第二節*洗濯屋と魔物の国
金糸で縁取りされた赤い靴がカウンターに立ったのを見た後、カールは目の前が真っ暗になった。闇に包まれる瞬間、僅かにひやりとした手のひらを感じた気がした。だがそれも曖昧なうちに彼の意識は落ちていった。
感覚的にはほんの数秒間、あたりが見えなくなっただけだった。しかし次に視界が開けたとき事態は驚くほど急変していた。
「カール・ベーア、ようこそ我が城へ。お前は今日から私の洗濯屋だ!」
「え?」
彼の目に光が戻ったとき、そこは見慣れた店の中ではなく、暗く輝く玉座の間だった。紫色のカーペットが続く壇上には黒い大きな椅子があり、そこに先ほどまで一客であったはずのヴフトが足を組んで座っていた。質素な服で大人しめの印象だった彼の姿はうって変わり、首に赤いスカーフ、腰にはコルセット。膝下までのロングブーツには茨が巻き付いていた。
「あの、何がなんだか。あなたはヴフトさん……ですよね?」
不安気な表情で問いかけるカールに対して、ヴフトはただにんまりと満足そうな笑みを浮かべていた。
『洗濯屋と魔王様』
品のあるカーペットが中央に道を作り、その先に数段上がって玉座が設えられていた。左右の壁には半円の柱が並びその間に大きな窓がはまっていたが、外は暗闇で何も見えない。ときおりその闇が揺れているようで、そこが中なのか外なのかもよく分からなかった。天井には豪華なシャンデリアが燦然と輝いているのにどこか薄暗い。
そんなほの暗い部屋の中で、壇上の玉座だけがはっきりと、黒く輝いて見えた。カールは何が何だかさっぱり分からなかったが、ただ一つ、ヴフトが魔物であるということは確信していた。そうでなければ、一瞬で場所が変わるような不可思議なことは起きないからである。
女性が攫われた話は聞いたことがあったけれども、まさか男の自分が。カールは噂に聞いた魔物の悪行を思い出しながら背筋に冷たいものを感じていた。このまま食われてしまうのか、或いは奴隷のように使役されるのか。どちらにせよ、ヒトを含めた獲物種族を長い間虐げてきた魔物には良いイメージがなかった。
ヴフトの思惑が読めないまま沈黙が続く。
「いったい何事ですか、陛下。玉座に獲物を持ち込むなど」
それを破る声が不意にカールの背後から響いた。彼が驚いて振り向くと、そこにいたのは硝子のように透き通った品の良い老人だった。顔は長い前髪で覆われ、口元も髭によって隠れている。この老人もまた魔物に違いなかったが、ピンと背筋を張って立つその姿は凛々しく、燕尾服をまとう姿からは気品が溢れていた。
「おう、爺。あのマントがきれいになったのだ! 見ろ、どこにも汚れの痕がない! このヒト族の男、カール。そう、《洗濯屋》が見事に洗い上げたのだ! だからこいつを私の《洗濯屋》にすることにした! どうにかしてカールをここに留まらせたい。知恵を貸してくれ」
「《洗濯屋》? はて、そのような職業は聞いたことがありませんが。確かに王のマントは美しさを取り戻されたようで。しかしヒトを魔国に住まわせるとは、猛獣の檻に生き餌を放り込むようなものですよ」
「だから何とかしてくれと言ってるだろう? 私はこの者の腕が惜しい。この男に私の衣服を洗わせたいのだ」
「考えましょう」
カールを間に挟みながら、しかし彼の意見は一切聞かずにヴフトと老人の会話は成立した。見慣れない豪華な部屋で初めて魔物と対面し、話の見えないカールはおいてけぼりである。殺されるのならせめて一瞬で、と思っていたができればそれも御免であった。
「あ、あのっ、何もせずにこのまま帰してもらえたりは……しませんか?」
比較的話の通じそうな老人の方に、カールは僅かな望みをかけて質問した。だが背の高い老人の答えはカールの思いも寄らないものだった。
「陛下が驚かせてしまい申し訳ありません。私は側近のフリーレン、ここはドゥンケルタール国。お察しの通り、魔物の国、魔国でございます。陛下は貴男の腕を気に入られ、この城で働いていただきたくお連れしたようです。ですから、私たちは貴男に危害を加えたりはいたしませんが、帰っていただくわけにもまいりません」
