病床にて2
注射を持った震える手が、俺の腕に近づいてくる。
逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、もう一方の手で押さえられているし、あちこち骨折している痛む体ではとうてい逃げられそうもない。
「やめろ!何でなんだ!」
「笹岡だけ、インフルエンザの予防接種がまだだと聞いて」
いや、それは、うすうす気付いてはいたし、灯里や翠先生に迷惑にならないよう打っておこうとは思ってはいたが……。
何でよりにもよって、一番注射も採血も下手くそな纐纈なんだ!
「牧野先生とかが良かった……」
「牧野先生なら、笹岡の所に行くと言ったら、一目散に逃げ出したぞ」
牧野先生、俺、何かやらかしましたか?
「いいから落ち着け」
そう言い放った纐纈の手がいっそう震えた。
「お前がな!」
「震えなくても大丈夫だ!」
「震えてるのは、自分の手だろうが!」
「ぎゃーーーーーーっ!!!」
その声は、病院の入り口にまで響き渡ったそうだ。
「すごい悲鳴だったが……笹岡?」
荘太が部屋に来た頃、俺は腕を押さえてうずくまっていた。
こ、これは、聞きしにまさる壮絶な痛みだ。
予防接種って、ちょっとチクッとか、薬が入るときに少し痛かったとかそう言うのがある程度で、少ししたら痛みとかそう言うのは大したことなかった気がするのだが。
「纐纈のチックン、イタイ……」
「それ、纐纈にやられたのか?」
俺が無言のまま頷くと、「リンゴでもむいてやるよ」と、いつになく優しい声で荘太が言った。
慣れた手つきで、荘太はリンゴをむき始めた。
「うまいな」
「ウサギさんも作れるぞ」
「いらんわ!」
そんな、とりとめのないやりとりをしていると、ドアがノックされた。
「灯里!翠先生!」
『あ、荘ちゃんだー!』
灯里!生まれて初めて俺に会ったというのに、何故、一番に荘太の名前が出てくるんだ??
「明君、だいじよ………荘ちゃん!上手ー!」
翠先生、せめて言い終わるくらいまでは俺のこと心配してください!
「ウサギさんも作れますよ」
「『見たーい!』」
親子でハモってる……。
「ほら!」
「ホントだ!ウサギちゃんだ!」
「『荘ちゃん、すごーい!』」
「それくらいなら俺だって…………痛っ!」
リンゴを取ろうとした俺は、腕に激痛を感じて腕を押さえた。
『パパ、どうしたの?』
「明君、どうしたの?」
「明おじさんはお注射が痛かったみたいです」
荘太の発言に翠先生が失笑し、灯里はにやりと笑った。
……おのれ、荘太め。
「私、ちょっとトイレ行ってくるね!荘ちゃん、灯里みてて!」
「抱っこなら俺が!」
「明君は、腕、痛いんでしょ?」
そう言い残すと、翠先生は荘太に灯里を抱っこさせて、出て行った。
『わーい、荘ちゃんの抱っこだ!』
「パパも灯里を抱っこしたかったな……」
『パパは、腕の痛いの治ったら抱っこしてね!』
「わかった!パパ、早く治す!」
『単純だな』
それは、荘太の『声』だった。
「そういえば、荘太、『声』聞けて、話せたんだな」
『まあな』
どうやら、『声』では素になるようだ。
ふと、俺は気になって、灯里に尋ねた。
「灯里は、荘太のこの、表裏激しいの、平気なのか?」
『何言ってるのパパ?』
灯里は、うっとりした目で荘太を見つめながら言った。
『王子様な荘ちゃんと、ワイルドな荘ちゃんを両方楽しめて、一度で二度美味しいのよ!』
何というか、アバタもエクボ状態だ。
呆然としていると、翠先生が戻ってきた。
「ついでにお菓子買ってきたよー!」
その時、俺の脳裏に、翠先生のかつての食生活が浮かんだ。
俺が弁当を作るようになる前の翠先生の食事は、学食か、お菓子だった。
学食が遠のいた今、もしかして、主食はお菓子になっているのではないだろうか?
「翠先生……」
「明君、どうしたの?怖い顔して?」
「まさか、主食がお菓子になってるんですか?」
「そんなことある訳ないじゃん!」
そして、翠先生と灯里が声をそろえていった。
「『荘ちゃんが作ってくれてるんだよー!』」
「へ?荘太が?」
「それがね、プロ並みに美味しいのよー!」
『ママのおっぱいが、病院食の頃より美味しいの-!』
「掃除とか洗濯もお手伝いしてくれて、一家に一台荘ちゃんが欲しいわぁ」
『私、荘ちゃんと結婚するもーん!』
ふと、翠先生と目が合った。
「あ、ワン、明君の料理ももちろん美味しいよ!荘ちゃんが、お家の本格的なシェフの元で習ったからプロ並みってだけだし」
『きっと、パパの料理の時も、ママのおっぱい美味しいと思うよ!』
「明おじさん、レシピ、教えましょうか?」
荘太が俺の肩をたたいた。
退院したときに、我が家に俺の居場所があるのか、今から不安がぬぐいきれない。
どんどん笹岡が不憫になってきている読者様もいるかもしれませんが、もともとこういうキャラです。