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洗濯屋と魔王様 第一章  作者: ろんじん
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第十節*洗濯屋と二代目魔王

 タピオの手は大きくがっしりとして温かだった。しわしわに微笑む顔や出で立ちが街のご近所さんのようで、カールはまったく緊張せずに済んだ。

 風が吹くとタピオからふわりと泥の香りが舞う。

 久しぶりの青空と優しそうな二代目魔王。カールはここへ寄こされた経緯も忘れ、純粋にこれからの日々を楽しみに思った。

「二代目様、お世話になります。どうぞよろしくお願いします」

「ふっふ、タピオで構わんよ、カール殿。これからしばらく一緒に暮らすんじゃ、堅苦しいのはなしにしよう」

「はい! ありがとうございます!」

 タピオの方もカールの訪れを喜んでくれたようで、早速案内をすると言って歩き出した。カールがそれに続くとシュピッツも荷袋を担いで追いかけ、ハルは急いでタピオに近づいた。

「二代目様っ、私はこれで失礼させていただきます。明日からは……」

「テディーたちが来るんじゃろう? 子細はもう聞いておる。朝来て、夕方に帰すからの。他の用事を言いつけるでないぞ」

「はい」

「そう心配せんでも心得ておる。六代目の坊によろしくな」

「お心遣いありがとうございます。それでは何かありましたらいつでもご連絡を」

「んむ」

 双方、親しげな様子で手短に用件を済ませる。タピオが手を振って別れを告げると、ハルは足を止め少し頭を下げた。カールも足を止めたその目の前で、彼は大きな両翼で体を包んだ。顔が隠れる前にハルはにこりと微笑んだ。それから「あっ」と思う間に羽根が細く小さく縮まり、ふっと消えてしまった。

 カールは二度彼に運ばれたことがあったが、自分もあんな風に消えていたのかと思うと不思議な気持ちだった。

 誰もいなくなった場所を見て立ち止まっていたカールにタピオが声をかける。もう根元の向こうまで行っていた二人をカールは早足に追いかけた。




『洗濯屋と魔王様』




 大きく(そび)える霊樹の脇に小さな菜園が作られていた。青々とした葉の中に色とりどりの野菜や果物が見える。長い(うね)には黄色い花や白い花が咲いている。こんもりと高く茂った草むらからはハーブの香りがした。

 その畑から少し根本へ寄ったところに、大きな切り株と小さな切り株とが据えられていた。上には霊樹の葉が高いところで生い茂り気持ちのいい木陰になっている。タピオはそこへ行くと焚き火の跡に新しい薪を置き、鍋にお湯を沸かした。ここは屋外で炊事ができるらしい。

「隊長殿! …おお、御主の名は何と言う? その袋の中から干し肉を出しておくれ。これから昼餉の用意をするところだったんじゃ。手伝ってくれるかの」

 タピオはそう言いながら袖を捲り、道具箱の中から包丁とまな板を取りだした。

 尋ねられたシュピッツは袋を抱えてさっと駆け寄り、肉の塊を取り出す。

「シュピッツと言います。二代目様、わいがやりましょう」

「いんや、それには及ばん。飯を美味く食すコツはの、腹を空かせておくことと、自分の手で料理することじゃ。自分で作れば多少焦げてても愛着が勝る!」

「そういうもんですか…」

「んむ。そういうもんじゃ。御主はそれを少し切り分けておくれ。スープに入れる。カール殿! 御主はそこの畑へ行って好きに野菜を選んでまいれ。食えぬ物は植えておらんからどれでも良いぞ」

「はい、分かりました!」

 タピオの闊達さに押されてシュピッツが作業に取りかかる。カールは青々とした畑の中に喜んで踏み入った。故郷の家には畑がなかったのでこういうことにはあまり慣れていない。収穫期に近所の手伝いをしたことがある程度だ。けれどもカールは土や草の香りが大好きだった。そういった香りの中で洗濯物を干すと、からりと気持ちよく干し上がるからだ。

 見慣れた物、見知らぬ物がある中でカールはいくつかの野菜を持ち帰った。鍋からは早くも良い肉の香りがしてきている。大きな切り株の上には黒っぽいパンと牛乳のチーズもスライスされていた。ちょっとしたキャンプである。

