翠先生の危機
奴らは早朝からうごめき始める。
『皆!ポジションにつけ!』
元輝が張り切って言ったが、全員、ポジションにつくも何も、ベッドの位置は固定だ。
『ポジションって何?』
『なんとなく、やる気が出ればいい!』
それ、ポジションの解釈と違う気がするぞ、元輝。
『じゃあ、今日のチックンに対抗すべく、作戦を発表する!』
『おー!』
『いえー!』
『OK!』
『眠い……』
『今日は作戦Dだ!』
『わかった!』
『頑張る!』
『マカセトケ!』
そのやり取りを聞いていて、荘太がいたころのことを思い出した。
荘太たちも、採血をさせないために綿密な作戦を練っていた。
奴らの野望が叶ったためしはないが。
元輝たちも採血に対抗すべき作戦は作ってはいるものの、
・作戦A…我慢
・作戦B…痛かったら泣いてよし
・作戦C…とりあえず泣いとけ
・作戦D…全力で泣いて暴れろ
という作戦というにはあまりにも単純なもので……って今日一番厄介なヤツじゃないか!
学会でほかの新生児の医師が不在のため、他の新生児の医師がいないらしく、このところ採血は毎日纐纈だし……。
学会って、いつまで続くものなのだろう?
そして、俺、何時に帰れるだろう?
そう思ったとき、「おはようございます」と、さわやかな挨拶とともに牧野先生が入ってきた。
やった!採血が上手な牧野先生だ!
「牧野先生、おはようございます!」
俺は、あまりの嬉しさに牧野先生の元へと駆け寄ったが、俺の声が聞こえるなり牧野先生は「ひぃっ!」と言って、部屋の端まで後ずさった。
「牧野先生、どうしたんですか?」
牧野先生に話しかけながら近寄ると、牧野先生は、部屋の端でがくがくぶるぶる震えていた。
「あの」
体調が悪いなら、救急外来に連れて行かなければと、肩をたたいたところ、恐る恐る振り返った牧野先生は「なんだ、君か」と、いつも通りの牧野先生に戻った。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと、トラウマが……」
「トラウマ?」
「あ、いや、何でもないです」
「ところで牧野先生、朝の採血、先生がしてくれるんですよね?」
「はい、もちろんです、よろこんで!」
『朝の採血マキノだって』
『じゃあ、作戦Aでいいな』
『サクセンA!OK!』
『アチョー!』
今日は何だかいつも通りに帰れそうだ!
俺は上機嫌で翠先生に帰るメールを送ると、荷物をまとめて帰路についた。
採血が上手な牧野先生と、作戦Aのコラボレーションのおかげで、予定通りどころか、いつもより早く帰宅できるからだ。
早く、翠先生と灯里が待っている我が家に帰ろう!
電車に揺られ、最寄り駅に到着すると、ちょうどいつも出勤する時間くらいだったようで、灯里の友達のお母さんのキャリアウーマン風の人が駅に向かって歩いていた。
だが、颯爽と歩くその人のおなかの中から、あの子の『声』は聞こえなかった。
不意に、あの時、あの子の『悲鳴』のようなものを聞いたことを思い出した。
いや、でも、まさか。
だって、あの子は、灯里と同じくらいの週数のはずだから、堕胎なんてできるはずがない。
いや、もしかすると、生まれるときに、何かしらトラブルがあって、亡くなったのか?
いずれにしても、その子はもう、お母さんのおなかの中にはいないし、お母さん本人は、何事もなかったような顔をして、出勤している。
眠気と相まって、思考がもやもやしている中、不意に灯里の『声』が聞こえた。
『パパ!ママが大変なの!この前、あの子の『悲鳴』が聞こえた産婦人科に急いで来て!』
やっぱり、あの時の『悲鳴』はあの子のものだったのか、と、思いつつ、そのあとに灯里が言った『言葉』を反芻して、俺は駆け出した。
翠先生は、こともあろうか、あの『悲鳴』がよく聞こえる産婦人科にいるのだ。
俺は無我夢中で産婦人科まで走った。
もはや、嫌な予感しかしないが、まだ、灯里の『悲鳴』は聞こえないから、灯里は無事なはずだ。
「翠先生!」
俺は、診察室の扉を開けながら叫んだ。
振り返った翠先生は、診察室の椅子に腰かけていた。
「あ、明君!」
その時、翠先生の目の前にいた医者の顔色が変わった。
「へえ、何だか見たことがある顔だと思ったら、あの有名な谷岡翠先生ですか?」
次の瞬間、医者は翠先生の口をガーゼで塞いだ。
翠先生の体から力が抜けて、その場に倒れこんだ。
「翠先生!」
慌てて駆け寄ろうとした俺は、頭に衝撃を感じてその場に倒れこんだ。
切りのいいところまで一気に行ってしまえとやってしまったので、いつもより誤字三割り増しかもしれないです。