第三節*洗濯屋と衣裳部屋
ヴフトが彫刻の瞳に語りかけ、扉に掛かる大きな錠前を慎重に外した。重たい二枚の扉が内側へ押し込まれギギギと軋むような音を立てながら開く。その様子をヴフトの脇から窺がっていたカールはちらりと見えた中の様子に「わっ」と声を上げた。
眩しいほどの明るい室内。果てが知れないほどの奥行。そこに様々な衣裳がずらりと並ぶ。床と天井との間には棚とその上にハンガーをかけるレーンが二段浮かんでいた。部屋の中には王冠や杖のような装飾品もいくつか見える。そして床は扉からおよそ五歩の範囲に朱色の半円が描かれており、そこから先は一面白の白い大理石だった。
ヴフトはその半円の中に立ち振り返ってカールを手招いた。カールは素直にその手を取るとそっと部屋に足を踏み入れた。純白の部屋に浮かぶ膨大な量の衣裳に思わず感嘆の息が漏れる。
が、しかし、カールが何か感想を述べるよりも先にその足元はぐにゃりと沈んだ。驚いた彼は咄嗟にヴフトの腕にしがみつく。けれども床はどんどん沈んでカールを飲み込んでいった。それを見たヴフトも流石にまずいと思い、すぐさまカールの上半身を部屋の外に投げ出した。
「わっ、何ですかこれ!」
「フリーレン! シュピッツ! 引き揚げろ!」
扉の外にいた二人は倒れこんできたカールの上半身を捕まえ、ありったけの力で引っ張った。だが床はねっとりと絡みつきなかなか思うように抜け出せない。動けば動くほど沈んでいくような気がしてカールも必死になった。
不思議なことに、床が泥沼のようになり慌てているのはカールだけでヴフトの足元は硬い状態のままだった。液状化はカールを中心に起こり、その他の部分には変化が見られない。最後まではまっていた彼の足をヴフトがまとめて廊下へ放り出した。
カールがいなくなった途端、床はすっと形を整え何事もなかったかのように固まった。フリーレンとシュピッツに引き揚げられたカールは、廊下の上で飛び出しそうな心臓を押さえながら息を切らしている。シュピッツも初めて見る衣裳部屋の姿に驚いて言葉がなかった。
何か説明はないのかとカールがヴフトに視線を向けると、彼は困ったように溜息をついて、それから悠々と廊下に出てきた。
「シュランク、洗濯屋を入れてくれと言ったじゃないか。彼に中の物を洗ってもらうのだから」
「…………」
ヴフトが石の瞳を見上げても、それは動かないままだった。
『洗濯屋と魔王様』
驚きで腰の抜けたカールを抱え、全員がもといた応接室に戻っていた。長椅子に寝かされたカールはまだ少し青い顔をしている。テディーたちがしきりに心配し、冷たく絞ったタオルを頭に乗せてくれていた。フリーレンたちは何も言わず、ヴフトもソファーに座りながら悩ましげに唸り声を上げていた。
「やっぱり駄目だったか」
「やっぱり、って何ですかヴフトさん! 俺、今日一日で驚きすぎて寿命が縮まった気がするんですけど!」
「私が紹介すれば大丈夫だと思ったんだが」
「ああなること分かっていたんですか?」
「床が沈むとは知らなかったが、あの部屋は主以外を中に入れない造りでな」
「ヴフトさんっ!」
悪気なく種明かしをしたヴフトにカールは思わず起き上がって抗議した。シュピッツもメアリーも苦い顔をし、表情の見えないフリーレンもどうやら呆れているようだった。カールはヴフトに不信の目を向け、テディーたちを抱えて味方にした。
「詳しく話してくれないと、俺、ヴフトさんの服洗いませんからね」
「洗いませんからね!」
カールの言葉にテディーも加勢し、そうだそうだと声を上げる。ヴフトは形の良い眉をぎゅっと寄せ上げ、不満を露わにした。翡翠の双眼に睨まれてカールは思わず怖気づいたが、先ほどの事に比べればと睨み返して応戦する。それを見たヴフトはため息をついて視線を逸らした。
