事件
『笹岡、何かそわそわしているな!』
『悪いことしたのか?』
『くすり、なくしたのか?』
『トイレか?』
『オムツにしちゃえばいいじゃん!』
俺は、悪いことはしていないし、オムツもしていないし、というか、そもそもトイレに行きたくてそわそわしているわけでもない。
今さらになって、翠先生にお弁当を渡し忘れていたことに気づいただけだ。
「本日、午後12時より、病院長からの重要なお話があります……」
ベビーにからかわれる中、今日何度目かの放送が流れた。
病院長が職員に向けて重要なお話しとやらをするときは、大抵病院で何かしらの事件があった時だ。
NICUで、何年か前に院内感染でベビーが亡くなってしまった際には、必要最低限のスタッフを残して全員強制参加させられた記憶がある。
今回は、看護師長は行くと言っていたが、俺達まで強制されるような雰囲気ではなかったので、きっと、NICU主体の事件ではないのであろう。
病院長からの重要なお話が気にならないわけでもないが、俺としては、翠先生に渡し忘れたお弁当の方が気になっているわけで……。
昼休みをもらった俺は放送を聞き流しながら、弁当を片手に翠先生がいる病棟へと駆け出していた。
「あ、翠先生!」
「明君!ごめん!私講堂に行ってくるから、お弁当、机の上に置いといてくれる?」
そういうと翠先生は足早に去って行った。
『ママ、それは、ちょっと……』
翠先生のお腹の中から灯里が言っていた。
これは……。
俺は、翠先生の机を見ながら愕然とした。
灯里が心配するわけだ。
食事をすることはおろか、弁当を置くことすらためらわれる腐海がそこにはあった。
「あ!久しぶりに机の色が見えた!」
思わず真剣に片づけをしてしまったらしい俺のところにいつしか翠先生が戻ってきていた。
「翠先生、いつもこんなところでお弁当食べてたんですか?」
「大抵は中庭とか食堂でたべるよ!忙しいときはここで食べるけど」
「先生、妊婦なんですから、ちゃんと気を付けてくださいよ!」
「あ、明君、お昼休み終わっちゃうんじゃない?」
あ、話そらされた!
だが、確かにもう、そんなに時間が残されていない!
「一緒に中庭で食べようか?」
せっかく机、片づけたのに!
「あ、笹岡さん、病院長のお話し聞きに行きました?」
戻ってくると日比が話しかけてきた。
「いや……」
おおむねそれくらいの時間は翠先生の机を片付けていたことは心に秘めて、俺は質問に答えるだけにした。
「え?翠先生は来てたのに?」
短い返事に過剰に反応したのは黒川だ。
そういえば、お弁当を持って行ったときに、翠先生は、講堂に行くと言っていた気がする。
だが、まさか、その翠先生の机の上を片付けていたなんて言えるわけない。
あの後、昼休みが終了する時間が差し迫ってしまっていたため、翠先生とほとんど話をしていなかったから、俺は、翠先生が、病院長の重要なお話を聞きに行っていたことすら知らなかった。
「あ、じゃあ、黒川さんは聞いたんですか?」
「うん……」
そう返した黒川の表情は曇った。
「船木君のお母さん、行方不明になった後、自殺してたんだって。今日、遺体が見つかったって……」
「え?」
「そんな……」
それを聞いた俺と日比はそれ以上何も言えなかった。
船木ベビーが亡くなったあの日、確かに産科病棟のナースが船木ベビーの母親を探しに来ていた。
きっと、その頃、船木ベビーの母親は、病院を抜け出していたのだ。
そして、自らの命を、絶ってしまった……。
船木ベビーの父親は、妻と子供を同時に失ってしまったのだ。
もしもそれが、俺だったら、きっと、耐えられないし、当分立ち直れそうもない。
「あ、明君、おかえり!」
『パパ、おかえり』
帰宅すると、既に翠先生が帰ってきていた。
「お邪魔してます」
そして、荘太君が今日も勉強していた。
荘太君は、俺に笑顔であいさつすると、再び机に向かい始めた。
その横顔を見ながら、俺は、荘太君の境遇を思い出していた。
荘太も、船木ベビーと同じく超低出生体重児として生まれてきた。
そして、荘太の母親も、船木ベビーの母親と同じように、小さな機械に繋がれた我が子を見て涙を流したと聞いた。
それでも、荘太君の母親は今もちゃんと生きていて、荘太君も、今もこうして生きている。
もしも、船木ベビーの母親が、生きる道を選んでいたら、船木ベビーの母親も、そして、船木ベビー自身も、歩む人生は違ったのではないだろうかと思わずにはいられなかった。