はきはきとした口調でそう言われ、カールは「はあ」と答えるのがやっとだった。お城で洗濯屋として働く? もしこれが故郷の王室からの申し入れなら、身に余る光栄だった。カールは喜んで出仕しただろう。だがしかし、今目の前にいるのはヒトではなく魔物、しかも自分を攫ってきた魔物である。すぐに諾と答えるわけにはいかなかった。
けれども今の話を聞いてみると、奴隷として使役されるのではなく魔王に仕えろと言っているらしい。獲物と見ればすぐに危害を加えるという噂に聞いた魔物と、目の前の彼らとはどうも違うようだった。ヴフトは強引だったが乱暴なことはしなかったし、フリーレンと名乗った老人もとても優しそうである。獲物の種族にも好戦的な類がいるように、魔物にも温厚で平和的な種族がいるのかもしれない。
とりあえずそういうことにして、カールは彼らの話を少し聞いてみることにした。特に差し迫った危険がないと分かれば、なかなか暢気なものである。彼は洗濯屋としての腕を買われたことが素直に嬉しかった。
「何も心配しなくていいぞ、カール。部屋はいくらでも空いているし、使用人もつける。洗濯に必要なものがあれば遠慮なく言え。お前の衣食住はすべて保証する!」
「陛下、カール殿の心配事はそちらではありませんよ」
「ん? 他に何かあったかな?」
いつの間にか玉座を降りて自分の肩を抱いてきたヴフトにカールは驚いた。だが口を左右に吊り上げて笑うその表情は、店で見たものと同じだった。自分が洗濯屋でヴフトが客であるならば、カールにとって怖いことは何もない。彼は至極単純な考えをしていた。洗濯屋ベーアの職人として、求められればその腕を振るうだけだ。
「洗濯の依頼なら任せてください。洗濯屋ベーアの名にかけて、きれいに洗い上げてみせます」
「そうか、よろしく頼む!」
カールは緊張が解けヴフトの笑顔につられて笑い返した。フリーレンがそれではと、さっそく作業場の確保などに当たってくれた。
「手配に少々時間がかかりますので、どうぞ客間の方でおくつろぎください」
そう勧められて、カールは玉座の間を後にした。
***
ヴフトに連れられて入った部屋は黒と灰色でまとめられた美しい応接室だった。中央に黒煉瓦の暖炉があり、その前に応接用の机と椅子のセットが三組ある。天井にはたくさんのランプが灯っていて先ほどの部屋よりもずっと明るい。壁際の飾り棚に精巧なドラゴンの置物があったり、大きな花瓶に見たことのない大輪の花が生けられていたりしていた。カールにとってはどれも珍しく、彼は室内を見渡すのに忙しかった。
一方で部屋の装飾など見慣れているヴフトは、早々に中央の長椅子でくつろぎ足を放り出して肘掛けに片腕を乗せていた。そこからしばらくはあちらを見、こちらを見、ときょろきょろするカールを眺めた。だがそれも僅かのこと。一向に自分の相手をしないカールに痺れを切らせ、ヴフトは少し体を起こして呼びかけた。
「カール、いつまでも立っていないで座れ。部屋の調度品など後で見れば良い」
「だって俺、お城なんて初めてで。あっ、天井にも模様が入ってる!」
「いいからこっちに来い」
まだ見たりないと言うカールにヴフトは仕方なく右手を招くように動かした。するとカールは右手を引っ張られたような感じがして、ぐいぐいと長椅子の上まで引き寄せられた。わっと尻餅をついたソファーも意匠の凝らされた一品で、そのクッションはほどよい固さでカールを受け止めた。
「ヴフトさん、今のも魔法ですか? あんまり使われると驚くのですが……」
「いつまでも私の相手をしないお前が悪い。置物や花瓶より私の方が美しいだろう?」
「え?」
「お前が私の衣服を洗ってくれれば、私の闇は一層輝く! 期待しているぞ、カール」
「はあ……」
美について熱弁するヴフトにカールはやや引き気味だった。初めて会ったときの客人姿のヴフトが頭に残っていて、まだ彼本来の性格に慣れなかった。ヴフトが美しいことの尊さや、それを求める心について綿々と語るのを聞き流しながら、その手はそっと手触りの良いソファーを撫でていた。