二人とも口を開かず会話にならないので、メアリーが気を利かせて全員にお茶を用意してくれた。白いティーカップに緑色のハーブティーが映える。ミントの香りが逆立った気持ちを和らげてくれた。一口飲むと口の中に爽やかな香りが広がり、少しばかり頭もすっきりした。それでカールは随分と心が落ち着いたが、ヴフトの方は相変わらず眉間に皺を寄せていた。
お茶で喉を潤したフリーレンが、代わりに話しましょう、と彼が知る限りの事情を説明してくれた。
「ドゥンケルタールの衣裳部屋はこの城ができて以来、ずっと王の衣裳を守ってきた生きる部屋です。詳しいことは王へのみ引き継がれていて、私もあまり知りません。ただ、あの部屋は主にのみ従い、それ以外の侵入を防ぐと聞きます。主の心を読み、部屋に立つだけで仕舞われている衣裳の中から必要な物を選び出す、不思議な部屋とも。今までにも何度かあの部屋を開きましたが、中に入ったのは陛下だけです」
「そんな恐ろしい部屋だったんですか」
フリーレンの説明にカールは先ほど自分の身に起こったことを思い出した。ぬかるんだ床は泥のようで、力を入れれば入れるほど沈み、引き揚げてもらわなければ助からなかった。底なし沼にでもはまったかのような感覚だった。カールは自分の足元に目をやり、今そこにちゃんと両足があることに安堵した。
しかしヴフトが洗いたい物を仕舞ってある部屋があれでは、カールが自由に洗濯をすることはできない。それに主が立っても必要な分しか出してもらえないということは、洗濯用にたくさんを出し入れすることができるかも不明だった。扉の前に立って見ただけでも服は百着以上あり、帽子や靴も数え切れないほどあるようだった。毎日せっせと洗濯に励んだとしても、すべてを洗い終わるのにひと月以上はかかるだろう。
カールは小さなテディーを何体か抱えたまま言葉を促すようにヴフトを見た。その何とも言いようのないじりじりとした視線が魔王の固い口をこじ開けた。
「……すまなかった。悪かったと思っているから、テディーを味方につけて睨むな」
「ちゃんと話してくれないと俺、洗濯できませんよ。黙ってないで話してください」
「…彼は馬鹿真面目なんだ」
カールの言葉に観念したようにヴフトはそう漏らした。謎の多い衣裳部屋の話に全員が耳を傾けた。
「爺が言ったとおり、ドゥンケルタールの衣裳部屋はこの城に住む生きる部屋だ。名前はシュランク。初代魔王が契約を結び、それからずっとこの国に仕え衣服を守る勤めを果たしている。石でできた扉を含め衣裳部屋全体が彼であり、部屋の中は彼の中でもある。お前たちが見た大量の衣服は彼の生み出す幻影で、実際は先代の分も合わせて数十着ぐらいのはずだ。だが彼は自分の中を歩き回られることを嫌うから、衣服の受け渡しは入り口の半円内でのみ。私もその先には足を踏み入れたことがないし、彼の本当の内側を見たのは先代からの引継ぎのときだけだ。この国指折りの忠臣なんだが少々度が過ぎてな。融通が利かないのだよ。私にも必要な物以外は出してくれないから、仕舞いっぱなしになっている衣服が多い」
ヴフトはそう言って気持ちを落ち着けるように長い髪を手櫛で梳かした。どうやら彼は、その仕舞いっぱなしの衣裳を洗濯してもらいたかったようだ。けれども肝心のカールが中には入る名案はそう易々と浮かばなかった。ヴフトが喋ったのを最後に会話は途切れ、お茶を飲み終えたところでその場は一先ず解散となった。
***
応接室でばらばらになった後、カールはシュピッツに案内されて寝泊まり用の仮部屋に移動した。廊下を何度か曲がった先の可愛らしい扉の部屋だった。
「シュピッツさんは、もともとお城に住んでいるわけではないのですね」
