君のいる世界
「行ってきます」
なんだかいつもと違う気分の朝だ。
「行ってらっしゃい」
『パパ!行ってらっしゃい!』
「行ってらっしゃい、明おじさん!」
荘太と翠先生が、俺の出勤を見送るという、前代未聞の光景がそこにはあった。
荘太は、雅之の家で勉強した後、俺たちと一緒にこの家に泊まることになった。
翠先生がいる手前、荘太は猫をかぶったままだったが、一時的とはいえ、何だか家族になったみたいで、こそばゆい気分だ。
翠先生のことは翠先生とか、翠お姉さんと呼ぶのに、俺のことは明おじさんと呼ぶあたりに、何とも言えない悪意を感じずにはいられない。
駅へと急いでいると、また、産婦人科のほうから不快感を感じた。
パチンコ屋の騒音がなくなって、より鮮明になったそれは、やはり、『悲鳴』のようだと思った。
赤ちゃんが産まれるはずの産婦人科で、なぜ、こんなに『悲鳴』が聞こえるのだろうか、とも思ったが、産婦人科では、堕胎などもあるはずだ、と自分に言い聞かせながら通り過ぎていた。
「おはようございます」
出勤すると、俺より早く、黒川がいた。
「昨日、遅くまで大変だったな、寝れたか?」
「誰かさんより若いので、大丈夫です」
「そんな、冴木主任に失礼だろ!」
「笹岡さんよりも、若いって言ってるんです!」
『笹岡、おはよう!』
『笹岡、じじいなのか?』
『僕のじいじよりは若く見えるから大丈夫だぞ!』
左右田が言ったが、御年80歳の左右田のじいちゃんよりも老けて見えたら問題だ。
『よし、やるぞ!』
そして、いつものように唐突に決め台詞が始まった。
『元輝ー!』
『そうだー!』
『自分大好きー!』
『ちがーう!!』
そして今日も、決め台詞は決まらなかった。
「朝礼始まるそうですよ」
黒川に言われて、俺はナースステーションへと向かった。
ナースステーションには、看護師長の姿はあったが、冴木主任の姿が見当たらない。
「冴木主任、今日も休みですか?」
「いや、まだ連絡がないが、昨日も早退しているから、休みかもしれない」
井澤看護師長が俺の質問に答えると「じゃあ、朝礼を始めます」と言った。
「今日は一人、予定の帝王切開があります。結城さんです。赤ちゃんは、こちらに入院することになっているので、小児科ドクターと、NICUナースが立ち会うことになっています。手術開始は……」
真面目に話している看護師長の後ろで、元輝が『ちょうどいいのが来るぞ!』と、元気いっぱいに言っていた。
ちょうどいいの?
その頃「おはようございます」と、弱弱しい声で、冴木主任が入ってきた。
「すみません、ちょっと遅くなってしまいました」
「あ、冴木さん、体調が悪いようなら無理しないでくださいね」
井澤看護師長が言った。
「あ、でも、今日、帝王切開が……」
「今日は人員が潤っているので、冴木さんの手を煩わせるまでもありません、今日は管理業務をしていてください」
井澤看護師長にきっぱりと言われて、冴木主任は心なしかうなだれている様子だった。
冴木主任ってそんなに、現場が好きだっただろうか?