しばらくそうしていると、木で作られた部屋の扉が二度叩かれ「失礼します」という声に続いてワゴンを押す少女が入ってきた。赤い薔薇をそのままヒトにしたような少女は、二人のそばまで静かに歩み寄りカールに向かって丁寧にお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、カール様。私は家政婦を務めております、メアリーと申します。以後どうぞお見知りおきを」
「あっ、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
メアリーの上品な挨拶の仕方にカールも慌てて頭を下げる。やあ、と言ってやあ、と返すような庶民の作法しか知らないカールの動きはどこかぎこちなかった。精一杯姿勢を正して行儀良く椅子に座り直すと、メアリーがにこりと微笑んだ。
「どうぞおくつろぎください。今お茶の用意をいたしますので」
「ははは……、すみません。お城での作法を知らなくて…」
カールは少し気恥ずかしくなって、後ろに長く垂らした髪の毛をくるくると弄って誤魔化した。
机の上には二人分のティーカップが並べられ、そこに薔薇の香りがする灰色のお茶が注がれた。三段になったティースタンドが中央に置かれ皿やフォークが用意される。初めて見るアフタヌーンティーのセットにカールは驚きと感動を覚えた。
「本日の紅茶はエルフの谷から取り寄せました黒薔薇の紅茶です。お食事は下から紅ジャムとパウパウのフルーツサンド、ミルクスコーンの蜂蜜添え、黒蛇のショコラと蜘蛛の巣のマカロンでございます。お取り分けいたしますので、お申し付けください」
どの段も趣向を凝らせた美しい盛りつけだった。カールも聞いたことがある名前と、初めて聞く名前とが混ざっていたが、どれも甘い魅惑的な香りを放っている。とりわけカールの目を引いたのは一番上に乗っていた透き通ったマカロンだ。クリームを挟むメレンゲが細かい蜘蛛の巣状になっていて、内側が透けて見える。そこに挟まれたクリームも色とりどりで宝石のように輝いて見えた。
「そのマカロン、見事だろう? そこまで繊細な蜘蛛の巣のマカロンは並の料理人じゃ作れない。うちのパティシエは一流なんだ」
カールの様子を見ていたヴフトが得意気にそう言った。どうやら菓子専門の料理人がいるらしく、その腕前は魔物の中でも指折りらしい。魔王に褒められたマカロンは、光を返してより燦めくようだった。
「食べるのがもったいないぐらいきれいですね」
「だが料理は食べてこそだ。食べなければ、これの本当の素晴らしさは分からない。メアリー、それを取ってやってくれ。私はサンドイッチをもらおう」
「はい」
見とれているカールの代わりにヴフトが指示を出し、赤いクリームと橙色のクリームが挟まったマカロンが取り分けられた。カールはそれを器ごとそっと持ち上げて、いろんな角度から熱心に眺めた後に、ぱくりと口に入れた。繊細なマカロンはふわっと口の中で溶けてなくなり、中のクリームがとろりと溶け出す。ほのかな甘みと果物の酸味が舌の上で広がってカールはあまりの美味しさに言葉を失った。
その様子を嬉しそうに眺めつつ、ヴフトもまたサンドイッチを口にする。紅ジャムは苺のような酸味があり、甘いパウパウの実によく合う。ミルクスコーンは半分に割って蜂蜜をかけるとしっとりとした優しい味がした。
「メアリー、お前も座ってテディーたちにも分けてやれ」
紅茶と食事に少しずつ手を付けた後、ヴフトはそう言ってメアリーにも紅茶をすすめた。メアリーは「はい」と答えると自分の分を用意し、それとは別にお菓子だけを盛った皿を一つ置いた。
すると今までどこに隠れていたのか、ワゴンの周りや椅子の周りからわらわらと小さなテディーベアが現れて、我も我もとお菓子に手を伸ばしたのだ。そのクマたちは腕の付け根や足の付け根がボタンで留められており、どこからどう見てもヌイグルミである。それが動いてお菓子を食べる様子にカールは驚いた。
「わっ、ヌイグルミ? この子たちも魔物ですか? 可愛いですね」
「テディーたちはクマの形、私やフリーレン様はヒトの形をしているだけで、みな同じリヴドール族です」
