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洗濯屋と魔王様 第一章  作者: ろんじん
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第六節*洗濯屋とスーツ

「お師匠様が餞別に縫ってくれたスーツなんだけど、この前お茶がかかっちゃって……。すぐに拭いたし目立たなかったし、大丈夫だと思っていたらシミになってたの! 私、スーツのお手入れは出来るけど付いたシミの取り方は分からなくて。ね、あなたならこのスーツのシミを取れるんでしょうっ? お願い! ヴフト様のマントみたいに、私のスーツもきれいにして! お願いしますっ!」

 額が膝につくほど頭を下げてドロシーは嘆願した。固い握手の後、とりあえず話を聞くと言ったカールの前に一着のジャケットが広げられた。揃いのスラックスとウエストコートがあるスーツの一部だ。青みがかった黒が美しいそれには、彼女の言う通り左胸のあたりに白いシミが浮き出ていた。シミ自体はとても薄いが縁の部分が一際浮き出て輪になっている。それが遠目に見ても気になった。

 カールはそっとドロシーに顔を上げさせ、彼女の不安を取り払うように優しく言った。

「かかったのはお茶なんですね? これはウール地のようですが、何か特殊な加工がされていますか?」

「紅茶よ。飲んでいた紅茶がかかったの……。生地はとても上等だけど、王国製だからあなたが知っているウール地と何ら変わりはないわ。特殊なことは何もしていないけれど、お師匠様が私のために縫ってくれた、世界に一着だけの大切なスーツなの……」

 入ってきたとは全く違う、弱々しい小さな声でドロシーは答えた。カールに縋りつく手が僅かに震えている。落ちなかったらどうしよう、という不安が顔に張り付いていた。潤んだ瞳がカールを見上げ、側にいたテディーたちも心配そうに見つめた。

 だが、それらをさっと洗い流すようにカールが微笑んだ。

「大丈夫ですよ、ドロシーさん。あなたの大切な服、きれいにしましょう」

 ごつごつとした彼の温かな手がドロシーの手をそっと包んだ。




『洗濯屋と魔王様』




 祈るドロシーの隣でカールは早速作業にとりかかった。

 机の上にアイロン台を畳んだまま寝かせ、更に乾いたタオルを敷いてからジャケットを広げる。シミはタオルと接するように下を向かせた。それから部屋の隅に片付けられていた調理器具の中から菜箸を拾い出し、その先端をきれいな布で厚くくるんだ。出来上がったのは打楽器を鳴らすバチのような物でる。不思議そうに頭を捻るテディーたちを余所に、カールは洗濯のときと同じ要領でぬるま湯を作った。そしてそこにバチを浸し粉石けんをつけ、軽く全体を泡立てた。泡の塊になったバチを手に、カールはジャケットの裏側からシミのあたりを軽く叩くようにして洗った。

 トントン、トントン、と単調な音が小さく響く。じゅわじゅわと石けんが布地に染み込み、濡れた部分の色がぐっと濃くなる。けれどもただそれだけで、至って地味な作業風景だった。

 ドロシーは胸の前でぎゅっと手を結び固唾を飲んで見守った。

 少しするとカールはバチの石けんをよく落とし、今度はただ濡らしただけのバチで叩き出した。バチの布巾に泡が吸い込まれ、ジャケットが段々きれいになっていく。完全に泡がなくなったところで、乾いたタオルで水気を取り表側を確認する。カールはそんなちまちまとした作業を何度か繰り返した。

 そうして一頻り叩いた末に、彼はジャケットを見てにこりと笑ったのだ。

「うん。取れましたね」

「え? うそっ! もうっ?」

 カールのさらりとした言葉にドロシーは思わず叫んだ。信じられないとばかりに体をぐっと割り込ませ、作業台のジャケットを覗き込む。濡れて少し色濃くなっているところが問題の部分だったが、確かに白い輪は見当たらない。それでもドロシーは疑いの目でもってジャケットを持ち上げ、いろんな角度から確認した。だが前から見ても、横から見ても、部屋の灯りでよく照らして見ても、もうどこにもシミは残っていなかった。

