HELLO!BABY!2(前編)
それは、自宅から最寄りの駅に向かう途中の大通りに出た時だった。
「Excuse me」
不意に話しかけられた、俺は固まった。
何故なら、俺に話しかけられた言葉は、明らかに外国の言葉だったからだ。
そして、俺は、英語をはじめとした外国語が話せないからだ。
困った俺が振り返ると、翠先生がちょうど来たところだった。
翠先生は、困惑している俺と俺に話しかけたらしい相手を見て、事態を察したのか、外国人に話しかけた。
……助かった。
『パパ、英語できないもんね』
翠先生のお腹の中で娘の灯里が同情めいた『声』を出した。
翠先生と俺の間を、俺よりも頭一つ分くらい背が高い外国人が歩いている。
どうやら外国人も駅に行きたいようだ。
隣を歩く外国人に話しかけられないために、俺は極力押し黙って、空気のような存在感に徹していた。
そのせいかわからないが、何だかもやもやとした不快感を覚えた。
いや、俺、元々そんなに話さない方なんだが、何がそんなにもやもやするんだろうか?
あたりを見渡すともうそろそろ駅に着くようで、パチンコ屋が見えた。
「明君、顔色悪いよ?どうしたの?」
「大丈夫です!」
何とかそう言ったところで、外国人が翠先生に英語で話しかけた。
少し会話をした後、外国人は手を振って、俺たちとは反対のホームへと去って行った。
いつの間にか、もやもやした不快感はなくなっていた。
『よーし、やるぞ!』
NICUにたどり着くと、俺とは打って変わって、ベビーたちは元気そのものだった。
『元気-!』
そもそも、なぜ今、決めゼリフが始まったのかが謎なんだが。
『勇気-!』
既に疑問をかなぐり捨てたらしい悠希は、元輝に負けない気合いの入った『声』だ。
『自分大好き-!』
『みんな、アメリカを倒すぞー!』
いや、それ、やっちゃダメなやつだから!
「朝礼を始めるそうですよ」
奴らにツッコミを入れるよりも早く、冴木さんが叫ぶよりも早く、黒川に言われて俺はナースステーションに向かった。
「皆おはよう」
全員の顔を確かめると看護師長が切り出した。
「今日、転院のベビーが来るから」
「あの!」
それを聞いて黒川が看護師長に話しかけた。
「先日の事件を受けてしばらく転院の受け入れは減るかもしれないって病院長が言っていたと思うのですが」
先日の事件というのは船木ベビーの一件のことだ。
「それが、先方からの強い要望で、どうしてもうちに来たいそうで、今回の事例は感染でもないから受け入れ制限も必要ないだろうと感染対策委員会の了承ももらっているので、問題ない」
それどころかむしろ、転院を希望する妊婦やベビーの親からの問い合わせが増えているらしく、これから大変になるかもしれないと、看護師長がこぼした。
どうやら病院としては、船木ベビーの一件による悪影響よりも、元輝の父親のインタビューによる好感度の方が大きかったようだ。
『新しい仲間、来ないなあ?』
『ササオカ、うそつき!』
『ウソツキは泥棒だぞ!』
『ササオカ、ドロボウ!』
『ササオカ、ドロン!』
『よし、みんな、軽めにササオカをやっつけよう!』
『おー!』
なぜ俺が軽めにやっつけられなければならないんだ!
ベビーたちがざわついているのは昼になっても、転院のベビーがまだ来ないからであろう。
看護師長の話では、転院元の病院で転院の手続きなどもろもろが難渋しているそうだ。
そんな中、不意にインターホンが鳴った。
まだ、面会時間には早いはずなのだが……。
それに、転院のベビーが来るなら、電話があるはずだし、転院のベビーは、救急車入口と直結のエレベーターから上がってくるはずだ。
転院のベビーを迎えに行く予定の黒川なら何か知っているかもしれないが、生憎黒川は、昼休憩に行っている。
いずれにせよ、こんな時間に、誰だろう?
同じことを考えたらしい日比と目が合い、それから俺も日比もインターホンの受話器を取った受付さんの方を見た。
受付さんは何故か青ざめていた。
「どうかしましたか?」
ほぼ同時に聞いた俺と日比を交互に見た受付さんが、日比に向かって話しかけようとしたところで、入り口の扉が開いた。
そして入ってきた人物を見て、俺も青ざめた。
真っ白な肌に、金色の髪……。
……外人さんだ。
俺の隣で同じように唖然としていた日比が、果敢にも外人さんの元へと歩み寄った。
とはいえ、日比も、英語は得意ではないらしく、身振り手振りで、何とか伝えようとしていたが、相手にはあまり伝わっていない。
日比がちらちらこちらを見るが、俺も、英語は日比よりも出来ない。
そうだ!翠先生に通訳してもらえば……!
懸命に院内内線番号表をめくっている受付さんの隣で受話器を持とうとした俺は、翠先生が診察日だったことを思い出して、電話するのをやめた。
診察日に翠先生を呼び出したりしたら、電話越しに翠先生に怒鳴られるか、翠先生が来てくれた場合には、後から産婦人科のスタッフに俺が散々なじられるに決まっている。
とにかく、翠先生は、患者さんに人気だから、外来がすごく混むのだ。
こんな状況で産休が取れるのか心配なほどだ。
「あの、笹岡さん、受話器、貸してください!」
受付さんに強めに言われて、物思いにふけていた俺は、はっと我に返った。
「どこに電話するの?」
「通訳さんに来てもらいます」
そうか、病院で雇ってる通訳さんに来てもらえばよかったのか!
それで、病院の内線番号表をめくって探していたのか。
半ば俺から奪い取るように受付さんが受話器を取ったその時、「休憩ありがとうございました」と、黒川が戻ってきた。
少し期待のまなざしを送ってはみたものの、元ヤンキーの黒川に、英語能力が備わっているとは到底思えない。
だが、受付さんも、日比も、すごくキラキラした目で黒川を見ていた。
「黒川先輩、何言ってるかはわかるんですが、言いたいことがうまく伝えられなくて……」
日比、外人さんの言ってることはわかったんだ、俺よりすげえ。
黒川は、日比と外人さんの元へ歩み寄った。
まさか、黒川、言葉が通じないからって、こぶしで語るんじゃ……?
という、俺の思いとは裏腹に、黒川は流暢に英語を話し始めた。
「里穂お姉さま……ステキ!」
俺の隣で受付さんがキラキラした瞳で黒川を見ていた。
里穂というのは、たしか、黒川の下の名前だ。
「黒川って、英語ペラペラだったんだな」
「何言ってるんですか、笹岡さん、里穂お姉さまは、小中学校時代を海外で過ごされていて、英語の他にも8か国語くらいを自在に操れるんですよ!」
い、意外すぎる!
「さらに、帰国された後、里穂お姉さまをいじめようとする輩がいたらしいんですけど、すべて返り討ちに遭わせて、レディース界の頂点を極められたんですよ!」
そこ、極めちゃダメだろう?
黒川の説得に納得したらしい外人がNICUから出て行った頃、内線電話が鳴った。
「転院の子、来たそうです」