「リヴドール」
魔物について詳しくないカールは初めて聞く種族名だった。少女のように見えるメアリーの手も、よく見れば関節に継ぎ目があり可動式人形のようである。いろいろな形をした生きている人形がリヴドール族だと言う。テディーと呼ばれたクマたちはヌイグルミよりもやや重みがあり、一体一体の顔つきが僅かに異なっていた。またリボンやエプロンなど身につけている装飾品もそれぞれだった。
最初、テディーたちは取り分けられたお菓子に夢中になっていたが、分け合いながら一欠片ずつ食べ終えると今度は新顔のカールが気になり出した。カールの足元をうろうろしてみたり、ソファーの背に乗って顔を覗き込んでみたりしてくる。そのうち心を決めたかのように、緑色の蝶ネクタイをした一体がぴょいとカールの太腿に飛び乗った。するとそれを見た別の一体も肩に飛びつき、また別の一体は横に座ってきた。客人ということで少し遠慮していたらしいが、触れても怒られないと分かると、彼らは好奇心旺盛にカールに乗ってきた。短い毛並みがこそばゆかったが、カールはテディーたちの好きなようにさせた。
ふと最初に乗ってきた一体と視線が合い、カールはその子を抱き上げて挨拶をした。
「こんにちは、テディーさん」
「こんにちは、カールさん! 新しいお友達、僕たち嬉しいです!」
にぱりと笑うテディーは殊更に可愛く、カールもつられて微笑む。人懐っこい彼らはみんな新入りのカールのところに集まって代わる代わるに触れあった。彼らの体毛は茶色かったり、黄色がかっていたり、赤みが強かったりしている。その手触りは小さい子の方が大きい子よりもふわふわと柔らかかった。
「テディーさんたちは布地の肌なのですね。体を洗うときはどうしているんですか?」
「石けんです。でも石けんで洗うと、ごわごわします!」
「洗うとごわごわに……。石けんが肌に合ってないのかな? 肌に合う物を探せば、みんなもっとふわふわになると思うのですが」
「もっとふわふわっ?」
カールの言葉にテディーたちはざわめき、しきりに「ふわふわ、ふわふわだって」と顔を見合わせる。彼らにとって石けんと言えば固形か粉末かの二択。肌に合う物を探すという考えなど全くなかった。また石けんを変えると仕上がりが変わる、と言うことも初めて聞く話だった。
魔国でも洗濯に関する研究は進んでいないようで、メアリーも石けんの話を興味深そうに聞く。
「皮膚に合う石けん、布に合う石けん、毛に合う石けん、これらは全部違います。洗う物に適した石けんを使うことで、仕上がりはだいぶ違いますよ。店で使っているものがテディーさんたちの体に合うかどうか分かりませんが、少し調整すればぴったりのものが作れるかもしれません」
「石けんにはそんなに種類があったのですね。私にも是非教えてくださいませ」
「カールさん! 僕たちに合った石けん、作ってください! お願いします!」
会ったばかりのテディーたちにすっかり気に入られ、カールは石けんの話題で大いに盛り上がった。彼も頭の中には既にテディー用の石けんのことが溢れかえり、あれやこれやとアイディアが広がる。魔国に連れ去られて不安がっていたのもつかの間。此処にいると今まで知らなかった生地を洗えるのだと気付き、カールは目を輝かせた。
そんな和やかな雰囲気に一人むっとしたのはヴフトである。
「カール、お前の一番の仕事は私の衣服を洗うことだからな? テディーたちは後回しだぞ?」
「でもヴフトさんの服を洗い終わったら、研究しても良いですよね?」
「お前、洗濯になると途端に元気だな……」
カールの楽観的な切り返しにヴフトは呆れを通り越して感心した。
お茶もお菓子も残り少なくなってきた頃、また扉が叩かれ今度はフリーレンが魔物を従えて入ってきた。背の低いころころとした小男は、ネズミのような大きな耳と赤茶けた肌をしていた。髪の毛は長く後ろに撫でつけられていて、がっしりとした体格をしている。おっとりとした顔つきで、にかりと笑うと逞しい前歯が見えた。
