追憶
先日、在胎週数22週で320グラムで生まれてきた船木ベビー。
『ママ!ママ!どこにいるの?僕はここだよ!』
朝からその新入りの船木ベビーが叫んでいる。
なぜなら彼の母親は、まだ一度も面会に来ていないからだ。
『おい、船木ブルー!僕たちもいるんだから元気出せって!』
『僕は、ママを助けるために出てきたんだ!ママがいないんだったら、僕がいる意味がないんだ!』
船木ベビーを励まそうとした元輝は、船木ベビーの『言葉』に絶句した。
『ねえ……』
悠希が何かを言おうとしたその時、インターホンが鳴った。
船木ベビーの母親がやってきたのだ。
産科病棟の看護師に車いすを押されて我が子の元へたどり着いた母親は、その姿を見るなり泣き崩れてしまった。
それは、どこかで見たことがある、というよりは聞いたことがあるような光景だった。
母親に一生懸命産科病棟のスタッフが話しかけているが、その声は耳に届いていない様子だ。
『ねえ?ママ、悲しいの?何で?どうして?』
船木ベビーの『言葉』は、母親には届いていない。
そのまま、泣きじゃくり続けた母親は、看護師に連れられNICUから出て行った。
『ねえママ!帰っちゃうの?何で泣いているの?ママが泣いたら僕も悲しいよ!』
そう『言って』、船木ベビーは泣きそうに顔をゆがめた。
だが、彼の口から嗚咽の声は聞こえない。
それもそのはず、まだ自分で上手に呼吸ができない彼の口には人工呼吸器の管が入っているのだから。
それだけではなく、彼の手足にはたくさんの点滴がついていて、保育器の周りには、たくさんの機械が所狭しと置かれている。
本人の小ささもさることながら、この、物々しい雰囲気は、母親を涙させるには十分な状況だったかもしれない。
ひとしきり泣いた船木ベビーは、そのまま眠ってしまった。
『ねえ、元輝』
悠希がそっと元輝に話しかけた。
『船木君はきっとまだ、船木君自身のことと、船木君のママのことしか考えられないんだと思うんだ』
元輝は、起きているようだが返事をしなかった。
『私たちも、船木君くらいの頃、それに、生まれたての頃、自分のことと、ママのこと、それにパパのことくらいしか考えられなかったと思うの』
元輝の返事は、まだない。
『でも、今の私たちは違う』
その『言葉』に、元輝が顔を上げた。
『私たちは、自分と、ママと、パパ以外の存在に気づいて、出会った。共に生きる、仲間になった』
『……仲間』
元輝が小さくつぶやいた。
その目は悠希の目をじっと見つめていた。
『だから、私たちには、共に生きる仲間がいるから、ママがいなきゃ生きている意味がないなんてことないと思うんだ』
悠希はこぶしを作って上にあげた。
『早く、船木君も私たち仲間の存在に気づいてくれるといいね』
『そうだな』
そういうと、元輝もこぶしを作って上にあげた。
その日は、俺も翠先生も仕事が早く終わって、一緒に帰宅していた。
「そういえば、舞ちゃんが言ってたけど、船木さん、赤ちゃん見た瞬間に泣いちゃって手が付けられなかったって?」
「そうですね」
「なんか、荘ちゃんのときのこと思い出したって言ってたよ」
そうか、どこかで聞いたことがあったのは、荘太の話だったか、と、俺は妙に納得した。
確か荘太もだいぶ小さく生まれてきたと聞いた。
そして、一番最初に面会に来たときに、母親が今日の船木さんのように泣き崩れて、そして、退院するその日まで一度も面会に来ることはなかった。
それでも、荘太は、たくましく生きて、そして、無事に退院したのだ。
「あ、噂をしたら、荘ちゃんだ!」
そこには、退院して成長した荘太君がいた。
「翠先生、こんにちは」
荘太君は、立ち上がって翠先生にお辞儀した。
「この時間にいるのって早くない?」
「塾でやってた英語の教材全部終わっちゃって、皆と足並みがそろわないからって、帰されちゃったんです」
しかも、やたら天才児に育ってる!
「でも、おばあちゃん、この時間は忙しいから、いつも塾から帰る時間に帰ろうかなって……」
「荘太さん、先ほど塾から電話がありましたよ」
そこへ、荘太君のおばあちゃんが現れた。
「みんなが荘太さんについていけないから、今後は個別指導にしてほしいとおっしゃられてしまったのですが、個別指導の先生が合わないから塾に入れたのに、まったくおかしな話ですよね」
俺としては、皆がついていけない荘太君のレベルが理解できない。
「あそこは、学生バイトが多いから、その時その時で、先生のレベルがだいぶ違いますもんね」
翠先生は、その塾のことを知っている様子だ。
「もしかして、先生、あの塾で教えていたことがあるのですか?」
荘太のばあちゃんの目がきらりと光った。
「あ、はい。お給料よかったので」
「わたくし、小耳にはさんだのですがね、あの塾で歴代一番の凄腕の、どの教科も、どんな生徒もすべからく成績を上げる谷岡翠という伝説の先生がいらっしゃったそうなんです」
「そんな伝説、知りませんでした」
「翠先生、荘太さんの英語を見てあげてもらえませんか?」
突然とんでもない展開が訪れた。
「その、伝説の先生が私かどうかはわかりませんけど、夕方からなら時間がありますし、教えるの好きなんで、いいですよ」
しかも、先生、引き受けた!
これがさらなるとんでもない展開を引き起こすことになることに、この時俺をはじめとしてだれも、気付いてはいなかった。