 カールは一層楽しくなり採りたての野菜をタピオに渡した。トマトにズッキーニ、そしてつるつるした紫色の実。

「おお、ヴァートッフェルもなっておったか」

「このつるつるした実はヴァートッフェルって言うんですか?」

「そうじゃよ。知らんで採ってきたのか?」

「はい、きれいだなと思って」

「ふっふ。話には聞いておったが本当に好奇心が強いのう!」

 つるつるした手鞠サイズのヴァートッフェルをタピオは櫛形に切り分けた。皮は濃い紫色で、その中も薄い紫色をしている。中心の方に点々と黄色い種があった。シャリシャリと音がして堅い実のようだ。櫛形をさらに小さく切り、そのまま鍋に入れる。トマトとズッキーニも刻まれて同じように具となった。

「ヴァートッフェルは粘りけのある芋じゃ。煮込むと汁にとろみがつく。蒸し焼きにするとほくほくして美味い。これは御主の国では流通しとらんのか。そうか、そうか」

 手を動かしながらタピオは楽しそうに呟いた。ほどなく火が通り熱いスープがボウルに盛られる。そろった食事を前にタピオは両の手のひらを合わせた。

「タピオ様それは?」

「ん? これはとある島の民の習慣でな。こうして糧となる恵に感謝するのじゃ。良い習慣じゃと思うて儂もそれに倣っておる」

「両手を……こう、ですか?」

 カールはタピオを真似て両手をぴたりと合わせた。

「んむ。感謝の言葉は《イタダキマス》と言う」

「イタダキマス」

 教えられたとおりに、目の前の食事に向かってカールはそう呟いた。故郷にはなかった不思議な習慣だ。

 儀式を終えて手を伸ばしたボウルは中のスープでほかほかと温まっていた。肉と野菜の味がよく染み出し、飲むと胃の腑から体が温まった。先ほど教えられたヴァートッフェルの実はもったりとしていてなかなか食べ応えのある芋だった。それ自体の味はあまりなかったが、粘りけがスープの旨味を吸って何ともいい塩梅である。とろとろに溶けたトマトも少し歯ごたえの残るズッキーニもまた美味しい。干し肉は煮込まれて柔らかくなっていた。

 黒いパンは少し堅く、噛むと麦の味が口いっぱいに広がった。チーズと一緒に食べたりスープに浸しても美味しかった。お城で食べたふわふわの白いパンも好きだったが、麦の風味がつまった黒いパンもカールは気に入った。

 パン、スープ、パン、チーズ、スープ……と代わる代わる食べていくと、飽きることがなく延々と食べていられる。鍋いっぱいのスープも、たくさん切ってあったパンも、いつの間にかなくなってしまった。

 最後の一飲みを終えたカールがぷはっ、と息をつく。

「タピオさん、すごく、美味しかったです!」

「そうか、そうか。御主いい食べっぷりじゃのう。見ていて気持ちがいい」

「相変わらずぎょうさん食う奴やな」

「えへへ……、一人でいっぱい取ってしまってすいません」

「いや、儂らも十分食べたよ」

 シュピッツが持ってきた土産袋の中から、炒り米を混ぜたお茶を取り出しタピオが淹れてくれた。香ばしい米の香りがあたりに漂う。飲むとスープの味が濃く残っていた口の中がさっぱりとした。

「ああ、麦の茶も美味いが、炒り米の茶もいい香りじゃ。それに久方ぶりに大勢で楽しい食事じゃった」

 タピオはカールとシュピッツを見てそう言った。

「タピオ様は、お一人で住んでいるんですか?」

 街中での一人暮らしなら隣人もいるだろうがここは国の外れである。見たところ周りは麦畑や草地ばかりで、その上両側は切り立った崖だ。この霊樹に住んでいる者が他にいなければタピオは本当に独りぼっちで暮らしていることになる。暮らしに不自由はなさそうだが、それでも独りでは物寂しい場所に思えた。

 タピオはまたふっふと髭を揺らして笑った。

「儂以外にも居ることは居るんじゃがのう。きゃつらは儂らのような食事はせんし、話を聞いてはくれるが答えてくれはせん。皆可愛いが、根本的なつくりが異なる。この霊樹の根本には、たくさんの魔霊が住み着いておるんじゃよ」