「そやで。城下に家があって、ガキ共と一緒に住んどるんや。城仕えでも、城内に部屋をもらえるなんて滅多にないんやから、カールさんはすごいんやで?」
「俺もまさか魔国のお城に連れてこられるとは思いませんでしたよ……」
室内は橙色の灯りで照らされていて、暖かみのある落ち着いた雰囲気をしていた。部屋の真ん中に丸テーブルと椅子が二脚。壁際には飲み水用の蛇口があり、その横にポットが乗せられた小さな竈がある。小さい棚を見ると湯飲み道具とクッキーのような物が入っていたのでお茶だけは好きに飲めるらしい。寝室はその部屋から続いたところに二つあり、ふわふわのベッドとちんまりしたタンスが置かれていた。
カールは質素だがよく掃除された室内をあちこち見て回った。ヒトの家と大して変わらないが、ところどころに彫り込まれている模様が魔国独特で珍しかった。テーブルのある居間を堪能した後、寝室に入ってから思い出したように彼は「あっ」と呟いた。
空っぽのタンスは木の良い香りがした。
「シュピッツさん、どうしましょう! 俺、攫われてきたから着る物これしかないんです。魔国にも俺が着られる服ってありますか?」
隣の寝室で荷物の入れ替えをしていたシュピッツは、彼の言葉を聞いて「んん?」と眉を寄せ上げた後で大きく吹き出して笑った。
「ぶはっ! カールさん、あんさん本当に陛下に攫われてきたんですな! いやあ、何かの方便だと思っていたんですが、まさかまさか。カールさん、わいが言うのも何ですが、そんなホイホイ魔物についてったらあかんですよ」
「それはヴフトさんが魔法を使ったから! 俺だって魔物だと分かってついてきたわけじゃ……」
「でも陛下の洗濯係、しなさるんでしょう?」
「それはそう、ですけど…」
シュピッツの指摘にカールは上手く言い返せなかった。最初はヴフトの正体を知らずにマントを洗ったが、洗濯屋の仕事を請け負ったのは魔物だと知ってからだ。自分でもどうかしているとは思ったものの、ヴフトほど洗濯を喜んでくれた客は初めてだった。小さい頃から父と一緒に洗濯一筋できたせいなのか、カールは洗濯自体と、それを喜んでくれる客の笑顔がとても好きだった。よく店のカウンターを手伝っていたのはその顔をたくさん見られる場所だったからだ。
カールが困ったような顔でしどろもどろしていると、その様子が息子に似ていると言ってシュピッツは笑った。とりあえずの着替えとして彼はカールに寝間着と翌日分の服を借した。それは背中がばっくりと空いていて前掛けのような服だった。
「あんさん本当に何も知らんみたいやから、少しうちの国の説明したるな」
その後ろ身頃のない服を珍しそうに見るカールにシュピッツはそう呼びかけた。二人は竈で少しだけ白湯を作り、それを片手に居間のテーブルに着いた。鋲と二本の枝がくっついた小さい時計が音もなく壁にかかっていた。
ヴフトの治めるドゥンケルタール国は深い渓谷の中にある闇属性魔族の国だった。魔物には日光を好む光属性魔族と、日光を嫌う闇属性魔族がいる。この国の住民は光を好まない闇属性がほとんどだ。だから国の大半は渓谷の底で日中も陽が当たらない、ひんやりとした地域である。陽が差す端の地域にはあまり魔物が住んでいない。
また住民の多くは戦闘を好まない種族で、十数世紀前に初代魔王アッシュがこの地を切り開いて以来、争いを避けながら栄えてきた。
だが外からの脅威はいつの時代にも存在し、それを防いできたのが歴代の魔王たちだった。魔王は《世紀》という、ヒト族にとっては途方もない長期の単位で交代され、ヴフトで六代目になる。