「ね、これしっかり乾いたらまた浮き出てくるとかじゃないわよね?」

「シミの汚れは下に敷いていたタオルに移ったんですよ。乾かしてみましょうか?」

 ドロシーの疑念にもカールは軽く答え、洗った部分を扇で煽ぎ乾かしてみせた。それをまたドロシーが注意深く覗き込み、シミの存在がきれいさっぱり消えていることを再度確認する。そうしてやっと疑いが晴れ、彼女の表情もパッと明るくなった。

 ジャケットを台の上に置くとドロシーは両手を大きく広げてカールに飛びついた。

「凄いわあなたっ! こんなにすぐシミが落とせるなんて! 他の生地に汚れを移すなんて想像もしなかった! まるで魔法よ! あなた本当に獲物なのっ? 実は魔物で、魔力を隠しているんじゃないでしょうねっ? 時間が巻き戻ったみたいじゃないっ!」

「わっ、ドロシーさん急に飛びつかないで。…ふふふ、喜んでもらえて嬉しいです」

 首に抱きついて大喜びするドロシーにカールは優しく応えた。テディーやシュピッツたちもジャケットを覗き込み、シミが消えたことを不思議そうに確認しあった。

「シミなくなっちゃった」

「すごーい」

「何や石けんで軽く叩いとっただけやのに。あれで落ちるねんなあ」

「トントンしただけ!」

「本当に消えるだなんて! ああ、嬉しい! お師匠様のスーツがきれいに戻ったわ! これでまた着られるわ! シミがあったなんて嘘みたい! 流石、ヴフト様が惚れ込んだ洗濯屋だわ!」

 初めてシミ抜きを目の当たりにした彼らは興奮のままに感想を述べた。特にジャケットの持ち主は嬉しさのあまり部屋中を駆け回った。少し大袈裟だと思ったが、その喜びようにカールも笑顔が増す。使い終わった道具を手早く片付け、ジャケットを持ち帰れるようにハンガーへ掛け直した。


 と、そのとき。ジャケットの内側を見たカールの手が不意に止まった。きれいな形をしたそれだが何か気になる点があるらしい。彼は端々を点検し、揃いのスラックスとウエストコートにも目をやった。そうしてしばらく考えた様子の後、作業台の端に避けてあった小瓶を見て「ああ!」と呟いた。

「ドロシーさん。このスーツのセット、洗濯しませんか?」

「え?」

 カールの提案に踊っていたドロシーの足が止まった。喜んでいた顔が一転、眉毛がぎゅっと寄り上がり明らかに怪訝そうな顔をした。

「待って、待って、待って! スーツは雨に濡れたって型崩れの原因になっちゃうんだから! 洗濯なんかしたらアイロンしたって元に戻らなくなっちゃうじゃない! そんなの駄目よ! あなたがいくら魔法の使えるヒトだからって、それは流石に駄目! 絶対に駄目! 生地がきれいになっても型崩れしたスーツなんて目が当てられないわっ!」

 ドロシーは怒濤の勢いで苦情を飛ばした。それに言葉だけでは足りず、彼女はカールの胸元を指で突きながらもの凄い剣幕で洗濯を否定した。その勢いに思わず提案した本人も二、三歩後ずさったほどだ。

 けれどもカールは小瓶を一つ取り上げ、ドロシーにそれを見せた。

「大丈夫ですよ! ドロシーさん。びしょびしょに濡らしたりしませんよ。スーツが水濡れに弱いのは俺もよく知ってます。でも、洗濯は水と石っけんで洗うだけじゃないんです。これを使えば《拭き洗い》ができるんですよ」

「ふきあらい? あ、ん、も……にあ?」

 ドロシーは見たことのないラベルの小瓶に首をかしげた。

「はい。これを水で薄めたアンモニア水を使って、衣服の汚れを拭き取る方法です。絞ったタオルで拭くだけだから、スーツがびしょ濡れにならず型崩れの心配もありません。拭いた後は風に当てて乾かせば良いだけです。うちの店でもやっている方法で、なかなか評判良いんですよ」

「……最先端のスーツを作るブリター二アでも聞いたことがない洗い方だわ。あなたの国ではこれで洗うのが普通なの? みんなこれで気軽にスーツを洗っているわけ?」

「俺の故郷でも、アンモニア水の使い方を知っているのは洗濯屋ベーアだけです」

 彼女の問いにそう答えるカールは少し誇らしげだった。アンモニアを扱える店はそうないのだ。ドロシーはその言葉を聞いて一層興味深く小瓶を覗いた。

「このスーツとてもよく手入れされていますが、もう仕立ててから何年も経っていませんか? ほら、袖口や襟首のあたりが他と少し色味が違うでしょう? このあたりは汚れが付きやすくて長く着るとどうしてもこうなるんですよ。このアンモニア水で拭き洗いをすると、こういった汚れが落ちてきれいになりますよ?」