「まれい……?」

「んむ。せっかく魔国に来たんじゃから、少し魔法について学んでいくと良い。知っていて損はない」

 お茶を配りながらそう言うタピオにカールは黙って頷いた。王国では誰にも聞くことのできない、未知の世界の話である。

 カールはわくわくしながらタピオの話に耳を傾けた。


     ***


 世界には大きく分けて二種類の生物が存在している。それは言語を持つ生物と、言語を持たない生物である。言語を持たない生物は動物も植物も食料や観賞などに使われている。それは例えば今食べた鹿であったり、トマトやヴァートッフェルだ。

 一方の言語を持つ生物は更に二種類に分けられた。それが魔物と獲物である。魔物とは字のとおり魔力を持つ者たちのこと。獲物とは、魔物が魔力を全く持たない彼らに付けた蔑称である。彼らの歴史が交わる以前にはこのような呼び名はなかった。

 魔物はその魔力を使って昔からいろいろなことができた。それは例えば火を起こしたり、空を飛んだり、雷を操ることなどだ。個々や種族によって能力差もあったが、魔力による魔法文化は獲物の文化よりも遙かに強い存在だった。そのため、魔物は獲物の文化を格下として扱い、安い労働力として獲物を虐げた。獲物が魔法社会に組み込まれたとき、全く魔力を持たないということはそれだけで最下層を意味した。

 その関係が崩れたのはほんの半世紀ほど前のことである。

 獲物は魔力の代わりに科学の力を得た。取り分けヒト族が強い科学文化を手にし、火を起こし、風を操り、電気を見つけた。魔物が魔力をもって為すことを、ヒトは科学の力で実現させた。これを武器にヒト族は魔法社会に抵抗し、再び国を得るに至ったのだ。


 それでは、長らく獲物を脅かしてきた魔法文化の基礎、魔力とは一体何なのか。魔物が極自然に操ってきたそれは、世界中に存在する《魔霊(まれい)》を操る力だった。

 魔霊とは純粋な魔力の生命体で世界に隈無く存在している。もちろん獲物の住む地域にも居る。科学で言う元素に値する存在だ。ただし元素一つ一つが目に見えないように、彼らの姿もまた目には出来ない。稀に感覚の鋭い魔物がその気配を感じれるという。

 魔霊とはそういった世界を構成する一部だった。

 そしてこの魔霊こそが、全ての魔法を引き起こす原動力であった。

「魔霊は大気や水、大地などこの世のすべてに溶け込んでおる。儂ら魔物が魔法を使うには個々が持つ魔力と魔霊が必要となる」

 タピオはそう言って続けた。

 魔法について研究している者の間では、魔霊は世界の起こりから存在すると言われている。厳密なことは未だ分からない。しかし魔霊は幾つかが寄り集まって、一定の性質を現すことが知られていた。それが次の六つである。

 一つめが火の性質。火の魔霊フォーと呼ばれるものだ。これは赤い小さなトカゲの形で説明されることが多い。火や熱源の周りに多く存在すると信じられている。実際にそのような場所で火の魔法を使うと、通常よりも魔法の威力が高まる傾向にある。性質を持った魔霊は魔法を高める存在でもあった。

 水の性質シュイは胸びれの長い魚の形で描かれる。液中によく溶けていると言われる。水辺において水の魔法は威力を増す。風の性質フェンは最も多く感じられる魔霊の塊だ。その姿は緑色のミツバチとして表現される。土の性質ドウは地底において現れることが多い。黄色い亀の形であった。

 研究の初期に定義されたこの四つに加え、近年新たに定義された性質が光の《グァン》と闇の《ユイン》である。グァンが正八面体で表され、ユインは正十二面体で表された。まだこの二つを感知できた回数が少なく、仮に美しい三角で表されたのだ。この二種類はどこにでも、微量ずつ存在するようであった。

 また魔霊は集合して一定の性質を表すと、分離するまで同じ性質を保ち続ける。しかしグァンとユインは分離せずともその性質を交互に表すことが確認されていた。魔霊の性質の中でも一際謎が多い性質である。


