『悲鳴』
翠先生の早起き習慣はまだ続いている。
昨日荘太のおばあちゃんから連絡があったようで、来週からは、荘太君のお見舞いに来られるとのことだった。
寝不足のせいだろうか、駅に近づいたら何だか不快感に襲われた。
また、あのパチンコ屋だ。
『なんか、変な感じする!』
灯里もそう言っている。
『私も!変な感じする!』
聞いたことのある『声』の方を見ると、灯里のお友達のお母さんらしきキャリアウーマン風の女性が颯爽と俺たちを追い越して行った。
絶妙にお腹のラインが目立たない服装をしているため、『声』が聞こえなければ、妊婦さんだと認識できないかもしれない。
電車に乗って揺られているうちに、不快感はどこかへ消えて行った。
はずだった。
職場に近づくにつれ、何だか、朝に感じたような不快感を感じ始めた。
さらに近づくにつれ、
『いやぁぁぁぁぁぁ!!!!!!』
それは、ただの不快感などではなく、『悲鳴』だと、気付いた。
『死にたくないよ!死にたくないよ!』
その『悲鳴』をあげているのは、ハルカだった。
『死にたくないよ!死にたくないよ!パパ!ママ!』
ハルカのベッドの周りには、既に、夜勤帯のナースと医師が集結していた。
昨日まで、元気にしていたのに、何で……?
『ハルカ、急に様子がおかしくなったみたいだ……』
そう教えてくれたのは、元輝だ。
その間も、ハルカの『悲鳴』は収まらない。
心拍数はどんどん下がって行って、血圧も、みるみる下がっている。
『ハルカちゃん!死なないで!』
向かいのベッドで、悠希がハルカに『声』をかけているが、その『声』は、ハルカには届いていないようだ。
『パパ!ママ!死にたくないよ!死にたくないよ!』
『お願い!ハルカちゃんを助けて!』
悠希は、自分を慕ってくれたハルカを想ってか、届かないとわかっているはずの『声』で懸命に訴えていた。
『いやぁぁぁぁぁ!!!!!しにたくない!死にたくない!』
『お願い!ハルカちゃんを死なせないで!誰か、助けて!』
ここにいるだれもが、ハルカに助かってほしいと思っているし、皆全力で救命している。
そんな中、インターホンが鳴った。
インターホンを押したのは、ハルカの両親だった。
招き入れると、ハルカの両親は、ハルカの元へと駆け寄った。
『死にたくないよ!死にたくないよ!パパ!ママ!』
「ハルカ!」
「ハルカ!頑張って!」
その場にいた全員が、ハルカの命が助かることを望んでいた。
にもかかわらず、さっきよりもさらに心拍数は低下して、血圧も低下している。
『パパ、ママ、大好きだよ、ありがとう』
皆の努力と応援にもかかわらず、ハルカの命を救うことは叶わなかった。
ハルカについていた機械は外され、すすり泣く両親とともに別室に移された。
『ハルカちゃん、死んじゃった』
誰もいなくなったスペースの向かいで、悠希が、静かに呟いた。
終業後に荘太の部屋に行くと、荘太は一人でご飯を食べていた。
「笹岡、お疲れ」
俺と二人でいるときにはすっかり口調が元に戻っている。
衝撃の事実が発覚してから一週間、話せば話すほど、荘太はあの頃のことを覚えているとしか思えなかった。
ぼーっと、食事をしている荘太を眺めていると、不意に荘太がスプーンを置いた。
「浮かない顔だな」
「ちょっと、今日、一人亡くなって……」
「そうか……」
そう言うと、荘太は、食事に戻った。
荘太がNICUの内情を覚えているためか、思わず仕事の話までしてしまう。
「なあ、荘太」
食事を終えた荘太のトレイを下げて、戻ってきた俺は、不意に荘太に聞きたくなった。
「『悲鳴』を上げてた時、あの、死にそうになった時って、どんな感じだった?」
「そうだな、とにかく、真っ暗だった」
荘太は、開きかけた本を閉じて話し始めた。
「それに、すごく強い向かい風が吹いてた」
そのまま、荘太は続けた。
「大切な、家族のことばかり、考えてた」
「『悲鳴』を上げるときに『叫ぶ』のは、大切に想っている人だけってことか?」
その時、俺の名前は呼ばれることはなかった。
「俺だって、NICUのメンバーや、笹岡たちのことだって大切には想ってたけど……」
荘太はバツ悪そうに頭をかいた。
「あの状況では、本能で愛している人の名前しか『叫ぶ』ことができないんだと思う」
「本能で、愛している、か」
俺は、今日のハルカの最期の様子と、一日悠希が沈んでいたことを思い出した。
いつも、悠希を姉のように慕っていたハルカは、結局『悲鳴』を上げている最中には悠希の名前を一度も『叫ぶ』ことはなかった。
俺も、その気持ちは痛いほどわかる。
最後の最後になって、本能では愛されていなかったことを思い知る、悲しみ。
「今だったら、あの時とは違うかもしれない」
黙ったままの俺に荘太が言った。
「今だったら、ほかの名前も『叫ぶ』かもしれない」
そう言うと、荘太はオレの目をまっすぐ見つめた。
それは、今だったら、俺の名前も『叫ぶ』かもしれないということだろうか?
期待と不安が入り混じった感情で荘太の方を見たが、荘太は既に読書を再開していた。
「なあ、それって……」
「荘ちゃん、調子はどう?」
俺が質問する前に、翠先生が入ってきた。
「だいぶ調子も良くなってきました。もう少しで左腕のギプスも外せそうみたいです」
そして、猫かぶりモードに戻る荘太。
……変わり身が早すぎるぞ。