「確かに……そのあたりは丁寧にブラッシングしていても、いつか黄ばんでしまう部分だわ。濡らさずに洗えて、きれいになるなんて俄かには信じ難いけれど。シミ抜きの魔法が使えるあなたなら本当にやってしまうのかも。のんびりした感じのクマ男なのに、意外と売り込みが上手いのね」

 ばっさりと言い切るドロシーにカールは「これが商売ですから」と笑ってみせた。その言葉を信じて、彼女はスーツ一式を彼に委ねることにした。

 途中になっていた洗い物を終わらせ、石けんを使わない洗濯が始まった。


「で、そのアンモニアってのを使うことは分かったけど、具体的にどういう洗濯の仕方なわけ? 大切なスーツなんだから、ちゃんと説明してから洗ってよね」

 拭き洗いの準備が整ったところでドロシーが腕を組んでカールに挑んだ。一先ずスーツの洗濯を許したが、水を使わない方法など聞いたことがない。だから洗う前にきちんと行程を知りたかった。思い出のつまった服にもしものことがあってはならない。

 作業台に並べられているは普通のスーツ用ブラシと、タオルと、例のアンモニアの小瓶だった。初めて聞くそれ以外はどれも見慣れた物ばかり。拭いて洗うと言われても、服の汚れがそんな程度で落ちるとは思えなかった。特に首回りや袖口などの端の部分は汚れが溜まりやすい。都度ブラッシングをしてあるスーツでも、長年着ていれば自然と色が変わってくるところだ。

 ドロシーの疑問はテディーたちも同じようで、全員がカールの方を注視した。

「うーん、そんなに見られると何だか緊張しますね。説明……、服につく汚れはだいたい皮脂の汚れなんですけど、このアンモニアにはそれを溶かす力があるんです。だから、これを薄めたアンモニア水で洗濯ができるんですよ」

「そのアンモニアが汚れを溶かすわけ?」

「はい。だから石けんを使わなくても、きれいになるんです」

「そんな簡単にできるの? 生地が傷んだりはしない?」

「大丈夫ですよ。アンモニアは乾くと跡形もなく消える液体ですから、拭いた後は風通しの良いところで干すだけです。擦りすぎるといけませんが、これで生地が傷むことはありません。あ、ヴフトさんのマントについてた血痕を落としたのもこれなんですよ」

「ヴフト様のマントを……じゃあ、一応折り紙つきってわけね」

 アンモニア水の実績を聞いたドロシーは少し安心した顔になった。では早速、とカールはアンモニアの瓶に手を伸ばす。厳重な蓋の金具を外し、小さじ一杯分を隅にあった鍋へ入れ替えた。そのとき、僅かばかり漏れた腐卵臭がカールの鼻腔に届く。しかし彼は慣れたもので眉を潜めながらもすぐに瓶の蓋をした。鍋には一合枡で十回水を加えた。それを箸でよくかき混ぜれば完成である。出来たアンモニア水は顔を近づければ臭いがするものの、ドロシーは思ったより臭くないと感じた。

 だが、しかし。

「アンモニア水はこれで完成。後はスーツをブラッシングしてから拭き洗いを……って、あれ? シュピッツさん? テディー? 何で部屋の隅に?」

 カールが振り返ってみるといつの間にかシュピッツたちが(うずくま)っていた。作業台からは目一杯離れ、皆一様に膝をついて苦しそうである。

「あれ? どうしたのよ、あんた達」

「シュピッツさん、どこか具合でも……」

 心配したカールがアンモニア水を混ぜた箸を手に近づいた。するとその瞬間、シュピッツが背中の針を全部逆立てて威嚇した。

「ばっか! それ、それどうにかせえ! 箸持ったまま近づくなっ!」

「わ、どうして。え、それ?」

「僕しんじゃう……」

「ううう…」

「それ、って。もしかして、これ?」

「そぉ~れぇ~……っ!」

 シュピッツの震える指が示したのはカールが持った箸。そしてその後ろにあるアンモニア水の鍋だった。そうと分かったカールはすぐに鍋へ蓋をし箸を手放す。けれどもその程度では変わらないと、シュピッツはテディーたちを抱えて部屋の外へ脱出した。