「お待たせいたしました。こちらは護衛兵のシュピッツ。カール殿の世話役としてお側に置いていただきたいと思います。ヒトの国に行った経験もあり、護衛としての力も申し分ありません。手先もヒトと同じ五指ですので洗濯の手伝いもできるかと思います」
「初めまして、カールさん。護衛兵やっとります、シュピッツです。どうぞよろしく頼んます」
「こちらこそよろしくお願いします」
差し出された大きな手にカールも立ち上がって応じる。もっちりとした手のひらは、ヒトよりも弾力があり温かかった。シュピッツの口調は他の者よりもずっと庶民的で、特に少し訛り気味であるところがカールに親近感を沸かせた。
カールは城の中の一角に部屋と作業場をもらい、シュピッツとともに暮らすことになった。洗濯に必要な物はシュピッツに言うと調達してくれるらしい。獲物であるカールが城外に出ることは危険であるから、一先ずは城内だけで生活をして外に出るのは追追ということになった。城は深い渓谷の奥にあるらしく太陽の下で洗濯物を干すことは当分無理だったが、場所をつくり次第移動用の魔方陣を組んでくれることになった。
「俺でも魔法が使えるんですか?」
「転送用の土地と土地とを結ぶものを作らせますので、カール殿でも洗濯物を持って行き来ができます」
フリーレンからいくつかの説明を受け、カールは拉致されて早々に洗濯屋を開始することになった。基本的な洗濯道具は既に取り揃えられているらしく、作業場に行けばいつでも洗濯ができるという。
それでは早速とヴフトに洗う物を尋ねると、ヴフトは待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。
「衣裳部屋だ! 日々着る物も洗ってもらいたいのだが、まずは衣裳部屋の衣服を洗濯してくれ! あそこが第一だっ!」
ヴフトは嬉々としてそう注文した。カールは衣裳部屋なんてすごいな、と思っただけで「はい」と手短に答えた。だが側にいたフリーレンやメアリーたちはさっと顔色を変え、足元にいたテディーたちはざわめきだした。
「陛下、衣裳部屋を開けるのですか? あの衣裳部屋を? あそこは特殊な部屋で汚れがつきませんから、洗っていただく必要はないのでは?」
「そうですよ陛下。衣裳部屋を開けずとも、お部屋のクロークにいろいろなお服があるではありませんか」
「何を言う。衣裳部屋の物はどれも祭事に使用する大切な物だ。あの部屋にあるからと洗わずにいたが、私はあれらを一番洗って欲しかったのだ。扱いの難しい素材もあるが、洗濯屋なら間違いはないだろう。あの部屋を開けてくれ」
「そこまでおっしゃるのなら……」
頑ななヴフトの説得にフリーレンは少々渋りながらも従った。カールは不思議に思って隣にいたシュピッツに子細を聞いた。だがシュピッツもその衣裳部屋については詳しいことが分からなかった。ただ噂では別名《生きた部屋》と呼ばれていて、一歩中に入ると必要な物を部屋自らが取り揃えてくれるという。中に仕舞われている衣裳の数は主しか把握しておらず、部屋が用意した物以外を手に取ることはできない。部屋の中に仕舞われた衣裳は年月が経っても埃がつかず、美しい状態を保っているらしい。
「魔物の国には不思議な部屋があるんですね」
カールは小声でシュピッツにそう返した。そんな話をしているうちにフリーレンが部屋の鍵を用意し、ヴフトが先頭を切って歩き出す。カールもその後をついていった。
何度か角を曲がりしばらく歩いていったその先に、他の扉とは明らかに違う、一際大きく立派な扉が現れた。左右に門柱のような枠がついていて、衣裳部屋の扉というよりは神殿の入り口のようである。扉の上の部分には細かな彫刻が施されており、その中央部分がまるで瞼を閉じたヒトの目のようだった。
ヴフトはその扉の前に立つとフリーレンから鍵を受け取り、その閉じた瞳に向かって声をかけた。
「ドゥンケルタールの衣裳部屋よ、城に洗濯屋がやって来た。お前の中の物を洗いたい。彼を認め、中に入ることを許してくれ。ヴフト・フォン・ドゥンケルタールの名において、部屋の扉を開ける」
「……」
錠前に鍵を指すとガチャリと重い音がして、部屋の扉がゆっくりと開けられた。
第二節 了
2017/8/26 校正版