嵐の予感
いつものように翠先生と一緒に家を出た。
最近は、よほど急ぐ用事がない限り、その後も翠先生と歩幅を合わせて歩くよう心掛けている。
なぜなら、俺は、先日、このいつもの通勤路で、一日に2回も外人さんに話しかけられたからだ。
また、外人が湧いて出てきたら、たまったものではない。
「そういえば、翠先生、荘太君の英語力、かなりすごいですね」
「でしょう?あのレベルなら、今海外に留学しても十分やっていけるって私が太鼓判を押すわ!」
翠先生がそういうのはよほどのレベルだ。
「こないだ、この辺で、外人さんに話しかけられて、俺、固まってたんですけど、荘太君が流ちょうな英語で応対してくれて、すごく助かったんですよ」
「あれ?明君、英語できなかったっけ?」
何を今さら?
「からっきしですよ」
それを聞いて、翠先生の顔が曇った。
「じゃあ、もしかして、灯里も英語からっきし?」
「灯里は英語ペラペラですよ」
「よかった!」
翠先生はお腹をさすった。
「灯里も荘ちゃんと同じ幼稚園お受験しようね!」
『頑張るー!』
胎教で受験勉強って!!
『でも、ママ、荘ちゃんの幼稚園、ママとパパもテストされるんだよね?』
灯里が放った絶望的な一言を、言うべきか否か俺が迷っていると、
「あの幼稚園、両親の審査もあるんだった!」と、事実を思い出したらしい翠先生が頭を抱えていた。
NICUについた俺は、簡単に夜勤の看護師と引き継ぎをした後、ナースステーションに向かった。
冴木さんの叫び声に、確実にマイクが反応して泣いてしまい、しかも、泣き声が世界レベルのためにマイクが泣くと、NICUのベビーがおおむね全員泣き出してしまうため、俺たちは、冴木さんが叫ぶ前にナースステーションに集結するよう細心の注意を払っていた。
そして、集結した看護師の顔ぶれを見て、全員が思った。
母親以外で唯一マイクを泣き止ませられる、ゴッドハンドの日比がいない。
そういえば、今日は日比は休みだった。
ということは、マイクを極力泣かせてはならない。
NICUのスタッフ全員に緊張が走った。
『ササオカ、オムツ』
マイクの『言葉』が終わるか終らないかのうちに俺はマイクのオムツを変え始めた。
『ササオカ、ミルク!』
すぐさま俺はマイクを抱きかかえ、ミルクを飲ませ始めた。
今日の俺はマイク専属だ。
とにかく、マイクが泣き出す前に彼の欲求を満たすことのみが求められている。
『ササオカ、ダッコ』
今までになく、俺の能力をフル活用しているような気がする。
半日以上、マイクのご機嫌をとり続けて、ヘロヘロになった頃、マイクの母親が面会に訪れた。
母親がいる間は安全なので、俺は、今日全くできていなかったマイクのご機嫌取り以外の仕事を始めた。
『皆とお別れなんてイヤだよー!』
急に泣き出したのは泣き虫ブルーの荒木だ。
そうか、荒木は今日退院だったな。
『離れ離れになっても、僕たちはNICU戦隊ベビレンジャーの仲間だぞ!』
『そうよ、離れても、私たちは友達よ!』
『アチョー!』
『あ、ママ来た!』
あんなにぐずっていた荒木は、ママに抱っこされた瞬間、泣き止んだ。
現金なやつだ。
『ママー!今日から毎日一緒だね!ずっとずっと一緒だね!ボク、ママがいたらあとはどーでもいいや!』
……本当に、現金なやつだ。
『荒木君泣き止んでよかったね』
『じゃあ、皆、バイバーイ!』
『荒木、バイバーイ!』
『元気でな!』
『沐浴忘れるなよ!』
『ミルク忘れるなよ!』
『早く泣きやめよ!』
『もう泣き止んでるよ?』
去りゆく荒木にベビーたちが別れの『言葉』を投げかけた。
『僕も、ママに会いたいな』
その合間にポツリと言った元輝の『言葉』は、荒木に別れの『言葉』を告げるベビーたちの耳には届いていなかったようだった。
唯一、隣のベッドの悠希だけが、元輝を切なそうな瞳で見ていたが、何も聞こえなかったかのように、目を閉じた。
面会時間が終わって、もう少しで夜勤の看護師に引き継ぐという頃だった。
『あー!』
不意に元輝が叫んだ。
『ブルーがいなくなったってことは、新しいブルーを探さなきゃ!』
確か水色はいたはずだが、水色では賄えないらしい。
『そうだ、マイク、お前、泣き声ハンパないからブルーに任命してやろう!』
『?』
『マイク・ブルーだ!』
『ユウキは?』
日本語が少し話せるようになったマイクは、やたらと悠希になついているためか、悠希の色を聞きだした。
『悠希は悠希・ピンクだぞ』
『ボクもユーキとオソロイがいい!』
『そうしたら、ピンクが二人になっちゃうじゃないか!』
『ユーキとオソロイがいい!』
『でも、ブルーが……』
『ユーキと』
マイクがピクリと動き、
『オソロイが』
そして、両手を突っ張った。
『いいーーーーーーーーーーー!!!!』
ついには泣き出してしまった。
しまったー!
もう少しで勤務が終わるところだったのに!