廊下から大きな深呼吸の音がして、それから扉越しにぼそぼそと疲れきった声が聞こえてきた。

「カールさん、それ、そのアンモニアってそんな臭いするんかい。無理や。わいらその液体使こうた部屋にはおられへんわ……。臭すぎて頭がおかしいなる」

「アンモニアの匂いは確かに強烈ですけど、そんなにですか? 離れていたのに?」

 予想外の事態にカールは驚いた。近くで嗅げば気が遠のく臭いでも、自分より離れた位置にいたシュピッツたちがダメージを負うとは思っていなかったのだ。具合の悪そうな声に近寄りたくなるが、扉は開けない方が良さそうである。

 どのぐらい強く臭ったのかがカールには分からなかった。魔物だからどうこう、と言うわけではないらしくドロシーは平気な顔をしている。部屋には開けられる窓がなかったのでカールはどうすれば良いのか困ってしまった。

「あ、そうか! あんた達、鼻が良い種族だもんね! 私がうぇ、って思うぐらいだからそりゃあ強烈だわ。やだ、生きてる? 鼻もげてない?」

「えっ?」

 何が悪かったのか分かりかねていたカールは、ドロシーの言葉を聞いて驚きの声を上げた。そう言われてみるとシュピッツは鼠に近い魔物である。

「獲物にもいるでしょう? 嗅覚が敏感な種族。シュピッツさんやテディーたちはその部類なの。私はどちらかと言えば鈍感な方だから平気だったのね」

「ああ、そういう……済みません、シュピッツさん。テディー。俺、気付かなくて」

「シュピッツさんがあんな状態じゃ、部屋の扉も開けない方が良さそうね。お城には他にも嗅覚に優れた種族がいっぱいいるし。ね、テディー。私の部屋に浄化草(じょうかそう)があるから持っておいで。しばらく置いておけば部屋の臭いを食べてくれるわ」

「はぁあい…」

 ドロシーの提案に扉の外でテディーがよたよたと歩き出したのが分かった。外の空気を吸っていくらかマシになったのか、シュピッツの立ち上がる音もした。

「カールさん、それ、部屋の中で使われたらわいら敵わんわ。どうしてもそれ使わなあかんのか?」

「あ、っと……拭き洗いは、アンモニアじゃないと出来ません」

「どーしても洗うんか?」

「洗うわよっ! ヴフト様のマントをきれいにした洗濯方法よっ? 私のスーツだってきれいにしたい! 洗ってもらう!」

「はぁ……、わがまま娘が……」

 ドロシーの言葉に廊下から深いため息が聞こえた。

 カールもシュピッツたちには悪いと思ったが、それでもどちらかと言えばこの洗濯をやりたかった。目の前にある洗濯待ちの衣類を放ってはおけないのだ。

「とりあえず、部屋でそんなんされたら無理や。裏庭使えるか聞いてくるから、大人しいしといてや」

「済みません…」

 原因を作ったのに何もすることができず、カールは小さくなって謝った。大きな背中が丸まって頭が下を向いてしまう。分かりやすく悄気るカールの顔をドロシーが下から覗き込んだ。

「大丈夫よ、カールさん。私だって気付かなかったもの。ね、それより知ってる? 浄化草っていう、暗く湿った森に生える草。泥の中に湧き上がる淀んだ臭気を食べて生きてる草で、鉢植えにして部屋に置いておくと臭い取りの役目をしてくれるのよ」

「浄化草……? 知らないです。森の奥は危険だから立ち入ったことがなくて」

「そっか。魔力なしで森の中は危ないもんね。ちょっと見た目が可愛くないんだけど、なかなか便利なものよ。魔国ではよく売られている植物なの」

「不思議な植物ですね…」

 元気づけようとしてくれるドロシーにカールは少しだけ顔を上げた。

 作業台の横でハンガーにかけられたスーツが洗われるのを待っている。深い森の色は年月で靄がかかっているが、それでも尚美しい。その霞みを払うためにカールはブラシを手に取った。

