見えてくるもの
初夏に入り、汗ばむ陽気の日が増えてきたが、翠先生は去年までとは違って、体のラインが出ないワンピースを着ることが多くなった。
今までよく穿いていたジーンズは、灯里が苦しがっていたので、自重していたし、体のラインが出る服だと、よく見るとお腹が出ているのがわかるようになっていた。
『パパ、今日は行きも帰りも一緒だね!』
灯里の『声』も、より鮮明に聞こえるようになっていた。
「今日は、診察が終わるころに迎えに行くから」
「そう?助かる!ありがとう!」
『パパ、ステキ!大好き!』
「パパも灯里のこと、大ちゅきですよ!」
「あ、明君待っ……!」
翠先生の言葉を待つことなく、俺は翠先生のお腹に抱きついた。
『あ、あの足音は水口君のママ!』
灯里の『声』に慌てて翠先生のお腹から離れて振り返ったが時すでに遅し、水口さんとその旦那さんが呆然とした表情でこちらを見ていた。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
『水口君おはよう!』
『灯里ちゃんおはよう!また、灯里ちゃんのパパ変なことしてたの?』
何故それに気付いたんだ!
『ママが、ヤバいものを見たときのドキドキ具合になってるから、そうでしょ?』
『う、うん、何か、ごめんね』
『いいよ』
二人の『会話』を聞きながら、少し反省しながら振り返ると、案の定翠先生は顔を真っ赤にしていた。
「外ではダメって言ったでしょう!」
「ごめんなさい」
『パパ、学習してね』
……灯里にまであきれられてしまった。
肩を落としながらNICUに入ると、何だか和やかな空気が流れていた。
と言うことは、冴木主任は、休みかいつもの遅刻か。
冴木主任のいつもの遅刻と言うのは、朝の体調がいまいち優れなくて、いつもの電車に乗れなかった、というやつだ。
軽く五分は遅刻して、反省の色は全く見られないが、いかにも体調が悪そうに振る舞っている。
黒川曰く、それでも毎日メイクはばっちりしているらしい。
「おはようございます……」
そして、いつものように甲高い声を少しけだるそうに曇らせながら、冴木主任がやってきた。
『サエキのおばちゃんだ!』
『おばちゃん今日もくさいな!』
どうやら冴木主任のばっちりメイクはベビーたちにとっては何だか臭いらしい。
「まあ、纐纈先生、おはようございます!!」
『何だと!コーケツだと?』
『注射か?』
『採血だ!』
『やめてー!!』
急に響き渡った甲高い声にベビーが一斉に泣き出した。
「冴木主任、赤ちゃんがびっくりするんで、大声は出さないでくださいね」
黒川がうんざりしたように言うと「それくらい、わかっています!」と、冴木主任が逆ギレした。
それにしても、とりあえず、奴らを泣き止ませないと……。
そう思ってベビーたちの元に歩み寄る間に、一人、また一人と泣き止み始めていた。
『もう、とっくに朝の採血は終わったでしょう?』
現在のNICUの最年長、悠希の『言葉』で。
『そうだった!採血もう終わった!』
『コーケツはただの冷やかしか!』
そして……。
『凛ちゃんの抱っこ、最高……むにゃむにゃ……』
『凛ちゃん、次、ボク!……ムニャムニャ』
神の手、日比凜華の抱っこによって。
四月に冴木主任と一緒に入った日比凜華は噂にたがわぬ神の手で、ベビーたちの扱いも非常に上手で、一気にベビーたちの信頼を得ていた。
『サエキのおばちゃん、触るなって!臭いし、何かイヤ!』
それに引き替え、冴木主任は、壊滅的にベビーの扱いが下手くそだ。
一説によれば、採用当初にNICU配属になったが、あまりにベビーの扱いがひどすぎて、纐纈の前任の川鍋医師の怒りを買い、他病棟に異動させられたのだという。
「あの、冴木主任、もう少し、手を、こうした方が……」