 このような魔霊は世界中に散らばりつつ、ときどき一カ所に多く溜まることもあった。それが《スポット》と呼ばれる魔霊のたまり場だ。そこは魔物にとって憩いの場であり、魔力が高まる場でもあった。実は今カールたちがいる霊樹もスポットであり、目には見えないが魔霊が多く漂っている場所なのだ。

「目に見えない魔力の生き物が世界中にいて、それがあるから魔法が使える。魔霊が集まると性質を表して、それが魔法にも影響するってことですか?」

「そうじゃ」

「……何だか、まったく知らない世界の話で想像が追いつかないんですけど。でも魔法は俺も目にしましたし。魔法って、魔力だけが要因だと思っていました」

「獲物の種族では知りようのないことが多いからのう。魔物でも、きちんと学ばなければ魔霊の存在もよく分からぬまま魔法を使うことになる。そうした奴らは大抵、ろくな魔法が使えんのじゃ」

「わいも昔習ったけど、結構ごっつい魔法の教本があるねんで?」

 タピオの解説にシュピッツがそう付け加えた。

 獲物であるカールにとって、魔法とは《魔物が使う不思議な力》というだけの認識だった。それが実は目に見えない魔霊がいて、これこそが魔法の原動力になっているというのは驚きだった。しかも魔物なら魔法で何でも出来るというわけではなく、それなりに勉強をしなければならないらしい。

 カールは小さい頃に読み書きを習いに通った教会の風景を思い出した。魔物の子供たちも机を並べて魔法を勉強するのだろうか。今までに出会った魔物だけでも様々な姿をしていたから、学問所はきっともっともっと多種多様で賑やかなのだろう。

「魔法の勉強ってどんな感じなんですか? 学校とかあるんですか?」

 まだ見ぬ魔国の街並みをカールは想像した。城の中では軟禁状態だったし、ハルの魔法でタピオのところまで来てしまったから間にある魔国の街はまったく目にしていない。いつかちょっとでもいいから、魔国の街を覗いてみたいと思っていた。

「学校っちゅーか、日常的なもんは親から子に伝えるのが普通や。学校みたいな学問所に行くんは、仕事のためとか研究のためやな。わいは城仕えの試験を受けるために魔法塾通ったで」

「んむ。日常生活で使う魔法は、魔法石として売られているからのう。その程度なら実際に魔力を使って体で覚えれば勉強する必要はない。じゃが魔法の難易度が上がるにつれ、魔霊についての知識や、呪文の構造を覚える必要がある。皆、独学で難しくなると学問所に通うんじゃよ」

「年齢で行くんじゃなくて、必要になったら行くんですね。魔法石はお城で見ました。あれがないと、どの魔法を使うにも呪文が必要になるんですか?」

「そうじゃ。呪文は唱えるとなかなか長くてのう。生活で使うには不便なんじゃよ。じゃから魔法石のような道具ができたんじゃ。石以外にも布に刺繍したり、盾の裏側に書き込んだりすることもある。呪文の仕組みは細かいから、触りだけ話そう……」

 そう言うとタピオは再び説明を始めた。


 魔物が魔法を使うには魔力、魔霊の他にもう一つ、呪文が必要とされる。呪文は普段使わない特別な二十六文字で表し発音された。だから道具を使わずに自分の口で呪文を唱えるには、きちんとした勉強が必要になるのだ。この二十六の文字は魔霊が認識できる言葉だと言われていた。

 簡単な魔法、例えば火を起こす、水を出す、風を生む、などの呪文は短く消費する魔力も少ない。聴力や脚力を増幅させる、といった類も初歩的なものだ。これが物の性質を変える魔法や、広範囲に影響を与える魔法、他者を操る魔法などになると呪文が難しく、魔力の消費も多くなる。また打ち消しの魔法はなく、もし発動した魔法を術者以外が無効にしようとすれば、それと逆効果を生じさせ相殺させるしかない。