「じゃあ、待っている間に下準備しちゃいますね」

 そう言う前向きなカールの言葉にドロシーは大きく頷いた。


 ジャケット、ウエストコート、スラックスのそれぞれを最初にブラシで整える。下から上に繊維を逆立て、浮き出た埃を上から下へと払い落とす。ドロシーも自前の道具でもって、カールと二人で手分けをして丁寧にブラッシングした。表面は無地のようでいて僅かに縦縞が見てとれる。それが光の加減できらきらと色めいて美しかった。

「私のお師匠様はね、ブリターニアの街で一番の仕立屋なのよ。私がまだいろんな服を研究して回っていたころ、ヒトの服も知りたくて訪れたの。そこでお師匠様のスーツを見て一目惚れしたんだ。衝撃だったなあ。最初見たときは窮屈そう、って思ったんだけど、試しに着てみたら全然そんなことなかったの! 体に合わせて作られたラインが驚くほど動きやすくて、立っても座っていても形がきれいに見えるのよ。何度も頼み込んで弟子にしてもらったわ。本当に素晴らしい方だった……。私の出国期間が終わっちゃったから別れたんだけど、今でもブリターニアでお店をやっているはずよ」

「ドロシーさん、心から尊敬しているんですね。お師匠様のこと」

「ふふふ、当然よ! あそこで学ばなかったらヴフト様の衣裳も縫えなかったわ!」

 スーツに手を入れつつドロシーは昔話を口にした。魔国の裁縫師として各地を旅していたのはもう数十年も前のことらしい。見た目はカールと同い年か少し下のように思えたが、彼女は半世紀前のヒトの蜂起を知っていると言う。優に八十年近くは生きていた。

 そうしてしばらくブラッシングをしていると、例の植木鉢を持ったテディーたちが帰ってきた。扉越しにさっと受け渡してもらいそれを作業台の上に置く。浄化草は苔の上にひょろりと生えた、蓋付きの水差しみたいな植物だった。

「なんかこういう……、袋みたいな植物で、虫を食べるやつなら見たことがあります」

「虫っ? 浄化草は水と臭気があれば育つからそんな物は食べないわよ」

 枝分かれした細い柄に付いた実が、ゆるゆるとその蓋を開けて静かに収縮し始める。どうやら肺が呼吸をするのと同じ要領であたりの臭気を吸っているようだ。見た目は確かに奇妙だが、じっと見ていると愛着が持てそうな植物だった。


 それからまた時間が経ち、スーツの下準備が終わったころにやっとシュピッツが戻ってきた。扉の向こうから浄化草の働き具合を確認し、恐る恐る戸を開ける。その口元は大きなマスクで覆われていた。

「……いくらかマシになったな。緑のマスクしてるからほとんど分からへんわ。カールさん、城の一番奥の裏庭使こうて良いって言われたから拭き作業は外や。その奥の、荷物で埋もれとる扉から外へ出られるから。ちょっと手伝い」

「はいっ」

 まだ些か背中の針がとげとげしているシュピッツに言われ、カールはすぐに取りかかる。マスクで半分表情が隠れているせいか声が怒っているように感じた。がちゃがちゃと物を避けながら、カールは申し訳なさそうにもう一度謝った。

「あの、本当に……済みませんでした。鼻、大丈夫ですか?」

「ん? あー、ええよ別に。酢酸のときも少しきつかったけど、まさかあんなえらい臭いやとは思わんかったわ。めっちゃ臭いな、あれ。しかも肉が腐った臭いがする。戦争で嗅ぐ臭いやで」

 ぐっ、と眉をしかめたシュピッツにカールは何も言えなかった。


 外への扉が使えるようになり、早速開けてみるとそこから下に向かって外階段が伸びていた。城の壁に沿ってくねくねと三階分。カールたちがいるのは四階だった。

 渓谷の中に創られた国は当たり前のように空がない。部屋の外はぼんやりとした、薄暗い夕方のような明るさだった。カールが歩くのに不自由はなかったが、ふと見上げた屋根の上は真っ暗だった。