朝の採血に来た牧野先生は、「じゃあ、これから学会に行くので」と、去っていった。
『じゃあね、パパ』
日比に抱っこされながら、青木宗助が、去っていく牧野先生に向かって言った。
ちょっと前までは、牧野先生は、必ず日比に声をかけていったのだが、見向きもせずに出ていった。
「そういえば、日比は牧野先生とご飯行ったのか?」
「何度かお誘いいただいたのですが、都合が合わなくて……」
日比は、何だか歯切れが悪い様子だ。
「何か、あったのか?」
思わず、俺は聞いてしまった。
日比は黙ったままだ。
その腕の中で、青木はすやすやと眠りについていた。
日比は、眠りについた青木をベッドに戻すと、小さな声で言った。
「この前、黒川さんとご飯に行った帰りに、見ちゃったんです」
「何を?」
日比は青木の顔をのぞき込んで、眠っていることを確認してから言った。
「宗助くんのお母さんと、牧野先生がホテルから出てくるところを……」
ホテルから出てきた牧野先生と目が合って以来、牧野先生が日比を食事に誘うことがなくなったそうだ。
俺は、青木の寝顔を見た。
何となく、どことなく、牧野先生に似ているような気がしなくもない。
もしかすると、青木は本当に、牧野先生の子供なのかもしれない。
物思いにふけっていると、電話が鳴った。
電話を受けた受付さんが、こちらに向かって「結城さん、手術室に入室したそうです」と言った。
「はぁい、今行きます!」
甲高い声で冴木主任が返事をしたが、それを制するように「主任は管理業務をしていてください」と、黒川がピシャリと言い捨て、日比を連れて出ていった。
それからしばらくして結城ベビーがNICUやってきた。
黒川と日比、そして、纐纈が結城ベビーに付き添ってやってきた。
「私もお手伝いさせてください!」
甲高い声で冴木主任が言ったが、「冴木さん、体調悪いんですよね、奥にいてください」と、纐纈に言われていた。
「あの、でも……」
「ベビーたちにうつると迷惑なので、奥にいてください」
それでも引き下がった冴木主任だったが、纐纈にきっぱりと言われてぐうの音も出ない状態で奥へと引っ込んでいった。
『新入り!お前、結城ピンクに任命する!』
元輝は既におなじみのやり取りをしている。
『へ?ゆうきぴんく?』
こういった反応もすでにおなじみのものだ。
『NICU戦隊ベビレンジャーのピンクだ!重要な任務だぞ!』
『よくわかんないけど!がんばる!』
『よし、やるぞ!』
『元気ー!』
『結城ー!』
『自分大好きー!』
そして、一か月以上ぶりに決め台詞が決まった。
……少し違ったイントネーションではあるが。
今日の俺は無敵だ!
なぜなら、携帯をちゃんと忘れず持っているから!
翠先生から、買い物しすぎちゃったから、来て、というメールが来ていたため、俺は駅近くのスーパーに向かっていた。
「ねえねえ、おっぱいせんせ、おなかのあかちゃんは、女の子?」
俺が着いたとき、翠先生は、鈴村に絡まれていた。
「女の子よ」
「じゃあ、あかちゃん、オレとケッコンしよ!」
『絶対イヤ!』
灯里の即答に俺はほっと胸をなでおろした。
「ママ!オレ、おっぱいせんせのあかちゃんとケッコンする!」
『今、めっちゃ拒否されてたけど……』
母親のおなかの中で鈴村弟が冷静にツッコミを入れていた。
「あ、明君!」
「翠先生、お待たせしました、って、大量にもほどがあるでしょ!」
「いやあ、特売日って恐ろしいね!」
ずっしりと重い荷物を抱えながら翠先生と並んで歩いていく。
駅前のスーパーから雅之の家に向かおうとすると、どうしても、例の産婦人科の前を通らなければならない。
産婦人科の前に差し掛かった時、『悲鳴』が聞こえた。
それは、いつも電車でよく出会う、灯里の友達の『声』によく似ていた。
「明君、どうしたの?」
「いや、何でもないです」
俺は、首を振って歩き始めた。
きっと、気のせいだ。
あの子は順調そうだったし、堕胎が許される週数でもない。
だから、きっと、あの子の『悲鳴』であるはずがない。
雅之の家でみんなで食事をとった後、荘太は今日も俺たちの家に泊まることになった。
「あ、そういえば」
翠先生は、お風呂に入っていて、いないためか、素の状態の荘太が話しかけてきた。
「今日、出かけるときに、変な奴が来たぞ」
「変な奴?」
「なんか、マキノ先生って呼ばれてた」
牧野先生?学会に行くって朝の採血の後出かけて行ったはずだが?
「何か、翠先生、旦那さんお仕事で寂しくないですかとかけったいなこと聞いてたぞ」
まさか、牧野先生、翠先生のことを狙っていたのだろうか?
「ちょうど、雅之お兄さんが迎えに来てくれたから、二人で精神的にボッコボコにしといたからもう来ないと思う」
雅之と荘太の腹黒コンビに精神的にボッコボコに……!
「あれ?荘ちゃんまだ起きてたの?」
「そろそろ寝ようと思っていたところです」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、翠お姉さん、明おじさん」
なぜだろう、悪意を感じずにはいられない。
久しぶりに書いたら、節操なしの小児科の先生の名前が思い出せませんでした。
携帯小説で書いていた時も、同じ人が出ていたのですが、まったく名前が思い出せなくて、新しく名前を付けたのですが、どうも記憶に残らないようです。