疑惑
「じゃあ、明君、いってらっしゃい!」
翠先生が、玄関まで見送りに来てくれた。
『パパ、今日からは、一緒に行けないの寂しいけど、頑張ってね!』
「パパも寂しい!」
玄関が開いていないことを確認して、俺は、翠先生のお腹に抱き着いた。
「パパは、ママと、灯里が一番だいちゅきですよ!」
『私も、パパとそ……』
……そ?
『何でもない!』
「え?ちょ!灯里?」
「明君、電車、間に合わなくなっちゃうよ!!」
灯里に問いただしたい気持ちでいっぱいだったが、翠先生に急かされて、俺は、しぶしぶ出かけることにした。
翠先生が産休に入ったため、今日からは、俺一人で通勤だ。
一人でとぼとぼ歩いていると、何とも言えない不快感に襲われた。
振り返ると、建物が壊されてなくなったパチンコ屋の向こうに産婦人科が見えた。
この不快感は、もしかしたら、『悲鳴』かもしれない。
だが、『悲鳴』にしては、頻度が多すぎる気がする。
『何か、変な感じする!』
そう言った灯里の友達のベビーは、まだお母さんのおなかの中にいるらしく、いつものキャリアウーマン風の女性が颯爽と俺を追い抜いて行った。
『あれ?灯里ちゃんのパパの足跡が聞こえるけど、灯里ちゃんのママ、いないね』
そして、俺はまたしても、翠先生と灯里が隣にいないことを思い知らされて、うなだれたまま病院へと向かった。
「笹岡さん、奥さんと一緒に通勤できなくなって寂しいのはわかりますが、いい加減うざいです」
出勤してからもうなだれていた俺は、黒川に一喝された。
『笹岡、うざい!』
『笹岡、くさい!』
『サエキのおばちゃんもくさい!』
俺はあんなに香水つけてない!
翠先生が妊娠してからは、におうものはほとんど使ってない!
翠先生、一人で留守番寂しくないかな……。
再びうなだれた俺に黒川の鉄拳制裁が下されたのは、それから数秒後のことであった。
「笹岡さん、凹んでる暇があったらやることあるでしょうが!」
黒川が今日のタスクリストを俺に見せた。
「あれ?こんなのあったっけ?」
「さのつくお二人がよく、すべき仕事を忘れているので、私と凜ちゃんで作りました」
さのつくお二人?
「あー、冴木主任?」
「それと、笹岡さん、あなたです」
冴木主任と同格にされた!
ショックを受けている俺にリストを手渡すと、黒川は、「リストは共有フォルダに入っているので、明日からはそっちを参照してください」と言って、自分の仕事に戻っていった。
リストを見ると、ベビーの患者IDとフルネーム、それに、本日の処置内容やその時間などが分かるように記載されていた。
マイクって、苗字はソープっていうのか。
そう思ったその時、灯里の朝の『言葉』が俺の脳裏によみがえった。
『私も、パパとそ……』
俺が翠先生と灯里が一番大好きだと発言したのを受けて、灯里はそう言った。
ということは、「そ」で始まる名前の誰かが、俺と同列に好きということが考えられる。
もしかして、灯里はマイクのことが好きなのか?『パパと、ソープ君が一番好き』って言おうとしたのか?
『よーし、やるぞー!元気ー!』
俺が思案に暮れている間にそれは唐突に始まった。
『マイクー!』
『自分大好きー!』
『ちがーう!』
悠希のかわりに同じピンクのマイクに決め台詞の途中のセリフを託そうとしていたらしいが、見事に失敗している。
『そこは、勇気っていってくれよ!マイク』
『イヤだ!ボクハマイク!』
『そんな……』
『ボク、グリーンガイイ!』
セリフがうまくいかないからか、マイクからカラーチェンジの訴えがあった。
『え?そうしたら、ピンクが……』
『グリーンガイイ!!』
今にも泣きだしそうなマイクを見て『わかったよ』と、元輝が折れた。
『ワーイ、アカリトオソロイ!』
マイクの野郎、目的はそれか!
今まで、さんざん悠希が好きだと言っていたくせに、この心変わりの速さ、信用ならんな。
『僕も灯里とおそろいがいい!』
そう言って泣き出したのは、青木宗助だ。
宗助……そうすけ……まさか、灯里はあの時『パパと、宗助が好き』って、言おうとしたのか?
『灯里とおそろいがいい!おそろいがいい!』
女々しく泣き続ける宗助を見て、灯里はこんな奴のどこがいいのだろうかと悩んでいると、黒川が「笹岡さん、緊急帝王切開なので、準備してくださいね」と言い残して部屋から出て行った。
俺の宿敵ではあるが、泣き出してしまったものは、仕方ない。
俺は、宿敵である宗助を抱っこした。
『ありがとう、お義父さん』
そう言い残して宗助は眠りについた。
お、お前にお義父さんと言われる筋合いはない!
という言葉を飲み込んで、俺は、新しく入るベビーの場所を準備した。
『あれー?灯里ちゃんに会えると思って出てきたのに、いない!』
誰だ?この男?
そう思いながらネームプレートを見ると、左右田若菜ベビーと書いてあった。
「さゆうだ?」
「違いますよ、笹岡さん、左右田です」
……左右田だと!
もしかして、灯里はあの時、『パパと、左右田君が好き』って、言おうとしてたのか?
『灯里ちゃん、どこー?』
『おい、新入り!灯里は、翠先生がサンキューだから、一緒にお休みだぞ!昨日言ってた!』
元輝、やたらと灯里の事情に詳しいじゃないか!
だがしかし、元輝は、穂積元輝という名前のどこにも「そ」は入っていないから、大丈夫だな。
『よし、新入りもきたし、やるぞ!』
新入りが来たらやるのは、いつもの決め台詞だ。
『元気ー!』
元輝がいつもの調子で言った。
『宗助ー!』
続いた宗助は、やはり、決まったセリフを言えなかった。
『自分大好きー!』
全員の『声』が野太い気がするのは、ここにいるベビーの全員が男児だからであろう。
しかも、そのほとんどが、俺と並んで灯里の一番になっているかもしれない輩である疑いがぬぐい切れない。
『ちがーう!!!』
そしてまた、決め台詞は決まらなかった。
『くそ、今度こそは決め台詞を決めるぞ!』
元輝が気合を入れていた。
『元輝ブラック、またの名を』
ん?二つ名があったのか?
『ソニックビーム・ブラックの名に懸けて!』
何か疑惑を感じる二つ名が出てきたー!
もしかしたら、あの時、灯里は『パパと、ソニックビーム・ブラックの元輝が好き!』って、言おうとしたのか?
結局、NICUには、怪しい奴がいっぱいってことか……。
どれも怪しいが、どれも決め手に欠けて、俺は、悶々としながら道路を歩いていた。
目の前から、見たことのある妊婦さんが歩いてきた。
以前に見た時よりも、だいぶおなかが大きい。
確か、翠先生の高校の先輩の奥さんだ。
おなかの中から『声』が聞こえた。
『アイム、ソーリー!』
ソーリー……。
俺は思わずその場にへたり込んだ。
も、もしかして、あの時、灯里は、『パパと、ソーリーが好き』って、言おうとしたのか?
「笹岡さん、通行の邪魔です」
後ろから歩いてきたらしい黒川に言われ、俺は、よろよろと立ち上がって歩き出した。
灯里の将来を案じながら。
いときりばさみの構造上、シリアスが続くと疲れるのです。
だからと言って、親ばかに始まって親ばかに終わってしまったことに関しましては、多少少しわずかに反省してると思います。