 ドロシーが自分でスーツを持ち、カールが他の作業道具を持つ。シュピッツを先頭に一行は階段を下り城の壁と壁の間をすり抜けて、最深部の裏庭まで歩いて行った。

 裏庭は、庭と言うよりただのぽっかりと開いた空き地で、灰色の砂利が多い更地にぽつぽつと草が生えていた。その真ん中には古い物干し台が三組立っている。それぞれに違う色をした棒が竿として掛かっていた。

 またこの庭は城の一番奥であると同時に、ドゥンケルタールがある渓谷の一番奥でもあった。裏庭の先には洞窟に繋がる一本の道があり、真っ暗な穴から時折びょおうっと風の音が聞こえてくる。そのお陰か、あたりにはいくらか空気の流れができていた。

 ここに干しておけばスーツの乾きも早そうである。

「じゃあ、拭き洗いを始めるのでシュピッツさんたちは……」

「おう、離れとくわ!」

「見守ってます!」

 カールが鍋の蓋を開ける前に後ろを振り向くと、シュピッツたちは既に城壁の裏側へ退避していた。その素早さに改めてアンモニアが強烈だったことを感じカールは思わず苦笑する。臭いが平気なドロシーは近くで作業を見ることにした。

 カールは持ってきた布巾をアンモニア水に浸けてしぼり、汚れの強い部分を叩く作業から始めた。優しく小まめに押さえながら、少しずつ場所を移動させていく。

 不思議な動きにドロシーはすぐに口を開きかけたが、カールの真剣な表情を見てぐっと閉じた。そして地味なその作業をただ黙って見届けることにした。


     ***


 十分少々かかっただろうか、襟元を拭き終えたカールは一息つきついてタオルをもう一度アンモニア水に浸した。軽く揉んでから絞り、今度は袖口の方に取りかかる。カールがしゃがんでいる間にちらりと様子を窺ったドロシーは、ジャケットの黄ばんだ色が確かに抜けていることに気が付いた。

「わっ! 本当に叩くだけで汚れが落とせるのね! 生地から古びた色が落ちている。仕立てた頃に戻ったみたいよ! 本当にスーツが洗えるなんて思わなかった……」

 不思議な薬品と、それを使ったカールの洗濯技術にドロシーはただただ感動した。水洗いをすれば石けんで落とせる汚れでも、物がスーツだとそうはいかない。汚さないように注意をしていても、着ていればいつの間にか汚れてしまう。仕方がないと半ば諦めていた問題に解決策が生まれドロシーの顔は輝いていた。

「着る頻度にもよりますが、年に一度とか、数年に一度ぐらいはこうして拭き洗いをすると長くきれいに着られますよ。アンモニアが手に入れば、誰にでも出来ます」

「あら、そんなこと言ったら商売上がったりじゃない? 誰にでも出来るならあなたに頼む必要がなくなるわ」

「手に入れば、の話ですよ。アンモニアは使い方を間違えると毒になる薬品ですから、街の市場では買えないんです。それに貴重で高価なんです」

「なんだ、そういうことなのね。残念だわ。自分で洗えたら素敵だったのに」

 拭き洗いの手軽さに一瞬湧いたドロシーだったが、続きを聞いて口を尖らせた。カールに場所を譲りまた大人しく仕上がりを待つ。しかし一度見てしまった作業は退屈で、彼女は無意識に靴底で地面を蹴っていた。

 汚れの落ち具合を確認しながら、それとなくカールがドロシーに聞いた。

「布巾、そこに余ってますからドロシーさんもやってみますか? スーツの拭き洗い、少しずつしかできないから一人でやると結構時間がかかるんですよ。今ならアンモニア水もたっぷりありますし、一緒にやりませんか?」

「やるっ! やるわ! 私やりたい! 実はじっとしてるのって苦手なの! 優しく、押さえながら叩けばいいのよね? それなら私にだって出来るわ!」

「押さえるのは汚れが多い部分だけで、それ以外のところは優しく拭くだけで大丈夫ですよ。ジャケットはこのまま俺がやりますから、ズボンをお願いします」

「分かったわ、任せて!」

 ドロシーは嬉しそうにぱちんっ、と手のひらを合わせた。そうしてすぐに布巾を絞り、拭き洗いに取りかかる。カールのやり方を真似ながら少しずつ少しずつ拭いていく。顔を近づけたり、離したりしながら、拭いたところの色具合も確認していた。