「うるさいわね、わかってるわよ!私は昔、NICUにいたのよ!」
今度は親切にアドバイスをしようとした日比が逆ギレされていた。
『サエキのおばちゃん、うるさい!放せって!やめろよ!』
ベビーの泣き声は増す一方だ。
「冴木さん、ちょっと、いいですか?」
「はい、今いきます!」
『いてっ!乱暴に置くなよ!』
看護師長の鶴の一声で冴木主任はその場を去り、そこへすかさず日比が冴木主任が泣きに泣かせたベビーを抱き上げた。
最後に残ったそのベビーも泣き止み、ベビーたちは見な静かに眠り始めた。
『ねえ、笹岡』
そんな中、俺に話しかけてきたのは、悠希だった。
『サエキのおばちゃん、私も抱っことか処置とかされたことあるけど、なんか、乱暴なんだよね。皆が泣けちゃうのも何かわかるんだ』
どうやら、悠希も、冴木主任に思うところがあるらしい。
『男の人の言うことだったら聞きそうな気がするから、一度、笹岡がガツンと言ってみてよ!』
確かに、纐纈とかがミスしても優しく注意したりしているし、男の俺が言ったら、少しは改善されるかもしれない。
『皆のためだと思って、お願い!』
悠希の『言葉』に後押しされて、俺は、冴木主任の元へと歩き出した。
「あの、冴木主任」
「はい、何かしら?」
にっこりとほほ笑みながら、振り返った冴木主任を見て、何だかいけそうな気がした。
「あの、もう少し、赤ちゃんたちを優しく扱ってくれませんか?」
「はあ?やってるじゃない、どこに文句があるって言うの?私の方が看護師としての経験年数が長いのよ!生意気なこと言ってるんじゃないわよ!」
……俺もコテンパンにされました。
『笹岡、今日はごめんね』
帰りがけの俺に、悠希が申し訳なさそうに言った。
おそらく、あれから、冴木主任からの当たりがきつくなったからだろう。
俺は、小さく首を横に振った。
『今日は、翠先生、診察なの?』
そう聞かれて、俺は、今度は小さく首を縦に振った。
『そうだよね、何か、外来からすごく元気な『声』が聞こえてくるんだ』
産婦人科外来に近づくにつれ、悠希が言っていた元気な『声』の正体がわかった。
『僕は頑張るぞ!すっげえ、すっげえ頑張るぞ!負けるもんか!負けないぞ!』
どうやら翠先生の外来に来ている患者さんのお腹の中にやたらと元気なベビーがいるようだ。
ずいぶん前にどこかで聞いたことがある『声』のような気もするが、いつだったろうか?
元気な彼とは対照的に、彼の母親は、あまり顔色が優れない様子で車いすに乗っていた。
その表情は苦しそうで、眉間には深いしわが刻まれていた。
外来の案内表示を確認し、翠先生の診察はもう最後の人も終わっているらしいことを確認して、俺は診察室へと入って行った。
「あ、明君」
俺を見て一度カルテ画面に向き直った翠先生は、急に思い立った様子で再び俺の方を見た。
「さっき、車椅子に乗った妊婦さんにすれ違わなかった?」
「あ、はい」
「お腹の子、元気そうだった?」
「ものすごく、元気な『声』でしたよ」
「そうかぁ……」
翠先生は、そう言うと、一人で考え込んでいた。
『元輝君のお母さんのお腹に癌が見えちゃったんだって』
黙り込んだ翠先生の代わりに灯里がそっと教えてくれた。
『前は見えなかったのに、すごい勢いで増えてるみたい』
「そうか、それで、負けないぞって、言ってたのか」
「え?」
俺の発言に翠先生が顔をあげた。
「元輝君は、闘っているの?」
「そうみたいです。すごい気合の入れようでした」
あの子は元輝と言う名前なのか、と、思いつつ、どこかで同じ名前を聞いたことがあるような気がした。
だが、どこで聞いたのかは思い出せないでいた。
それからしばらく考え込んでいた翠先生は、顔をあげて、にこやかに、「帰ろうか」と言った。
翠先生の膨らみ始めたお腹から、灯里が『パパ、ママに美味しいご飯作ってね』と俺に話しかけていた。