さよなら、悠希
「悠希ちゃん、明日だっけ?」
駅に向かいながら、翠先生が言った。
「そうです。明日、いよいよ、アメリカに行くんです」
荘太のおばあちゃんの寄付のおかげで、募金が目標額に達したため、悠希は、アメリカに治療を受けに行くことができることになった。
そして、いよいよ、明日は、悠希がアメリカに渡る日なのだ。
何か、妙な感じがしてそちらを見ると、パチンコ屋はすっかり跡形もなくなっていて、その後ろに建っている建物が見えた。
建物の看板には「産婦人科」と書いてある。
「こんなところに、産婦人科があったんだ」
俺の視線に気づいてか、翠先生が言った。
「そうですね」と、何とか答えたが、もやもやした感じは消えない。
この感じ、『悲鳴』に似ている。
病院の最寄駅で降りて歩いて行くうちに、また、もやもやした感じがしてきた。
目的地に、近づくにつれ、もやもやした感じはだんだん強くなってきた。
この『声』は、もしかして……?
いや、でも、まさか。
よりによって、こんな時に?
そのもやもやの正体は、悠希の『悲鳴』だった。
『イヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!死にたくない!死にたくない!』
『悠希!頑張れよ!明日すっげえ所に行くんだろ?』
悠希を励ます元輝の『声』は物理的な距離のせいもあって遠巻きだ。
『ユウキ!ガンバレ!シンジャダメダ!』
『悠希お姉ちゃん!頑張って!』
ほかのベビーたちも一生懸命に応援している。
『いやぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!やだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
それでも、悠希の『悲鳴』は止まらない。
モニターからは生命の危機を知らせるアラーム音が鳴り響き続けている。
インターホンの音がして、悠希の両親が招き入れられた。
いつもは温厚な二人が、今日は、必死の形相だ。
「悠希!」
母親の声に反応して悠希はそちらを見た。
『ママ!私!生きたいの!』
「悠希!ガンバレ!」
今度は父親の声がして、悠希はそちらを見た。
『パパ!私、死にたくないの!』
不意に、悠希の視線が、両親のどちらからもそれた。
『助けて!死にたくないの!』
遠くを見るようなその視線は、果たしてどこを見ていたのか。
『助けて!元輝!』
悠希の視線は、元輝を見ていた。
『絶対に!助けてみせる!』
まるでヒーローのように元輝が言った。
『僕が、悠希のこと、守って見せるから!』
物理的には遠いところにいるはずの元輝の『声』は、悠希の『悲鳴』をかき消すほどに大きく心に響いた。
『だから、悠希!生きろ!』
その『声』は、本当に、悠希の『悲鳴』をかき消してしまった。
モニターから鳴っていたアラーム音が静かになった。
『ねえ、元輝、本当に?』
悠希が静かに言った。
『当たり前だ!チックンや、アメリカや、アクニンから悠希を守るって決めた!』
元輝がこぶしを握った。
『約束、だよ?』
悠希もこぶしを握り、その手を上にあげた。
『約束だ』
元輝もこぶしを振り上げた。
「じゃあね!おっぱいせんせーも、ぼんきゅっぼんおねーさんもオレがいないあいだにうきわしちゃだめだよ!」
『突っ込むところが多すぎるよ、バカ兄貴……』
「竜ちゃん、しょーもないこと言わないの!お世話になりました」
産婦人科病棟に翠先生を迎えに行くと、どうやら、鈴村の母親が退院するらしく、ナースステーションで挨拶していた。
相変わらず、鈴村はおバカで、お腹の中の弟の苦労は絶えなさそうだが。
「そっかぁ、それで、悠希ちゃんの渡米が延期になってたんだ」
電車が駅に到着し、俺たちは駅から我が家までの道のりを歩き始めていた。
「さすがに、急変の翌日はリスクが大きいですから」
また、もやもやした感じがする。
顔を上げると、産婦人科の看板が見えた。
もしかして、このもやもやは『悲鳴』かもしれない。