです。お祭りのときなら恐くありません!」
「お祭りのときは優しくて美しいのです!」
カールは姿勢を戻してからまだ鼻息の荒いドロシーに小さく謝った。彼女も「分かれば良し」と言って、元の位置に戻る。洞窟の奥から吹いてくるそよ風が衣裳を優しく乾かしていた。
「魔国も大変なんですね…」
膝の上にいたテディーの頭を撫でながらカールはぽつりと呟いた。
***
衣裳がおおよそ乾いたところで、カールはすべてを回収して作業部屋に戻ってきた。もともと濡らしていないジャケット類はもうすっかり乾いている。ウエストコートと手袋も良い具合だった。最後に洗ったシャツだけが生乾きだったが、カールはそれをアイロン台の上に広げた。当て布を用意して、ドロシーから借りてあるアイロンを取り出す。
魔国のアイロンは同じ厚さの金属板と石板でできていた。形は一方の先端が丸く尖った長方形で、王国の物と変わらない。金属板の上に文字の刻まれた石板が張り付き、そこから更に取っ手が伸びていた。どちらも薄い板だったので比較的軽い。
けれども一つ難点があった。王国のアイロンは火や炭などで本体を温めて使うのだが、魔国のアイロンを温めるには魔力が必要だったのだ。そのために呪文の石板がついているのだが、カールにはそれを発動させるための魔力がなかった。
そこで意気揚々と紐を持ち出したのは一番小さいテディーだった。
彼は紐の一端をアイロンの取っ手に結び、その反対側を少し離れたところに座って握りしめた。魔力は触れている物から触れている物へ伝導する性質がある。伝導させると直接触れて発動するよりも多めに魔力を消費するが、アイロンぐらいなら大したことはないらしい。テディーは紐を握って「さあ、どうぞ!」と言わんばかりだった。
カールはそれを見て「お願いします」と合図をした。まずはテディーの魔力で徐々に上がっていくアイロンの温度を金属板に手を近づけて確かめる。手とアイロンの間がふわりと温まり適温になった。
「うん。今回はこのぐらいの、低めの温度でお願いしますね」
「はい! 任せてください!」
小さいテディーは仕上げの作業を手伝えるのが嬉しくて、普段にも増して元気な声で返事をする。アイロンが動き出すと魔力を一定に保つために集中していた。
カールは当て布の上から流れるような動きで袖、前身衣、後身衣、襟、と順にアイロンをかけていく。時折シャツに含まれている水分がしゅわっ、と水蒸気を生み出す。思わず見入ってしまう鮮やかな手さばきで、アイロンは踊るように滑っていった。
しばらくの間、誰も口を開かず作業が終わるのを見守った。
そうして襞の一本一本までぴしっと揃い、シワ一つないシャツが仕上がったのである。
「これで終わり! もういいよ、テディー。ありがとう」
カールがそう言ってアイロンを置くと、テディーもふう、と一息ついて紐を離した。
折角だからとドロシーがトルソーを持ち込みそれに衣裳を着せてみた。汚れとシワが落ち、ツヤを新たにした衣服が黒く輝く。特に真っ直ぐに揃ったシャツの襞と、洗うことではっきりと浮かび上がった刺繍の部分が美しかった。
その仕上がり具合にカールも満足する。
テディーたちはしばらく衣裳をいろんな角度から眺めて楽しみ、その間にカールは洗濯の後片付けをした。前から見たり横から見たりすると、それぞれに発見があるらしい。あれやこれやと聞こえてくる感想が嬉しくて、カールは始終笑みを浮かべていた。
ところが。
「ねえ、ヴフト様のお服、きれいになったけど《きらきら》がなくなった?」
「そういえば、《きらきら》してないね」
「あの《きらきら》は汚れだったのかな?」
一通り衣裳を見回したテディーたちから予想外の言葉が聞こえてきた。ぴかぴかに仕上がったはずのそれを見て、きらきらがないと言う。聞き逃せない言葉にカールの手がぴたりと止まった。
「《きらきら》って何のこと?」
トルソーの前で頭を捻るテディーたちにカールがすぐさま問いかける。
「あ、カールさん。あのね、ヴフト様のお服は、《きらきら》ってしてたんです」
「ヴフト様が着ると、とっても《きらきら》するんです」
「でもお服だけでも少し《きらきら》してたんです」
「それが見えなくなりました」
「うん」
テディーたちは代わる代わる話した。きらきらの正体が何なのか、彼らもはっきりとは知らないようだ。でもそれは洗う前には確かについていて、洗い終わった今、まったく見えなくなったらしい。何か布に施された特別な加工を落としてしまったのかとカールは心配になった。洗う前に生地はよく確認したつもりだったが、彼らの言うきらきらがあることには気付かなかった。本当にきらきらしていたのかカールには分からなかったが、テディーたちが嘘をついているとは思えない。
カールはまだ部屋に残っていたドロシーに助けを求めた。
「ドロシーさんっ。この服、何かきらきらする加工があったんですか?」
「きらきら? その衣裳、仕立てたばかりと同じぐらいきれいになって、どこも悪いところはないと思うけど。何の事かしら?」
「でもヴフト様のお服、いつも《きらきら》してました」
「してた」
「《きらきら》だった!」
謎のきらきらにドロシーも首を傾げたが、テディーたちは引き下がらない。それは確かだったと主張した。正体不明のきらきらにカールは頭を悩ませる。
「なあ、《きらきら》って、陛下の衣裳やのうてマントの方やないか?」
そこへ少し離れたところで会話を聞いていたシュピッツが意見を持って近づいてきた。どうやらこの衣裳ではなく、一緒に身につけるマントの方に覚えがあると言う。
「マントって、薄紫色のやつですか?」
「おう。あんさんが最初に洗うて陛下に気に入られたやつや」
「あのマントを洗ったときも、特にきらきらした感じはしませんでしたが……」
シュピッツに言われて数日前の染み抜きを思い出すが、やはりカールには心当たりがなかった。あのときも何か特別な感じを受けた覚えはなく、ただの上等で美しいマントだったはずだ。
しかし隣で聞いていたドロシーの方が何かに気付いたらしく、突然「あっ」と声を上げた。
「そうか、分かった! 双子だわ! テディーが見た《きらきら》の正体は双子の粉よ!シェル族の出す魔力の粉が付着して《きらきら》していたんだわ!」
「魔力の粉?」
合点のいったドロシーとは反対に、カールはまた頭を傾けた。
第七節 了
2017/8/26 校正版