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予感

 翠先生が呼び出し当番の時、晩御飯の時に翌日のお弁当の下ごしらえをしておくのが癖になっていた。

 灯里を妊娠した翠先生は呼び出し当番を外されていたが、俺は、その日、何だか嫌な予感がして、晩御飯の準備の傍らお弁当の下ごしらえをしていた。

 予感、と言うよりは、灯里から、翠先生が元輝の母親である穂積さんという女性をかなり気にかけており、穂積さんがいつ急変してもおかしくないと聞いていたからだ。

 そして、俺の予感と言うよりは灯里の『予言』が見事に的中したと感じたのは、未明に翠先生の携帯が鳴った時だった。

 翠先生が飛び起きると同時に俺も飛び起き、翠先生が出かける支度をする時間でお弁当の中身を詰め込んだ。

「先生、朝ご飯です!」

 玄関に向かった翠先生に、朝ご飯のお弁当を手渡した。

「ありがとう!」

『ママは、今日、午前は外来だよ!お昼ご飯、待ってるね!』

 慌てて出て行く翠先生のお腹の中から灯里が言っていた。


「あれ?笹岡さん、今日無駄に早いですね」

「黒川も早いじゃないか?」

「私はいつも、この時間なら来てますよ。それに、今日は夜勤明けです」

 黒川に言われて時計を見ると、確かに黒川だったらいつも来ている時間だった。

「そうか、日比がいないからそんな気がしたのか」

「凛ちゃんなら、だいぶ前に一度来て、親友の容体が急変したからって産婦人科病棟に走って行きましたよ」

 そう言えば、日比が穂積さんの親友だとか翠先生が言っていた気がする。

「まあ、纐纈先生、おはようございます!」

 甲高い声でご機嫌に入ってきたのは、冴木さんだった。

「纐纈先生が当直だったから、早く来たんですね、きっと」

 黒川は冷静に言いながら、あきれた様子でベビーたちの元へと向かった。

『サエキのおばちゃんうるさい!』

 冴木さんの声に反応して泣き出したベビーがいたからだ。

『コーケツ今日三回も失敗しやがった!』

 どうやら纐纈と言う言葉に今朝の苦い記憶が呼び覚まされたベビーもいたようだ。

 黒川一人では埒があきそうにないので俺も手伝ってベビーたちを泣き止ませていた。

 早いとこ全員泣き止んでもらって、翠先生にお弁当を渡しに行かねば……。

 そう思い、やっと最後の一人が泣き止んだ時だった。

『ママ!』

 ベビーたちの泣き声協奏曲に混じることなく眠っていたはずの元輝が急に目覚めて、泣き出した。

 元輝のところへ行ってあやしていると、その様子に気付いた黒川がこちらにやってきた。

「元輝君、昨晩から呼吸が不安定で、今日も気を付けたほうがいいと思います」

『ママ!ママ!』

『元輝、どうしたの?』

『元輝、チックンは終わったはずだぞ?』

 泣いている元輝に気付いたベビーたちが話しかけているが、元輝はそれでもなお泣き続けた。

 しばらくして、泣きつかれた元輝は、再び眠りについた。

「笹岡さん、朝礼始めるそうです」

 元輝が泣き止むまで抱っこしているうちに、俺は翠先生に弁当を渡しに行くタイミングを失ってしまった。

 時計を見ると、普段朝礼する時間よりも十分程度早かった。

 十分あったら、翠先生のところにお弁当を渡しに行けたのに……。

 誰か、足りないような気がする、と思い、見渡すと、ナースステーションの奥で纐纈がカルテを見ていたが、他には奥にはいないようだった。

「ちょっと、日比さん、遅刻よ!」

 その声に視線を戻すと、ちょうど日比がナースステーションにたどり着いたところだった。

 その隣で黒川が時計を見て眉間にしわを寄せた。

 俺もそれにつられて時計を見ると、まだいつも朝礼を始める時間より五分程度早かった。

 そして、冴木さんが遅刻してくるときは、これよりさらに十分ほど遅いはずだ。

「すみません!」

 俺たちがフォローを入れるよりも早く、日比は冴木さんに頭を下げた。

「謝ればいいってものじゃないのよ!まったく、いまどきの若い子は……」

 その、いまどきの若い子よりも遅刻率の高い主任さんに言われたくないものだ。

「あの!」

 黒川が我慢の限界になったのか、声を張り上げた。

「日比さんを、朝方に見かけました」

 だが、その後に発言したのは、黒川ではなかった。

「よほどの事情があったんじゃないでしょうか?」

 奥に引っ込んでいたはずの纐纈が、いつの間にかこちらに来ていた。

「それに、まだ始業前ですよ」

 そう言って纐纈は時計を指さした。

「いつもいない人がいるから時間の感覚が狂ったんじゃないですか?」

 そう言いながら、黒川が俺を指さした。

「そうよ、笹岡君がいつもより早くいるからよ!」

 何でか、俺のせいになった!