初代魔王アッシュは二メートルを超える巨大な女戦士で、戦乱の時代に傷ついた魔物や戦を逃れてきた魔物たちを集め国を建てた。空蛟という巨大な鱗のない竜に乗って戦い、その圧倒的な強さに他国はドゥンケルタールの攻略を諦めた。それから世界的な戦乱の世が終わりアッシュは地上を去った。その王位を森の精霊タピオが継ぎ、更に《幸福をもたらす者》と呼ばれるポイニクス族のフマが努め、四代目のマーナガラードが魔王になったときにはかなり大きな国となっていた。
マーナガラードはフェンリラ族という月と夜とを支配する人狼姿の一族だった。巨大かつ強力な魔法を扱うその魔力は歴代随一とされ、女と見くびって攻めくる外敵を容易くはね除けた。そんな幾度かの国防戦の中で、マーナガラードは一人の死にかけた男を拾い自分の護衛とした。それが後の五代目魔王ゴーチェスである。
なぜマーナガラードが敵国の兵を助けたのかは語られていないが、瀕死のところを救われたゴーチェスはドゥンケルタールを新たな祖国とし役目を立派に果たした。そのうちに同じ護衛兵たちの間で人気となり、彼を慕う者の数は増えていった。マーナガラードから王位を継いだときには、少々喧嘩っぱやい性格が災いをもたらさないようにと、彼女が魔皇として後ろについた。そのおかげか、無用な戦乱は起こらず貿易が発達して国力はさらに増していった。現在、ドゥンケルタールの主な輸出は工業製品である。
それから更に時代は下り、数世紀前にゴーチェスが海へと旅立ちヴフトが六代目魔王となった。最初にヴフトが持ってきたマントは、初代からずっと受け継がれてきた王の証だったのだ。
「魔物に攫われたっちゅうのは災難やったと思うけど、それが陛下で良かったと思うで。魔物の世界も昔よりは穏やかになってきたけど、まだまだ獲物をオモチャにしよる奴らはぎょうさんおるからな。うちの国は血生臭い奴らはほとんどいないし、ちょいちょいヒトの国に行ってる奴も多いから、国の奴らにカールさんを紹介してもそんな抵抗ないと思うで」
「えっ、そんなにたくさんの魔物が王国に出入りしているんですか?」
「科学の力をつけてからのヒトの発展はすごいからな。その技術とかを覗きに、よう化けて入っとる。わいら魔物が一番最初に覚える魔法は《変化》やねん。わいも昔、何ヶ月かヒトの国におったんやで」
「化けてるからみんな気付かないんですね……。知らなかった」
カールは自分の知らない世界の話に驚くばかりだった。同じ地上に住んでいるのに、魔物の国がどうなっているかなど考えたこともなかった。教会では【魔物は天敵で、獲物は科学の力を手に入れられたから、その支配下から脱することができた】としか教えられてこなかったのだ。
しかも魔物もヒトと同じように国や村をつくりそこに暮らしている。聞いてみれば統治の方法も差ほど変わらず、ただ種族が違うだけのように思えた。シュピッツの話を聞いて、カールは一気に自分の世界が広がったような気がして嬉しくなった。
「魔物も獲物も、同種が集まり助け合って生きているのに変わりはないんですね。そういえば、俺の従兄が魔物にもいい奴がいるって言ってました」
「従兄?」
「はい。従兄は勇者として、禽獣から田畑を守ったり、盗賊から街を守ったりして世界中を旅してるんです」
そう言いながら、カールは数年前に会ったきりの従兄の顔を少し思い浮かべた。
「ふうん。まっ、一口に魔物言うてもいろいろやからな。しばらくは城内で大人しくしてえや。わい、一応あんさんの護衛やからな? 勝手にいなくなったらあかんで?」
「はい。よろしくお願いします」
シュピッツの言葉にカールはにっこりと笑って応えた。時計の短い枝が、話し始めたころより二つ隣の鋲まで進んでいた。
***
それぞれが寝室に入ってからどれぐらい経っただろうか。カールは家の物より上等なベッドマットと、少しごわついた掛布の間にいた。眠気が残る目を開けると、灯りのない室内がぼんやりと見えた。