 高度な魔法や相殺方法などは専門に学ばなければ習得が難しかった。学問所ではこれらを教えるために、魔法が五つの難易度に分けられていた。

 難易度一、二は日常的に使うものが多く魔法石を使えば簡単に扱える。発生、増幅、変化などの魔法である。子供のうちは魔力の加減が上手くいかない場合もあるが、成長するにつれ自然と使えるようになるものだ。呪文も、一部は童歌として親しまれていたりする。直接唱えても差ほど長い呪文ではない。

 しかし魔法の難易度が三、四になるとぐっとその難しさが増す。複数の対象物や平面範囲、空間範囲を指定する範囲魔法になるからだ。呪文の構造を理解すると共に、魔力の匙加減を覚えるのが難しかった。正しい範囲に影響を及ぼすには魔力のコントロールと集中力が必要とされた。呪文は道具に書き付けてしまえばある程度補えるが、魔力の加減だけは訓練で覚える他ないのだ。難易度三が扱えれば、仕事をする上でかなり役に立つ。四まで扱う者は魔法上級者と見なされた。

 最後の難易度五は軍人向けの学問所のみで学ばれる。他者や生き物の体、記憶、意識などを操作する魔法だ。これは呪文の他にも道具が必要であったり、魔力の消費量が膨大であったりなどして扱える者は少なかった。ただ戦争をする者の間では重宝され、訓練する者の数は多い。

 学問所ではこれらの他に相殺魔法が学ばれる。相殺は普通の魔法より一段難しいとされ、学校によっては難易度六と呼ばれることもあった。日常生活では他人の魔法を打ち消すような場面はあまりないので、一般的なものではない。やはり軍人や傭兵など、戦争で魔法を使う者が重宝する技だった。

 シュピッツが城仕えのために受けた試験は難易度三のものである。平面範囲の魔法は戦闘で役立つので軍人としては必須であった。彼はその後更に鍛錬を積み、難易度四の魔法もいくつか習得している。またハルは議会の中で《国防の卿》という役職についているが、難易度五が扱える手練れだった。

 魔霊が存在するこの世界で、生まれ持った魔力と特殊な言語の呪文を使って、初めて魔法は成立している。カールの目の前で何気なく起きていた事象は、実はそう簡単なものではなかった。


 カールは冷めたお茶を手にしながらじっと聞き入っていた。

「じゃが、魔法についての教本ができたのはここ数百年の話じゃ。昔は体系化されておらず、学問所も少なかった。そもそも、魔物は魔法を使わずとも生きていけるんじゃよ。生きるのに必要なことは種族の特性として魔力だけで行える。例えばテディーたちリヴドール族には意思伝達の能力がもともと備わっていて、意識するだけで効果を出せる。訓練も必要ない。じゃから魔法を知らなくても生きてはいける。呪文を唱えて魔力を加減せねば使えぬ魔法は、どれも専門技術なんじゃ。教本や魔法石が広く普及した今では、そう思っている魔物は少ないがのう」

 タピオはそう言って説明を締めくくった。

「魔法は専門技術……。魔力があっても全てが簡単に出来るわけではないのですね」

「んむ。更に付け加えると、難易度の枠から外れた自由魔法と言うものもある。これは呪文の定型文がなく、文字通り術者が自由に作った魔法を指す。じゃが、呪文と道具の性質を正しく理解していなければ魔法は発動しない。完成するまで消費する魔力量も検討がつかぬ。種族長や一国の主とて扱える者は少ない」

「はあ…」

 今聞いてきただけでも複雑な魔法が、更に複雑さを増すと言われ最早カールの理解は追いつかなかった。最も、理解したところで魔力のない獲物に魔法は使えない。ただ彼らが簡単そうに行うものが実はそうではないと、それを知っただけで十分であった。

 目を丸くしながらぽかん、とするカールを見てタピオは笑った。

「ふっふ、カール殿は素直で分かりやすいのう。良い男じゃ」

 感情を隠さない彼の姿を褒めたのだ。

「あはは…。何だか、御伽噺を聞いているようです。世界には俺たちの目に見えない生き物がいたり、魔法を使うための言語があったり。教会に通っていた頃、世界についても少し教わったんですが、魔国に来てから俺の知らないことだらけですよ!」