 初めは白かった布巾が段々薄汚れてくると確かに汚れが落ちているのだと実感して、ドロシーは何だか楽しくなった。

 腰周りの生地が厚くなった部分や、股下で拭きにくい部分に苦戦しながらも、彼女は丁寧にズボンを洗い上げた。本領発揮のカールは、その間にジャケットとウエストコートの二着をしっかりと洗い終えた。もともと深緑色のきれいなスーツだったが、その中にきらきらとした糸の輝きが蘇ったようだった。

 最後にカールが一通り目を通し、やり残しがないかを確認する。後は風が乾かしてくれるのを待つだけだった。

「どうですか? 洗濯屋ベーアの拭き洗いは」

「大っ満足よっ! スーツを傷めずに汚れがこんなに落とせるだなんて! 夢みたい! 私、ベーアのファンになるわ。あなたがお店を構えてくれたら、きっと行く。こんな素敵な技術、他に持ってる人なんていないもの!」

「ふふふ、ありがとうございます」

 ドロシーの満面の笑みにつられてカールも嬉しそうに笑った。道具を片付けて城壁の際から覗いていたシュピッツたちに目をやる。手を振ると察しがついたようで、数歩カールたちの方へ近づいてきた。

「お疲れさん。ほんまに拭いとるだけやったな。あれで洗濯できたんか?」

「そうよ! 白かった布巾がこんなに汚れたんだから! スーツも凄いきれいになったの! びっくりよ! アンモニア水ってもの凄いんだから!」

 シュピッツの言葉にドロシーが興奮気味に成果を伝えた。

「俺、先に道具を片付けるんで、スーツが乾くまで見ていてもらえませんか? そんなに時間はかからないと思います」

「はーい。僕たち見てますよ!」

「匂いが消えたかもチェックしますね!」

「任せてください!」

 出番のなかったテディーたちがここぞとばかりに張り切って見張りについた。


 中身の減った鍋と使い終わった布巾を持ち、カールとドロシーが来た道を戻っていく。城の壁と渓谷の壁の間には細い洞窟の入り口がいくつもあった。たまにその隙間を通って生ぬるい風が吹いてくる。ヒト一人がやっと通れるぐらいの小さな穴だった。

「空がないのによく風があると思ったら、ああいう穴が開いているんですね」

 カールの何気ない言葉にドロシーが足を止めて答える。

「そうよ。ここは渓谷の中なんだけど、一番奥はさっき見た大穴に繋がっているし、ところどころに小さい横穴もあるの。国の外れまで行くと渓谷の中だけど天井がなくなって太陽の光が入るわ。ドゥンケルタールは闇属性の魔物ばかりだから、陽の光が入る僻地には居住区がなくて麦畑が広がってるのよ」

「麦畑かあ。あの穴を通れば外、すぐに行けるんですか? 太陽の下で洗濯物を干したいな」

 ドロシーの話を聞いてカールは故郷の麦畑と青空を思い描いた。

 けれどもそんな彼の願いにドロシーは強く反対した。

「だめよ! 横穴はどれも迷路みたいになっていて、入ると出られなくなっちゃうわ!魔物だって迷うと大変なんだから。絶対に入っちゃだめよ?」

「ううん……」

 外へ通じる横穴にカールは魅力を感じたが、彼女の忠告に残念そうな顔をした。外が恋しくても真っ暗な洞窟の中で迷うのは恐ろしい。洗濯物はやはり青空の下で乾かしたかったが、それは当分無理なようだった。

 外の空に惹かれつつカールはまた歩き出した。

 二人が部屋の片付けを終えた頃には時計の短針が真下よりもやや左に寄っていた。吸える臭気がなくなったらしく、浄化草も蓋を閉じて大人しくなった。

 それからすぐにシュピッツたちが戻り、きれいに仕上がったスーツ一式が持ち主に手渡される。深い森の色が部屋の灯りできらきらと輝いた。ドロシーは嬉しさを噛みしめるように唇をぎゅっと結んだ。

「カールさん、本当にありがとう。洗濯屋って凄いのね。私、ベーアのファンだから何か困ったことがあれば相談してね! きっと力になるわっ!」

 そう言って差し出された華奢な手をカールは優しく握りかえした。

 大きな二本の三つ編みを嬉しそうに揺らしながら、ドロシーは部屋を後にした。




第六節 了

2017/8/26 校正版

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