『寝かけに白湯を飲んだせいかな……』
カールはなかなか眠れず、ベッドの上で寝返りを打った。ころころと動くうちに目が冴えてきて、厠へ行きたくなった。そうなるともう大人しくベッドに潜ってはいられない。そっと床に足をつけ、スリッパをひっかけて部屋の外に出た。寝る前にシュピッツと話していた居間も当然真っ暗で、薄暗い中を半ば手探りで歩いて行く。廊下に出ると、頭上にはまだ点々とランプが灯されたままでいくらか明るかった。
『厠の位置、聞いておけば良かったな』
右を向いても左を向いても見えるのは長い廊下ばかりだった。カールはとりあえず右手の方へ歩いて行くことにし、それらしき場所がないかを探した。下手に扉を開けて知らない住人と鉢合わせをするのは恐かったので、立派な扉には触らないようにした。しかしぽつぽつと現れる扉はどれも美しい造りで立派に見える。カールにはいったいどれが厠の入り口なのか検討もつかなかった。
そのうちに何回か角を曲がって、元いた部屋からだいぶ離れてしまった。
『戻ってシュピッツさんに聞いた方がいいかな……』
あまりの広さに自力で見つけることを諦め、カールは来た道を戻ろうとした。
と、そのとき、誰かの話し声が廊下に響いてきた。カールは引き返す足を止め、その声に耳を澄ませる。聞いたことのある声だった。皆が寝ている時間に誰だろうか? カールはそろそろと声のする方へ近づき、曲がり角から廊下の奥を覗いた。二つか三つおきにしか残っていない灯りのせいで誰がいるのかよく分からない。だがじっと目を凝らしていると、確かに黒い人影が見えた。
廊下の先は行き止まりだろうか、透き通った声がよく響いてくる。誰かと話しているようだが声は一人分しか聞こえなかった。
「シュランク、どうしても彼を中に入れてはくれないのか? お前が優秀な宝の番人で、代々の王しか進入を許さなかったことは知っている。それにお前の中に仕舞われた宝物は決して埃をかぶらず、仕舞ったときの姿を保つ。お前はこの国で一番立派な部屋だ。だがシュランク。お前の中の衣裳は、それぞれの王が使ってそのまま直しているから、どうしても少しずつ傷んでいるのだよ。私が先の戦いで汚してしまったあのマントも、カールが洗ってくれなければ血に塗れたまま仕舞うところだった。お前は仕舞った物を美しく保つことはできるが、汚れた物を美しくすることは専門外だろう? カールを中に入れて、王の衣裳を洗わせてはくれないか? 頼むよシュランク、応えてくれ」
静かな廊下に切々と響いてきたのは真剣なヴフトの声だった。カールは思わず息を潜め、それを漏らさずに聞いた。
『みんなが寝静まってからもう一度来るなんて……。ヴフトさん、よっぽどあの中の物をきれいにしたいんだ』
遠くから響いてくる説得を聞いてカールは自分が請け負った仕事の重さを感じた。普通の衣服や、シーツやカーテンなんかとは全く比べものにならない。思い入れのある衣裳があの部屋の中にあるのだと思った。今までにも初めて縫ったドレスだとか、恋人からもらったハンカチだとか、いろいろと人の大切な物を預かってきた。けれども今聞こえてくるヴフトの声は、その中でも一際切実で、かけがえのない物を洗いたいと言っているように聞こえた。
『衣裳部屋にある服って、どんな生地なのかな? 何も持たずに来ちゃったから、道具を揃えることから始めないと。俺の知ってる洗い方が魔国の布でも使えるのか分からないし。物を見ないと始まらないな……。もし特殊な布だったら、洗う前に同じ生地で実験をしたいけれど…』
カールはヴフトの声を聞いているうちに彼がそこまで大切にする衣裳をどう洗おうかと考え出してしまった。水を使うか、お湯を使うか。力強く洗って良いのか、あまり擦らずに洗うのか。色落ちの心配や、布が縮んでしまう恐れ。あれやこれやと仮定は切りがなく、居ても立ってもいられなくなった。
