もしも……
『ねえ、ママ、どうして来ないの?僕は、ママの顔が見たいよ!僕は、ママを助けるために生まれてきたのに!』
今日も船木ベビーの悲痛な『叫び』は止まらない。
あの面会以来船木ベビーの母親が来ないからだ。
『船木ブルー、元気出せって!』
『船木君は、一人じゃないよ』
『僕は、ママがいたらそれでいいんだ!』
周りのベビーたちが懸命にフォローしているが、船木ベビーはまだ誰にも心を開いていない。
そんな中、井澤看護師長のPHSが鳴った。
電話を取った看護師長は、突然、病棟中を駆け巡った。
そして、NICUを隅々まで見た看護師長は電話を切って、俺たちの方を見た。
「船木さんがここに来たら、産科病棟に連絡してやってくれ」
どうやら、船木ベビーの母親が行方不明になったようだった。
その電話から数時間が経過した頃だった。
『ママ!』
急に船木ベビーが叫んだかと思うと泣き出した。
泣き出した、とはいっても、彼の口にはチューブが差さっているため泣き声は聞こえないのだが。
問題は、船木ベビーは泣き出すと呼吸の状態が一気に悪くなり、生死をさまようことが少なくないことだ。
『ママ!ママ!』
異変に気付いた黒川が、何とか呼吸状態を回復させようと必死になっている。
「誰か!先生!」
このままでは船木の命が危険だと判断したのか、黒川がナースステーションに向かって叫んだ。
その判断は、おそらく正しかったのだろう。
『ママがいない世界に!僕なんかいらない!』
そう叫んだ船木ベビーが、『悲鳴』をあげ始めたのだから。
『うわぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁぁぁ!』
『おい、船木!』
『船木君!』
誰の『声』も、船木ベビーには届かない。
『僕なんかいらない!いらないんだ!うわぁぁぁぁぁぁっ!』
その『悲鳴』は、今まで俺が聞いたどの『悲鳴』よりも悲しいものだった。
今まで俺が聞いた『悲鳴』の主は皆、生きたいと、『悲鳴』をあげていた。
『僕なんか、いらない!いらない!いらない!』
たが、船木ベビーの心は、生きることを、自分の存在を否定してしまっていた。
それでも、彼の本能が生きることを望んでいるから、『悲鳴』をあげているのだろう。
『船木ブルー!頑張れよ!僕たちと一緒に生きようよ!』
『船木君、お願い!いらないなんて言わないで!』
『船木!頑張れって!』
懸命に応援するベビーたち。
懸命に蘇生するスタッフたち。
皆が船木ベビーに生きてほしいと願っていた。
だが、どの願いも届くことはなかった。
『悲鳴』が、聞こえなくなった。
船木ベビーの心臓が止まった。
彼は、生きることをやめてしまったのだ。
船木ベビーに付いていたあらゆる機械は外され、船木ベビーは別室に移された。
それでもまだ、船木ベビーの両親は到着しないままだった。
母親は依然行方不明のままだ。
面会時間も終わった頃、インターホンの音がした。
「船木です」
男性の声だった。
俺たちが初めて見たその男性は船木ベビーの父親だった。
どうやら、父親は、海外出張中に、船木ベビーが生まれたことを聞かされ、さらに、帰国したところで、妻の行方がわからなくなったことと、船木ベビーが亡くなったことを聞かされたそうだ。
俺がもし、同じ立場になったらと考えると、とてもいたたまれない気持ちになった。
俺は、船木ベビーがいた場所を振り返った。
そして、なんとなく思った。
もっと早く父親が帰国してくれていたら、未来は違うものになっていたかもしれないと。
「お邪魔してます」
帰宅すると、そこに荘太君がいた。
そういえば、翠先生が英語を教えるとかどうとか言ってたなぁ。
「あ、明君、おかえり!」
そこへ、翠先生も現れた。
「荘ちゃん、本当に出来が良くて、今、中学生のテキストで教えてるの!すごくない?」
すごすぎて言葉になりません。
俺は、黙々とテキストに向かう荘太君を見た。
船木ベビーと同じく、超低出生体重児として生まれた荘太。
船木ベビーの時と同じように、たくさんの機械につながれて何とか生かされているとでも言えるようなその光景に、母親は泣き崩れたという。
そして、船木ベビーと同じように、母親は、それから一度も面会に来なかった。
船木ベビーは、生きることをやめるという道を選んでしまった。
荘太は、あの時、何を思い、生きてきたのだろう?
母親が恋しい気持ちは、荘太にだってあったはずだ。
でも、今、荘太君は、あの頃の記憶を失っている。
『声』を失ったあの瞬間に、あの頃の記憶はすべて失われてしまったのだから。
「あの……」
不意に荘太君が話しかけてきた。
「どこか、間違ってますか?」
「あ、いや、えっと……」
俺はしどろもどろになりながら、テキストをちらりと見た。
……全くわからん!
あまりにシリアスすぎる展開に、じんましんが出そうになったので、一番シリアスなところで鈴村でも投入しようかと思いましたが、その場に自分がいたら、間違いなく鈴村を殴り飛ばすなと思い、思いとどまりました。