悲しい事実
荘太君の家である中山家は、歩いても10分程度でたどり着くのだが、灯里がどうしても翠先生に走ってほしくなかったらしく、俺たちは車でそこまでやってきた。
『早く!早く!』
「あれ?鉛筆がカバンの中で行方不明!明君、先に行ってて!荘ちゃんに直接渡したいって言ってね!」
きっと、お屋敷が広いから、荘ちゃんを呼んで連れてくるまでで時間稼ぎができるはずだからと、翠先生は付け加えた。
ていうか、何で、車に乗ってる数分間で、鉛筆が行方不明になるんだ!
翠先生のカバンは実は四次元ポケットなのではないかというおぼろげな疑惑を持ちつつも、灯里に急かされるままに、俺は中山家のインターホンを押した。
「はい」
聞き覚えのある声がインターホンに応答したのは呼び出しボタンを5回くらい押した頃だった。
「あの、荘太君の知り合いなのですが、荘太君が忘れ物をしてしまったので渡したいのですが……」
「なら、私が受け取ります」
冷たい声で応答しているのは、たぶん荘太君のお母さんだ。
「いや、でも、本人に直接渡したくて……」
「だれが受け取っても変わりないでしょう?」
「どうされたのですか?」
どう言ったら良いものか困っていると、翠先生を振り返るより前に、背後から声がした。
「え?お義母さま?しばらく家を空けられるのでは?」
インターホン越しの荘太君のお母さんの声が緊張のためか少しだけ震えていた。
振り返ると、そこに荘太君のおばあちゃんがいた。
「ちょっと、忘れ物をしてしまって、戻ってまいりました」
そのまま、インターホンの通話は一方的に切られてしまった。
「あ、志乃さん、あの、荘太君が忘れ物しちゃって、本人の物か確認してから渡したいなと思って、直接荘ちゃんに渡そうと……」
ちょうど鉛筆を見つけたらしい翠先生が、荘太君のおばあちゃんに向かって言った。
「そうですか、先生がわざわざいらっしゃってくださったのですから、荘太さんを呼んでまいりますね」
そういうと、俺に軽く会釈をして、荘太君のおばあちゃんは、家へと入って行った。
「荘太さーん!荘太さーん!……」
玄関の扉が閉まると、荘太君を呼ぶおばあちゃんの声はほとんど聞こえなくなった。
きっと、防音がしっかりした家なのだろう。
それからしばらく経った頃だった。
「ちょっと!これは、どういうことですか?あなた、また……!」
防音がしっかりした家から聞こえるほどの怒号が聞こえてきた。
この声は、荘太君のおばあちゃんだ。
しばらくした頃、荘太君が使用人に抱きかかえられるようにして出てきた。
顔色は悪く、腕や足には無数の痣がある。
翠先生が車から飛び出てきた。
「荘ちゃん、その痣……!?」
「今から、病院に連れて行こうと思います」
「私も、付き添います!明君、後から追ってきて!」
翠先生は迷うことなくふかふかシートの高級車で病院に行くことを選んだ。
病院にたどり着くと、翠先生が、救急外来の前のシートに腰かけていた。
「翠先生、荘太君のあの痣……」
服から出ていた手足に、勉強していた時にはなかった無数の痣があった。
何か悪い病気だろうか?
「……」
翠先生が押し黙っている。
『荘ちゃんのママが荘ちゃんに、暴力をふるったの』
消え入りそうな『声』で、灯里が教えてくれたその情報は、とても衝撃的なものだった。
「……嘘……だろ?」
思わずその言葉が口からついて出た。
だって、荘太の母親は、荘太が退院するとき、あんなに喜んでたじゃないか?
それなのに、何で、暴力を……?
「荘ちゃんのママは、荘ちゃんが、志乃さんの言うことを聞いて仲良くするのが許せなかったんだって」
不意に、翠先生が、口を開いた。
「今までも、弟の亮太君ばかりかわいがって荘ちゃんにきつくあたったり、言うことを聞かないと手を上げることもあったみたい」
「先生、一緒にお話を聞いていただけますか?」
そこへ、荘太君のおばあちゃんがやってきて、翠先生は、荘太君のおばあちゃんについて行った。
俺はその場に呆然と立ち尽くしていた。
荘太が退院するあの時、俺は、真剣に荘太を引き取ろうか考えていた。
考えて、考えて、荘太が「ママ」といったあのとき、母親が喜んだのを見て、二人の幸せそうな姿を見て、大丈夫だと思った俺は、身を引いた。
あの時、あのまま荘太を引き取っていたら、こんな未来は来なかったんじゃないだろうか?