案の定、マイクが泣き出したのは俺の責任にされ、夜勤帯の看護師にも見放され、マイクが泣き疲れて眠りにつくまで抱っこをつづけた俺は、そっとマイクをベッドに置くと、やっと帰路についた。
「翠先生なら、とっくに帰りましたよ」
俺が、マイクをあやしているのを見ながら苦笑いしながら翠先生が手を振っていたので、そうではないかと思っていたが、やはり、翠先生にもおいて行かれてしまっていた。
一人でとぼとぼ帰っていると、公園の所に荘太君がいた。
「あれ?翠先生が先に帰っているはずだけど?」
「翠先生には会いませんでしたよ」
「え?」
じゃあ、どうしたというのだろう?
携帯を見るが、翠先生からのメールも着信もない。
翠先生に電話をかけてみたが、通話を開始する前に切られてしまった。
とりあえず、荘太君をこのまま公園に置いとくわけにもいかないので、俺は、荘太君を連れて、帰ることにした。
電話が鳴ったのは、荘太君に自主学習を始めてもらってから少しした頃だった。
「もしもし、兄貴」
かけてきたのは、弟の雅之だった。
「翠さん、ちょっと、うちの署にいて」
なんで、翠先生、警察署にいるの?
「今から帰るから」
「あ?ちょ、何で、……?」
俺の質問の途中で、通話は切られてしまった。
ピンポーン。
翠先生、もう帰ってきた!
そうか、鍵をなくしたんだな、きっと。
それならそうと、俺に電話かメールしてくれたら……。
鍵を開けた瞬間、勢いよく開け放たれたドアに俺は顔面を強打して、その場にうずくまった。
そのまま家の中へと入って行った人物に視線を送ったが、それはどう見ても翠先生ではなかった。
この女性、どこかで見たような……。
「荘太!」
突然の怒号に、俺はびくっとして立ち上がった。
「こんな小さい民家で勉強しても何の足しにもならないことはわかっているでしょう?」
ち、小さい民家……。
「お義母さまが出かけている間だけでも、あの人の自由にはさせませんから!さっさと行きますよ!」
そっと様子を見に行くと、乱暴に勉強道具をカバンの中に押し込みながら、女性が言い放っていた。
その横顔を見て、この女性は、この前、うちの前に立っていた女性だと思い出した。
そう思っている間に、カバンの中にものを詰め込んだ女性は、片手にかばんを持ち、空いた方の手で荘太君の腕をつかみ、強引に部屋から連れ出した。
「お母さん!」
呆然としていた荘太君が最後の抵抗のように言ったが、母親は聞く耳を持たない様子だ。
「帰りますよ、どうも、お世話様でした」
最後に嫌味たっぷりに俺に言い放った荘他の母親は、「あんな先生のどこがいいんだか」と、ボソッとつぶやくと、さらに強く荘太君の腕を引っ張り、家から出て行ってしまった。
俺、先生じゃないですけどね……。
ものすごい誤解を招いたまま、荘太君の母親は、荘太君を連れて帰ってしまった。
あまりの衝撃に呆然と立ち尽くしていた。
どれくらい経った頃だろうか、再び玄関の扉が開いた。
「あれ?鍵開いてる!明君、不用心だよ!」
『ただいま!』
翠先生が帰ってきた。
「翠先生、鍵忘れたんじゃないんですか?」
「え?鍵なら持ってるよ?」
「じゃあ、なんで警察署に?」
「何でそれを?」
翠先生の目が泳いでいる。
知られたくなかったのだろうか?
「雅之君が言ったのね!」
「はい」
「だって!私のカバンのマタニティータグに気づくや否やお腹に殴りかかってきた女がいたもんだから」
え?殴……!?
「走って追いかけて殴り返してやったのよ!あと、お説教もしてたら、なんか通報されててね」
「先生、殴り返したんですか?」
「あたりまえじゃない!やられたら、やりかえす!お腹の中の灯里の分まで強めに殴り返しといてやったわ!」
『ママ、ちょうど私のいないところに当たったから、そんなに痛くなかったよ!』
「灯里は無事だったそうですよ」
「よかったー!」
『それよりもママが走った時の方が、思わずお外に出ちゃいそうになったよ!』
「翠先生が走った時の衝撃の方が強かったみたいですよ」
「ごめーん、灯里!悪気はないの!懲らしめたかっただけなの!」
『そう言うところも含めて、ママのこと大好きよ!』
そう言った灯里はすかさず言った。
『でも、次はお外出ちゃうかも!』
「あれ?荘ちゃんは?」
翠先生は誰もいないリビングを見て言った。
「ちょっと前に、母親が連れ帰っちゃいました。結構すごい剣幕でしたよ」
「あ、これ、忘れ物かな?」
そこに一つ鉛筆が落ちていた。
『荘ちゃんが、大変!』
急に灯里が言い出した。
いや、荘太君のおうちはお金持ちだから、鉛筆一本で困ったりはしないと思うが……。
『パパ、早く、車出して!荘ちゃんの所に行かなきゃ!』
「え?」
「どうしたの?明君」
「急に灯里が荘ちゃんの所に行かなきゃって、荘ちゃんが大変って……」
「私の娘が、つまらない嘘をつくとは思えないわ、ちょうど忘れ物もあるし、行ってみましょ?」