『笹岡、とばっちり大変だったね』

 ミルクを飲みながら悠希が言った。

『笹岡、とばっちり!』

『笹岡、ばっちり!』

『ささおか、ばっちこい!』

『ささおか、ばっちい!』

『ささおか、ばーか!』

 何で俺は朝からバカにされているのだろう。

 それにしても、いつもならもっと背後からも『声』がするはずなのに、何だか静かだ。

 そう思ってちらりと後ろを見た俺は、すぐに向き直った。

 冴木さんが鬼の形相でこちらを見ていたからだ。

 そして、冴木さんのそばにいるベビーたちはその形相の恐ろしさに、『声』も出ない状態でいた。

 な、何故、俺は睨まれているんだ?

 そう思いながらもう一度盗み見て、視線の先が微妙に俺ではないことに気付いた。

 冴木さんの視線の先にいたのは日比だった。

 纐纈が助けたことが気に入らなかったのだろう。

 日比は、冴木さんの視線に気づくことなく元輝の朝の処置をしていた。

『凛華、今日、何か元気ないな?どうした?』

 元輝は、朝に急に泣き出したのが嘘のようにけろりとしていた。

『元輝、朝はどうしたの?』

 俺の視線に気づいてか、悠希が元輝に話しかけた。

『朝?何がだ?』

 だが、当の本人は朝の出来事を覚えていないようだ。

 あんなに泣いてたのに。

 あんなに俺が大変な思いをしたのに。


 昼休憩をもらった俺は、産婦人科外来へと向かった。

 大抵翠先生の診察は押すから、きっとまだ診察室にいるはずだ。

『あ、パパの足音だ!』

 灯里の『声』の方向に向かっていると、涙を浮かべながら車椅子に乗る妊婦とすれ違った。

『もうすぐなんだね!ね!ソラ君!』

『そうだね、ハナちゃん』

 どうやら妊婦のお腹の中には双子がいるようだった。

 だが、妊婦が涙を浮かべていた理由はその時の俺には全く見当もつかなかった。


 診察室では、まだ翠先生が診察しているらしく、声が聞こえていた。

「翠先生もママと同じでおっぱい大きいね!」

 子供の声が聞こえた。

 ……おっぱい?

「お、お腹の事かな?先生もお腹に赤ちゃんがいるからね」

『お兄ちゃん、バカがばれるからあんまり話さないでほしいな』

 お腹の中から、兄に向かって痛烈なツッコミが炸裂していた。

「おっぱいおっぱい、ボインボイーン!」

『きゃあ!変態!ママのおっぱいに触った!』

 な、何だと?

『おいこら、バカ兄貴!』

「こら、竜ちゃん、ダメでしょ!」

「ママもおそろーい!ボインボイン!」

『ママもおそろいで済むかボケ兄貴!』

 ほどなくして診察が終わり、翠先生の胸を触ったクソガキとその母親は帰って行った。


「あ、明君」

 俺に振り返った翠先生は少し元気がない。

 クソガキに胸を触られたくらいは浮気に入らないから大丈夫ですよ、と言おうとしたが、何だかそんな雰囲気ではなかった。

「あ、そうだ、さっきの子、どうだった?」

「お兄ちゃんに激しくツッコミを入れてましたよ」

 少し、首をかしげてから、翠先生は、ぽんと手をたたいた。

「あ、鈴村さんじゃなくて、その前の、車椅子で病棟に行った人」

「あ、双子ちゃんのお母さんですか?」

「そうそう……そっか、『声』二つ聞こえたんだ」

 それ以上翠先生はそのことに触れず、「お昼ごはん、食べに行こうか」と、俺を連れて中庭へ出た。

 中庭に出ても、翠先生の表情は暗いままだ。

 朝ご飯が不味かったのだろうか?

「今朝ね」

 翠先生が、俯いたままで話し始めた。

 やはり、朝ご飯が不味かったのだろうか?夜に下ごしらえをしておいたのが久しぶりだったから、味が落ちていたかもしれない。

「今朝、穂積さんが亡くなったの」

 翠先生が沈んでいる原因は、朝ご飯ではなかった、という安堵感もあったが、その時、俺は、朝の光景を思い出していた。

 突然起きて、泣き出した元輝。

 元輝はあの瞬間、母親が亡くなったことを本能で感じ取っていたのかもしれない。

 寝て起きた後はそんなことすっかり忘れてしまった様子ではあったが……。


 ふと、翠先生の視線を感じて顔をあげると、翠先生は、俺が手にしているお弁当を見つめていた。

「それ、お昼の分?」

『ママ、私お腹すいた!』

「はい」

「ありがとう!」

 翠先生は、お弁当を手にして笑顔で立ち去った。


 翠先生に手を振っていると不意に背後から肩をたたかれた。

 振り返るとそこには入院患者の見知らぬおじいさんがいた。

「弁当の中身で痴話げんかかね、若いのう」

 ……違います!

 ……長い!

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