小さな命
『ちょっと、元輝!私の悠希お姉ちゃんに気安く話しかけないでよ!』
『別に、ハルカのってわけじゃないじゃないか!悠希は皆の悠希だよ』
今日も順調に、元輝とハルカが言い争っている。
『まあまあ、二人とも落ち着いて』
『悠希お姉ちゃんは黙ってて!これは元輝と私の戦いなの!』
『僕の敵はアクニン結社とコーケツなんだけど……』
確かに、言い争っているというよりは、ハルカが一方的に元輝に食ってかかっている感じが否めない。
ピンポーン!
言い争いに思わぬ終止符を打ったのはインターホンの音だった。
「代田です」
今日も一番乗りにやってきたのはハルカの両親だった。
『今日も私のパパとママが一番乗りよ!どう?元輝?』
『すげえな』
元輝に向かってドヤ顔をしたハルカは、両親に向き直った。
『ママー!触って触って!大好き!』
『いいなぁ』
『いいでしょ』
ハルカが再びドヤ顔をした時、またしてもインターホンが鳴った。
「よう!元輝!」
やってきたのは元輝の父親だった。
『お!パパ!今日もアクニン懲らしめてきたか?』
その時、元輝の父親を振り返ったハルカの両親が、不意にその隣の悠希に気づいた。
「あの子のベッド大きいね」
「悠よりも、お姉さんなんだね、もう1歳みたいだよ」
「悠希ちゃんって言うんだ、悠の字がハルカと一緒ね!なんか、姉妹みたい!」
『ねえねえ、悠希お姉ちゃん!』
面会時間が終わり、両親が帰った後、ハルカが悠希に話しかけた。
『私たち、文字が一文字おそろいだって!悠希お姉ちゃんが、本当のお姉ちゃんみたいだよね!』
本当は、名前の文字だけでなく、病名までお揃いであることはハルカも、そして悠希も知りはしないだろう。
『うらやましいでしょう?』
そう言うと、ハルカはドヤ顔で元輝を振り返った。
『別に、僕は、ママとパパがつけてくれた名前好きだし』
ハルカは元輝に好戦的だが、元輝は、まともに取り合っていない。
それもそのはず、元輝にとっては、ハルカも仲間の一人なのだから。
だが、ハルカはどうもそれが気に入らないようだ。
『でも、元輝のママ、今日も面会に来なかったじゃない?元輝のこと、好きじゃないんじゃないの?』
『ハルカちゃん!』
思わずそれを悠希がたしなめた。
『私のところは、今日、パパもママも来なかったよ』
悠希のその『発言』に、ハルカは押し黙ってしまった。
『ハルカちゃんは、元輝に悔しがってほしいの?』
『そんなことないけど……、私、ただ、悠希おねえちゃんの一番になりたかっただけなの……』
『私は、ちゃんと、ハルカちゃんのことも大切だから、喧嘩はダメよ』
『うん、わかった!元輝、ごめんね!』
『お、おう』
気のない返事をした元輝は、何か考え込んでいるようだった。
『元輝のママが、元輝のこと大好きって、一番元輝が知っているはずでしょう?』
『そうだな』
悠希の言葉で、元輝の表情が和らいだ。
そんな時だった。
『なあ、あの『声』って、どこから聞こえてるんだ?』
不意に元輝が聞いてきた。
あの『声』って、どれのことだ?
そう思っていると、まだ幼い『声』が、かすかに産科病棟の方から聞こえてきた。
『ねえ、ママ!ボク、ママのこと大好きだよ!ママ、ボク、ママのために何かしたい!ねえ、ボク、ここから出たら、ママのために何かできるかな?』
その『声』は、生まれ出てくるにはあまりにも幼すぎる『声』だった。
『うそ?』
同じく『声』が聞こえてきたらしい悠希が、驚いた様子でつぶやいた。
『まだ、早いんじゃない?』
ハルカが、それに続いて言った。
内線電話が鳴ったのは、その時だった。
電話に出た看護師長は、俺と冴木主任をスルーして黒川を見た。
「切迫早産で入院した妊婦さん、破水したらしい」
「それって、確かまだ……」
「22週だ」
それは、元輝がお母さんのお腹の中から出た週数よりも早かった。
『なんか、22週にしては、『声』が幼いね』
当時の元輝を思い出してか、悠希が言った。
「しかも、IUGR(子宮内胎児発育遅延)があるらしい」
IUGRというのは、文字通り、子宮内での胎児の発育が遅れているという状態だ。
つまり、悠希が幼いと感じ取った通り、今まさに出てこようとしているベビーは、母親の胎内に22週いたはずなのだが、成長の度合いとしては22週に満たないということだ。
黒川が手の空いている看護師を招集して、医師とともにオペ室へと向かった。
事態はNICUの医師看護師を総動員しなければならないほどなのだ。
その頃、ちょうど、産科病棟から聞こえていた『声』も、オペ室の方に向かっているようだった。
『ママ!ボク、ここから出たら、いっぱい、ママのお手伝いするね!そうしたら、きっと、ママも元気になれるよね?ママも嬉しい気持ちになれるよね?』
今、母親の胎内から出てきても、とても母親のお手伝いをできる状態ではないことに、この子は気付いていない。
以前にも、同じようなベビーがいたような気がしたが、誰のことだったろうか?
そんなことを考えているうちに、NICUの扉が開き、例のベビーが入ってきた。
『ねえ?ママ?どこ?何も見えないよ?何も聞こえないよ?ねえ?ママ、どこ?』
お腹の中で十分に成長できずに母親の胎内から出てきたそのベビーは、わずか320グラムだった。
生きていくだけでも大変なその命のために、NICUのほとんどの医師と看護師が集まり、人工呼吸器、点滴、あらゆるモニターが小さなその体に取り付けられていった。
看護師長がこの病院で今まで生まれた中で一番小さいと言っていたその命は、命をつなぐだけでも精一杯の状況だった。
いときりばさみの、解説
・IUGR(子宮内胎児発育遅延)…胎児のお腹の中での発育が、本来育っているべき成長具合よりも遅れていること。