「独立したヒト族と魔物との間ではほぼ交流がないからのう。儂らも今、ヒト族がどのような暮らしをしているのか、ヒト族が手に入れた科学というものが何なのかを知らないでおる。国交がないから当然じゃな。カール殿は《洗濯屋》だと聞いているが、そのような職業は魔国の間では聞いたことがない。儂にとっては未知の領域じゃ。洗濯屋とは一体どういう生業かのう?」

 ずっと聞き手に回っていたカールがタピオの質問を受けて表情を変える。ヴフトがこの技術を珍しがったように、タピオにとっても洗濯屋という職業は初めてのようだ。

 自分の仕事に興味を示されカールは少しばかり前のめりになった。

「洗濯屋は、お客さんの大切な服を洗ったり、直したりするのが仕事です! 故郷のあたりでも同業者はいなかったので、確かに珍しい職業だと思います。うちでは石けん以外の薬品も使って洗濯をしています。それで普通に洗うよりも気持ちよく仕上げているんですけど……もし良ければ、洗うところを見てみませんかっ?」

 太陽は真上を過ぎたが午後はまだ長い。タピオのように言葉で上手く説明できないカールは実演を申し出た。それに実はタピオの泥だらけの服装を見てから、ずっと洗濯欲がうずうずしていたのだ。久しぶりに青空を見たからには、明日来るテディーたちを待たずに一洗いしたいとカールは思っていた。

 そしてカールの提案を聞いたタピオもにんまりとする。

「それは良い! 実はな、少し期待して洗い物をまとめておったんじゃ。今は畑をやってる時期での。量が多いんじゃが頼んで良いかのう?」

「はい、もちろん!」

 双方の思惑が一致して、三人は霊樹の裏側へと移動することにした。


     ***


 霊樹の裏、つまりドゥンケルタール国の一番端には、渓谷の上から下まで続く細長い滝が流れていた。水量の少ない滝だが、高低差のせいで落下地点には細かい水滴が飛び散っている。滝壺は浅い池になっていた。

 この水辺が物を洗う場所のようで、土のついた農機具や物干し台などが点々と落ちている。その一角に大籠いっぱいの洗濯物も置かれていた。籠の中の服やタオル、足袋は、どれを取っても酷い泥汚れがついていた。

 カールはいそいそとそこへ駆け寄り、早速汚れの具合や生地を見ながら洗濯物を分けた。大半は手ぬぐいやタオルで、そこに木綿のシャツや足袋なども混ざっていた。どれも使い込まれて汗で黄ばみ、土の色がこびりついている。洗い甲斐のありそうな洗濯物にカールは意気揚々と袖を捲った。

 下調べが終わり、まずは大鍋に半分ほどのお湯を沸かした。これはいつものことで、心得ているシュピッツが率先して手伝ってくれた。それからタライにたっぷりの水を張り、そこに炭酸ソーダを振り入れた。手で軽く一回しし、指の感触を確かめ微調整をする。水が少しぬるりとしたぐらいでカールは洗濯物を手に取った。

 細かい土埃を払い落としながら、炭酸ソーダの水溶液に沈めていく。タライの中は特に泡があるわけでもなく、ただのぬめった水である。魔国に来てからカールが水に洗濯物を入れたのはこれが初めてだった。隣でお湯を沸かしていたシュピッツは驚き、タピオも炭酸ソーダの小瓶を不思議そうに眺めた。

「あんさん、それお湯やないで? ただの水やで?」

「この《炭酸ソーダ》というのが科学で作られた薬品か……。ふうむ、見た目はただの白い粉じゃのう」

 二人の反応を見てカールは楽しそうに説明をする。

「これは予洗いと言って、洗濯をする前に汚れを浮きやすくするための作業です。炭酸ソーダの水溶液と混ざればいいんで、水でも大丈夫なんですよ。あ、炭酸ソーダの粉は毒性がありますから気を付けてください。魔物にも悪いのかどうか分かりませんが……、吸わない方がいいと思います」

「ほお、御主はそれに手を浸けて平気なのか?」

「これだけ薄めれば手を浸けるぐらいは。でも、肌が弱い人は手袋が必要ですね」

「そうか、そうか」

 カールの話を聞いてタピオは興味深そうに頷いた。


 タライがいっぱいになると浸けた洗濯物はそのままにして、カールは鍋の火加減を調整した。薪を減らして火を少し弱め、あまり沸騰しないようにする。それから彼はおろし金と固形石けんの塊を手に、鍋の上でざりざりと削り始めた。粉々になった石けんがお湯の中にすうっと溶けていく。それを菜箸で混ぜると、表面に小さな泡がぽつぽつと少しだけ浮かび上がった。