『明日から早速、この国の布を研究しないと!』
一通り気が済むまで長考し、カールは独りで強く頷いた。もはや廊下を彷徨っていた理由などすっかり忘れ頭の中は洗濯一色である。明日からの日々に備え、カールは足音も憚らず来た道を一直線に帰っていった。
用事を済ませ、角から出てきたヴフトの呼びかけにさえ気付かなかったのである。
「この距離で聞こえないなんて。大丈夫か? あいつ…」
心配になったヴフトはすぐにテディーを呼び、数体ずつ交互にカールの見守りをするよう言いつけた。
***
翌朝はフリーレンが食事を運んできたことにより、そうだと分かった。一日中薄暗い渓谷の中では昼夜が分かりにくかったが、昼間は廊下の灯りが増えるようだった。カールは会ったついでに厠の位置を聞いてみると、廊下に出てすぐ左手にあったらしい。試しに覗けばそこは小さな浴場もついたスペースになっていた。
カールは夜に思ったことをフリーレンに伝え、石けんや魔物が使う生地を集めてもらうことにした。
作業場は厠から更に一つ奥の部屋を使うように言われた。
「俺、もう一度あの衣裳部屋のところに行ってきますね」
朝食を終えた後、カールはふと思い立って部屋を出た。隅で鍛錬をしていたシュピッツは驚き慌ててその後を追いかける。だが追いかけるだけで特に止めはしなかった。カールは身長に見合った歩幅で、夜に通った道を迷わず辿った。道すがら、廊下の影からぽろり、ころりとテディーたちが沸いてきてカールにしがみついた。
「カールさん、危ないですよ! また飲み込まれちゃいますよ!」
「大丈夫だよテディー。部屋の扉は開けないから」
「部屋に入らないのに何しに行くの?」
「挨拶に行くんです」
「あいさつ?」
「昨日、あのお部屋に声をかけたのはヴフトさんだけだったでしょう? 俺もちゃんと彼に挨拶をしないと。ね?」
小さいテディーたちは、カールにとって弟妹のように思えた。
「あいさつしたら、中に入れてくれますか?」
「どうだろう? でも声をかけたら、少しは考えてくれるかもしれないよ」
そうだといいな、と思いながらカールはテディーたちと一緒にもう一度、衣裳部屋の前まできた。その後ろでシュピッツも様子を見守る。カールは昨日ヴフトがやっていたのと同じように、扉の上にある石の瞼を見上げた。そこは今、固く閉じられている。
「おはようございます、シュランクさん。昨日はいきなり中に入ってしまって、すみませんでした。俺、このお城の洗濯係になったカール・ベーアと言います。これからどうぞ、よろしくお願いします」
みしりとも言わない巨石を見上げながら、カールはゆっくりとした口調で挨拶をした。どこで聞いているのかはよく分からなかったので、大きくはっきりとした声で喋った。扉に触れるのはまだ少し恐ろしく、代わりにその外側にある太い石柱を挨拶のつもりでそっと撫でた。
だがやはり石の扉は動かなかった。カールの言葉は独り言で終わった。長居をしても仕方がないとシュピッツに促され、彼は部屋へ戻ることにした。
そう簡単な話ではないと分かっていたが切っ掛けが見えずに落胆する。どうしたものかと自分の手を見つめたカールは、その指先が黒く汚れていることに気が付いた。それは長年積もった埃のようだった。
カールはハッと気付いて石の扉を振り返った。
「……シュピッツさん、テディー。ちょっと思いついたことがあるんですが、手伝ってもらっても良いですか?」
「なんや、洗濯以外に何かするんか?」
「はい。一番最初の仕事が決まったんです!」
シュピッツの問いかけに、カールは黒くなった手のひらを示して答えた。
第三節 了
2017/8/26 校正版