俺の給料じゃ、あんなすごい幼稚園には入れてあげられなかったし、俺と過ごしていては、あんな英語力も身に付かなかったかもしれないが、意識を失うほど暴力を振るわれるようなことは、なかったんじゃないだろうか?
どうしてあの時、意地でも荘太を引き取らなかったのだろうか?
俺はどうしようもない後悔の念に苛まれていた。
「兄貴!」
その声に、我に返って振り返るとそこに雅之がいた。
「どうした?雅之」
「翠先生に呼び出されて……」
そこまで言った雅之は声を潜めて言った。
「虐待がどうとかって聞いたんだけど」
「たぶん、今、救急外来にかかってる子のことだと思う。翠先生も今、そっちにいるよ」
雅之の後を追うように少し年配の女性が歩いて行った。
虐待の専門の人か何かだろうか?
「兄貴も来て」
そう言われて俺も慌ててついて行った。
ベッドに横たわる荘太君は、酸素マスクはついているものの、自分で呼吸はしているようだった。
あちこち骨折はしているが、頭部や内臓には、問題はなさそうだと当直医に呼ばれたらしい小児科教授が荘太君のおばあちゃんに言って、席を外していった。
「児童相談所の室井です」
年配の女性こと室井さんがが自己紹介した。
室井さんは、自己紹介を終えると、荘太君のおばあちゃんに次々と質問していった。
途中で、翠先生や俺にも質問していた。
どうやら、荘太君のお母さんは、以前から、荘太君にきつくあたったり、手を上げることはあったようだった。
それでも、荘太君のおばあちゃんがいるときには、荘太君に手を上げることはなかった。
だが、今日は、おばあちゃんがたまたましばらく家を空ける予定で出かけていた。
そんなとき、何かを契機に荘太君のお母さんの感情が爆発し、荘太君に手を上げた。
「とにかく、荘太君は一度、お母さんと距離を置く必要があります」
室井さんはそう結論付けた。
荘太君は、検査と治療のために個室に入院することになった。
そして、職員には、今ここにいるメンバー以外の部外者が荘太君のことを聞いても入院していることなどは一切伝えないよう箝口令が敷かれた。
荘太君のおばあちゃんの予定が、どうしても外せないもののようで、おばあちゃんが帰ってき次第、状況を見て、また、考えるとのことで、今日の所は、室井さんも雅之も帰って行った。
しばらくして、荘太君のおばあちゃんも、病室を名残惜しそうに見ながら、どうしても行かなければならないので、と、去って行った。
意識の戻らないままの荘太君と、それを黙って見守る翠先生と俺。
この沈黙が、永遠に続くような気がした。
「俺たちも、今日の所は帰りますか?」
このままでは気まずすぎるし、荘太君の状態も安定しているようだと感じた俺は、沈黙を打ち破って、何とか発言した。
首を横に振る翠先生のお腹の中で『イヤだ』と灯里が言った。
「『荘ちゃんが、目覚めるまで帰らない』」
そして、絶妙に、翠先生の声と灯里の『声』がシンクロした。
「このままじゃ、心配じゃない」
『このまま、荘ちゃんが目を覚まさなかったらイヤだもん!』
とりあえず、二人とも現時点で帰るという選択肢はないようだ。
「荘ちゃん」
『荘ちゃん、起きて!』
翠先生が荘太君の手を握った。
その時だった。
「……う……」
荘太君がわずかに動いた。
「……あ……翠先生」
荘太君は、目を開けた。
『荘ちゃん!』
「荘ちゃん!」
翠先生はすぐさまナースコールを押した。
「どうしましたか?」
インターホン越しに聞いたことのある声が聞こえてきた。
確か、翠先生と仲の良い助産師さんの舞さんだ。
「荘ちゃんが、意識を取り戻したの!」
少しして、舞さんが入ってきた。
舞さんの眉間には深いしわが刻まれている。
「この部屋の中に医者も看護師もいるのに、何で夜勤ナースを呼ぶんですか!」
「この感動を共有したくて……」
「今じゃないでしょ!まったく……」
「あの、ごめんなさい……」
弱弱しく荘太君が言うと、舞さんは、荘太君を見て、目を大きく見開いて「天使」とつぶやいた。
「いいのよいいのよ、荘太君、気にしないで!ここは病院だもの、私たちは、荘太君のような人たちが元気になるためにいるんだから!」
さっきまでとは打って変わって輝くような笑顔になった舞さんは、翠先生に「グッジョブ」とささやいて病室を出て行った。