 そして、その沸々とした鍋の中へカールはタライの洗濯物を丸ごと入れた。

 鍋で煮込まれる洗濯物を見て、タピオは勿論シュピッツも驚き思わず声を上げた。今までに城で見てきた工程とは全く違っていた。

「なんや今日の洗濯はいつもと全然違うやないか! 鍋で煮て大丈夫なんか? それ」

 シュピッツが心配する間も鍋はふわりと湯気を上げながら煮えている。使っている道具は鍋におろし金、菜箸とまるで料理風景のようだった。

「ふふふ、大丈夫ですよ。これ、うちで初めてやったときもお客さんに随分驚かれたんです。中には『うちの洗濯物になにするんだ!』って怒鳴ってきた人もいて。でも、綿や麻の丈夫な生地はこうして煮込んでも大丈夫なんです。《煮洗い》と言って、土や汗の汚れをよく落として、臭いも取れる洗い方なんです」

「ええっ……ほんまにそんなぐつぐつ煮て大丈夫なんか?」

「煮洗い! これは初耳じゃ!」

 カールの話を聞き疑心と興味の視線が鍋の中を覗き込む。洗濯物を煮込む光景など、二人とも目にしたことがなかった。

 カールは洗濯物が均等に煮えるようにときどき中身をかき混ぜた。

「水と石けん、っていうのは一番簡単で幅広い生地に使える方法です。でも、万能ではありません。俺の父は生地や汚れごとに洗い方を研究して、それで洗濯屋を始めました。その中で重要だったのが石けん以外の薬品。これは西の工業国で作られるようになった化学製品なんです」

「ふうむ。千年以上生きてきたが、これほど洗濯に情熱を注いだ者は見たことがない。お父上もカール殿も見事じゃ」

 タピオは思わず手を打ち鳴らして褒めた。それに少し照れながらカールはくるくると鍋をかき混ぜる。そのうちにお湯が茶色く濁り泥水になった。頃合いを見て鍋を火から下ろし、水を追加して温度を下げる。そして洗濯物を軽く揉んでタライに取り出した。

 出てきた足袋やタオルの白さに隣の二人が息を呑む。それは洗う前の薄茶色い洗濯物と同じ物かどうか、目を疑うほどだった。

 カールはそれらを更にきれいなぬるま湯で濯いだ。一度目の濯ぎでは尚も茶色い汚れが染みだしていたが、二度目にはお湯も洗濯物もきれいになった。三度目の濯ぎでクエン酸を少量垂らし肌触りを整える。

 最後に一つずつくるくると丸めて絞れば、さっぱりとした洗濯物が出来上がった。

「ああ、やっぱり外で干すのは気持ちがいいですね!」

 竿に翻る洗濯物を見て一番笑顔になったのはカール自身だった。もちろん、タピオもカールの腕前に感嘆し、きれいになった衣服を嬉しそうに眺めている。シュピッツは鍋を混ぜていた菜箸がくっきりと二色になっていることに気が付いた。お湯に浸かっていた部分が洗濯物と一緒に洗浄されたのである。

「恐るべし煮洗い……」


 一度に随分な量を洗ったが、タピオの溜めた洗濯物はまだ半分ほど残っていた。鍋のお湯を沸かし直し、もう一度予洗いから同じ作業を繰り返さなければならない。

「また同じ作業を見ているのも何ですから、良かったら一緒にやりませんか?」

 タライに炭酸ソーダを加えながらカールがそう提案する。

「おお! そうじゃのう! 今ので手順は分かった。儂もやろう!」

「わいもや!」

 初めて見た煮洗いに興奮を覚え、タピオもシュピッツも袖を捲る。心地良い風が吹く中で二度目の洗濯が始まった。

 南中を過ぎた太陽がまだまだ燦めく、洗濯日和な晴天だった。




第十節 了

2017/8/26 校正版

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